原田直次郎その三十六年をたどる

■原田直次郎その三十六年をたどる

吉岡知子(埼玉県立近代美術館学芸員)

 西洋画は益々奨敬すべし

 日本画は須く保有すべし 

・原田媛崕

「又饒舌」

はじめに

 原田直次郎の人生は三十六年と短かった。しかも三十歳を過ぎた頃から病を患ったため、画家として活動できた期間はおよそ十年である。その間に、技術の高さにおいで日本近代美術史に残る傑作《靴屋の親爺》(上図)を描き、いまもなおさまざまな議論を呼ぶ大作《騎龍観音》(下図)を残した現在、この二点は重要文化財に指定されている。しかし、原田の回顧展は、森鴎外が一九〇九(明治四十二)年十一月二十八日に東京美術学校で一日のみ開催しで以来、開かれてこなかった。ドイツ留学中に鹿田と交友を深めた鴎外が、原田の没後十年を記念して作品を集め、展覧会図録にあたる『原田先生記念帖』を編集したのだが、本展はそれ以来、百六年ぶりの回顧展となる。

 

 この『原田先生記念帖』(以下適宜『記念帖』と略す)は、現在でも原田直次郎を知る上で、最も重要な文献となっている。『記念帖』を手がかりにして、原田についてはこれまでにさまざまな研究がなされてきた。ここ十年では、『森鴎外と美術』展(二〇〇六年)の図録において、宮本久宣氏により「原田直次郎作品集」 が編纂され、原田の作品をはじめてまとまったかたちで見られるようになった。また、2013年に文京区立森鴎外記念館で開催されたシンフォニック「鴎外と画家原田直次郎〜文学と美術の交響」展の図録(下図左右)では、書簡等の資料が多数掲載された。2015年には『原田先生記念帖』の覆刻版が学萎書院より刊行され、原田の最重要文献が身近に手に取れるようになった。また、アンドレア・ヒルナー氏、エルマー・D・シュミット氏らドイツの研究者によって、ドイツに残された資料をもとに原田に関する論考が発表され、その成果が日本にも紹介されつつある。

 原田についての研究は進んでいるが、原田自身が残した作品や文章はあまりに少ない。原田の書簡は残されているものの日記は見つかっておらず、また発表した文章は、本書で宮本氏が「原田直次郎が語る」(一四六〜一五九頁)と題して書き起こしたものが現在確認できるすべてである。森鴎外が「独逸日記」や『記念帖』で語った言葉は、原田を知る大きな手がかりとなる一方、それはあくまでも鴎外から見た原田直次郎である。原田を知るには誰か他の人物の言葉に腐らざるをえず、原田について語ろうとすると、いつの間にか原田に対する自分の思いや推論を語ってしまい、何とも歯がゆい気持ちになる。

 本論では、この歯がゆさを抱えながらも、できるだけ原田の作品と言葉に寄り添っで、その画業をたとってみたい。

▶画家の誕生

 原田直次郎は幕末の文久三年八月三十日(陽暦一八六三年十月十二日)、母方の実家である江戸の小石川柳町に生まれた。父一道(一八三〇・二九一〇)は、備中浅口郡大島村(現在の岡山県笠岡市西大島)で代々医者を営む家系の出身で、江戸に出て蘭学を学ぶ。医者の道へは進まずに、一八五六(安政三)年、幕府の洋学研究機関である著書調所の教授手伝となった。直次郎が生まれた一八六三(文久三)年には、池田筑後守長発を正使とした遣仏使節団に随行して渡欧し、オランダで兵学を修めている。帰国後は開成所の教授となり、維新後の一八七一(明治四)年に再び岩倉使節団に随行して渡欧した。

