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民俗学
姫田忠義
新田神社(由良氏)
評論
イメージの力
1.視線の逆転、親密な相交
2.あたらしい存在への変容
3.時のとらえ方、描かれ方
4.光と色が放つイメージ
5.かたちを楽しむ
6.商品としての新たな意味づけ
7.精霊世界とつながる
8.記憶の痕跡と武器アート
9.芸術における非芸術
新田神社(由良氏)
■新田神社(つくば市下原字新田)
神社は常に由良氏の側に
『谷田部の歴史』
(昭和50年・谷田部教育委員会)を始め郷土史関係で、
高家旗本の由良氏
に関しては不正確といえる。ただ45年も前なので情報収集にしても困難な時代で、やむを得ないと理解したい。
由良家
清和源氏新田流とする。新田氏の子孫を称したが、上野国新田荘横瀬郷を本拠とした小野姓横瀬氏とされる。由良貞長が旗本となったが、貞房が高家(こうけ)となる。1000石。維新後に新田姓に改め、新田氏嫡流を巡って交代寄合の岩松家と争ったが、岩松家が嫡流と認められて男爵となった。
天文
19年(1550年) 、由良成繁の嫡男として誕生した。
天正6年(1578年)成繁が死去する前後に家督を継ぎ、横瀬家(由良家)9代当主となった。同年、越後国での御館の乱で天正7年(1580年)に北条氏政と武田勝頼の同盟が崩壊すると、甲斐武田氏は佐竹氏、里見氏と同盟を結び、上州はその主戦場となった。由良氏は父・成繁の代に上杉氏から後北条氏に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、佐竹氏とも連絡をとっており(里見義頼及び太田康資宛て梶原政景書状)、北条氏政が北条氏邦宛て書状において、「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」と嘆いている。しかし、天正8年(1580年)に国繁らは北条方に戻っており、同年9月に佐竹義重が長尾顕長の館林城を攻撃しており、同月20日には佐竹義重と合流した武田勝頼が小泉(富岡秀高)、館林(長尾顕長)、新田(由良国繁)領に火を放ち、膳城を落としている
。
膳城(ぜんじょう)は、群馬県前橋市粕川町膳にあった室町時代から戦国時代にかけての日本の城(丘城)
由良氏は、
天正18年(1590)
国繁
の代に、母・
妙印尼
名義で牛久5400石へ額地帯えとなつた。その国繁の子息が
貞繁
で、慶長16年(1611)に
牛久城主に就
任
。元和7年(1620)3月、貞繁の死去により弟
貞長が後継
となるが将軍お目見えが
未済
とし由良家は断絶に。
そこで
貞長
は、
牛久城から退去し旧観内の梶内、下原、新牧田の入会地に移り
、7月には
城内の新田神社も梶内に奉遷した
。当然浪人中の貞長の住まいは陣屋ではなく土地の人には館(たち、やかた)と呼ばれていたと推測したい。それらは入会地のためスムーズな転居でもあったようだ。入な土地である。
元和9年(1623)
になり新田直系の
由良家断絶は忍びな
い
となり
1000石
で再興となった。その折、貞長は将軍・秀忠から名前を与えられ
忠繁
となり
陣屋も造られた
。
こうした事情を『新田由良御盃捉叩討巴(つくばみらい市高岡・川原井氏所蔵、江戸後期の古文書)が伝えてくれ、『
伊奈町史資料編
』で確認できる。そこには「…常州河内郡梶内村・下原村・新牧田村の三ケ村入会地字鶴舞田と申す所へ御陣屋を築き、ご先祖は参勤交代をせよと命じられた…」(一部現代表記)とある。梶内や新牧田には「陣屋・陣屋前・陣屋内・たち内・陣台・堀前」などの小字がある(角川書店・茨城県地名大辞典より)。
さらに文献を調査 昭和51年発行の『
史跡散策/牛久町郷土史考
』(牛久町教育委員会発行・鈴木光夫編著)にある
新田神社
に注目したい。昭和55年、
常磐道建設
に伴い神社が移動「
由良氏陣屋跡
」筑波郡谷田部町大字梶内地内に
新田義貞を祀る新田神社がある
。境内は面積約二千坪、周囲に堀跡を残し、松・雑木などの老木が森をなし、この地内に立てば、一見してそれと気付く。
由良氏の陣屋。由良国繁は牛久など七千余石を知行し、慶長年間には高岡にも堀をめぐらし、薬草園(別名お花畑)を経営し、鍛冶職まで抱え、相当規模の陣屋を構えていたといわれています。陣屋跡は現在住宅地となっていて、県道沿いのすぐわきに、僅かに堀跡が残っているだけです。[『伊奈町の歴史散歩』より]
これlヰ常正以降新田氏直系の由良氏がこの地方を額有し、この地に陣屋を構えた跡と…かっての由良嶺代官であった谷田部町大字赤塚由良氏一族の桜井家を訪ね…」と記載がある。櫻井家は代官と善かれた郷土史 次に地域の神社などが善かれた、大正15年発行の『筑波郡郷土史』(塙泉嶺編)を紹介。 「‥賛氏の家名は代々清左衛門または清太夫と称した。
清和源氏上野国新田郡金山城主新田氏又由良氏
の家臣なり。…河内郡赤塚以下梶内、下原、新牧田、稲岡、北中島、東狸穴、東大和甲猪子、菅開村を東額とし筑波郡高岡、西狸穴、西大和田を西蘭となし櫻井氏の邸宅をもって代官所とし、清左衛門uL(、−羽」A召日l・いい重々bロ神社の守護を仰せつかり維新後明治二年赤塚に帰農した…」と記す(一部現代表記)。
また新田神社の祭神は、新田義貞・義顧・義宗の父子3柱とある。誤った神社由来『
筑波郡郷土史
』によれば、文久2年(1862)には、神社整備も完了し、由良嶺13村の村民が集い10月10日祭礼を行ったが、明治3年(1870)に火災により焼失し、祭礼も無くなったとある。時が下り梅内の旧庄屋・中山氏など10人が発起人となり神社を再建した。
こうした経過が
牛久城より梶内に神社を奉遷したのは中山氏
で氏神としていたとの説に繋がったようだ。
一方
櫻井家
だが『茨城県地名大辞典』(昭和58年・角川書店には、「赤塚村/…旗本
由良氏の知行
。
桜井家は由良氏の代官を勤めてきた
」とあり、『谷田部の新田由良御棄却伝略記』り(原井弘氏所叢)を代官に任じ合嶺させた。
雷神社を稲岡
に新田神社を
新牧田に祀り
嶺内の鎮守を歴史』では
陣屋の記載は見あたらず
、横井家への調査もされなかったと聞く。
なお1月31日までつくば市役所1階ロビーで
由良妙印尼のパネル展
が開催されている。
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