地方仮面の価値

後藤淑

■仮面史にあらわれない仮面

日本の芸能史の中で、庶民が育てて釆た芸能どのようなものであり、それが日本の芸能の歴史に、どのようなはたらきをして来たかということは、今まであまり明らかされていなかったように思う。庶民の芸能どのようなものであったか、その歴史を知るには、地方の芸能に関する資料が注意せられなければならない。地方における芸能資料といえは、各地に散在している記録資料と民俗芸能資料及び仮面・装束などの遺物資料ということになろう。

民俗芸能は今日そのほとんどがされているといっていいし、記録資料も、ある程度の報告がなされている。だが、遣物資料は記録や民俗資料と比較するとまだその量は少なく、充分な採集がなされているとはいえない。記録や民俗資料・遣物資料には、それぞれ、資料そのものに限界があって、単独では、民衆芸能の全貌を明らかにすることほ困難である。民俗芸能は、芸能の具体的様子を見せてくれるが、絶対年代を語ってくれない。また、記録は絶対年代を知らせてくれても、その具体的な様子を見せてくれない。芸能に使用された道具は、年代を決定するのに困難なこともあるが、ともかく原形を残して、そのそのまま今日に伝えられている。その点、古い姿をそのま伝えているということでは、民俗芸能よりも正確度がある。また、記録のように絶対年代は示さないが、少なくとも記録より具体的芸能の姿を示している。この点、道具類は記録と民俗との間の欠落部分をおぎない得る資格を、充分もっているといえる。

しかし、道具類(装束・楽器・持ち物・舞台など)保存が難しく、長期保存にたえるものが少ない。保存の難しい道具類の中にあって、仮面は比較的永く資料を伝える可能性が強い。そう思って注意して見ると、地方の寺社には、記録や民俗資料と同じくらいの量の仮面があり、しかもそれらの中にほ、中世の年号をもつものが幾つかある。仮面の保存生命が永く、その量が比較的多かったのは、他の道具と比較して、木彫という保存にたえるものであったこと、信仰的意味が他の道具類に比較して強かったことによると思われる。これらの地方仮面は、その形式や相貌に、多様な様相のものがあつて、これは芸能の資料としてもかなり価値高いものであるところが、今までの仮面に関する研究には、これらの地方仮面をとりあげなかったし、ましてこれを体系的に整理して、仮面史や芸能史の中にくみ入れることほなかった。今日では、日本文化の価値規準を考える時に、その価値を上層の文化担当者によって育てられたものだけに求めるのではなく、それがどれほど多数の人々にょって享受されていたか、という点にも重要なポイントを置かなけれはならないといわれている。また、民衆の間にそだてられて来た文化が、どのようなものであり、それがどのように上層文化と交流し、新しい文化を創造する糧となっているか、という点にも思いを及ぼすべきであると考えられている。文化というものほ、比較的多数の享受者をもっているもの、多数の享受者に、ほのぼのとした人生価値を与えているものこそ、本当の価値ある文化といえるのだと私も思う。                      

 民間にかぎりなく広いすそのを広げている仮面の存在を全く無視して、伎楽面(寺院芸能である伎楽に使用された面。飛鳥・奈良時代に中国・朝鮮を経て伝来した)・舞楽面(伎楽面と前後して、中国大陸から伝来し舞楽に使用された面。奈良・平安時代監最に支持されて栄えた)・行道面(仏像を象った面、及びそれを守護する仏の面。菩薩来迎会などに使用された)・能面・狂言面という、社会の表面にはなばなしく登場した仮面だけをとりあげ、それらの間のつながりのみを考えるだけでは、本当の日本仮面の歴史を語ったということにはならないように思うし、本当に日本仮面の文化価値を探り得たことにはならないように思う。また、伎楽面・舞楽面・行道面・能面・狂言面だけでほ、部分的・表面的な歴史関係ほ知り得ても、それがどのようにして生まれたかという突っ込んだ解答はでてこないように思う。

