9.芸術における非芸術

■その文脈

 南雄介(みなみゆうすけ)


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 「芸術」でない作品を作ることができるか?  マルセル・デュシャン、1913年

 「イメージの力」の種々相を探求するこの展覧会において、選ばれた展示物のほとんどは、何らかの宗教的な意味や機能を帯びている。文化を異にする現代日本の私たちの心をさえ、強く動かす「力」を帯びたものたちは、必然的にそのような範疇のものとなってしまうのかもしれない。しかしながらこのエピローグに並ぶ「人工物」は、道具として使用されていたものがほとんどである。おそらくこれらのものたちは、それらが本来属していた文化においては、ありふれた日用品にすぎないのだろう。私たちが試みるのは、美術館の展示室という場に据えることによって、これらの日用品に「芸術作品」としてのアウラを賦与するという、少しばかり倒錯的な行為である。

 このようなことが可能であるのは、今や美術館の役割や意味が、100年前とは変化を遂げているからである。本来は、ただ芸術作品を収める場であったにすぎないものが、逆に芸術を定義し、生み出す権能を手に入れるに至ったのである。「美術館にあるから、芸術作品である」というぐあいに。

 ミグス王をさえ思わせる、この美術館の力は、どのようにして形成されたのか。以下の論考では、そのプロセスを、美術館と様々な意味での非芸術とのかかわりを考察することで、あきらかにしてみたい。

 芸術と非芸術をめぐる思弁は、近代芸術の本質をなす要素のひとつであると言っていいだろう。なぜなら、その先取性によって近代芸術を近代芸術たらしめている「前衛」は、定義上、非芸術と芸術との境界にその場を得ていたからである。もともと前衛、アヴァンギャルド(avant-garde)という語は軍事用語であり、最前線、すなわち敵地と自陣の境界を意味していたのが、やがて政治用語に転用されて社会主義を指すようになり、さらに芸術に対して適用されるにいたった。アヴァンギャルドが、つねに非芸術に対する芸術の最前線を形成し、非芸術を芸術化しようと企てたり、非芸術に対する芸術の輪郭を画そうと試みたりするのは、ある意味で当然のことなのである。アヴァンギャルド芸術には芸術上のスキャンダルがつきものであるが、それは、アヴァンギャルドが体現し提示する「芸術」が、「非芸術」へと通じる回路を持ち、それゆえ観衆の「芸術」観に背馳するものであったからに他ならない。

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 芸術と非芸術をめぐる思弁に関して、もっとも示唆的な「作品」を提示したのは、やはりマルセル・デュシャンであろう。デュシャンは、1913年に台所用のスツールに自転車の前輪を逆さまに固定して、回転させられるようにした。また翌1914年、パリの百貨店バザール・ド・ロテル・ド・ヴィルで、自家製リンゴ酒をつめる瓶の水を切るための瓶掛け(瓶乾燥器)を購入し、あるテキスト(銘文)と自らの署名および年記を記入した。これらのオブジェは、デュシャン自身によって後(1915年頃)に、「レディメイド」と名付けられる。「レディメイド」とは既製品(大量生産される工業製品)を意味している。誰が作ったのかわからない、多くは機械的な手段によって作られた、同じ物が複数(大量に)存在している、そのような種類の事物である。さらにデュシャンは、1917年にニューヨークで、男性用小便器に「R.Mutt1917」という偽名の署名と年記を記入し、≪泉≫と題してアンデパンダン展に出品しようと企てた。アンデパンダン展は、決められた出品料を支払いさえすれば、誰でも出品することができる展覧会であるはずだったが、この《泉≫は展示を拒否される。

 デュシャンの「レディメイド」は、ダダ的な「反芸術」とみなされることが多いが、デュシャン自身はこれを否定し、それはたんに「非芸術」であるにすぎないと述べている。なぜなら「反芸術」は、かえって「芸術」を強化する結果をしか招来しないからである。代わってデュシャンがレディメイドの目的であると主張したのは、良いものにせよ悪いものにせよ、「趣味」というものに対する否定という役割である。それゆえレディメイドは、無関心をしか呼び起こさない外観を持ったものでなければならなかった。

