5.かたちを楽しむ

上羽陽子(うえばようこ)

 人びとはものをつくるとき、つくりたいものをイメージする。それは、自ら属する社会の神話や創世の物語、宗教、あるいは民族内で継承されてきた造形物のかたちを根源とするものかもしれない。つくり手が下絵もなくすらすらと描きだす様子をみて、私たちは驚くことがある。しかし、彼らの頭のなかには完成予定図ができあがっているのだ。

 このような造形物のなかに、つくり手がイメージを生みだすことに、歓びや楽しみを見いだしていることをうかがえるものがあるのだろうか。いいかえれば、つくり手がイメージとたわむれていることを他者が実感できる造形物だということである。

 「たわむれる」とは広辞苑によると、①遊び興ずる、②ふざける。おどける、③異性に対していたずらをする、とある。「楽しむ」や「遊ぶ」と少しニュアンスが異なるのは、そこになにれらの目的や作為が存在しないからである。猫とたわむれる、子どもとたわむれるといった情景を思い浮かべると容易に想像することができるだろう。

 つくりあげられた造形物から、つくり手の遊び心や存在感をうかがい、「たわむれる」行為を普遍的に私たちはどのように感じることができるのであろうか。

■機能をはなれた造形表現

 ものには、使われることを目的とした実用的機能と、意味が込められているという象徴的機能とのふたつの役割がそなわっている。そうしたなかで、両機能をおもな目的とせ坑つくり辛がイメージとたわむれながら生みだしている造形物がある。

 代表的なものに、コンゴ民主共和国のクバの人びとの前掛け布や裳布[下写真]がある。

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 アップリケ技術による文様表現は、かの抽象画の巨匠パウル・クレーの作品を思わせるものがある机おおらかな面構成を表している。本来このアップリケ技術は、前掛け布や裳布がラフィア繊維によって織られていることと関係している。織りあがった布は、ラフィア繊維の特性により固い風合いのため、繊維を柔軟にする砧(きぬた)作業・・・布地を打ち叩いてやわらかくする・・・を必要とした。その作業の過程でできた布の傷みや破れを補修する繕い作業が、このアップリケ技術のはじまりだったという。その後、クバの人びとは、穴をふさいで繕うという実利的な目的を超えた個人の創意工夫による独特な文様表現を生みだしたとされている

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 また、パナマの女性用ブラウス[図版上]には、逆アップリケ技術とよばれる、何枚もの色の違う布を重ね、切り込みを入れる縫製技術によって文様がほどこされている。その文様の起源はサン・ブラス諸島の先住民クナの幾何学文様による顔面・身体塗装にあるといわれているが、ブラウスの一部となり、切り抜くという引き算の縫製技術によって繊細な線描表現が可能となった。つくり手たちは、魚や鳥、樹木など島の生活にかかわりの深い自然物を極端にデフォルメし、人像や精霊などに意識的に変形させ、まるでイメージとたわむれているかのようである。

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 また、用途としては単純でよいにもかかわらが、そこに複雑な意匠をほどこす造形物もある。例えば、ガーナの砂金はかりの分銅[図版上]がある。分銅は、金の目方をはかる天秤にのせるもので、重量の目安としての性格があれば機能を果たしたことになる。しかし、アシャンティの人びとは、分銅を動植物や幾何学の形につくりだし、そこに寓意を託すことをしている。一見すると、分銅であるという機能性をまったく感じることができないほど、つくり手の遊び心がつたわってくる。同様に、台湾の煙管雁首[図版下]がある。刻みタバコをつめて、その煙を吸うための煙管の一部である雁首に、これほどまでと思える意匠をうかがうことができる。

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 人面や身体、生殖器などをかたどった彫刻がほどこされ、その省略化された形態や、竹の地下茎の造形美を模した表現からは、つくり手がイメージを生みだし、それを享受することに歓びを感じてきたことが、造形意識の高さとともに生き生きと感じることができる。

