仙厓禅画の世界

000■仙厓禅画の魅力

▶禅画と「座画」

 仙厓の絵画は、禅画、と呼ばれている。たいていは、白隠とセットで禅画を代表するひとりと評される。では、そもそも禅画とは何かと問われると、なかなか答えにくい。禅宗の教義や精神を表現した絵画と辞書的に答えることはできるが、そうすると室町時代の禅宗絵画にも禅画と呼べる作品が含まれてくる。しかし実際は区別されている。時代的な区別であるとすれば簡単だが、もう少しこの区別を意識して言い直せば、禅画とは、近世以降、絵師としては素人である禅僧が描いた一見無技巧に見える絵画で、ユーモアのある作品が多く、禅的な精神の横溢(おういつ・あふれるほど盛んなこと。)によって、多かれ少なかれ、他の禅僧も含めた民衆教化の手段となっているもの、ということになる。これでは白隠や仙厓の説明ではないか、なんとなく誤魔化しているのではないか、と思われるかもしれない。確かにその通りで、禅画という概念が先にあり、そこから白隠や仙厓の作品が生まれたわけではない。むしろ、彼らの作品を、どのように意味づけ、室町時代の禅宗絵画と区別するかということから、禅画という概念は規定されてきたというほうが正しい。つまり、あくまでもわれわれが勝手に分類したいがために規定したものである。そもそも仙厓は自らの絵画を禅画とは呼んでいない。「歴画」 は、絵画の規定からはずれた「無法」 の絵画だと自称している。禅においても絵画においても枠の外である。仙厓にしてみれば、禅画という概念で自分の絵画を規定されるのは迷惑かもしれない。彼は、そうした理屈で絵は描いていない。

▶画題と作画スタイル

 白隠は達磨図や祖師(そし)図、観音図、福神や白隠漫画と呼べる戯画(下図)など、さまざまな書画作品を残している。仙厓も白隠と画題として重なるものが多いが、いわゆる道釈(どうしゃく・主に、神仙や仏教の羅漢・観音などを画題とする)人物画のほかに、禅機(ぜんき・禅における無我の境地から出る働き)図、禅全図といった禅宗のテキストに直接関係する画題も多く手がけている点で白隠とは異なった特色がある。さらに、風俗画、風景画、動物画、塁竹墨蘭などの植物画、特定の人物の肖像画、戯画としか呼べない作品もかなりあり、全体としては白隠よりも相当に画域がひろい。

hakuin_image02 町絵師や狩野派に代表される御用絵師など、どんな画題もこなす職業絵師に匹敵する、またはこれを凌駕(りょうば・他のものを越えてそれ以上になること)するほどである。特に七十代後半から晩年の、なんとも分類するのがむずかしいような作品を眺めていると、何らかの感興を覚えた事象すべてを絵にしてみようと考えていたようにさえ思える。白隠の描く人物像が、基本的に自らの姿の反映だったことと比較すると、仙厓は、あらゆる事象の観察者という立場から筆をとつているように感じられるのである

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 技法でいえば、すべて水墨画である。白隠には色彩を伴う作品や、きちんと着色された作品も多くあるが、仙厓はほとんどすべてが墨だけで、朱色を使っているのは例外といっていい。画室に種々の道具や絵の具を用意して、時間をかけて描いたという作品もほとんどない。場当たり的に即興的に、墨を摺っているあいだに図様を決め、畳の上でさっと描きあげたような略画がほとんどである。白隠は下描きをしたが、仙崖は下描きをしなかった。依頼者を前にしてその場で完成させた席画も相当数含まれると思われる。当意即妙(すばやくその場面に適応して機転をきかすこと)。それが仙厓の作画スタイルである。

▶鑑賞者への強い意識

 画題と作画スタイルから必然的に導き出せるのだが、彼の禅画は鑑賞者を強く意識している。白隠にも禅僧向け、一般民衆向けという鑑賞者の区別があった多くあるが、仙厓はほとんどすべてが墨だけで、朱色を使っているのは例外といっもそれは同じである。七十代後半噴から晩年にかけては、それが徹底している。ある特定の個人に向けた作品であって、両者のあいだでこそ意味が通る、という作品もあるのだ。したがって、仙厓の禅画を鑑賞する際に、これはいったいどのような人物に向けて描かれたものか、この作品が描かれるきっかけは何だったか、などと想像することが、作品理解に通じる場合がある。ただ、かえつて意味内容を誤解してしまうこともあるし、事実とは無関係な逸話をひねり出してしまうこともある。

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 鑑賞者への強い意識は、仙厓の禅画の魅力と直結した特色である。「あなたがおもしろいと思い、何か感じてくれるものを描こう」 という強い内的欲求が表現になる。だからおもしろいのである。あたりまえである。

