忍性の三村山止住

▶三村山清冷院極楽寺

 三村山極楽寺はつくば市小田、筑波山の南東に派生する宝篋山小田山、標高四六一m)の南裾に立地する。小田氏が居城とした小田城跡の北東1kmにあたる。周辺一体の田畑・山麓斜面には瓦、土器、陶磁器片が散布し、礎石、石造物などが散在している。三村山清冷院極楽寺跡・尼寺入廃寺跡、東方の常願寺廃寺は「三村山極楽寺遺跡群」と総称されている。

 

 『常州小田尼寺古瓦記』等によれば、文政十三年(一八三〇)頃、小田村の名主で農政・歴史学者でもあった長島尉信は三村山で「楽寺」「三村山」「清冷院」などの文字瓦を拾い、鋭い洞察をもって当時土浦城にあった「極楽寺」銘梵鐘と「楽寺」銘を結びつけた。すなわち入道した八田知家が建永元年(一二〇六)、「三村山清冷院極楽寺」なる寺院に梵鐘を施入したと推定した。

 その後高井悌三郎氏は、知家が梵鐘を施入した「極楽寺」こそ、のち忍性が律院化、東国布教の拠点とした三村寺であることをつきとめ、昭和二七年には瓦窯に隣接する瓦溜を発掘調査し、三村山清冷院極楽寺の存在が全国に知られるようになった(高井 一九五八)。

これらの極楽寺の瓦に関しては,すでに江戸時代後期,小田村出身の農政学者・長島 尉信(ながしまやすのぶ)が興味を示し,自著『小田事跡』のなかで,瓦の拓本などを 紹介しながら,往時の極楽寺,そして外護者であった小田氏への考察を述べています。 つまり,極楽寺の瓦は江戸時代から注目されていたのでした。 そこで,当館所蔵の瓦のうち,主な 3点を紹介いたします。 まず,軒平瓦です。縦9㎝,横 16 ㎝(以上残存部),瓦当面厚さ6㎝を が と う め ん 計ります。下向き剣頭文と呼ばれる, ちょうど剣を逆さまにしたような陽刻 の文様が並び,そこに「清」という字 が陽刻されています。この瓦自体、全 体の一部ですので、当然「冷」「院」という文字もあったはずです。様式的には西暦12 00年代前半から半ばころの作です。忍性が清冷院に入るころか、その直前に建てられ た(あるいは葺き替えられた)堂宇に使われていたと思われます。

 平成三年春には三村山の三地区で確認調査が実施された。トオノネ(南)地区からはロストル式平窯の瓦窯に伴って多量の瓦が検出され、出土文字瓦銘より「薬師堂」に供給した瓦窯であることなどが判明した。土塁状遺構が現存する神宮(北)地区では、建物跡・溝・土壌に伴い鬼瓦や鋼香炉蓋が出土している。尼寺入(西)地区からは石垣・瓦溜・焼土帯が検出され、貿易陶磁器が集中して出土したが、熟変で溶解したものを含んでおり、神宮地区にも焼土が見られることから三村寺は火災で焼失したと推定された。報告者はこれを北朝軍が小田城を攻撃した建武四年(一三三七)か暦応四年(一三四一)このものと推測している(つくば市教育委員会・一九九一)。ただしこれらの焼土より上層から明代の竜泉窯稜花劃花紋皿や美濃瀬戸、内耳土鍋など一五世紀以降の遺物を伴う遺構が検出され、大火年代は一四世紀後半の岩間難台山の戦いなどの可能性も残る。

▶忍性止住と不殺生界石

 忍性入寺当時、三村山には既に幾つかの坊があり、その一つをまず律院化したとみられる。三村山周辺では般若寺や東城寺のような「大界外相」石は残されていないが、一般的には結界標石を残すことのほうが稀であるから、建長四年十二月の律院化に際してまず大界結界が行なわれたと考えられる(松尾・一九九二)。