 西洋文化に対しで開かれた思想を持つ父の下で、直次郎と兄豊吉(一人∴二・i八九四)はその影響を存分に受けて育った。豊吉は十三歳でドイツに留学し、地質学を修め、帰国後は東京帝国大学の教授となる。直次郎は幼い頃から大阪開成学校、次いで東京外国語学校でフランス語を学んだ。直次郎がいつ絵画の道へ進むことを決心したのかはわからないが、はじめ山岡成幸に師事して洋画を学び、一八八三(明治十六)年には高橋由一の画塾である天絵学舎に入門した。天絵学舎で原田に稽古をした安藤仲太郎は当時の原田について「二十四五人の書生仲間では、原田君の画は中位で、綿密で冴えないといふ方であつたと回想している。天絵学舎に通いはじめた頃から、直次郎はすでに西洋絵画を学ぶための留学を考えていたのだろう。先にドイツに留学していた兄豊吉は、弟をヨーロッパのどこへ留学させるべきか案じ、ローマに留学中だった画家の松岡寿を訪ねい助言を求めた。豊吉はミュンヘンで画家のガブリエル・フォン・マックスと親ししくしており、マックスの評判を聞いていた松岡が「いっそうあなたの心安いマックスさんの所へお頼みなさい」と答えたため、直次郎はミュンヘンに留学し、ガブリエル・フォン・マックスに師事することとなった。直次郎のミュンヘン留字は私費でまかなわれた。裕福であり、自らもヨーロッパヘ渡った経験のある父を持つという家庭環境が、留学を大きく後押ししたのである

▶ミュンヘン美術アカデミーに学ぶ

 一八八四(明治十七)年二月十六日、原田は陸軍卿の大山巌らと同船でドイツヘ向けて出国したっ 同年一二月二日には、椅子にすわって居眠りをする男性のスケッチ(享∵(三を船の上で措いている。そして、ミュンヘンに到着すると原田はすぐに美術アカデミーに入学した。原田の留学中の住まいは、美術アカデミーのすぐ向かいにあった 「カフェ‥、、ネルヴァ一の二階であったと鴎外は記している∃‥一八八〇年代のミュンヘンの美術については、印象派やポスト印象派が花開き、芸術の郡と謳われた=ハリに比べて、あまり知られていないだろう。しかし、当時のミュンヘン美術アカデミーは、校長を務ゆていた歴史画家のカール・テオドール・フォン・▲ヒロティ (一人二六・一人八六) の評判が高く、ドイツ国内のみな一らず、オーストリアやハンガリーJ仁と近隣の国々や、北欧、ロシア、アメリカなト\ 世界各地から学生が集まっていた。また、一人二五年から四八年までバイエルン王国の国王を務めたルートヴィヒ一世は、オールドマスターの作品を展示するアルテ・ヒナコテークと、同時代の美術作品を展示するノイエ・ピナコテークを建設し、ミュンヘンは文化都市として大いに発展を遂げた∧一当時のミュンヘンには、美術を勉強する学生にとって、刺激的な環境が整っていたのである。 ミュンヘン美術アカデミーの学生登録簿(…∴-ニ山*)には、原田が一八八四(明治十七)年四月二十一口に「古代クラス」 に登録した記録が残っており。、このアカデミーに入学した最初の日本人となった∧「古代クラス」 ば、美術アカデミーに入学した学生が原則として最初に登録すると決められていたクラスで、古代彫刻の石膏像の素描を勉強する学科で に                                     ∩)あった5。坂田はこのクラスの教師を務めていたガブリエル・フォン・ハックルに師事し、石膏像のデッサンの勉強に助んだと考えられる‥ 原田の留学中の作品に石膏デッサンは残っていないが、『美術新報」r第九巻第三号6には一八八五年の年記の入った男性の習作(図1)が掲載されており、木炭画の稽古をしていたことが窺える。また、老人の裸体を油彩画で措いた習作三点(=〇:・〓:)リ〇エ)はこれまでも美術アカデミーの教育課程で措かれたものと考えられてきたが、今回の展覧会調査で原田と同じ時期にアカデミーに在籍していたテオドール・レックナーグルという学生による、原田の《裸体習作》(=〇.∵〇ごと同じ老人のモデルを措いた作品(≡こ⊥きが、アカデミーの収蔵庫から発見されたへ よっ/し、坂田の《裸体習作》 がアカデミーの授業で描かれたことが明らかとなった。また、一八八五年に制作された油彩画《神父》(no 2-06」

阿1.原山軽次郎ミ、刑乍(木炭耐》1885(明治18)年(:美術新報二筋り巻第5号掲載)