▶描く目的と無技巧であること

 相手に伝えるべき内容を、いかにダイレクトに伝えるか、という課題に対するひとつの回答が、無技巧であるといえる。上手に描かない、画面を飾らない、ということは、見る人が絵画的な美しさや技術に注意を払わない、内容とは別のところで感心したり感動したりしないことにつながり伝えるべきテーマが浮き上がる。七十歳を過ぎてからだが、仙厓が鑑賞者にしてほしいことは、第一に笑うことだった。だから上手い絵を描くこと自体が目的に反する。ただし、下手だから笑う、というのでもない。彼の無技巧は、絵がまったく下手である、というのとは違う。下手ではそもそも感じてもらうべき内容が伝わらない。笑ってもらうための技術がいる。矛盾しているようだが、一見下手に見えながら、デッサンは思いのほか正確で、下手に見えても線が生きている。技巧が隠されている無技巧であると考えたほうがいい。真筆か偽物かも、技術的なところで大半は判断がつく。つまり仙厓は上手なのである。

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 技術が隠されている、ということは、仙崖は最初から無技巧だったわけではないことを意味する。博多の職業絵師と交わり、水墨画の技法をまじめに習得し、ふつうの絵画としても優れた作品をめざしていたような時期があった。そうして獲得した絵画的な技術を表面から払拭する強い動機が育ち、七十歳を過ぎた頃に「厓画無法」を標摸させたのである。この頃、自らが絵画を描く目的がはっきりとした。その目的を達成するには、技巧を捨て去ることが必要だった。それを仙厓は「無法」と呼んだ。この「無法」は、大げさにいえば絵画における一種の悟りである。そこに仙厓禅画の最大の魅力がある。

■清らかな尊像

▶優しさがにじみ出る仏画

 道釈(どうしゃく・主に、神仙や仏教の羅漢・観音などを画題とする)人物画や禅機画、禅全図は仙崖が生涯を通じて描いたジャンルであるが、礼拝の対象であることが前提となるような尊像や祖師像の作画は、八十歳以降の最晩年に多い。一部には戯画的な表現のなごりもみられるが、総じて奇をてらわず、落ち着いた画風である。こうした画題を依頼されることが多くなったともいえるが、悟りきって、その悟りも忘れさったような静かな心を表すのに最もふさせんわしい画題ともいえるだろう。ただ、遷化するまでの最後の一、二年あたりで描かれたと考えられる作品には、堂々として気力あふれる表現や、壮絶ともいえる印象を与えるものもある。八十七歳に至って聖福寺の住職に復帰したことが、画風に変化をもたらしたのかもしれない。

 描いた像としては楊柳観音図や白衣 しゆつさん観音図が多く残り、出山釈迦も多い。観音の姿には慈母に対する思慕が込められ1一事ているようにも感じられる。ここで紹介した作品の中では《出山釈迦画賛》(20頁)や《釈迦三尊十六羅漢図》(上図)が六十代後半頃の、比較的早い時期に位置する。描線が謹直で、端正な表現は後の表現とは一線を画している。特に《釈迦三尊十六羅漢図》は大作で、一見すると仙崖とは思えない。おそらくは何らかの原本を参考にして制作されたのだろう。

 仙崖が描いた尊像の顔はどれもよく似ている。無垢で清らかで、仙崖の優しさがしみじみと伝わってくる。肩の凝らない仏画であり、荘厳さや尊さに思わず手を合わせるというよりは、日々眺めてなんとなく心を癒やされるものばかりである。こういう尊像を描ける画人はそうそういない。(中山)

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 宗像大社(福岡県宗像市)に伝来する阿弥陀経石刻碑の拓本を入手し、その中央に自筆の阿弥陀如来図を加えて完成させた作品。穏やかで慈悲深い阿弥陀像は、仙圧の衆生救済の思いを反映しているかのようである。(八波)

■禅とユーモア

▶仏も祖師も一刀両断にする過激さ

 禅は、笑いと極めて親密な関係にある宗教である。むしろ、禅の哲理の中心に、笑いが存在するといえる。とはいいながら、仙崖に描かれた達磨も祖師たちもこれではたまったものではない。まるでマンガである。ここまでやってイインカイ、と言いたくなる。これらは俗人ではなく禅僧が見ることによって意味が出てくる作品だ。賛文も仙崖の独壇場で、仏も祖師も一刀両断にしてし辛フ浸さである。禅は、禅そのものを茶化す笑いさえ包み込むのだが、これらを見せられて素直に笑える禅僧はいるのかと心配にもなる。笑うどころか、ふるえあがるかもしれない。