 小田周辺には3基の「三村山不殺生界」石が残り、集落東部の1基には建長五年(一二五三)発丑九月十一日と刻字されており、三村寺で殺生禁断が行なわれ律院としての面目を整えたことがわかる(高井 一九五八)。無住の『雑談集』には「常州三村山ハ坂東ノ律院ノ根本トシテ本寺也。故良観上人結界シ、コトニ殺生禁断、昔ヨリモ、キビシタ侍シ事、東候卜云所ノ狐ネ共具シテ、聞及テ釆ルヨシ、人二託シテカケリ」とあり、忍性の不殺生界によって、宝篋山東麓の東城寺周辺の狐が三村山側に逃げてきたという。よって建長五年銘の不殺生界石は、忍性によって建立されたと推定される。

▶三村山造営の進展

 三村山出土の正嘉二年二二乗)銘平瓦は、忍性止住中の造営活動を示しているが、このとき使用されたと推定される連巴文圏三巴文軒丸・二段連珠文軒平瓦のセットは常陸のみならず宇都宮氏菩提所益子地蔵院・足利智光寺など下野域にまで同箔・同文瓦が存在している。「みむら」発の忍性書簡に東国唯一の戒壇道場である下野薬師寺の妙性(審海)宛のものがあることも含め、忍性は小田・宇都宮系氏族の外護の許、下野とも関係を有していたようだ。

 これらの瓦は興福寺、及びその別当支配下にあった法隆寺に見られる末期的な連巴文系軒平瓦の系譜に連なるもので、南都系瓦工の制作と推定される。西大寺は当時興福寺の法相教学の強い影響下にあり、忍性の東国布教の初期には、興福寺の支援も考えられる。

 忍性とともに下向したと考えられる隆信房定舜(定俊)はかつて宋にわたり、宝治二年(一二四八)六月律三大部二十具・諸経論等を将来しており、うち定舜分の二具は三村寺分に充てられたとの見解もある。忍性の関東下向に同行した定舜(じょうしゅん)は、渡宋経験を生かし、貿易顧問として幕府中枢に接触したと推測されている。三村山の造営が急速に進んだ背景には、「入宋沙門」と称された定舜による造営船の派遣も考えられよう。

▶叡尊の鎌倉下向と三村山

 忍性が三村山の造営や経営を頼玄に任せ、定舜とともに鎌倉幕府への接近を図っていた正嘉年間(一二五七〜五九)は、大地震と暴風による飢饉のさなかであった。執権を退き最明寺入道と称されていた北条時頼は、為政者(いせいしゃ・政権の有無にかかわらず、政治機構の中で政治判断を行っている者)として正念場に立たされており、統治理念を模索する中で忍性・定舜らの戒律に巡り合った。時頼ら幕閣は戒律思想にもとづき、社会福祉事業をはかる一方、反社会的行為を厳しく規制した政策を構想した。朝廷の中でも、叡尊に帰依する者が現れていた。辛酉の改元がなされた弘長元年一二六一)二月三十日、幕府は六十一ケ条の「関東新制条々」を発令、朝廷も五月十一日、新制二十一か条を制定し、鎌倉と京都が相呼応して、政治の刷新に動きはじめた。法令では神社・仏寺の尊重を強調し、民衆の負担軽減をうたう一方、殺生を諸悪の根源とみて厳しく禁じるとともに、僧侶に戒律を守ることを義務付け、肉食妻帯(僧侶は殺生をしてはならず、禁欲生活を送るべきものであるという考え方から、かつて浄土真宗以外の宗派ではこれを禁じていた)などの破戒を厳罰と定めた。また商人、神人、「道々の輩」の活動を制限した。これらは叡尊の戒律思想と通じており、適正に運用すれば、安定した法治国家を実現するはずであったが、厳しい禁止規定は、容易に専制支配と恐怖政治になりかねない諸刃の剣でもあった。この新制に魂を吹き込むためにも、叡尊の下向が待望されたのであった (網野 一九七四)。

 忍性はこの年鎌倉清涼寺釈迦堂に移って準備を進め、定舜も十二月二十八日に幕府側の使者として西大寺に参上し、金沢実時が仏法の衰退と国土の荒廃を戒律にょって正そうと望んでいること、北条時頼自身も受戒を望んでいる旨を伝え叡尊の下向を促した。

 『関東往還記』によれば、叡尊は弘長二(一二六二)年二月四日に西大寺を出発完舜も他の弟子と随行した。叡尊は道々、人々に戒を授け茶を施し、二月十日には尾張長母寺に到着した。叡尊は三村寺僧道篋の斡旋で数日逗留して僧俗に授戒する一方、道篋と協力して寺を結界した(追塩 一九九五)。この道篋は、通暁と音が通じる点から、のち長母寺の住職となり、『沙石集』 『雑談集』などの作者として知られる無住通暁(一二二六〜一三一二)と同一人物とする説がある (堤一九八一)。