このアカデミーに入学した最初の日本人とな′ノたミュンヘン美術アカデミーに学ぶ         「古代クラス」は、美術アカデミーに入学した学生一八八円(明治十七)年二月十六日、原田は陸軍卿 が墟則として最初に登録すると決められていたクラヽ丁.\・L一⊥」__」_二二⊥_⊥上む阿1:原田l(二美術新報』は、明暗の対比や人物描写が見事で、原田が留学し/二年余りの間に高い技術Jで身に着けたことがわかウQ アカデミーで一古代クラス一の次に学生が進シのは 【絵画クラス一で・ぁった■■ 原Eが二のクラスに進んだことJ三景付ける資料とし/\ 画家ハンス・アユヒナー(一1㌧∴()‥九三一) が一九一二年∴刊行した自伝 〒画家刀環程」一二一一:一ご が・カる■ これーまで紹介されいいJ一ノ∴、資料J一ノスカ二詳しノ1記すが、二の♯者作刀一異邦人∴ち丁土いう章に原田との思い出が五頁は㌧こ綴▲′りれてい/\一l■八八五年にミュ ンヘンの水晶宮で開催さ㌧れ∴一口本晃一を原田と一緒∴見ぢ丁したことJノここが書、か1れ/∴、る■ 著者刀ハンス・フェヒナーはベルリン∴生J声れ、一人七七辛から八三年まてベルリン、続い/…、ユンヘンの美術アカデミーで修行Jで積み、後年はベルリンにアトリチで構えて肖像画家として活躍した。晩年、臼の病気によって制作が困難になると、若い頃の思い出を著述するようにJ▲′チり、一「画家の旅程」一は二冊目の自伝として刊行された。 アユヒナーは原田の画学生生活について、短いが重要J仁次の一★人Jで残Lている。「小柄JノネU本人の原田も、短い問ヨーロッパの芸術観に慣れ親しみ、私が思うに、外国人留学生が多く学んでいたヴァーグナーの門下にいた‥」8ヴァーグナーとは、当時美術アカデミーの教授を務めていたザンドール・フォン・ヴァーグナー(一八二八1⊥九一九)と考えられるハンガリー出身で、一八六九年よりミュ ンヘン美術アカデミーの教授を務めたヴァーグナーは、「絵画クラス」 しょり上級のクラスを敢えていた9ゝ 原田がフェヒナーの証言のとおりにヴァーグナーのクラスに在籍していたとすれば、初心者向けの一古代クラス一から次の段階の 「絵画クラス一へ進級したことば確実だろう。進級したのも当然と思われるは卜し原田が留学中に措いた作品〕け完成度が高く、明暗表現や人体の捉え方といった粥洋絵画の基檻Jで、きちんーこ吸収したニーこが窺える■ 特にミュンヘン滞在最後の年トト描かれた 《靴星の親爺》 の圧倒的な描写力は、原田が西洋絵画の本質にいかに迫りえたのかJで物語っ/∴刀り、美術アカデミーに学んだ原口のひとつの到達点と言える、こユンヘンて出会つた画家たち 原円が留斗丁中に交友Jで深めた画家とし/し、ガブリエル・フォン・マックス、ユリウス・エクステル、ツェツィーリエ・グラーフ■。フファフの名前が、鴎外の記述なトJか・ら知られている。本展覧会では、これらの画家たちの作品をドイツからの借用作品も∴父えて紹介する。それぞれの画家については、すでに多くの論考で触れられているため、ここではごく簡単に紹介したい。 原田は美術アカデミーに通う一方で、兄の豊吉と加親しくしていたガブリエル・フォン・マ ックス(一人凹〓-一九一五) にも個人的に師事していた‥マックスは∵八七八年からミュ ンヘン美術アカデミーの教授を務めていたが、原田が留学する前年の八三年に退職している。幅広い分野に学術的な関心を寄せた画家で、《聖女マリア‥アレーゼ・モールの死》(2).‥一〇 のように、聖痕を受けた聖女なと神秘主義的な主題一で手がける一方、ダーウィンの進化論への関心から、自宅で拉の群れを飼い、《鏡のいる白画像》(≡ニー芝や《読書する猿》(■三∵一■)*)といった、猿Jでモチーフとした作品も数多ノ\残している、また人間の頭蓋骨や動物の標本を大量に収集し/しおり、自宅には私設の博物館(2)一山・~こご を開設するはどでろった1f マックスの博学ぶりは、原田にとつて大きJノ.ネ刺激とJ亡っただろう。墟田は《ダーウィン肖像》(本書一四E真の図5)や《外国の男【チでールス・ライエル卿一》(::⊥)となと、科学者の肖像Jで措い/しおり、その背景にはマックスの影響があったと考えられる。〒記念帖』 で黒E清輝は原田について次のしそフに回想している。「両に就いては如何にも思想の高い人で、又思想と云ふことをば技術よりも余程重′\見て屑つた人である‥」11この言葉から、目に見えるものをそのまま写すのでばなく、観人心的JJゝものを重視する原田の姿勢が窺える。原田は目に見えないものの力や想像力の可能性もマックスから学んだのではないだろうか′ ユリウス・エクステル (一人」ハ三・∴九三九) は、原田が主人公のモデルとなった鴎外の小説 「うたかたの記一に実名で登場し、〒記念帖■』 でも鴎外が原田の友人として記したため、これまでもたぴたび日本で紹介されてきた。エクステルは∵八八一年四月にミュ ンヘン美術アカデミーの 「古代クラス」 に登録し、八三年には 「絵画クラス」 に進級して、ザンドール・フォン・ヴァーグナ一に師事したり、先述のように、原田もヴァーグナーのクラスに在籍して


