ミュンヘン五大陸博物館のシーボルトコレクション

■ミュンへン五大陸博物館のシーボルトコレクション

ブルーノ・J・リヒツフェルトミュンヘン五大陸博物館

 学術的観点からみた日本の事物の系統立ったコレクションの そもそもの始まりと、ミュンヘンにおける民族学博物館の設立 は、フィリップ・フランツ・パルタザール・フォン・シーボルト(PhilippFr∂nZBa肘1∂S∂rVOnSiebold.1796−1866)と密接な 関係がある。彼の考えは、ミュンヘンの博物館の方向性や独自性 に影響を与え、19世紀の博物館学的議論において見過ごせない 役割を果たした。今日にいたるまで、フィリップ・フランツ・フォ ン・シーボルトは、とくに19世紀前半の最も有名な日本研究者 として知られているが、彼が博物館理論家一広い意味で言え ば博物館学者として一果たしていた役割についてはあまり注 目されていない。

 シーボルトは、1823(文政6)年から1830(文政13)年まで の最初の訪日中、ヴィッテルスバッハ家と連絡をとっており、漆 器類をミュンヘンの宮廷に何度か送っている。文机1台を含む これらの品は、今日にいたるまで特定できていないか、もはや現 存していない。バイエルン国王は、1828(文政11)年から1830(文政13)年までの間にシーボルトに対して日本で行われた司法 調査であるいわゆる「シーボルト事件」の最中にも彼を支持し た。これについての関連文書は、ミュンヘンのバイエルン国立中 央文書館に保存されている。

 日本からの帰国後、シーボルトは、ミュンヘンに民族学博物 館を設立するというバイエルン国王ルートヴイッヒⅠ世(在位1825−1848)の計画を耳にし、1835年、王のこの試みを後押し するために、彼に宛てた書簡(図版他58)で申し出を行った。この書簡には、民族学博物館をどのように設立すべきかを示す葺 案が添付されていた。ミュンヘン民族学博物館にとって、書簡と 草案は特別な意味をもっている。というのも、当博物館の設立は この書簡と草案までその起源をたどることができるからである。これらの通信文からは、シーボルトの視点から見て民族誌学184と民族誌博物館がどのような役割と任務を担うものと考えられていたかが読み取れる。

 内容の評価に際しては、−シーボルトがしかけた攻勢のバイオニア的性質を尊重して−シーボルトの考察が、ヨーロッパにまだ独立系の民族誌博物館が存在していなかった時代に始まっていることを見逃してはならない。最初の民族学博物館は、公式には1841年にデンマークの考古学者、クリスティアン・ユルゲンセン・トムセン(Chris心∂nJOrgensenThomsen.1788−1865)によってコペンハーゲンに設立された。だがそれより先に、シーボルトはすでに1832年頃から、オランダ、ライデン市の自宅で自身のコレクションを展示していた。このコレクションは、1837年から1847年まで「VerzamelingVonSiebold(シーボルトコレクション)」という名称で知られ、一般に公開されていた。その後、この名称は「」叩∂nSChMuseum(日本博物館)」に改められ、柑59年から1862年までの間、同博物館は「Rijks」叩∂nSChMuseumVo=Siebold(国立シーボルト日本博物館)」と呼ばれていた。1862年に同博物館は「RijksEthnogr∂触chMuseum(国立民族誌博物館)」に改称されたのち、1931年頃には最終的に「Rijksmuseumvoo「Volken−kunde(民族学博物館)」となった。シーボルトは、さらに民族誌学的コレクションを買い増して博物館を拡大しようとしていたうえ、日本のみに焦点をあてていたわけではなかったので、日本学者であり韓国学者でもあるケン・フォースによれば、ライデンのシーボルト博物館が、事実上、最初の独立した民族誌博物館であると考えられる。だとすれば、この博物館の設立年としては、オランダ政府がコレクションを買い上げた1837年が妥当であろう。

 ここで、シーボルトが1835年にルートヴイッヒⅠ世に宛てて書いた書簡に戻ろう。彼は、この書簡をオランダ国王のほか、1843年には、1818年からフランスで民族誌博物館の設立に向けて尽力していたエジプト学者であり地理学者でもある工ドム=フランソワ・ジョマール(Edme−F帽∩与OisJom∂rd′1777−1862)宛にも送った。1843年、シーボルトの建白書は、「民族誌博物館の有用性およびそれをヨーロッパ国内に創設することの重要性について(原題:Sur/′uf胎占de5mU5さe5e肋no9mp†l/que5ef5Ur/′/mpoJ†ロnCede/eurcJ由比)∩血∩5/e5釦ロbeu√0〆en5)ノ」という表題が付され、ついにパリで印刷された。

