日本の空間美

日本の空間美

三井秀樹 和のデザイン学より参照

 茶室の宇宙観 もっとも日本的な美を追求した美術や芸道といえば、やはり茶道であろう。日本文化を代表する和の美として、これまで多くの文化人や研究者からその美について指摘されてきた。絵画・彫刻や伝統装飾と同様、その茶道も基を正せば中国大陸から伝来した外来文化のひとつである。

「初めて中国から体系的に茶の知識を持ち込んだ書物は陸羽(733年 – 804年)の書いた『茶経』と言われている。この本には、茶の木の育て方、収穫方法と道具、たてかた、飲み方、歴史などが詳しく書かれている。

茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代遣唐使によってもたらされた。当時中国茶は現代の烏龍茶に似ただんご状の半発酵茶と考えられている。この茶の色こそが現代日本人のいうところの茶色である。 当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。」

 茶道は、中国の茶を飲む喫茶の習慣に端を発している。この外来の習慣に日本人の禅の「俺び」「寂」という精神的な要素が加わり、作法としての茶礼が次第に形式化して茶の湯という芸道に進化していった。これが村田珠光を経て茶道を創始した茶人、千利休の 「俺び茶」 の美意識である。また茶を飲む空間として、露地とよばれる庭園、茶室を供えるための陶芸、茶道具や書画、生け花、インテリアから懐石料理、菓子などそれぞれの分野が統合され、茶道という世界初の総合芸術が誕生したのである。

 ここで特筆しておかなければならないのは、日本の芸術は西洋と異なり、それぞれ作家の専門分野にとどまることなく、他領域のメディアを取り込み融合・統合化し、これを楽しみ至高の芸術に料理、菓子など、こうした専門分野の統合化した究極の実の探求が、茶道という芸術の本質といえよう。三世紀の今日、コンピュータと通信技術を核としたⅠT社会が出現している。別名マルチメディア社会とよばれ、その中で芸術領域にも新たにメディアアートという分野が既存の芸術表現を塗り替えようとする動きがある。しかし日本人は400年前、すでに千利休によって茶道という芸術のマルチメディアを実現させていたのである。IT社会とはデジタタル情報を介した通信技術と映像や文字、声が同時にコミュニケーションできる情報の高度化とその運用が可能となったデジタタル化社会を指す。確かにここでは世界の裏側の国々の人とも瞬時にインターネットで情報を交換することができる。このデジタル技術を応用した芸術表現、メディアアートも今、注目を浴びている。ところが、よく考えてみるとIT社会は情報の交換やアクセスは格段に便利になったものの、これによって人間の精神性は何ら以前と変わらない。日本の茶道が、現代のマルチメディアに比べ、なお卓越しているのは、デジタルメディアが高い精神性のひとかけもない単なるメディアの統合であるということなのである。

松花堂_01 Urakuen_Joan Sh-k--ken Sen_no_Rikyu_JPN Rokuonji_Sekkatei Museum_f-r_Ostasiatische_Kunst_Dahlem_Berlin_Mai_2006_016 Meimeian08n4592 Kourinin_Tea_House_(Jikouin) KoudaijiIhoan Isome-shi_Garden13s5s4410 img55582619 Chashitsu_w_Uji C0062390 a0212807_1523954 a04f1f7d 125299797381216407772_DSC02421 60035 2002_kenrokuen_hanami_0123

 茶道の真髄は、四畳半という狭い茶室の中でくり広げられる茶礼を通した宇宙観にある。茶室という外界から閉ざされた小宇宙の中で、亭主と客人が一期一会の心で対峙する。この小宇宙の中で互いに心を通わし、礼をつくしながら茶を飲む儀式は、禅の精神を受け継いだ冥想と日本人の自然観が融合し、独自の精神性を生みだした。これも侘び・寂といわれる数寄の心や粋の心なのである。              茶事を行う茶室に客が招かれる場合、外界からの結界を経て露地に入る。露地は、大自然の見立の庭、坪庭であり、この露地の門をくぐり、茶室の躙り(にじり)口に問う。茶室が草庵といわれるのも侘び・数寄の精神を表している。また、茶を点(た)てる本来の意味を超え、侘びの精神性を高揚させるため、庭を清め花を生けるとともに茶事に欠かすことのできない「物」を準備し、心を込める。この物とは茶筅(ちゃせん)、茶杓、茶碗、茶人れ、炉、軸物、花や花入れを指す。

 侘び茶という茶道は、こうした主人(亭主)と客の心構えや、物の設定と草庵と庭の建築空間が総合的に一体化した、いわゆる茶道の倫理、「和敬静寂」の精神の上に成り立った総合芸術なのである。                      わ 例えば利休は茶会で、花入れにたった一輪の侘助の椿を「花は野にあるように」思いを馳せ挿し、自然の見立てとし、豊臣秀吉を驚かせたという。いわば茶室という大自然の見立ての空間に、喫茶を通して精神性を高める日本人独自の美意識が、茶道という伝統的総合芸術を育んだともいえるのではないだろうか。