012り mひひいた可能性が高く、エクステルとはゃ天術アカデミーで同じ教授の下に券丁んでいたと考えられる。エクステルが措いた《ある日本人の肖像》(2).∵N.㌔) は、羽織袴姿の原田を描いた等身大の肖像画で、二人の山親交を物語る貴重な作品である〔 エクステルはこの作品を売ることなく、ずっと手元に置いていたとい  30I「ノ1 本展では、エクステルの一八八〇年代の作品として《グッハウの宮廷庭園の門》(コ〇.∵山ごと《野原の少女》(■戸山 N〇 の二点を紹介している。とちらも緑豊かな自然をモチーフとし、戸外の明るい光が印象的である‥こうした画題や描き方は、城田が留学中に制作した《風景》(■≡∵山王とも共通する。《風景》 ばミュンヘン近郊のコッヘルの村が舞台となっており、夏の明るい日差しの中で遊ぶ二人の子ともや、画面中央の象徴的な白い鳩によって、牧歌的で理想郷のような光景が表現されている。 ちょうと原田がミュンヘン美術アカデミーに在学しでいた頃、ミュ ンヘンにも外光表現を取り入れたフランスの風景画や風俗画が伝わり、美術アカデミーの教育自体が刷新されていった‥古代美術の石膏デッサンを重視する方針が、生きている人間のモデルを措く方針へと変更され、ミュンヘン美術アカデミーを特徴づけていた歴史画の優位も揺らぎつつあった。原田やエクステルら若い画半丁生たちは、フランスの外光派絵画にも敏感に反応し、ミュ ンヘン近郊の農村に出かけて、戸外での制作を実施したのだろう{、 ツェツィーリエ・グラーフ=プファフ (∵八六二-一九二元)は、原田に恋心を抱いていたと鴎外が書き稀…したため、注目を集めてきた画家である。プファフについて、鴎外は次のように述べている。「チエチリア、プファツフCaeci-iaP許可といふ美人あり。エルラング:ン三等痢eコ府大学数授の息女なり〈 葉はつせっぶ髪雪膚、眼鋭く準隆し。語は英仏に通じ、文筆の才も人に超え、乃父の著作其手に成る者半に過ぐと云ふ〈 (中略)此女子芸術学校に在りて画を学ゝぷ際原田                                 きサご・「ノと相識り、交情口に浸く、原田の為めに箕等を執らんと願ふこと既に久し。然れども原田は毒も動かさる、こと無きもの、如くなりき。」1〝ツェツィーリエは美人で才能にあふれる女性であり、原田のために尽くそうとしたが、坂田はそれを受け入れなかった})い、フ一方、ツェツィーリエと比較される女性が、坂田の恋人となったマリイである。鴎外は次のように書いている。「原田直二郎其妾宅をランドヱエルストラアセ「aコdwehrs【rPSSeに卜す‥妻女HはマリイMaュcフウベル〓u㌻川r氏。曾て 「ミネルワ」 骨書店CaF小MiコCrVaの碑たり。容貌甚だ揚らず: 耐蒼くして躯痩すっ 又才気なし「〕 両人の情は今膠漆にも比べつ可し。」15鴎外によれば、原田はカフェ‥、、ネルヴァの女中マリイと恋愛関係にあった。鴎外はあまりマリイのことをよく思っていなかったようで、美人のツェツィーリエを選ばなかった原田について 「素と淡きこと水の如き人」 であるからと納得せざるを得なかった。 本展覧会では、ツェツィーリエの絵画、素描と版画(コ〇r山-岩~ま) を紹介している‥ツェツィーリエも美術を学ぶためにガブリエル・フォン・マックスに師事しており、その際に城田と出会ったと考えられる。城田が帰国した後は、日本美術に関する展覧会の開催や、著作の執筆を行い、ドイツにおける日本美術の紹介に貢献した16/一鴎外が書いたとおり、さまざまな才能にあふれる女性であったことが窺える〔ミュンヘンからパリへ 原田のミュンヘン滞在も終わりを迎える一八八六年春から秋にかけては、鴎外が 「独逸日記」 に奴円についてたびたび記している。加えて、当時ドイツに何字中で後に貴族院議長を務めた近衛篤麿が同年七月末にミュンヘンを訪れ、原田と出会ったことを『蛍雪余間』(2).∵今ごに書き残したヮ、鴎外は後に「近衛公(篤唐) がミュンヘンに来て翠山公(忠堅 の肖像を跳へられる時、粉本としてフォトグラフィイを出された」18と回想しており、篤麿は短いミュンヘン滞在の間に、祖父の忠麒の肖像を原田に依頼し、写真を手渡したことが窺える。近衛忠照の肖像は現存せず、図版を確認することもできないが、原田が帰国後の一八八八(明治二十‥)年に制作した《島津久光像》(コ〇一丁l、T()ごは近衛家から注文を受けて措かれた可能性がある。篤麿の母は島津久光の養女となったことがあり、篤麿がミュンヘンで出会った原田に久光の肖像を依頼したのではないだろうか。また展覧会調査の過程で、篤麿がドイツで撮影し、献辞を入れて原田へ贈った篤麿白身の肖像写真(コ〇.~-ふ小、図っこも発見された。