 この書状からは、民族誌学および民族誌博物館の役割と任務に対するシーボルト自身の見解が正確に読みとれる。この書簡によって、シーボルトが、学術分野としての民族学がまだ初歩段階にあった時代における民族誌学の理論家でもあったことが理解できる。彼は、自身の考察を次の12の命題に列記しで述べている。

 1)学術的に整理された民族誌学的コレクションは、とくにヨーロッパ以外の対象民族に対するわれわれの理解を深めるように設計されていることが望まれる。このようなコレクションは、宗教、しきたりや風俗、農業、手工業と商業のほか芸術と「学問」といった分野を記録したものである必要がある。

 2)対象を比較し評価できるようにするためには、展示品を慎 重に選定し、系統立てて整理し、さらに選ばれた品々が表す 文化について一瞬にして来館者に伝えるように配列しなけ  ればならない。これが意味しているのは、シーボルトが、19  世糸己末から20世糸己初頭にかけての民族学博物館で行われ  ていたように、コレクション全体を区切って展示すること (「収蔵庫的展示」)に反対を唱え、むしろ今日われわれが実 践しているような意味をもった方法で選定を行っていたと  いうことである。

 3)民族誌博物館のコレクションおよび展示のテーマは、現存する文化に限定することが望ましい。さらに民族誌は、今日、民族学と民族誌学の定義が形式上定めているように無文字文化に限定しないほうがよい。むしろシーボルトの見解によれば、民族誌博物館は無文字文化のほかいわゆる高文化も展示すべきである。これに対し、もはや存在しない考古学上の文化は、どれも民族誌学の収集活動の対象ではない。シーボルトは、その書簡のなかで、インドの考古学的および芸術的な収集品ならびにメキシコとペルーのような滅亡した文化も民族誌博物館に展示しないことに賛同している。我々がシーボルトを正しく理解しているとすれば、民族誌博物館とは、その時々の文化の現】犬を見せるものである。しかしこの点について、シーボルトは、すべての文化どころか、その時々の文化の現状さえも歴史的変遷を免れるものではないし、また文明や民族は、いまだに変化・受容を−しかもしばしば根本的に一続けているということを見落としている。つまり、もしシーボルトの見解に従うなら、民族学系の学問は、個々の民族ないし文化の文化的発展の初期段階を取り扱うべきではなく、もっぱら歴史学や考古学が取り扱うべきであることになってしまう。

 4)対象とされる文化圏が原産ではあるが、単にある国の自然環境を示しているに過ぎない各国の原産物は、民族学博物 館の対象ではない。このような原産物は、商品としてであれ、手工芸に用いられる原料としてであれ、原地在住の人々に とって重要な意味をもつ場合にのみ展示するようにしなければならない。こうした場合は、原産物の加工から完成品にいたるまでの全段階で展示により可視化すべきである。

 5)シーボルトは、民族誌博物館の目的は国々や民族に関する.知識の普及であるとしている。貿易画家や植民地国の場合、 博物館は、取引相手国や植民地に住む国民についての正確な知識によって貿易を後押ししたり、植民地行政をより効 率的にするために、これらの国民を優先的に気にかけなければならない。こうした国々では、民族誌博物館を設置することに大きな利益がある。(クラウディウス・ミュラーはシーボルトの草案の第9項と第10項に注目して次のように  指摘することで、起草者の意図をうまくいいあてているように思われる。「おそらくシーボルトは、交渉戦術上の理由から、植民地政策や貿易政策上のメリットを強調する必要があると考えたのだろう。彼自身にとって民族学が全く異 なる意味をもっていたことは広く知られている」〈ミュラー 1980/1981:19b〉)。

 6)民族誌博物館は、遠隔地貿易を行っていない他の国々にとっても有益である。なぜなら、民族誌博物館は、異文化に 関する一般的な知識を広めるほか、苦労して書物から得ていた知識を直接的な生き生きした直観を以って伝達するからである。

 7)同時に民族誌博物館は、植民地の官吏、軍人や宣教師あるいは商人、旅行者といった外国に行く人々に対しそこで関わる文化への観察を通じて準備をさせる教育施設でなければならない。

