101歳のジャーナリスト

■むのたけじさん死去 戦場取材もとに反戦訴えた

 太平洋戦争などの戦場を新聞記者として取材した経験を基に、反戦平和を訴え続けてきたジャーナリストの、むのたけじさんが21日、亡くなりました。101歳でした。

 むのたけじさんは大正4年、今の秋田県美郷町で生まれ、日中戦争や太平洋戦争の際、新聞記者として中国やインドネシアの戦場を取材しました。

 しかし、戦争の真実を伝えることができなかったとして、終戦の日に新聞社を辞め、出身地の秋田県に戻って新聞「たいまつ」を30年にわたって発行しました。その後も講演や出版を通じて、「戦争の絶滅」を訴え続けてきました。

 ことし5月3日の憲法記念日には東京で開かれた集会に出席し、「ぶざまな戦争をして残ったのが憲法9条だ。私は人類に希望をもたらすと受け止めたが、70年間、国内や海外で誰も戦死させなかった。道は間違っていない」と述べ、これが公の場での最後の訴えとなりました。

 その6日後、肺炎で緊急入院し、次男の住む、さいたま市で療養を続けていましたが、21日未明、老衰のため亡くなりました。101歳でした。

 むのさんの活動を支えてきた次男の武野大策さん(63)は「父には多くのことを学びました。最後まで貫いたジャーナリストとしての姿勢や情熱、それに逆境への強さは、ちょっとやそっとではまねできないくらい立派でした」と話していました。

 むのさんとともに平和を訴える活動を続けてきた作家の落合恵子さんは「訃報を聞いて、とてもショックを受けました。言葉を大切にされる方で、生涯、ジャーナリストであることを大切にしている人でした」と死を悼んでいました。そのうえで、「むのさんはよく、反骨のジャーナリストと言われていましたが、本人は否定していました。むのさんは『ジャーナリストは本来、みんな反骨精神を持っているものなので、ジャーナリストに反骨でない人はいない』と話していて、その言葉がとても印象に残っています」と話していました。むのさんとは、ことしの夏の初めごろに入院先の病院で会ったのが最後だったということで、「長くはお話しできませんでしたが、あのときの強い握手を鮮明に覚えています。この時代にむのさんが亡くなったのは、とても無念ですが、残された私たちが、むのさんの思想や意思を受け継いで平和を訴える活動を続けていかなければならないと強く思います」と話していました。

■鎌田慧さん「反戦活動は歴史的に意義深い」

 むのさんの半生を、みずからの著書で取り上げたルポライターの鎌田慧さんは「ことし5月の憲法記念日のむのさんの講演が印象的で、101歳になっても大きな声で一心不乱に話す姿に驚かされた。集会のあと、体調を崩していたのでお見舞いに行こうと思っていたところだった」と死を悼んでいました。そのうえで、終戦後、みずから新聞を発行したむのさんの活動については「反戦を訴えてきた活動は歴史的にも意義深い」と話しています。

 むのさんは生まれ故郷の秋田県美郷町に近い横手市で、30年にわたって新聞「たいまつ」を発行しました。横手図書館ではデジタル化された「たいまつ」の全780号分をタブレット端末で閲覧できます。その第1号からは「自分の身を焼いてくらやみを照らす」「そのたいまつに我々のひとり、ひとりがなりたい」と「たいまつ」の名前に込められた思いをうかがうことができます。

 また、「たいまつ」では東北の農村の窮状や地域の身近な話題をつづりながら、民主主義や平和の大切さを一貫して訴えています。

 むのさんの訃報を受け、図書館では、むのさんの著書の特設コーナーを作ることや、むのさんから寄せられたビデオメッセージや講演を収録した映像を貸し出すことを検討しているということです。

 司書の伊藤静子さん(58)は「むのさんは言葉の重みをよく知っている方でした。むのさんの志を継ぐ意味でもデジタル化した資料を後世に伝えていくことが、自分たちにできる恩返しだと思います」と話していました。


 「戦争絶滅」を訴え続けたジャーナリストむのたけじ(本名・武野武治)さんが21日、老衰のため、さいたま市の次男宅で死去した。101歳だった。葬儀は近親者のみで行い、後日、「しのぶ会」を開く。

朝日新聞記者時代に終戦を迎え、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」と終戦の日に退社した。ふるさとの秋田県に戻り、横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。1978年に780号で休刊してからは、著作や講演活動を通じて平和への信念を貫き通した。

 100歳になった昨年は戦後70年で「歴史の引き継ぎのタイムリミット」といい、講演で各地を飛び回った。今年5月3日に東京都江東区の東京臨海広域防災公園で行われた「憲法集会」でのスピーチで「日本国憲法があったおかげで戦後71年間、日本人は1人も戦死せず、相手も戦死させなかった」と語ったのが、公の場での最後の訴えとなった。

 2002年に胃がんの手術をし、06年に肺がんで放射線治療を受けたが、ほぼ完治。90歳を過ぎても自転車に乗り、「80歳より90歳のほうがいい仕事ができるようになった」と話した。

 「戦争いらぬやれぬ世へ」(評論社)や「99歳一日一言」(岩波新書)、「日本で100年、生きてきて」(朝日新書)などを著し、「週刊金曜日」では故野坂昭如さんのあとのコラムを担当していた。(木瀬公二)


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