012ツェツィーリ干グラーフ=プファフ(∵八六二丁 画(-10S.7〕てノ革を紹介している。ツェツィーリ ー牟阿2)も発見された。 近衛篤麿のミュンヘン滞在には、当時ドイツ公使を務ゆていた品川弥二郎も同行し、坂田に面会している。鴎外によると、品川は原田をとても気に入っていたらしく、一八九〇(明治二十三)“十に原田が描いた《毛利敬親肖像》(≡:⊥)空と考えられる作品Jで毛利家に納カる際に、その仲介役を務めたことが書簡(大理大字附鳩大理図書館璽から確認さ、れている19「品川は原田が後年、病に伏せり、静養のたゆ神奈川の子安村に転居した後も見舞いの手紙を送っている原田がミュンヘンで出会った人々との交流ば、帰国後も続き、制作の助7ゆになった 原田がいつまでミュンヘン美術アカデミーに在籍していたのかは定かではJ一ゝいが、一八八六年八月凶ヱ(no.ユー4う)・近衛蔦麿†r了像写真撮影:フリッ、ソ・マイケ社 原田直Jこ郎献岩188丁年5り1{Rけ 個人項十五日の 「独通日記」 には、「原田の曾で芸術学校に在るや一2。とあり、この頃にはすでにアカデミーを離れていたと考えられる。同口の 「放逸日記」 によれば、この頃に原田は美術アカデミーの向かいの部屋から、恋人のマリイとともに別の場所へ引っ越した: また八月二十一日から十月一日までの約一ケ月間は、マリイと一緒にミュンヘン近郊のミソテンヴアルトとコッヘルヘ赴き、避暑および風景画制作のために滞在する。7てして十一月二十二日の朝、鴎外らに見送られて、原田はおよそ二年半暮らしたミュンヘンを去った。 イタリアなと一で経由した後、原田は。ハリに到着する■ 二八八七年二月に原田のフランス国立美術学校登録のために、バリの口本→公使館と美術学校が交わした書簡がフランス国立公文書館に残されており、児島薫氏による詳細な報告がJ仁されている21。また書牌間とともに保管されているメモ書きによると、原田のバリの住所は第六区の 「カジミール・ドラヴィーニュ通り七番地」 で、国立美術学校まで徒歩で十分程度の場所に暮らしていた バリで墳mが購入した書籍に、アルマン・カッサーニュの著作『遠近法実践論享声†.芦:)がある22中表紙にはサインと「Pい己と 「J巳一<.笥」 の書き込みがあり、八七年の一月に構入されたことがわかるフランス語に堪能だった原田は、帰国後にこの遠近法の技法書の翻訳と出版を試みた苧 三宅克己が次のように回想している。「一原田君の著述に遠近画法と云ふものがある‥仏文の本を土台にして書いて、応用を日本の景色で示すと云ふので、写生をしてゐl謀卜う・こn()ヱづ9×、、:マックス・シヤスラー三美字批評史二181二年 末京大乍総合図書館乾 表紙東刀遊乙ヾ舐(上回の右_L部分、.二項rlIJサインがろる_た。それが纏まらJ一ゝい中に病気に㌔ゝつた‥一㌘ての草稿(≡).ユ.てこ が現在、東京国立博物館に所蔵されている■ 遠近法という西洋絵画の基程を日本に広く伝えるために、原田は原書を丁寧に翻訳し、加えて原書では西洋の女性が措かれていた挿画を、和服姿で子ト㌻つを背負うR本の女性に措きかえている(コ〇.心 芋・h)ゝ 病のため出版には至らなかったが、原田が西洋絵画の普及のた妙に試みたことが窺える貴重Jぱ資料である。 また森鴎外旧蔵で、硯在東京大字総人じ凶書館が所蔵するマックス・シャスラーの著作『美学批評史■土25の表紙真の遊び紙には、鉛筆で享宍エぎエ≡Lヒのサインがあり、本書はもともと原田の蔵書で、後に鴎外の手に檀ったと考えられる(≡).∵.山モ、図5)‥原田は制作と並行して、美術に関する技法書や美学の理論書を原書で読7林、内接什絵画を理解しょうと努めていたのである。