 

 叡尊は二月二十七日鎌倉に到着し、金沢称名寺の念仏を停止して迎えようとする実時の申し出を断わり、新清涼寺釈迦堂に入った。叡尊のもとには時頼の妻をはじめ、実時一族・政村一族・執権長時、御家人たちが受戒のために参上し、自領の殺生禁断を誓った。将軍宗尊親王も、教化をうけたという (和島一九莞)。

 師叡尊を迎えた忍性・頼玄は両輪となって目覚ましい働きをみせ、鎌倉の妨療宿で食物を施し、授戒するなど、民衆の救済につとめたが、その過程で三月五日には定舜経典・諸道具を鎌倉に迎えるため、八十余人の人夫を率いて三村寺に向かい、三月十二日には聖教を持ち帰った。三月十三日には衆僧に唐物をくじで分配しており、唐物貿易への関与をうかがわせる。

 三月十三日には北条時頼自ら釈迦堂を訪れて叡尊と懇談し、のち叡尊も最明寺に赴き、時頼に斎戒を授けた。時頼と叡尊の関係をとおして、北条氏と律宗の固い結びつきが成立し、予想以上の成果をおさめ、叡尊は八月十五日、西大寺に帰った叡尊の影響は後嵯峨天皇の朝廷にも強く及んでおり、弘長三年八月十三日には四十一ケ条の新制が宣下され戒律思想を通じて公武協調体制がまさに実現しょうとしていた

 ところがその総仕上げともいうべき将軍宗尊親王の上洛計画が暴風により挫折し、その心労もあって時頼は病をえ、弘長三年 (三六三) 十一月二十二日に最明寺にて三十三歳で急逝した。死を悼んで出家する御家人は数知れず、叡尊と邁進しっつも悲劇的に生涯を終えた時頼の姿は、律僧をはじめとする僧俗の心の中に長く理想君主として記憶された。このため律宗・禅宗の寺院を中心に、「鉢の木」をはじめとする時頼の廻国伝承(鎌倉幕府の北条時頼は、諸国を行脚し困窮した御家人や農民を救済した名執権として伝承されている)が語り継がれるようになったのであった。

▶鎌倉の忍性と律宗

 叡尊下向以降、忍性は多宝寺に入り、文永四年(一二六七)には常陸出身の実法房覚賢に多宝寺を託して自身は鎌倉極楽寺に移り金沢称名寺の開山に下野の妙性房審海を招致した。こうして鎌倉周辺の主要律寺に忍性・覚賢・審海が揃い、以後極楽寺を筆頭に鎌倉の真言律寺の活動は北条政権と強く結びついていく。

 一方、同年に三村山長老の蓮順房頼玄大和般若寺丈六文殊の開眼に赴き、叡尊と共に供養を行なっており(長谷川 一九九〇)、依然として西大寺や大和と関係が深かった。のち三村山で南都風の蓮華唐草文軒平瓦が出現するのも、頻繁な往来が続いた結果であろう。

 『西大寺叡尊上人遷化之記』 によれば、正応三年(一二九〇)叡尊が入滅、計報に接した鎌倉極楽寺忍性、清涼寺長老頼玄、総州願成寺長老栄真、相州浄福寺慈照、駿州霊山寺成真ら東国の諸大弟子は悲嘆にくれ、霊山寺成真を使者として仏事用途を西大寺に送った。忍性を頂点とする東国律宗のネットワークがうかがえよう。

▶三村山の僧侶とその活動

 物故(ぶっこ・人が死ぬこと。死去)した西大寺有縁の律僧を列記する『西大寺光明真言結縁過去帳』には「蓮順房 清冷寺」とある頼玄(らいげん・真言律宗。西大寺の叡尊にまなぶ。のち常陸(ひたち)(茨城県)に清凉寺をたてた。数万人に授戒したという。字(あざな)は蓮順。)のほか「覚圓房 清冷院」、「来道房 三村寺」の名がみえ、三村山の歴代長老であったと考えられる。