 8)展示ごとの完全な目録が作成されることは望ましい。それ は来館者に情報を提供しつつ、当該文化に深い関心を害せる人々への手引としても役立つ。担当の博物館員は、このような人々に情報を与え、案内をするなど助力を惜しんではならない。9)民族誌博物館という施設は、大きな倫理的責任を負っている。なぜなら、民族誌博物館は、ヨーロッパ以外の民族とその文化について、彼らの思想、風俗、宗教がよりよく理解されるよう伝達する必要があるからである。こうしたよりよい 理解のおかげで、人々は異民族をもはや「未開人」とか「異 教徒」と見なすのではなく、考えを改め、国際社会で同じ権利をもつ一員として認識するようになる。 この説においてシーボルトは、ヨーロッパにおける大多数の同時代人をはるかに先行していた。

 10)ヨーロッパの人々は、事前に民族誌博物館で異文化に対し好意的な印象を受けていれば、派遣された異国で礼儀正しくふるまうであろう。なぜなら彼らは、異文化に対してよりいっそうの注意や尊敬、理解をもって対応すると思われるからである。

 11)異民族の物品、製品、芸術品を展示することにより、自国の専門家は、異民族の能力について気づかされ、彼らの発明したものや能力について学ぶことができる。

 12)∃一口ッパの人々は、芸術文化や学問が異民族にとっても異質なものではなく、単に異国ではその発達や構成が別の方向性を辿ったにすぎないことに気づくであろう。ゆえに、民族誌博物館が文学や絵画、その他の造形芸術の標本を展示することは不可欠である。

 シーボルトが本書状に記した主張の多くは、今日の我々には大変に近代的に思われる。ヨーロッパ以外の民族に対するシーボルトの寛容かつ人道的態度は、当時において当たり前のことではなかった。しかしながら、当時の擬似科学的な人類学上の人種に関する空論や理論、あるいはヨーロッパ列強の知性や道 徳、政治的優位の主張と結びついた価値基準に基づく人種分類でもって、帝国主義以前の時代を取り扱っていることを我々は 見過ごしてはならない。

 シーボルトはミュンヘンで収集品の展示のために目寺を作成した。父の草案に基づきアレクサンダー・フォン・シーボルト(A】exanderGeorgeGust∂VVOnSiebo札1846−1911)が作 成した目録(図版仙160)を通じ、われわれは、シーボルトが思い描いていた民族誌博物館における展示や博物館の構成を再現 することができる。シーボルトが、自身の展示や日金を区分していた個々のセクションやグループを列記する必要はなかろう。いずれにせよ主 要なグループは、すでにアレクサンダー目録とその英訳に記載されている。

 最後に、不思議なことにシーボルトが民族誌博物館の任務について、自身の計画に盛りこまなかった点について指摘しておきたい。彼は、博物館が機関として重要視されるためには学術 研究を行う義務を負う、という一筆を加えることを失念してい た。シーボルトにとって学術研究は突出した位置を占めていただけに、彼の書簡にこのような主張が欠落した点は不可思議で すらある。博物館に保管されている収集品やそれらの文化的環境についての真剣な学術的考察は、異文化を理解するための基 本的要件である。同時に、研究やその結果は、コレクターの鑑識 眼を鋭くするとともに、コレクションの種類に影響を与える。この点に注意を払わなければ、博物館は、むしろイベント思考の色濃い「劇場」と化す危険を冒すことになる。博物館は、学術研 究と学問の進歩という精神により形成され、展示、目患およびその他の出版物という形で、一般的知識のほか研究の−とくHIふに独自の研究の叩成果や知見を発信する機関として存続すべきである。つまり博物館は大学と並列する機関であり、理想は双方が相互に支援し合うことである。大学が研究と教育によって活動するのに対し、博物館は展示と研究によって活動する。シーボルトが研究は大学のみに限定されたものであると考えていたとは思えない。なぜなら彼自身、すでに1830年に、間違いなく十分に考え抜いた末、自身の学術研究を妨げる恐れがあるとの理由を挙げて、教授職を断っているからである。もし断らなければ、ヨーロッパ初の日本学の教授誕生となるはずであった。

 前述したようなシーボルトの考察が国王ルートヴイッヒⅠ世に感銘を与えたかどうか、また与えたとすればどのようなものであったのかは不明である。いずれにせよ、意図は申し分のないものであったにもかかわらず、同王の治世下では民族学博物館の設立にいたらなかった。