帰国H後の奮闘 ミュンヘンとパリの美術与丁校で粥洋絵画の基礎を徹底して学んだ原田は、一八八七(明治二十)年、お 叩


014ききよそ三年半ゝぷりに帰国した。しかし、当時の口本はおそらく焼円が想像していた以上に、西洋絵画に対して冷淡であった、) 原田が帰国した頃、日本では明治十年代の急速な欧化主義に対する反動から、国粋主義の風潮が色濃くなっていた‥美術界においてもアーネスト・F・フェノロサと岡倉天心によって日本美術の保護が唱えられ、世論は西洋絵画の排斥へと傾いた。逆境に立たされた原田は、西洋絵画を普及するためにさまざまな活動を展開する‥一八八七(明治二十)年十一月十九日、上野の華族会館で開かれた龍池会例会において、坂田は講話一で行ったごその内容を文字に起こした「絵画改良論一26(本書一凹六~‥四九頁に全文掲載) によれば、坂田はフェノロサや岡倉天心が唱えるような、西洋絵画の長所を日本の伝統絵画へ取り入れて折衷するという考えを、真っ向から批判している。西洋絵画を本格的に学んだ原田にとって、フェノロサと天心の主張は浅はかに感じられただろう‥また、原田はヨーロッパの美術教育についても触れ、「欧洲画字ノ教授法ハ先ツ最初ヨリ生徒ヲシテ実物二付キ研究セシメ傍ラ解剖学遠近法古今ノ歴史風俗習慣井二 (フィロゾフィイ デ■ ポヲザアル)美術精理等ノ講義ヲ聞ク」と語っている。粉本による模写からはじまる日本の伝統的な美術教育を否定し、実物を前に措く必要性を訴えた背景には、自らが学んできたミュンヘン美術アカデミーの教育方針があった「一また解剖学や遠近法といった西洋絵画の基檻的理論についてもこの場で言及している‥ しかし、岡倉天心の主導の下、一八八九(明治二十一い)年に開校した東京美術学校にほ西洋画科は設置されなかったし ときを同じくして、原田は東大赤門近くの本郷六丁目三十一番地の自宅に画塾「錠美館」 を開校する「) 同年一月二十五口付で、原口が東京府知事宛に提出した踵美館の 「設置願」 (…}.\T三*、本書一六Cト一六一頁に全文掲載) には、木炭による訓練を経て油彩画へと移行する「写生」 や、「遠近画法」、「人体解剖学」といった学科が記されている。伊藤快彦は鍾美館に通いはじめた頃、「モデルを雇ひ入れて木炭画を始める事に」27なったと語っており、原田がミュンヘン美術アカデミーで学んだように、生きているモデルを描く教育を初心者にも実施していたことがわかる。また、西洋絵画を学ぼうとする塾生たちに対して原田ば寛大であり、月謝なとを求めなかったという。設置噺の 「授業料及経費収入支出概算」 では、塾生二十人のうち授業料を納めるのはたったの五人と見なされており、利益にならないのではと弟子たちが心配するほとであった甲西洋絵画を学ぼうとする熟生には、ミュンヘンで教わったことを惜しみなく与えたいと原田は考えていたのだろう。 そして、西洋絵画を世に広めたいという思いを作品によって実践したのが、二八九〇萌治二十二)年の第三回内国勧業博覧会に肘Uロ。された大作《騎龍観音》(≡)一㌦T】N) であった。西洋の高い技術によっで、龍に乗る観音という日本の伝統的な画題を描いた意欲作を、たくさんの人が訪れる博覧会に出品し、西洋絵画の真髄を人々に伝えようとしたのである‥一八八八(明治二十一)年五月十一日付けで原田がガブリエル・フォン・マックスに宛てた書簡(…:1 叫一〕、本書七人~七九頁に全文掲載) には、口本で周囲の人々に理解されない悲しさと、皆に関心を持ってもらえるように真に日本の様式の絵画を措きたいという決意が善かれ、当時の原田の心情が吐露された貴重な資料となっている苧 皆に関心を持ってもらえるような 「真に日本の様式の絵画一を目指したのが《騎龍観音》だったのではないだろうか〉 また、苦しい立場に置かれていた洋画家たちが、一八八九(明治∴十二)年に結成した明治美術会へ原田も発起人として参加し、明治美術会展に継続し/し出品した。一八九二(明哲一十五)年には『国民新聞』 に白らの文章をたびたび発表し(本書一五一二\い五九頁に全文掲載)、西洋画科を設置せず、西洋美術の長所のみを日本美術に取り入れるという折衷主義的な東京美術学校の方針に対して、一貫して批判を続けた「 フェノロサや岡倉天心のように美術家ではない人物が、西洋美術の本質を理解しないままに国の美術教育の方針を決めていくことに対して、私費で長期にわたって留学し、専門的に西洋絵画を学んだ原田は我慢ならなかったのである、原田は作品の発表、後進の育成、そして自らの言葉によって、西洋絵画を日本に伝えようと奮闘を続けた。原田を支えた人々 青春を謳歌したミュンヘン留学から一転して、帰国後は苦闘を強いられたが、原田は友人たちからの支援には恵まれていた。ミュンヘンで出会った森鴎外は、帰国後も坂田の活動を支援し続けた、