 弘安十年(三八七)入道し正應六年(一二九三)に没した小田氏四代時知は、法号を清冷院殿寂性玄朝大居士といい「玄」字を加える事は頼玄による授戒をうかがわせる。更に小田系図によれば時知の息で 『新千載集』に和歌を収める朝海はもと三村五郎宗吉と称し、のち僧となり経深と号して三村山別当に補せられ権大僧都(ごんのだいそうと・)に任ぜられたという。僧綱位(日本における仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職)より律僧とは考えられず、天台もしくは真言僧と推定される。三村山は僧綱位を持つ小田氏出身の別当と、遁世僧たる律僧の長老という二重構造をとっていたようだ。いずれにせよ頼玄小田時知・宗吉父子の深い帰依を受けたらしい。

 その他にも三村山に関係する僧尼に道篋、定舜、了禅、了証、良然、澄尊らの名が金沢文庫文書にみえる。

 金沢文庫古文書三七四二の「氏名未詳書状」は、下総龍角寺の朗海が永仁五年(一二九七)に出した書簡の紙背文書(せはいもんじょ)であり、三村寺有縁の某僧から圓観房に宛てた書簡である。ここには下総大藩恩寺・鹿嶋・鎌倉極楽寺などの地名とともに、「尼寺三村塔」供養に圓観房が来なかったことを残念がる記述がある。この圓観房は弘安八年(一二八五)までに下総戒光寺で他界したことが他の文書からわかるので、それ以前に出されたものである。この文中は「□光御房□□□既遂供養候了」という記述があるが、これは三村山をしばしば経典書写で訪れた法光房了禅の僕養を指すと考えられる。弘安五年(一二八二)、称名寺の長老審海は、補佐役にして兄弟子であった法光房了禅の冥福を祈り、六浦常福寺阿弥陀如来像の修理僕養を行なっている。すると「尼寺三村塔」の完成は、弘安五年 (一二八二)前後の出来事と考えられる。尼寺入地区からは南都風の美しい蓮華唐草文軒平瓦が数多く出土しており、この塔にもそうした瓦が葺かれたと考えられる。

 學聖房(比丘尼) は叡尊の弟子であった尼僧で、三村尼寺の長老と推定されている。金沢文庫古文書2285の「了證書状」は九月四日付で、京都から取り寄せたと考えられる打紙(楮紙(こうぞし)を叩いてつやを出した黄色味を帯びる紙)を使用している(福島 1994)。文中にみえる「そうし」は叡尊の甥で河内西琳寺の長老であった日浄房総持(一三一二?没)と考えられるため、嘉元・延慶(一三〇三~一三一一)以前に出されたと考えられる。この手紙ではが称名寺の釼阿(けんは・のち二世長老)から秘蔵の「わん」(碗)を贈られたことに感謝するとともに、三村寺の「せうみちの御房」と尼寺の了謹が京都東山太子堂から鎌倉まで取り寄せた仏具二具を三村寺まで運ぶことを依頼したもので、放生会のため鎌倉に出向する人に頼んである旨を記す(細川 一九八八)。神宮地区では密教法具の銅製火舎蓋が出土し、透穴雲形が列点状に退化するため、南北朝〜室町期のものと考えられるが、この手紙が示すように、関西地方への注文品かもしれないが釼阿から贈られた秘蔵の碗とは、おそらく唐物天日などの喫茶碗であろう

 三村山では様々な土器や陶磁器が出土しているが、土器はかわらけと火鉢の比率が高い。貿易陶磁器は龍泉窯系青磁 (蓮弁紋碗・牡丹唐草紋花瓶・八卦紋香炉・青磁酒海壷蓋)・折縁高台が圧倒的で数片青白磁が混じり、他に黒褐釉天日碗・褐釉壷・雑釉壷が混じる。国産陶磁器は瀬戸(折縁皿・水注・小壷・花瓶・梅瓶)が多く常滑(壷・大甕)は少ない。これらは尼寺入地区から集中して出土しており、一四世紀前半を主体とすると考えられる(於田 一九九三)。三村寺関係の書簡には茶に関する記事もあるが、律宗が喫茶を重んじたことも、天目茶碗や茶壷の保有につながったようだ。