民間に散在している仮面は量も多いが、種類も多種多様であり、年代的にも、かなり永い間のものが残されている。これらの仮面を一つとりあげて見ると、そこには史料的にも、美術的にもかなりすぐれたものがあって、それらを一つ一つ結びつけて行くと、そこには日本の仮面の一つの歴史があったことを知ることができる。それらの仮面はもともと個別に単独に存在していて、それだけで存在意義をもっていたものもある。が、また、群をなして存在しているものも多く、群をなしていることに存在意味をもっている場合も多い。それらは、そのままその仮面が何に使用されたかを、幅広く物語っている。つまり、民間の仮面は、一つ一つが切りはなされて単独に点として存在しているばかりではなく、群をなして平面として存在しており、この点と平面とをつなぎあわせて、一本の太い線として理解すると、幅広い庶民の間に行きわたっている仮面の歴史が知られるような気がする。それはまた、伎楽面・舞楽面・行道面・能面・狂言面とは別の仮面のジャンルがあったことを、我々に知らせているようである。地方仮面の特色は、その種類が雑多であると同時に、類型的・様式的でないことであり、彩色も赤白黒の三色が中心であり、緑青・黄土色などの色があまり使用されていないことである。また、彫技が荒く、木の根などを使用したり、目鼻などに穴がなかったりするものもあり、彩色は呪力をもつ色を主に使用していて、宗教的意味の強いものが多い。こうした特色をもつ仮面は伎楽面・舞楽面・行道面・能面・狂言面と同一の仮面群として認めるわけには行かないであろう。

 今ここに、民間に散在している仮面にはどのように古いものがあり、どのようにすぐれたものがあるかを紹介しつつ、さらにそれらの地方仮面が、どのような存在意味をもっていたかを述べ、それらの仮面が、伎楽面・舞楽面・行道面・能面・ 狂言面と、どのような関係にあったかについても考えを及ぼして見ようと思う。

■信仰面

 地方に散在している仮面を少し集めて見ると、その中に、顔につけることを目的としたのでもなく、芸能に使用することを目的としたのでもないと思われる一群の仮面が、全国に、点々と存在していることに気づく。

 宮崎県都城市郡元稲荷神社の仮面には、裏が平面で、目・口・鼻をあけていない、強い表情の仮面がいくつかある。また、これらの仮面と一緒に、裏面は彫ってあるが、目・鼻・口をあけてない仮面もいくつかある。

11 鬼面 宮崎県53-鬼面 宮崎県 52 鬼面 宮崎県 50 陰陽面 都城市

しかも、それらの仮面が未完成でないことは、裏面に銘のあることによって知られる。この種のものは、宮崎県宮崎市村角町高尾神社の鬼面、同県 北諸県郡中郷村安久玉輿神社・同郡山田神社・鹿児島県姶良郡横川町安艮神社・同県国分市止上神社などにいくつかある。そして、その中には、貞和・永和などという南北朝時代の銘をもつものがあって、この種の仮面が、古い時代のものであったことを知ることができる。こうした仮面は南九州方面に特に多く見つけられるので、この地方だけの特殊なものかと思っていたのであったが、どうもそうではないらしい。愛媛県周桑郡丹原町おしぶ福岡八幡神社岩手県大船渡市末崎町中森熊野神社などにもあり、全国に点々と存在している。これらの仮面は彩色がきわめて簡単で、赤・窯などの呪術的な色を部分的に塗ってあるにすぎず、表情は強く、悪魔払い などに使ったという伝承をもつところが多い。この種の仮面は今後、資料の採集が進めはもっと数も多数にのぼり明らかになるにちがいない。

 このような仮面は、中国大陸から入って来た伎楽面・舞楽面・行道面などとは、相貌も彫技も彩色も使用法も、かなり違っているし、能面・狂言面とも違っている。顔面につけることが必ずしも目的ではないということ、彩色などが、赤・黒などという呪術的な色を部分的に塗ってあるにすぎない点、縄文時代の土面などと共通したところがある。

 目・ロ・鼻などを開けてあり、普通の仮面と同一であるが、しかしその使用法・相貌は、目・口・鼻を開けてない仮面と共通している仮面もかなり広く分布している。これらの仮面は、また、伎楽面・舞楽面・行道面・能面・狂言面と比べると、形式・相貌などに非常な相違があるとともに、仮面としての一つの特色が見られる。

10 鬼面 宮崎県

 宮崎県都城市郡元町早水神社の鬼面(写真)は、先の単彩であるが、作品はまことにすぐれたもので、陰陽二面が伝えられている。これは雨乞い面として、古くから使用されていたという。また、九州各地にほ木火土金水を現わす五面を伝えるところがある。熊本県下益城郡砥甲町甲佐平福成寺所蔵の江戸時代の記録によると、昔ここにあった五面は、雨乞いに使用されたとある。福岡県朝倉郡吉井町鞄野神社の道化面は、この裏に水王と墨銘がある。鹿児島県川内市新田神社には、鎌倉期に神王面と称する仮面があった。この神王面は芸能に使用されたというより、信仰面として取扱われていたことが鎌倉時代の記録によって知られる。

