9条・安保

■戦後の原点

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 戦争を放棄し、軍隊を持たないとする憲法9条は、先の大戦への深い悔悟から生まれました。日本は一方で日米安保条約を結び、自衛隊を設けました。この理念と政策は矛盾しないのか。それとも両者の共存が知恵なのか。「戦後の原点」シリーズは今回、9条の歩みを三つの節目で描きます。

▶誕生 「平和」議会で提起

 敗戦から1年の夏が近づく1946年6月。帝国議会で新憲法案の審議が始まった。元の草案を突きつけたのは連合国軍総司令部(GHQ)。彼らが9条に込めた狙いは、武装解除による軍国主義復活の阻止だった。

 7月末、衆院特別委員会の小委員会の非公開審議で、社会党の鈴木義男が発言した。「ただ戦争をしない、軍備を捨てるというのは泣き言の印象を与える。まず平和を愛好すると宣言しようじゃないか」

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 委員長は後に首相を務める芦田均。「愛好するというより、世界平和の維持に協力すると言いたい」と応じ、2日後に修正試案を示した。9条に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求しというくだりが加わった。

 憲法制定過程が専門の独協大名誉教授・古関彰一は「日本の議会は敗戦後の廃虚の中で9条に国際平和への誓いを込めた。新憲法はGHQが単純に押しつけたものではない」と話す。

 平和を希求する世論は強かった。前年発足した国際連合は平和実現への協力を各国に求め、理念は憲法と重なっていた

 だが、現実と理念をめぐる議論もすでにあった。首相吉田茂は衆院で「戦争放棄」に自衛戦争も含まれると答弁。8月末、貴族院議員で東大総長の南原繁は本会議で疑問を投げかけた。

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 「理想は高ければ高いだけ現実を認識することが必要だ。遺憾ながら人類種族が絶えない限り戦争がある現実を直視し、国家としての自衛権と最小限度の兵備を考えることは当然だ」

 米ソ間で冷戦が始まった。憲法成立後、吉田内閣は自衛のため「戦力」に至らない実力を持つことは合憲との解釈を示し、通常の軍隊よりも制約を受ける自衛隊の誕生へとつながる。

▶安保 冷戦下、経済を優先

 51年9月、吉田はサンフランシスコにいた。オペラハウスで49カ国が講和条約に調印。米軍の軍事施設に場所を移して結ばれた日米安保条約は、占領後も米軍駐留を認め、米国に防衛をゆだねるものだった。こちらは国内で強く批判されていた。日本全権団の中で吉田はひとり署名役となった。

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 米国は「日本を共産主義圏外に置き、巨大な資力をフルに活用することが必要だ」(国務省幹部ジョージ・ケナン)と考えていた。朝鮮戦争を機に、冷戦は緊迫化し、日本は共産主義への防壁となった

 吉田は54年に自衛隊を発足させたものの、軽武装路線を取った。防衛費を抑えたことは、復興と高度経済成長を助けた。のちに「吉田路線」と呼ばれる。

 本人はどこまで見通していたのか。「あの人のことだから、何年も先のことがわかるものか、その時に対処するしかないと考えていたのでしょう」。講和会議の随員で、後に首相となる宮沢喜一の回想だ。吉田はしたたかな現実主義者だった。

 自民党内で改憲論はくすぶり続けた。だが、60年安保改定の政治混乱を経て、保守本流は改憲を棚上げし、9条と安保・自衛隊を共存させる道を選ぶ。

 社会党が護憲による平和を掲げたのも大きかった。自民党政権下で、9条の理念に沿う政策も生まれた。67年に首相の佐藤栄作が非核三原則を表明。「平和憲法の下で日本の安全をどうするかが私の責任」と語った。

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 経済力を増す日本に、米国は分担を迫った。70年代から防衛費も急増し、在日米軍の駐留経費肩代わりも始まった。しかし軍事より経済という「吉田路線」は、冷戦下で保たれた。


89年、ベルリンの壁が崩壊した。冷戦が終わった

▶対立 護憲・改憲、溝深く

 93年春、護憲派の学者らが雑誌「世界」で、「平和基本法」構想を発表した。憲法は改正せずに、新たな基本法を設けて、自衛権を明記、自衛隊を「最小限防御力」を担う国土警備隊に改組しようと提言した。非核三原則や武器禁輸も盛り込み、国連平和維持活動(PKO)には別組織で参加するとした。

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 提言者だった法政大教授・山口二郎は、「自民党政権と護憲派がぶつかりあって生まれた平和国家路線を、定着させるチャンスだった」と振り返る。

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 激動の時期だった。内では、自民党は政治スキャンダルで国民の信を失い、社会党が躍進した。外では、経済大国になった日本は国際平和への貢献が求められ、92年に初めて自衛隊をPKOに派遣した自民党幹事長の小沢一郎は国連軍参加も合憲と主張した。護憲も改憲も、国際主義を踏まえた議論を展開し始めた。山口は、安保政策で自民、社会両党の「歴史的和解」が可能ではないかと考えた。

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 だが、社会党はめまぐるしく変わる政治に追いつけない。94年、自民党との連立政権で首相となった村山富市は、自衛隊と日米安保を追認した

 平和基本法構想には護憲派の反発も強かった。山口は先輩の学者から「改憲派を利する、やぶへびになる」と言われた。

 その後、さらに状況は大きく変わる。中国が軍事的に台頭し、北朝鮮は核とミサイルの開発を進めた。自衛隊と日米安保は強化され、領土問題の激化や首相の靖国神社参拝が、国内のナショナリズムを強めた。

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 一方、護憲派の方は、保守に対抗して、立憲主義を強く訴えるようになる集団的自衛権の部分的行使を認めた昨年の安保法制論議は、政治にこれまでにない深い亀裂を残した

▶国際主義に立ちかえれ 慶応大教授・添谷芳秀

 冷戦後、湾岸戦争を経た日本の90年代の憲法論議は、世界にいかに貢献すべきかという「国際主義」の観点から行われた。それが今や自民党を中心に、「押しつけ憲法」を廃して、自前で憲法を作り直そうという「自国主義」の議論が盛んだ。

 根底には、占領下で生まれた現憲法、特に9条を認めたくない「怨念」のナショナリズムがある。ただ、戦後憲法と表裏一体をなす、侵略や植民地支配といった過去に向き合わなければ、国際社会に理解される改憲の展望は開けようがない。

 従来の憲法解釈を変え、集団的自衛権の行使を認めて安保法制も作ったが、日本が何をどこまでできるのかはあいまいなままだ。安倍政権は「抑止力」を強調し、米国に「日米安保を強化する」と約束するが、中国には戦後の平和主義に変わりはないとも説く。海外からは国家像が揺れているように見える。

 憲側は「立憲主義」を唱えるが安全保障論議に切り込めていない。いま叫ばれる改憲と護憲、どちらにもついて行けない国民は多い。

 9条と日米安保が共存する「吉田路線」を支えた冷戦と高度成長が終わって久しいが、日本の針路は定まらない。90年代の憲法論議は戦争責任を前提に国際貢献を探った。改めてそこから学ぶべきではないか。

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