 制約から生みだされる 同じような文様がほどこされた造形物を比べてみたとき に、つくり手がイメージとたわむれていると感じるものと、たわむれていないと感じるものとの違いはいったいどこに起因するのであろうか。それを探るひとつの要素として、製作技術に注目してみると、技術としてあるていどの制約から解放されていることが肝心なことがわかる。例えば、織りや編みといったような文様表現自体が、造形物の構造にかかわる要素が強い製作技術ほど、イメージとたわむれることが難しくなる。本展覧会の「イメージとたわむれる」の章の展示品は、彫刻、鋳造、刺繍、アップリケ、彩色といった比較的つくり手が生みだしたイメージを直接的に表現できる手工芸技術であることに気づかされる。これはただの偶然ではなく、造形物のもつ技術的特徴であるといえる。

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 一方、まったく製作技術の規制から解放されてしまうと、つくり手は自由のなかで翻弄されてしまうのかもしれない。展示品のなかに、彩色といった比較的どのようにでも表現が可能な製作技術によってつくられたものがある。しかし、その多くは、樹皮[図版上左]や卵[図版上右]、ひょうたん[図版下ほか]といった特定の素材や形態をもったマテリアルに表現されている。制約というものがあってこそ、つくり手はその創意工夫を発揮することができるのかもしれない

■「たわむれる」を享受する

 ものは社会や文化を物語る資料である。人びとはものの製作地、製作者、使用者、用途、製作年代などを通して、社会的・文化的背景を理解することができる。世界の諸民族がつくった造形物を収集している国立民族学博物館の展示は、もの自体をみせることと同時に、情報を伝えることを目指して構成されている。情報を伝えることだけを目的とすれば、そこに展示するものはレプリカでもよい。しかし、もの自体をみせるということであれば、そこには本物を展示する必要がある。本物には、ものがもつ独特の力があるからだ

 そこで、本章の展示品選定では、展示実行委員があらためて本物がもつ力・・・魅了する力、喚起させる力・・・を信じ、直に 資料とむきあって、そこに「つくり手のイメージとのたわむれ」を感じることができるか否か、つまり文化を超えたイメージを共有できるのかという実験をおこなったともいえる。

 しかし、たわむれているかどうか、そのイメージの力を認識あるいは感受するのはあくまでも主観でしかないのかもしれない。展示物の選定をおこなうとき、実行委員会でもこのことが議論にあがった。いったい何を基準に「楽しんでいる」「たわむれている」を選出するのかと。その結果、実行委員のなかで資料をみて、1人でも「楽しんでいる」「たわむれている」と思わなければ選定外にしようと決まった。これは本展示の主旨にぴったりあてはまると思われた。本企画は、美術館の学芸員と民族学をおもな専門とする研究者とのコラボレーションで成り立っている。その資料の文化や社会、地域や民族、用途といった民族学的背景を知らないものでも、つくり手のたわむれ度を享受することができるのかというイメージの根源を問う試みでもあった。

 実際の選定作業は、実行委員とみんぱくの事務方標本資料担当のMさんたちと、みんばくの全収蔵庫をまわり、資料と対面しながらおこなった。結果、資料の文脈をまったく知らない事務方こそが、この実験のリトマス試験紙的な役割をもってくれたのである。彼女たちにものを直にみてもらい、その際、表情がぴくりとも動かなければ選定外と判断する。一方、つくり手のたわむれ度に即座に反応があるものもあり、その歴然とした差に驚愕した。この作業を通じて、本物がもつ力を再認識するとともに、思いに反して研究者は、そのものの文化的・社会的背景に心を奪われ、ものと直に出会うことができないのかもしれないとも痛感した。

 本章の展示に関しては、展示品を選び出す行為自体が、社会や文化を超えて私たちがイメージを享受できるかとう読みであった。グローバル化や情報化が進む今日、そものに付随した情報をとりのぞいた状態で、造形物と直であえる機会が少なくなってきている。また、情報や知識をとりのぞき、己の感覚だけでものをみる機会の少なさからか、自身の直感を素直に信じることへの不安をもっている人びとも少なくないであろう。本展覧会をきっかけに、社会や文化を超えた、つくり手のイメージを生みだすことへの喜びや楽しみを感じてみてはいかがだろうか。