 デュシャンの危惧したように、「反芸術」の企ては、いや「非芸術」でさえも、半世紀を経ずして倒錯的な結果に逢着することとなった。1960年代を通じて進行した「芸術」概念の爆発的な拡張によって、考えられる限りの「非芸術」や「反芸術」が実践され、やがて「芸術」化されていくのだが、このプロセスにおいては、最終的に美術館や展覧会が、逆に「芸術」を定義し、その領域を確保するための装置として機能するにいたるのである。そして、今や≪泉≫は、美術館や展覧会のこのような倒錯的な役割を象徴的に指し示すという、明らかに逆の意味を帯びることになったかのようにさえ見え始めるのである。

 一方、デュシャンのレディメイドを、芸術の側からではなく事物の側から見るならば、そこには有用な事物からその機能や用途を、それゆえ意味をはぎ取り、事物性や形式性、物質性を露呈させるという側面がある。レディメイドが、(泉》のように90度回転させられたり、(《瓶掛け≫や≪折れた腕の前に≫のように)宙に吊るされたり、(≪自転車の車削のように)無関係なものどうしの組み合わせであったりしたのは、このためであった。

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 しかしながら、これらはいずれも、またしてもデュシャンの意図とは裏腹に(しかし本当にそうだったのだろうか?)、新たな審美性を生みだすという結果を導いた。事物の本来の文脈からの切断は、シュルレアリスムの技法として知られる、いわゆる「デペイズマン」に通じるものであり、驚異という詩を、美を、発生させる。レディメイドは、この意味でシュルレアリスムのオブジェの先駆とみなすこともできるのである。さらにまた、工業製品であるレディメイドのソリッドで匿名的な外観や物質性は、後の1960−70年代に現れるミニマル.アートやプロセス・アートにおける工業製品の使用や発注芸術にも通じている

 有用な事物に内在する審美性という見方をするならば、それは、20世紀芸術におけるデザインや工芸の評価軸にも連接していることになるだろう。付加される装飾の様式によって規定されるのではなく、形態自体の機能主義や合目的性に依拠したデザインや工芸は、すぐれて20世紀的なあり方である。モダニズムの美学は、形態の普遍性を志向し、あらゆる歴史や文明を通じて、機能的で目的にそった形態を見出そうとした。そしてこの眼差しは、民芸運動における「用の美」という美学にも通じるものであったのだ。

 これら一連のアヴァンギャルドが、第一次世界大戦という、いわば物質文明の危機に前後して次々と生まれたのに対して、第二次世界大戦後の1960年代を中心とする時代に見られたアヴァンギャルドの多くは、モダニズム芸術の本質的なモーメントであった還元主義が臨界点に達し、様々なヴァリエーションとして顕現したものであったと言える。ミニマル・アートのような芸術が、形式主義的な還元の読みであったとするならば、アルテ・ポーヴェラ(イタリア)は芸術行為の最小化という意味での還元であり、もの派(日本)は事物性への還元であり、シュポール/シュルファス(フランス)は絵画の根源への還元であり、コンセプチュアル・ アートは概念への還元であり、ランド・アートは芸術を展示 する制度的な空間の否定という意味での還元であり、パフォーマンス・アートは行為への還元であった。これらの多様な還元主義は、還元主義的であることによって、モダニズム芸術とともにラディカリズムをも追求しようとしたのである。

