道元の生涯

000■正師を求めて

▶誕生〜二十八歳

 八歳で母を喪い、十八歳で比叡山に上山した道元。しかし、正師と正法を求めて、ついに中国・宋に渡る。

▶母との別れ、そして比叡山での修行   

 道元禅師(以下、禅師)は、正治二年(一二〇〇)正月二日(陽暦一月二十六日)、京都に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ久我道具・くがみちとも(一説に道具の父通親・みちちか)、母については不詳だが、摂関家の職者にして宮中に重んじられた藤原基房(もとふさ)の関係の女性ではないかとされる。

 禅師は幼少の頃からたいへん聡明であった。四歳の時には中国初唐期の詩人李嶠(りきょう)の詩を集めた『李晴百詠(雑詠)』を、七歳の時には『毛詩』(「詩経」の別名)や『春秋左氏伝』(「春秋」の解説書)を読んだとされる。

 八歳の冬、禅師は最愛の母親を喪(うしな)った。この頃から禅師は仏教にひかれるようになり、九歳の時には仏教の入門書とも言われる『供舎論(きょうしゃろん)』を読んでいる。おそらく、禅師の母親は臨終にあたって、わが子が朝廷と幕府の権力抗争に巻き込まれるのを心配し、幼き禅師に出家をすすめたのではないかと思われる

 その後、禅師は藤原基房の猶子(ゆうし・養子の意味)となるが、基房は禅師を元服させて朝廷の要職にすえようと考えていた。それをさとった禅師は、元服を間近にした十三歳の春、祖母と伯母のいる木幡(こはた)の山荘に行き、出家の志を伝えた。さらに、比叡山の麓に住む外舅(げきょう・母の兄弟)の良顕法眼(りょうけんほうげん)を訪ねて相談した。出家を求める禅師に良顕は驚くが、その志の強固なることを知って、禅師が仏の道に入る手助けをし、さっそく禅師は比叡山横川般若谷の千光房に登ることになったのである。翌年四月には天台座主(ざす)・公円僧正について剃髪・得度(とくど・出家して受戒すること)し、出家の念願を果たした。

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 禅師は純粋な求道心をもって出家し、比叡山で仏教を学んだ。当時の比叡山は、まさに仏教の総合大学であり、最高学府であったといわれる。法然上人や親鸞聖人、栄西禅師、日蓮上人など鎌倉新仏教の教祖がここで学んだことはよく知られているところである。禅師も、比叡山において十三歳から十八歳にいたる六年間、当代一流の高僧に参じて修行した。

▶修行時代の疑問

 しかし、禅師が修行中に見たものは、戒律を厳格に守らない僧侶たち、そして名声を得ることや、高い地位に就くことばかりを願って修行している者たちだった。禅師も、仏教の指導者や先輩達に、「しつかり修行して、有名な高僧になれ」と教わった。禅師は、そのような修行に疑問をもつようになったのである。

 禅師は中国の高僧の伝記を記した『高僧伝』を読んで、僧侶としての名誉を求める生き方は本当の僧侶の生き方ではなく、むしろ名誉や利益を求める心を捨てて生きる道が、僧侶としてのほんものの生き方であることを知った。そして、禅師の思いは、中国(宋)の禅の高僧へと向けられることになったのである。

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 のちに禅師は、ほんものの仏教を求めて、中国に渡ることになる。

 また、禅師はさらに大きな疑問をもった。当時、比叡山で説かれていた「本来本法性(ほんらいほっぽうじょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」(人間はほんらい、仏の心をもち、生まれながらに仏の身体を有している)という教えに対する疑問である。「ほんらい仏であるならば、なぜ、仏となることを願い、厳しい修行を積む必要があるのだろうか」。

「本来本法性天然自性身」とは

(人は生まれながら仏である。それならば何故に悟りを求めて修行するのか。)という「本覚思想」に疑問をいだき、ついに山を下り、正師を求めて中国に渡り、一生の師天童山景徳寺の如浄禅師さまに相見して、この疑問を解かれ悟りを得られました。

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 ところが、当時の比叡山の指導者に尋ねても明解な答えは得られず、最後に、比叡山を降りて三井寺(園城寺)の公胤(こういん)を訪ね、この質問をした。公胤は当時の顕密の明匠(天台学・密教学の優れた師)であったが、質問に答えることはせず、禅師に中国に渡って禅の教えを学んではどうかと勧めた。『高僧伝』を読んで中国の禅僧にあこがれていた禅師は、いよいよ、入宋(中国留学)の志を深めていく

人間は本当に特殊な生命なのです。心をダイナミックに変化させて善行もできます。神々ですら善業を重なるためにあえて人間に転生してくる。善をなすことができる特殊な生命、それが人間です。仏道修行をして成長できるのも人間です。
人間だけがブッダにもなれるわけです。この人間の時代にできるだけ善行をして、仏道修行をすること。

 時に禅師は、中国に二度渡って禅を学んできた建仁寺の栄西禅師を訪ねた。しかし、晩年の栄西禅師はおもに鎌倉におり、会うことができず、その弟子の明全(みょうぜん)和尚に出会った。明全和尚は、栄西禅師が認める優れた弟子で、もと禅師はこの明全和尚の下で禅の教えを学ぶことになる。そしてこの明全和尚も、中国に渡って禅を学びたいという思いを抱いていたのである。

 ほんものの師に会いたい、ほんものの教えを学びたいという志を同じくする二人の出会 いは大きな力となって、中国留学がやがて実現する。それは貞応二年(一二二三)の春、禅師24歳の時であった。