15三番叟面

 

 愛媛県温泉郡重信町浮島神社の翁・三番翼面(写真)、同町麓の鬼面、同郡馬木町の三番壁面は雨乞面として使用されていたし、島根県邑智郡欠上の翁面、福井県鯖江市加多志波の鬼面、愛知県豊橋市下条の女面、同市萩平日吉神社の仮面、同市山中大蔵神社の翁・三番里・尉面、静岡県浜名郡三ケ日町宇志八幡神社の鬼面・父尉、神奈川県高屋部神社の仮面なども雨乞面とされている。

 地方に伝えられている信仰面は、雨乞い面だけではない。陰陽一組になり、悪魔払い、先払いなどに使用されていた。熊本県阿蘇郡小国町鉾納神社所蔵の鬼面、熊本県阿蘇郡蘇陽町幣立神社の仮面、福岡県朝倉郡杷木町志波宝満神社の鬼面、福岡県八乙郡星野村麻生神社の鬼面、神奈川県大山神社所蔵の仮面なども、信仰面として、村人の信仰を受けていたものであった。東北の竜神も仮面が使用されていた。舞楽面の陵王・抜頭・納曽利・散手・貴徳なども、地方の神社にはあちこちに見られるが、それらの中には、鎌倉期の銘をもったものがあり、それらは舞楽に使用されたことの外に、雨乞いや悪魔払いに使用されていた。

16-三番叟面

 福井県三方町向笠の江村嘉六氏所蔵の三番里(写真)、石川県鳳至郡穴水町稲荷神社所蔵面、福岡県宗像大社の翁面、神奈川県葉山町森戸明神社の翁面などは海からひろいあげたという伝承をもっている。これは仏像や神体が海からとりあげられたという伝承と同じように仮面が神仏と同じように考えられたからである。信仰面の使用法は、顔面につける以外に、神社の拝殿の上にかけたり、神輿につけたり、手にもったり、木の先につけたりした。顔面につける場合でも、顔にぴったりつけるほか、頭上につけたり顔の横につけたりした。

■芸能面

 地方の仮面ほ神体として祭られたり、雨乞いや悪魔払いとして使用されたものばかりでなく、神社の祭りや寺院の法会に、これをつけて、いろいろな芸能を行なった。そうした場合、仮面は群をなして、一ケ所に所蔵されていることが多い。そして、その仮面が鎌倉時代から室町時代にかけてのものであったりすれば、これは能や狂言の源流をなす芸能と何らかの、関係があったのではないかと思われ、興味あるものがある。中世の記録を読むと、猿楽や田楽が雨乞いや悪魔払いの時に行なわれていた記載にときどきであう。民間の仮面が、もし、中世の頃から雨乞いや悪魔払いなど、信仰面として使用されていたとすれは、田楽や猿楽の能と、民間の仮面との接触は充分に考えてよいことのように思われる。猿楽が仮面を使用するようになったのは、猿楽が地方に広く分布した鎌倉時代になってからである。

 奈良の柳生地方には、古い能面を所蔵している神社が多い。柳生の丹生神社の仮面群の中に、女面が二面ある。この女面は、能の女面とはかなり形式が異なっている。能の女面のように、髪毛を中央で分けてほいないし、その表情も違い、彫技は素朴で彩色も簡単である。

23 やまいだれ

 また同社所蔵の癌鬼面(写真)も能の癒見と比較するとかなり相違がある。また、奈良市坂原の長島神社所蔵の三番曳と思われる仮面は切顎でないし、左右が不均衡で、三番里とすればかなり特殊である。今日、能楽で使用されている三番壁面ほ左右不均衡ではないし、切顎になっている。しかし、民間にある古い三番壁面は、左右不均衡なものが多く、寧ろ左右不均衡・切顎でないはうが三番壁面の特徴のようにさえ思わせる。愛媛県浮島神社の三番壁面も、福井県今立郡池田町の三番里面も、神奈川県三浦郡の海南神社の三番里面も、福井県三方町向笠の江村氏所蔵の三番里面も、左右不均衡だがその製作年は能面完成以前である。梅若家所蔵の重文に措定されている三番壁面も、左右の目が幾分不均衡にできている。こうした古い形式を伝える仮面と共に、柳生地方には翁面や飛出など幾つかの仮面があるが、これら一群の仮面が、能面の系統のものであることは間違いない。