 金沢文庫古文書2627は、三村尼寺の尼僧が称名寺の某僧に宛てたもので、洗濯物があったら承りたいとのべている。当時の尼たちにとって、僧の衣服を洗濯したり繕ったりすることは、重要な奉仕活動と考えられていたことを示している (金沢文庫 一九九三)。

 叡尊の鎌倉下向時の状況や鎌倉後期に残された三村山の僧衆・斎戒衆の交名からみて、三村寺は常住八十名以上の大寺と推定され、記録に残らなかった僧侶も多かったようである。特に半僧半俗的身分の斎戒衆は、経典の書写を行う善知識、民衆の教化や架橋などを行う説教師、墓地の管理や葬儀一切に携わる三昧聖などのほか各種の工匠も含んでいた。三村山には正応五年(一二九二)壬辰三月一日に日光二荒山神社の鋼燈籠を製作したと推定される鋳物師「大工常陸国三村六郎守季」、関西様式を保持した瓦工、慶派・善派・院派などの影響をうけた仏師、飾職人、各種石造物を製作した大蔵派の石工、鍛冶工、大工、絵師など様々な工匠が集住していたと推定される。特に蓮華唐草文軒平瓦や三村山五輪塔は異なる業種の工人が緊密な連携のもとに製作・造営したと考えられる。こうした工人集団は、宗教上の指導者であるとともに彼らを統括する大勧進でもある長老のもとに組織され、時には本拠を離れ各地を遍歴し、在地工匠との協業を通じて技術や芸術の土着化にも影響を与えた。鎌倉後期にピークに達した寺院をはじめとする各種造営事業は、こうした勧進システムの体制化によって実現したのである。

▶三村山の石造物

 中国宋代の技術書『仙営造方式』には、東大寺南大門・大仏殿に採用された天竺様の工法を記すことが知られているが、巻三の「石作制度」には、複雑な彫刻技法を含む石工技術が記されている(竹島 一九四一)。こうした宋の土木建築技術は、重源の東大寺再建の中で組織的な導入がはかられ、宋人陳和卿が建築・鋳造を指導したのに対し、宋人石工伊行末は石燈篭や層塔・狛犬などの製作に携わった。その子孫たちは帰化して伊派を名乗り、和般若寺十三重塔など律宗の石造物の造営にも関与した。更にその流れを汲む大蔵派の石工たちは忍性らと深くかかわり、筑波山麓や鎌倉・箱根など東国の主要な石造物の製作にあたった。筑波山麓は豊富な花崗岩を産出し、日向廃寺の礎石や大和村祥光寺五輪塔・つくば市北条五輪塔など平安末〜鎌倉前期には早くもに花崗岩加工技術の萌芽がみられるが、『営造方式』に見える複雑な彫刻や柚大技法を用いる宝筐山宝匪印塔・長久寺石灯篭・湯地蔵・五輪塔などの花崗岩製品、結界石や板碑など刻字のある雲母片岩製品は、三村山が律宗化した直後に出現しており、采風技術をもった石工が来たことを示している。

 宝篋山宝筐印塔は三村山裏山の小田山山項に立つ。解体調査では塔下から一三世紀中葉〜後半のこね鉢で蓋をした常滑壷が出土している。飾り金具が伴出しており納経容器かと思われる。これらは三村山と強い関係にあった尾張長母寺などを介して持ち込まれたのであろう。奈良高取町観音寺塔(三五九)・大和郡山市額安寺塔(三六〇)などとの類似から三六〇年代頃に大蔵派石工が製作したと考えられるが、塔身の四仏は通常の金剛界四仏と異なり古風な法相四仏(東薬師・南釈迦・西阿弥陀・北弥勤)を表現したもので(つくば市教委 1989)、興福寺法相教学の強い影響をうかがわせる。同時期の奈良の宝筐印塔には、行基記念碑と考えられる生駒市有里宝医印塔(三宝)、鑑真の五百回忌塔の可能性がある唐招提寺鑑真廟塔(三六三〜)などがあり、本塔も法相僧徳一を意識して造立された可能性がある

 

 東国で花崗岩・安山岩などの硬質石材石造物が普及するのは一三世紀末から一四世紀前半まで下り、三村山の硬質石材加工技術は、他地域に比べて数十年も早く走者と展開をみせている点で特筆される。