 1859(安政6)年から1862(文久2)年までの間、シーボルトは、長男のアレクサンダーとともに2度目の日本滞在を行った。シーボルトが1863年にオランダに帰国したとき、もはや政府には、彼の新たなコレクションも取得する意思はなくなっていた。このためシーボルトは、1864年にオランダでの職務を退くとすぐに、生まれ故郷のヴュルツブルクにコレクションを持ち帰った。この町で彼は、日本に関する著作『日本』の執筆を続けようと思っていたのである。ヴュルツブルクでは、収集品の展示のために、学校内のスペースが提供された。

 その間にミュンヘンでは、1862年から民族誌コレクションの学芸員となっていたモーリゾソ・ワーグナー(MoritzWagn町1813−1887)が、シーボルト・コレクションのことを耳にし、これに注目するようバイエルン国王マクシミリアンⅡ世(在位1848−1864)に進言した。国王は、父ルートヴイッヒⅠ世と同じく、ミュンヘンに民族学博物館を設立することを計画したことからシーボルトとの接触が図られたが、この接触は、君主である国王の死去により、中断された。シーボルトは、おそらく1864年9月8日の国王ルートヴイッヒⅡ世(在位1864−1886)との謁見中に、コレクションの購入を提案した。1835年と同様に、シーボルトは民族誌博物館の設立の重要性を指摘したが、この交渉はなかなか進展しなかった。1865年、国王の委託を受けた調査団がコレクションの鑑定および評価を行い、年末頃になって、国王がコレクションの取得に正式に同意した旨がシーボルトに伝えられた。しかしながら、売買契約の締結は実現しなかった。ヴュルツブルクでは、シーボルトは学校内の4室をコレクションのために使うことを認められていた。しかし、これらの部屋が再び必要になったためにシーボルトが明け渡しを余儀なくされたことから、彼のためにミュンヘンに場所を提供すると同時に、バイエルン政府がコレクションを購入すると約束する者が現れた。シーボルトは自費でコレクションをミュンヘンに運び、1866年5月19日から展覧会を開催した。しかしこの展覧会はシーボルトの私費運営となり、そのため一般公開されず、入場者は事前申し込みを行った個人や団体に限られた。とはいえ、このコレクションには、−100年以上後になってようやく確認できたことであるが一最初の日本滞在の際に収集され、すでに1837年に彼がオランダ政府に売却した複数の収集品も含まれていた。シーボルトの最初の日本滞在中に彼のために働き、挿絵を作成した画家、川原慶賀の画帳も、これらの収集品のひとつとなっている。この画帳(図版仙241)は、のちにシーボルトの著作『日本』の図版の基礎となった。

 しかし、バイエルン政府との売却交渉は進展せず、シーボルトはそのことにいらだっていた。というのも彼は1866年に再び日本を訪れる計画を立てていたからである。さらに彼は、国王の許可を得て、日本の若者を勉学と研修のためにミュンヘンに連れてきたいと思っていた。

 一連の彼の努力は、彼の死によって無に帰した。1866年10月18日、シーボルトはミュンヘンで急逝したのである。

 コレクションはミュンヘンに残されたままとなっていたが、のちの国立民族学博物館であり現在の五大陸博物館となる王立民族誌博物館が、1868年、公共施設として設立された際、モーリッツ・ワーグナーは館長として同じ建物内にあるコレクションの管理を引き受けた。当時、博物館とシーボルト・コレクションはホフガルテン北側アーケードのギャラリー棟に置かれていたが、現在この建物には映画博物館のほかさまざまな店舗が入っている。バイエルン政府とシーボルトの親族との間の買取交渉は何年にもわたるほど長引き、その間に、コレクションの一部は他の機関に売却された。たとえば日本の書物の大部分がロンドンの大英図書館に売却されたのはその一例である。アレクサンダーと未亡人ヘレーネ・フォン・シーボルトの強い要請により、バイエルン州議会は、ついに1874年10月10日、国王の同意を得て、資金の拠出について承認し、民族誌博物館のために5万グルデンでコレクションを購入した。おそらくこの購入が可能になった理由には、プロイセン国王をドイツ皇帝として承認するとしたルートヴイッヒⅡ世の同意によって、バイエルンが、1871年以降に敗戦国フランスが課された賠償金の支払いから多額の資金を得たために、財政上の懸念が少なかったこともあったのであろう。