 私はかつて数年にわたり茶道の先生宅に生徒として通ったことがある。当時は、何とも窮屈で形式ばった作法かと、辟易していたことを思い起こす。しかし後年、私が大学で美術・デザインを教える立場になると、途端に日本の伝統芸術や芸能がことごとく茶道の心と結びつき、茶道の世界は芸術の発想や美術理論のよき礎となっていることに気づいたのである。

shoukintei o0595039710646560628 mies img101 f0126688_857402 DSC01161 c0141449_027991 2012070112093705e 20100916042135c02 89-IITCROWNHALL-1 0068 6a10d542

 桂離宮とイリノイチャペル2つの写真を見比べると、チャペノン.デル・ローエ設計)のファサードは、まさしく桂離宮の端正なコンポジションそのものである。伝統的な日本美術を見直すという視点からブルーノ・タウトは日本美の再発見』の中で当時桂離宮の美を絶賛する一方、「茶室がしばしば卓越した美を表現していることは、もとより疑いをさしこむ余地がない。しかしいかに洗練されたものにせよ、茶室は近代的日本に寄与し得るものではない。茶室は建築ではない。いわば即興的にしたためられた抒情詩である」と述べている。これは茶道の精神を忘れて近代化を成し遂げた戦前の日本の文化への痛烈な批判だろう。当時の建築文化における床の間や土壁、造園、生け垣などにみられる田舎風造作が、うわべだけ日本の伝統芸術を取り入れた形式主義にすぎないとタウトは断じていたのだ。

 桂離宮の床の間

 一方でタウトは、西洋建築空間と異なり、日本家屋の特徴は床の間にあるとしている。

 床の間は文化・芸術と精神的な所産の場所であり、世界に類をみない場所とも指摘し、本来の伝統的な日本人の美学を称えていた。 タウトは、日本工芸指導所の招きではじめて来日した一九三三年、最初に桂離宮を訪れ、その美を「泣きたくなるほど美しい」と称している。桂離宮のファサードの美は、西洋建築には見られない書院造りの柱と梁(はり)がつくりだす端正な構成美であると指摘している。

i-002

 垂直・水平線が織りなす幾何学的抽象の造形は、一分の隙もなく無駄のない数理的な構成の空間に、床の間には、これを覆すような破調の違い棚がある。中心には見応えのある化粧柱といわれる床柱があり、そこには掛け軸など絵画がかけられ、またその床面には置物や花入れが置かれ、唯一非対称の視覚によって全体の空間を引き締める重心点となる。タウトは恐らくこの書院造りに込められた日本人の美意識に感銘を受けたのだろう。

 ところが桂離宮を訪れてから二週間後、日光の東照宮を訪れたタウトは、装飾の上に装飾を塗り重ねたようなその建築を見て、「建築の堕落」と酷評した。タウトは三年余り日本に滞在し、仙台や高崎に居を構えながら旅を重ね、白川郷の合掌造りや伊勢神宮など日本伝統の簡単な建築を称賛し、日本美の再発見に寄与した。                                            明治時代の文明開化以降、日本人はひたすら脱亜人欧を計り、欧米化路線を邁進してきた。その結果、日本人は自国本来の文化を軽視したり、見下す傾向にあったのも否めない。明治はじめ日本画再興を岡倉天心とともにアメリカ人のフェノロサが進言したのをはじめ、タウトやハーバート・リードなど欧米から指摘され日本文化の見直しが行われた例はこれまでも少なくない。こうした「舶来信仰」は、遣唐使以来の日本人の伝統なのだろうか。もっと私たち日本人は、足元にある日本本来の美を見つめるべきだろう。

見立てと日本文化

 ところで日本人の重要な伝統的文化観に「見立て」がある。日本人は、この見立てという比喩的な文人好みの美意識が好きである。日本文化を別名「見立ての文化」と評する研究者さえいる。

 「見立て」とは、あるものを別のものになぞらえることを指す。つまり、ある状況を、それとは別の状況やもの事の様子から見て取ることである。日本文化には、この見立ての表現が絵画表現ばかりでなく、歌舞伎や演劇などの芸能、俳譜や茶道などの文芸、また華道や造園、盆栽など多岐にわたって存在する。 例えば日本独自の造園に枯山水がある。植物や水を一切用いず、石や砂だけで自然を表現する。ここでは石は伝説上の山「須弥山(しゅみせん)」を表し、砂や小石は大海原を表現する。また落語では噺家(はなしか)が手ぬぐい一本を用いてさまざまな情景を表現し、客もこれを想像しながら見立てを楽しむ。また着物の吉祥の紋様のひとつに翁(老人)がよく登場するが、これも見立ての一種といってよいだろう。翁は、大勢の孫たちに囲まれ、子孫繁栄を願うめでたい姿の見立てである。

 このように、見立てという切り口から日本の文化を総覧すると、その理解なしに日本文化の真の理解は得られないといってよいほど、見立てのオンパレードである。 私たちの祖先は七世紀大陸文化を移入して以来、除々に独自の美意識に目覚めて日本文化をつくりあげてきた。その「独自」の中でも、もっとも大きかったのが「見立て」であったと言える。