 湯地蔵と通称される石龕付地蔵菩薩立像は三村山の旧参道、おそらくは山門付近と考えられる路傍に立ち、花崗岩の石龕(せきがん・石の塔。五輪塔・多宝塔の類)に半肉彫の地蔵が蔵人されている。地蔵は身長一五七㎝で蓮華座上に立っており、右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ。額の白毫は失われている。像を挟んで右に「右為法界衆生平等利益也檀那左衛門尉諸願成遂」、左に「正鷹二年(一二八九)己丑十一月十日造立勧進彿子阿浄」銘がある。この阿揮は、西大寺叡尊像納入の『西大寺有恩過去帳』(三人〇)に見える阿浄と同一人物の可能性がある(井坂 一九八六)。銘文にある「檀那左衛門尉諸願成遂」については、「尼寺三村塔」が弘安五年(一二八二)頃の完成とすれば、小田時知発願の伽藍造営が一応の完成を見たこと示すのであろう。すると阿浄は、三村山造営のため下向した南都の勧進聖であった可能性が考えられる。『沙石集』には筑波山麓の老人通が手ずから地蔵を刻んだ説話があり、この阿浄がモデルかもしれない。同様な地蔵菩薩像は五霞村雨新田にもあり、伊豆安山岩製である。金沢氏ゆかりの律宗前林戒光寺との関係が推定される (千々和・縣・一九八一)。

 三村山五輪塔三村寺の奥の院に位置し、重弁反花座・格狭間表現のある台座を含めた全高は三mを超え、地覆石は西が最も長い点などからみて西面する「運心(浄土に 心を寄せること)」の作法で造立されたと考えられる。石塔の様式が横浜市称名寺審海(一三〇四没)塔・金沢顕時(一三〇一没)塔と似ており一四世紀初頭の造立と推定され、一丈一尺の西大寺叡尊塔一丈の極楽寺忍性塔に次ぎ鎌倉多宝寺覚賢塔と同様に九尺塔として企画されている。石塔下から集右に保護されて瓦組の小室がみつかり、内部から龍泉葉音磁蓮弁文鉢で蓋をした瀬戸灰粕四耳壷の蔵骨器が出土し、瓦室内の隙間にも火葬骨を含む土が詰められていた。集石付近からは破砕された舶載天目茶碗小片・碗形鉄洋が出土した。五輪塔水輪上面の納入孔に六角水晶五輪塔、反花座中央の窪みの石蓋下に火葬歯牙を含む土、鋼六器・かわらけの合子を納入していた。大規模かつ周到な築造過程では複雑な密教儀礼が行われたらしい。造営は土工・石工・瓦工・鍛冶工の「同心合力」によってなされたようで、工匠集団を統括する大勧進の姿を偲ばせる。石塔の年代や規模、出土品からみて忍性後の三村寺長老で事実上の開山にあたる頼玄の墓塔と推定される。

 蓮順房頼玄は大和出身の僧侶で、忍性の関東下向に同行して三村山に入ったらしい。宝治元年(三四七)の『自警受戒記』、同年に西大寺愛染明王像の胎内に奉龍された喩伽喩舐経の奥書に西大寺比丘としてみえ、忍性に若干遅れて叡尊に入門したと推定される。『輿正菩薩行実年譜巻下』 によれば叡尊が生涯に密潅を授けた七十余名の直弟子の一人で、晩年は極楽寺忍性・西大寺二世信空に継ぐ地位にあった。頼玄は乾元元年(一三〇二)の『益助伝授尊法目録』に署名を残しており、仁和寺御流の継承者でもあったようだが、これを最後に見えなくなり、忍性、審海、覚賢らと相前後して世を去ったらしい。『西大寺光明真言結線過去帳』 では、五二番目に「蓮順房 清冷寺」と記載されている。

 なお頼玄のあとを継いだ覚円房(頼信?) も大和の出身であったようだが、鎌倉周辺の律宗寺院が急速に関東出身の僧で占められる中でも、三村山は依然として南都との関係が深く、石造物・瓦も一貫して南都の強い影響を示しており、いわば関西文化の飛地とでもいうべき状況にあった。三村山は西大寺律宗の全国展開に先立ち実験場の役割を果たしたようだが、そうした環境は、南北朝争乱期にも影を落としている。

桃崎祐輔