 シーボルトに敬意を表するため、また彼の希望により、民族学博物館の日本部門は、その後も1927年までは正式に「シーボルト博物鶴」と呼ばれていた。

 以上が、ミュンヘン五大陸博物館の東アジア部門内の日本コレクションの基盤となったコレクションの取得にいたるまでの経緯である。

 ギャラリー棟内でのコレクションの展示については、アレクサンダー・フォン・シーボルトが日本人秘書サイトウ・ケンシロウと速記者の助けを借りて作成した目線が情報を与えてくれる。博物館の公文書館に保存されたアレクサンダーの書簡によれぱ、この目録作成はすでに1867年には行われていた。文中には、彼がこの目録を、シーボルトが作成した日銀を用いて作成したことも記載されていた。この目録のページは一冊の本に綴じられ、表紙には、「1875/民族誌博物館/階段ホールおよびホールトIl内のPh.FLV.シーボルトの日本コレクション/『フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト日本博物館』コレクション目録、彼の長男アレクサンダーによって作成」と記載されている。アレクサンダーが、目録の作成年として1867年を挙げているのに、表紙の記載が1875年と書かれた経緯は不詳である。ヴ工ラ・シュミットが編集したアレクサンダーの日誌には、この両年についての記述はないので、彼のミュンヘン滞在に関する情報は存在していない1。

 さらにこの目録からは、のちに不完全なコピーと英訳が作成されている。この英訳を誰が作成したか、またそれがいつのことかは不明である。この文書にはそれらしい辛がかりは見当たらない。この英語の目諒は、当時の青い事務用紙に書かれている。1ページ目には、「1868」という年号の透かし模様があり、残りのページには「1871」という年号の透かし模様が施されている。これらのページは紐で綴じられており、包装紙のような表紙が付されている。表紙には、青鉛筆で「シーボルト」との記載があるが、それ以外は翻訳者についてもこれが翻訳された理由についても手がかりはない。

 シーボルト・コレクションは、ホフガルテンの北側アーケード内に提供されたスペースの中の2つのホールと階段室に展示された。目毒剥ま、その展示の配置に従って、展示ケースごとに収集品を掲記している。このため、当時の展示の構成について有用な印象が得られる。博物館とその展示構成の設計図は、これまで発見されていない。 アレクサンダーの収集品リストは、簡潔化と言語表現上の手直しののち、「シーボルト日本博物館」の博物館案内の付録として掲載印刷された。この博物館案内の年代は確定されていない。だが文中に記載されているコレクションをもとに考えれば、この案内は1890年以前に作成されていたはずである。この博物館案内の説明書や添付文書は、シーボルトが亡くなる直前に自身の展示の目録として作成した文書に基づいている。彼はこの文書のなかで、自身のコレクションをグループごとに配列し、個々に簡潔な説明を加えている。 シーボルト・コレクションに関するこれらの文書には、どのような価値があるのだろうか?ひとつには、これらは個々の収集品について情報を与えてくれるが、これらの情報はどちらかといえば貧弱である。しかし全体として、これらは、シーボルトが、来館者に異文化を伝えるため、どのような展示コンセプトや教育学的指針を博物館のために考案し実施したかという点について貴重な情報を与えてくれる。これらの文書全体は、−すでに冒頭で述べたように−これまであまり注目されてこなかった


 シーボルトの活動の一面を明らかにしてくれる。つまりこれら の文書は、展示・博物館の初期の理論家としてのシーボルトの一 面を明らかにしてくれるのである。

 シーボルトのコレクションとの関連では、国王マクシミリア ンⅡ世がシーボルトをミュンヘンに招聴したこと、また制度化 された民族学の歴史がミュンヘンとバイエルンでスタートした ことに一定の貢献を果たした人物、モーリッツ・ワーグナーにつ いても手短に記しておかねばならない。ちなみに、彼もシーボルトと同じくフランケン地方の出だった。彼はバイロイト出身で、1855年以降ミュンヘンに定住していた。

 1861・1862会計年度中に、国の民族誌コレクションの学芸員 というポストの創設が計画され、アカデミー理事長のユストウ ス・フォン・リービヒの口利きにより、当時非常に高名だった探 検家で旅行記作家のモーリッツ・ワーグナーがこのポストに推 薦された。実際、彼は1862年4月23日に、王の指示により、ミュ ンヘンの民族誌コレクションの初代学芸員に、また1862年5月 2日にはルートヴイッヒ・マクシミリアン大学哲学科の地理学と 民族誌学の名誉教授になった。その後ほどなくして、彼はバイエ ルン科学アカデミーに入会した。