 柳生地方は大和猿楽が古くから活躍していた地域である、この地方の仮面が今日の能面と形式は違っていても、全く別系統のものでないことは明らかである。同一系統である以上、大和猿楽との関係が深かったことは間違いない。大和猿楽が能楽大成以前に、この地方の寺社に猿楽を奉納していたことは想像にかたくない。とすると、能面が形をととのえた頃に、大和猿楽が使用したものであるとすれは、もっと現在の能面に近いものが残されていて然るべきなのに、このような仮面が残されているのは、それがまだ完成されない頃の能面の面影をとどめているものと考えてよいのではなかろうか。少なくとも柳生地方の場合、能面完成以後に、このような仮面が作られたとは考え難い。丹生神社所蔵の女面二面と形式のよく似た仮面が、静岡県浜名郡雄踏町字布見の息神社にも、同県磐田郡水窪町田畑の観音堂にも所蔵されている。息神社のものは、雨乞い、或いは五穀豊鏡を祈る仮面舞いに使用したものではなかったかと思われるし、田畑の女面は、田楽に使用されたものである。田畑の田楽ほ、近村の田楽の例から室町期にまで遡ってもよいように思われる。東京都三宅島御斎神社には、女面・男面・王鼻面・癒見面があり、王悪(写真)に豊明六年の年号がある。この仮面は現在一月八日の八日祭の折、五穀豊饒と悪魔払い祈る芸能に使用される。王鼻面・癌見面・女面・尉面などが表になつて存在している例は各地にある。静岡県浜名郡雄踏町宇布見の息神社もその例だが、千葉県香取神社にある三面は、癌見・鼻高面・老女面であり、これほ田植の行事に関係をもっていた。三宅島の場合、王鼻面のものが男根をもってでてくるが、これは悪魔払・五穀豊饒関係があるのであろう。愛知県北設楽郡設楽町田峯の田楽祭でも、さいはらい面がでるが、これも男根をもっており、これと表に翁や男女面のものもでる。露払い役・先導役のものが男根をもってでる例は、三信遠国境地帯の各所の田楽に見られる。

 中尊寺の延年でほ、翁・老女・若女の舞いが古くからあって、これには、癌見や天狗は出ないが、古い仮面と芸能の在り方を想像させる。天狗・癌見系仮面・鬼面・女面・老人面に古いものが多く、しかも全国的分布しており、特に天狗系・癌見系・鬼面系の仮面が広い分布をもち、その数が多いのは注目させられる。これらの仮面は、悪魔払い・露払い的な性格の強いものであり、老人面・老女面・女面などの長命・五穀豊饒を意味するものと、性格の上で相違のあることに気づく。そして、鹿児島県姶良郡横川町安良神社の仮面群、福井県南条郡鵜甘神社の慧群、岐阜県郡上郡白鳥町長滝白山神社の仮面群、日光輪王寺の仮面群など鬼面系天狗系・癌見系仮面に、老人・若人どの仮面が結びついている例が多い点など、興味をひかれるものがある。

 こうした仮面群のほかに、民間で今日もっとも広く、しかも多量に残っている町は、神楽面であろう。つまり、神話を劇にしくんだりして行なわれているものである。こうした神楽に使用されているものほ、近世以後の製作覧るものが多い。近世になって、神楽蒜諸富り入れることが流行し、それが一般に流布したためであろうと思われる。こうした神楽蒜用されている仮面ほ、その種驚きわめて雑多であり、中には慧嘗り入れたものもかな浅い。 神楽は、古い記録を見ても明らかなように、本来仮面ほなかったものである。それが中世笑り、要言楽が神楽と一驚行なわれるようになって、田楽・箕、その他の芸聖二括して、神楽(神社の芸能)という名称のもとに呼ぶことがあつたらしい。それほ葦(寺院の芸能)という名称のもとに、要・田楽などの芸能が行なわれていたのと同様である。 電に望素話をもじって創作した神楽の仮面群を、神楽面といっているが、これにほまた、他の仮面群と異なった点もあり特色もある。神話をかたどった神楽に使用されている仮面には、慧或いは慧の影響蔓望ものもあるが、慧と                                                                                                                                                                                                         ▲、イ                                                 ’ ■は全く董ったも○丸長