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 しかし、真の禅者は笑うのだと仙崖は確信している

 仏教絵画においては、こうでなければならないという枠組みが強固にある。枠にそわないと、意味内容が伝わらなくなる。枠とはいわないまでも、画題が要求する表現は、絵画全般において存在するのである。仙崖は、そうした枠組みや画題が要求する表現をどうやら無視している。それも、頑張って無理矢理に力業で無視したり反発したりしているのではなく、するっとスルーしているように思える。時には、枠組みから逸脱していることを利用して、枠組みにインパクトを与えようとしている。出光美術館の《馬祖・臨済画賛》(上図)。古今東西、これほど戯画化された祖師(仏教の一宗一派の開祖や開山,あるいはその法系の高僧)像はない。尊崇すべき祖師の人格が完全否定されているような描きぶりである。しかも、仙崖の師である月船禅慧の晩年の頂相(肖像画)からわかるのだが、人相の悪い馬祖の顔は、自分の師である月船に似てさえいる。この攻撃性は、仙崖の禅を考えるうえで重要である。仙崖は、世俗化した中央の宗教権威だけでなく、祖師も含めた禅僧たちすべてに対しても、遠慮会釈なしに禅の真理とはなにかを問いかける。そこでの笑いは、強力な武器であるようにも思える。(中山)

■仙厓無法自由・自在

▶〝世の中には法があるが、私の絵には法などない〟

 六十代後半から、仙崖の禅画は徐々に明るく伸びやかになっていくが、ユーモア表現においては、まだそれほど明確な意識は働いていなかった。それが七十歳を過ぎる頃から理屈抜きに笑える作品が登場する。その記念碑的な作品が幻住庵の《寒山拾得豊干禅師図屏風》(下図)である。背景の松や竹は端正で力強く、技術的にみても優れているのだが、そこに配された人物や虎は、とんでもない。国籍不明で奇々怪々の寒山拾得。豊干禅師(中国,唐の禅僧。経歴未詳。天台山国清寺に住し,奇行の多い僧として知られる)は剽軽(ひょうきん)なじいさん。虎の親子はまるでマンガで、李朝の民画も思い起こさせる。これほど自由奔放な戯画を、堂々たる六曲一双の大画面に展開した例を知らない。賛文もまたふざけている。絵が拙(つたな・へた)いのは、屏風の仕立てが粗悪だからだと責任転嫁して言い訳していると思ったら、ここに描いた虎は、自分が前世で見たままを描いた真実だとひらきなおり、ついには、世の中の絵には法があるが自分の絵には法などない、そもそも仏法のもとは無法だったのだ、というように画無法」を宣言するに至る。

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 禅の心が彼に与えたユーモア表現を推し進めていくと、ついにはこうなってしまう、ということだろうか。「画無法」と宣言してしまえば、あとはもう、やりたいほうだいである。無法なのだから、誰も文句のつけようがない。龍虎に見えない龍虎を描いたり、竹林でおしっこしたり、猿田彦と天鍋女命を仲人したり、羅生門の柱に羅生門と落書きしたり、禅僧にあるまじきセクシャルな賛文を書いてみたり……人を楽しませ、自分も楽しむ。まさに戯れる者の絵画であるが、「戯画」という分類で片づけてしまうのがおしい。つまりこれこそ「画」なのである。(中山)42

〈寒山拾得豊干禅師図屏風〉(部分)

■「厓画」最大のナゾ

▶さまざまな解釈を生みだす作品

 《○△□》(下図)は、辻惟雄氏によれば仙厓の看板みたいなものである。ところがこの看板、なかなか読めない。三つの図形と落款だけ。作品を読み解く手がかりとなるいつもの賛文もない。だから、これは何かと誰でも気になってしまう。古くからさまざまな解釈が試みられてきた。真言と天台と禅を表すとか、儒教、道教、仏教であるとか、水と火と土であるとか…。おそらく、泉武夫氏による神道、儒教、仏教であるという説が、最も真実に近い。仙厓が所属した古月派にあった思想に基づいた解釈である。この解釈は、仙厓の世界観を示す文字資料群からしても頷(うなず)ける。

 ただ、単純化して説明を加えないことでさまざまな解釈が生まれることを予想し、「○△□」の前でああでもないこうでもないと思案するわれわれを仙厓は笑つているのかもしれないとも想像できる。また神道、儒教、仏教の合一というような思想を抽象化した世界観全体のシンボル。言葉で説明することのできない最終的な疑問に対する最終的な答えのようなものという気もする。泉氏は、これはわれわれに与えた公案かもしれないといわれているが、仙崖自身にとっても最終的な公案として自分に跳ね返ってきた作品だったように思える。