 この時点のミュンヘンには、民族誌コレクションは存在して いなかったが、一冒頭で述べたように相当数の個人のコレクションが点在していた。ワーグナーは、ヴィッテルスバッハ家が所有していた、または同家の依頼によって入手された民族 誌学的な内容のさまざまな分散したコレクションを非公開のコレクションにまとめ、それらをほかの芸術的コレクションや学術 コレクションと区分することに心魂を傾けた。それが完全に達 成されたのは、マクシミリアンⅡ世お気に入りの事業、つまりバイエルン国立博物館の設立が実現された1867年以降のことだった。この目的のため、それまで存在していたコレクションの 編成は解体され、国立博物館のために選別された部分が選りだされた。ワーグナーは、ホフガルテン北側のギャラリー棟の開放されたスペースに民族誌コレクションの一部を集め、すでに1866年からそこに展示されていたシーボルト・コレクションにそれらを統合した。これにより、1868年9月、「ギャラリー棟民 族誌コレクション」という名称のもと、新たな入口がその扉を開 いた。1862年から理念上存在していたミュンヘン民族学博物館は、これで具体的な現実になったということである。その後ワーグナーは、アルゲマイネ・ツァイトウング紙の論説のなかで、アカデミー理事長ユストウス・フォン・リービヒ同様、シーボルト・コレクションの買いあげを熱心に説いた。ミュンヘン五大陸 博物食引こは、おそらくモーリッツ・ワーグナーの手によると思われる、1873年11月13日にフォン・ルッツ文部大臣が州議会議員に200部を配布した、シーボルト・コレクション取得に関する 建白書の草案が保存されている2。上述したように、この購入は1874年に実現した。l亜亜とんど省けるであろう。民族誌博物館のホールの中を歩き回れば、多くの本質的なもの、つまり都市の建築様式、住宅設備、工業製品や各民族のライフスタイル全般のイメージを楽々と得られるであろう。世界的な交通がますます容易になるにつれて、現在のドイツ国内でも必要性が増している地誌学や民族学の研究は、とにかく限りなく活発になり促進されるであろう。シーボルト・コレクションは、日本製品であふれていた昨年のパリ万国博覧会のギャラリーに比べ、日本文化の態様のより幅広い、より正確なイメージを与えてくれる」。

 モーリッツ・ワーグナーは、その後、このコレクションの拡充に力を注いだ。例えばシーボルトの息子、アレクサンダーとハインリッヒは、少なからぬ日本の収集品を寄贈した。しかし、5000点にのぽるハインリッヒ・フォン・シーボルト(HehrichvonSiebold.1852−1908)の膨大なコレクションを、貴族階級への昇格と男爵の肩書きの授与と引き換えに寄贈することは、1883年に王ルートヴイッヒⅡ世の拒絶にあって挫折し、このコレクションはウィーンに渡った。ウィーンでは、このコレクションは応用美術博物館に収蔵されている。19世紀には、諸々の理由から、ミュンヘン民族誌博物館に幅広い関心は集まらなかった。これはとくにモーリッツ・ワーグナーが、地理学、植物学や動物学により引かれるものを感じていたうえ、自身の「移住理論」の執筆を行っていたせいでもあった。彼は、当初はチャールズ・ダーウィン(Charles RobertD∂mれ柑09−1882)の熱心な支持者として、そして最終的にはダーウィンの対抗者としてこの理論を考案した。その一方、博物館では、彼は民族誌コレクションを単に大まかに地域別に分類していたにすぎず、収集品に対する体系的な作業は行わなかった。1870年に大腿骨頸部を複雑骨折したためにワーグナーは重度障害者となったが、それが精神的に悪い影響を及ぼすことも多くなった。それに加え、過去の旅行後に出現したそのほかのさまざまな疾患もあった。こうしたことや、その結果生じる精神的な孤独感により、ついに彼は1887年5月31日、拳銃で自殺するに至った。

 シーボルトコレクションについてのこうした詳細な説明は、ひとつには、民族学博物館の起源としてのシーボルトの意義を示す手がかりとなるものである。この意義は、上述したように、今日まであまり正当に評価されていない。しかし他方で、この説明は、彼のコレクションが当時いかに高く評価され享受されたものであるかを示している。シーボルト・コレクションは、旅行家シュピックスとマルティウスのブラジル・コレクションとならんでミュンヘンの民族学博物館の設立にとって重要な礎石とみなされていくのである。