▶015観音》 が第三回内国勧業博覧会に出品されたとき帝国大学数授の外山正一が 「口本給両の未来」 と超する講演で、信仰心の薄れた時代に宗教画を措くことを否定し《騎龍観音》ユで酷評したことに対して、鴎外は論文「外山正一氏の画論を駁す」試を執筆し、厳し′〜反論する。その後も鴎外は原田を援護する美術批評をたびたび発表した。また、鴎外は雑誌の表紙や挿画の仕事Jで原田に提供している(本恥人望Rハ参照)。一八八九(明治二十一∵年、鴎外が 〒国民之友r=に発表した翻訳詩集一於母影一の挿画(≡: hコを原田が担当し、これが二人の初ゆての協働作業となった。その後も、鴎外の小説 「文づかひ一の挿画(≡:.岩 ヒ おしよび同小説が掲載された一「新著日程」」 第十二号の表紙(=〇」.芸 〓 や、鴎外が日清戟争後に創刊した雑誌『めさまし草」一の表紙と挿画(≡ン..∵.に1一てごユダ原田は手がけている。そして、鴎外が自宅に飾っいいた原田の二占州の油彩風景画(≡)ン.∵〜.rNふ) には、力を込めた展覧会出品作とは異なった親密さと叙情性が感じられる■ 思想家の徳富蘇峰も、原田の制作活動を支える重要J仁人物であった‥鴎外が 「於母影一を発表した雑誌『国民之友▲コ は、蘇峰が発刊した雑誌であり、原田はその挿画を手がけるうちに蘇峰とも交流を深めたようだ。〒国民之友』 の一二種類の表紙画(≡S」−り謡⊥一望一山ヒを原田は提供したほか、山蘇峰から注文を受けて、《新島裏像》(コ〇.ゝT一光ご や《横井小柄像》(コ〇rJT当一室)、《徳富洪水像》(コ〇.JT舎)といった蘇峰が尊敬していた人物の肖像画を制作している。公益財団法人徳富蘇峰記念塩崎財団が所蔵する、原田が蘇峰に宛てた二十通の書簡からは、肖像画の注文に関するやりとりや、制作の過程なとが窺える31ゝ肖像画を措くにあたって、原田は蘇峰から像主の写真一で借り、また完戌後は謝礼を受け取っていたことがわかる。展覧会で発表するために描かれた大作とは異Jバネり、個人的な交流から生Jまれたこれらの作品は、西洋絵画の技術を生かし、また生活を支えるための、ささやか1ながら大切な活動であった。 本展覧会には《新島要像》 のもとになったガラス湿板写真(2:⊥已 が出品されているが、展覧会調査の過程で《島津久光像》、《毛利敬親肖像》、《横井小樽像》 についても、もとになった写真を確認で、きた。少)の肖像画も像主が亡/1なった後に制作されているため、原田は一度も会ったことのない人物Jで、想像力を働かせて写真から油彩画へ措、き換えていった。=■記念帖■』 には複数の書、き手が、原田自身が写真に非常に強い関心Jで持っていた二とを記している小林萬吾によれば 「先生は其頃最も写真に凝つて居られたのでしたが、横浜から古いレンスJで買つて来て、自分で暗函を作つて、使用して」弱いたらしく、写〕具棲も自らの手で制作するほとであった。また久保田米斎によれば、現像のための部屋も原田の自宅にあり、和田英作らと暗室で現像を試みたこともあった苧 しかし、残念ながら原田自身が撮影した写小具は、まだ見つかっていない。 『記念帖』 には、鍾芙館の塾生たちが写真以外にもさまざまなエピソードを寄せているが、原田は機械も額縁も作れてしまうぐらい手先が器用であり、また大変負けず嫌いで、意志の強い性格でもあったという。そして一緒に写生に出かけたり、カルクをしたり、原田の好物であったコロッケを食べたりと楽しそうなエピソードが多い。内洋絵画という自らが選んだ道で、J一ゝかなかその技術を生かす機会を得られない一方で、支援者や塾生たちからは愛されていた様子が垣間見られるのである。最後り日々 原田は一八九三(明I・中一十六)年頃から、病に侵されはじカた■ゝ 同年中はシカゴ万博の鑑査官を務め、また旧天絵学舎の同人たちが開催した 「洋画沿革展覧会一に 《高橋由一像》(≡一】ふ)を出品するなと、病を押して活動Jで続けた。しかし、そうした活動も徐々に難し/1なり、一人九五(明治二十八)年一月十四日には、鐘菜館の廃校届(≡一.ムー一芸*、本書‥六一頁こ全文掲載)を東京府知事に提出する) 同年に京都で開催された第四凹内国勧業博覧会に 《素尊斬蛇》(■三ふ ミミ 画稿は≡::・享)を出品し、妙技一二等貨を受賞したが、すでに病床での制作を余儀なくされ、すべて想像で措いていたという甲〉一八九六(明治二十九)年になって、ようやく東京美術学校に西洋画科が設置されたとき、指導者となったのは原田より後にフランスから帰国した黒田清輝と久米桂一郎であり、坂田の姿はそこにはなかった。翌九七年の明治美術会第八回展に出品した《海浜之景》(2).ふ−豊か) が、記録に残る生前の最後の展覧会出品作となり、九八年に制作した《安藤信光像》(】さム丁茎)が、信光の息子の仲太郎によれば、絶筆となった苧 同年八月に原田は静養のため神奈