 謎は、図形の意味だけにとどまらない。仙厓の思想について精密な論考を加えられている衛藤吉則氏が指摘されているように、○から描いたと見えるが、図形が重なった部分の墨のにじみ方からすると、薄墨の□から描き始めて少し濃い量で△を描き、さらに濃い塁で○を描いたことがわかる。そして最後に、○と同じ濃さの墨で一番左に空けておいたスペースに落款を入れたのである。衛藤氏は、だから「○△□」ではなくて「□△○」であるとされる。ただ、自然な見え方は 「○△□」である。少なくとも仙厓は、そう見えることを想定していた。この仕掛けは、いったい何だろう。

 ○から描いたと見えるように整えられながら、□から描かれた理由。それを考える手がかりはある。五十三歳の時に妙心寺の大通和尚に宛てた手紙(紫衣勧奨に対する断りの書簡の控えで、原文は漢文)に、仙厓はこんなことを書いている。自分はまだまだ修行中の身であり、まだ三角である。

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「O」と「△」と「□」。最も単純な5つの図形を組み合わせただけのこの作品は、仙厘の代表作であり、最も難解な作品でもある。図形の意味するものは、宗派か、宗教か、宇宙の根源的な構成要素か。いまだに謎である。(八波)

 完全な円になっていない。完全な円になるためなら命を失ってもいい、というようなことである。□から△へ、そして○への到達という道筋が、仙厓にとっての目標なのである。だったらなぜそういう順番で見えるように描かなかったのだろうか。たとえば、○から△、そして□ヘの流れが自然である、つまりこの世界や時間のありようなのだが、自分はその自然の流れとは逆に進む。それが真理に至る道である、というような意図かもしれない。この○は、泉説による仏教の象徴ではあるだろうが、禅にいう絶対無を表す円という意味もあるかもしれない。つまり、円相のように描いては消す円ではなく、もうその先がない、消すことのできない円、最終的な悟りである。仙厓を西洋社会に紹介した鈴木大拙「○△□」をユニバースと解釈している。なんとも現代的な解釈ではあるが、これを描いた仙厓の心理は、なんとなくユニバース説に近いようにも思える。

 この作品一幅だけで、一晩酒が飲める。つまみはおでんがいい。だしがしみて一番濃い味の丸い大根、ほどよく昧のしみた三角のコンニャク、だしの上に浮いているだけで味の薄い四角いはんぺん。三種盛り合わせである。悪酔いするかもしれない。(中山)

■仙厓の自画像

数少ない自画像が意味すること

 仙厓が描いた尊像は、みな清らかで端正な顔立ちである。では、自分自身はどのように描いているのだろうか。実は、仙厓には自画像と呼べる作品がほとんどない。達磨図をはじめ、描く人物に少なからず自分自身を投影した白隠と比べると対照的である。自らを「四国猿の日干し」と自虐的に形容した仙厓だったから、しわくちやで小柄だし、白隠のような偉丈夫ではないし、自信がなくて描かなかったといえなくもない。しかし、自らの姿を描かないと成立しないようなテーマの数点には、例外的に自分を登場させている。

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 出光美術館の<自画像画賛》(上図)では、自身を達磨のように描いている。賛には「そちらむひてなにしやる」とある。誰かにこう呼びかけられたのだろう。達磨のように座禅して面壁しているのか、ただちょこんと坐っているのか。達磨ふうの姿でそもそも禅僧なのだから当然座禅だろうと解釈するのが自然である。ところが、数ある達磨図の中には「面壁九年嫌なこと」だとか「座禅座禅と言はさるけれど尻の根ぶと(腫れ物・おでき)が痛とござる」などと、まるで座禅を嫌っているような賛文を臆面もなく残してもいるから、ただちょこんと坐っているだけなのかもしれない。 出光美術館のもう一点(次頁)では、絵を描く姿の自分を描いている。傍らに筆立てがあり、目の前に白い紙がおかれている。「九左」がまた何か描いてくれとバカを言っている。どうしよう。なにも浮かばないのだろう。ちょっと困った顔である。もう、しかたないからこの困った俺の姿でも描いてやろうというのだろうか。

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 傑作なのは《ゆばり合戦図》(上図)。なんと立ち小便をしておしっこの飛ばしあいをしている。「ゆばり」とは博多弁で小便のこと。右側で「厓まけたまけた」と降参しているのが仙厓である。この作品が描かれたのは八十歳を過ぎた頃だから、飛ばしあいで勝てるわけもない。

 これらの作品は、あくまでも例外である。おそらく仙厓は、あらゆる事象を観察する者の視点から描いた人だったと思われる。だから自分の姿はできるだけ消そうとしたのかもしれない。観察者としての視線といっても、高みから見下ろしたものではない。地べたに這いつくばって生きるわれわれの、すぐ傍から注がれる温かい視線だった。(中山)

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