 1960年代のアヴァンギャルド芸術は、それゆえ芸術作品や芸術行為の根源へと遡行する読みでもあった。これらの作品のうちには、非西欧圏において制作された、機能と用途を持った道具や器物と類似しているものがある。欧米系の話語における芸術(art、arte、Kunst等)という語は、本来、技術、術、また自然に対する人為、人工という意味をも併せ持っており、人間が素材に対して働きかけることを指し示していたことが理解されよう。芸術の根源の追求は、すべての人間的な営為に芸術を見ようとする態度へと通じ、それゆえモダニズム芸術の解体をももたらしたのである。この意味で示唆的であったのは、1989年にパリのボンピドゥ・センターによって企画・開催された現代美術展「大地の魔術師たち」で、そこでは西欧圏と非西欧圏それぞれから50名ずつの作家が選ばれていた。

 今日、世界中の様々な土地で開催されている国際現代美術展へ出かけていけば、社会学的な、あるいは人類学的な、研究や調査報告のような作品を、いくらでも見出すことができる。モダニズム芸術以降の芸術にあたる21世紀における芸術が、こうして人類のあらゆる営為や行為をレファレンスとして拡張していこうとしているのは、このような「芸術」の意味の遷移からも説明することができるだろう。芸術家に求められる資質や職能は、今日、驚くほど多様化し、世界中で様々な背景を持った作家たちが登場している。デュシャンはかつて「芸術を作らない」ことの困難さを語った。だが、今日の世界の「芸術家」たちの多くは、この言葉にもはや呪縛を感じることもないのかもしれない。


■註

★1 マルセル・デュシャン(不定法で(ホワイトボックス)》(1967年)所収のメモより(MarcelDuchamp.加cわa叩)desJ卯e.1975/1994.Paris川.105.)。ただし、(不定法で(ホワイト・ボックス)〉に収められたデュシャンのメモは、く彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(グリーン・ボックス)》(1934年)所収のメモと同じく、1910−20年代を中心とする時期に記されたものが多いとされている。

★2 アヴァンギャルドという語が芸術に対して適用された最初の用例は、19世紀前半のフランスの社会主義者サン=シモンの弟子で、数学者・社会運動家のオランド・ロドリグのテキストに見られるという。とはいえ、社会運動のメッセンジャーという意味ではなく、先鋭的な芸術表現を行う芸術家という、今日一般化した意味におけるアヴァンギャルドの概念は、未来派、タグ、シュルレアリスム等が出現する1910−20年代頃に確立したものであると言えよう(塚原史 2013『切断する美学アヴァンギャルド芸術思想史』論創社、PP.250−277を参照)。

★3 だが、〈瓶掛け〉やく自転車の車輪〉と比べて、〈泉≫ははるかに挑発的ではないだろうか。当時のアメリカ的なピューリタニズムに照らせば、直接的に性器を連想させる小便器を公衆の面前にさらすのは、わいせつとみなされたに違いない。ま た、美術館ではなかったにせよ、美術作品展という「芸術」を支える制度が、反抗 の対象と想定されてもいるのである

★4 デュシャン、ピエール・カバンヌとの会話、1966年。マルセル・デュシャン、ピエール・カバンヌ1999Fデュシャンは語る』岩佐鉄男・小林康夫訳、ちくま学芸文庫、PP.93−94。

★5 アヴァンギャルドと民芸運動の近似性、およぴアヴァンギャルドと非芸術との関係については、北澤憲昭 2003『アヴァンギャルド以後の工芸−「工芸的なるもの」をもとめて』美学出版、所収の議論考が示唆に富んでいる。

★6 たとえばシュポール・シュルファスの代表的な作家であるベルナール・パジェスの〈10のアサンブラージュ:端と端〉(1974年)では、二本の木の積の端と端を合わせて継ぎ合わせる10種類の方法が提示されている。またクロード・ヴィアラのく結び目と組み継ぎ〉(1969−70年)では、細模と紐を素材にして、これらを継いだり、組み合わせたり、まとめたりする様々な方法が、ある種の作業見本のように示されている。『ボンピドゥー・コレクションによる シュポール/シュルファスの時代』展 カタログ 東京都現代美術館、2000年、を参照。