016川の子安村に転居し、翌九九年十二月二十六口、東京帝国大学第二附属病院にて、三十六歳で死去した。そのとき小倉に赴任していた森鴎外は、二十九日に原田の計報を初めて聞き守長く会えないままに別れたことを悔恨して、追悼文 「取外苔諸原田直次郎氏」 を執筆する〉一九〇〇〔明治二十三)年一月十一日から十四口にかけて『東京口日新間』 に発表されたこの文章は、およ7て十年後、『原田先生記念帖』 に再掲されることとなった。終わりに 墟田直次郎はミュンヘンで学んだ西洋絵画の技術を日本に伝えることに生涯をかけた‥森鴎外が原田のことを「夢を見てゐた人一訂と語ったように、その生涯はあまりに短ノ\ 志は夢のままで終わったのかもしれない‥しかし、原田が残した作品の質の高さと実直さば、R本近代美術史の中で稀有な存在感と魅力を放っている) そして、西洋美術の真髄を知ることなく、その上橙みだけを吸収して日本美術に取り入れていては、結局どちらの長所も失ってしまうという坂町が発した警告は、当時の日本の美術界が陥っていた状況を鋭く指摘したのみならず、いまの私たちが聞いてもなお耳が痛い〉 日六年ぶりの回顧展となる本展が、原田直次郎の画業に再び光を当てる機会となることを頼ってやまない‥