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▶正師を求めて宋へ

 二月二十二日、京都の建仁寺を出発した禅師と明全和尚たち一行は九州博多に至り、準備をととのえて、三月下旬、船出した。四月初旬には中国の明州慶元府の寧波港に到着した。明全和尚は直ちに中国禅院五山の一つ、天童山景徳寺に上ったが、禅師はしばらく船中に留まった。その理由は明らかではないが、中国と日本との間で、僧侶の扱いの基準の違いがあり、それに関わる何らかの問題があったのではないかと思われる。

 寧波港の船上で、禅師は一人の中国僧と出会った。時は、中国の嘉定十六年(一二二三)五月頃、禅師にとって大きな出会いであった。

 六十歳ほどの禅僧が倭椹(椎茸)を求めて船にやってきた。すでに一カ月も船中に留まっていた禅師にとって、初めての中国の禅僧との出会いであったのだろう、さっそく声みんをかけてお茶をふるまった。この僧侶は、明州の阿育王山という修行道場の典座(食糧の調達から調理や給仕まで、すべて司る責任者)だった。五月五日の端午の節句を翌日にして、修行僧たちへの供養の材料を買い求めに来ていたのだった。典座は、五、六里の道を歩いて港までやってきて、買い物を終えたら直ぐに帰るということだったが、いろいろ話したいことがあった禅師は典座を引き止めて接待しようとした。しかし典座は、典座という役職の大切さを禅師に説き、帰って行った。禅師は、この典座から、修行とは坐禅をしたり語録を読んだりすることだけではなく、日常生活のあらゆることが大切な修行であることを教えられた。

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 その後、ようやく下船叶った禅師は中国でさまざまな禅僧に出会い、ほかにも貴重な体験をした。

 天童山景徳寺での修行中の出来事である。禅師は昼食を終えて、超然斎(ちょうぜんさい)という建物へ行く途中、用(ゆう)という年老いた典座が仏殿の前の中庭で海草を晒しているのを見た。手に竹の杖をもち、笠もかぶらず海草を晒(さら)している。太陽の灼熱の光は容赦なく老典座を照らしている。背骨は弓のように曲って、眉毛は鶴のように真白で長く、汗を流しながらあちこちいかにも辛そうな様子である。禅師が声をかけ、年齢を聞くと、六十八歳とのことであった。そこで禅師は、なぜ行者(寺の用務を司る末出家者)や雇い人を使わないのかと尋ねた。すると「他人がやったのでは私の修行にはならない」という言葉がかえってきた。また、なぜ、日中の暑い今やるのかと尋ねると、「今やらないで、いつやる時がありますか」という言葉がかえつてきた。禅師は、この典座から、自分でやらなければ自分の修行にはならないこと、いつかやろうと思っていたら結局できるものではないことを教わったのである。

 また、ある時、禅師が古人の語録を読んでいると、四川省の出身であるという修行僧に「語録を見て、何の役に立つのですか?」と質問された。禅師は、「国に帰って人を導くため」「衆生に利益を与えるため」などと答えたが、「結局のところ何の役に立つのですか?」と問い詰められ考え込んでしまった。この僧からは、自分自身で教えを実践し、体験し、体得することの大切さを教わった。その後、禅師は語録を読むことをひかえ、坐禅の修行に専念するようになったのである。

 正師(ほんものの師匠)を求める旅も、続いていた。

 禅師は台州の天台山で報恩光孝寺(ほんおんこうこうじ)の笑翁(しょうおう)妙湛(みょうたん)、瑞巌寺の盤山思卓(ばんざんしたく)など、時の中国の高僧を訪ねたと思われるが、いずれも、心より慕い、随(したが)うことはできなかった。「宋に正師はいないのか」、そんなある日、老璡(ろうしん)という僧に出会い、如浄禅師に参ずることを勧められた。天童如浄禅師、この人こそ、道元禅師が求めていた正師であった。如浄禅師はそのとき天童山の住職になっていた。天童山は、道元禅師が修行の旅に出かける前に中国での本拠地にしていた修行道場であるが、禅師が天童山を旅立った後、まもなくこの如浄禅師が住職になっていたのである。

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▶正師・如浄禅師との出会い

 禅師が天童山に戻ってみると、如浄禅師による坐禅修行を中心とした厳格な指導が行われていた。

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 如浄禅師は、当時の中国で勢力のあった臨済宗・曹洞宗のいずれの宗にも与せず、両宗の宗旨を兼ね備えて独自の宗風を振るっていた。その説法の様子は猛虎がうずくまるよぅであり、獅子が吠えるようでもあり、厳しく激しく、豪快、破天荒なものであったといわれる。如浄禅師のもとには多くの修行者が入門を求めて訪れていたが、そう簡単には修行者の入門を許さなかった。しかし禅師が天童山に戻った時、なぜか一見して如浄禅師は入門を許した禅師の仏道を求める心の真実なること、並々ならぬことを見て取ったからであろう。

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 こうして禅師は、天童山において以前にも増して厳しい修行の日々を送るのであった。

 求道心に燃える禅師は、如浄禅師から多くの教えを得ようと、自由に開法することを懇願した。昼夜、時候にかかわらず、また、あらたまって身支度せずに、如浄禅師の部屋に上って質問をさせてもらえるよう願い出たのである。如浄禅師は、「父親だと思っていつでも遠慮せずにきなさい」と快くそれを許した。その後、二人のあいだで多くの問答が交わされてゆく。

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 如浄禅師は常日頃、「もっぱら修行すべきは、坐禅である。坐禅が悟り(身心脱落)である。焼香・礼拝・念仏・修懺(しゅさん)・看経(かんきん)をもちいず、ただ打坐すればよいのだ」と指導していた。この言葉は、のちに道元禅師の著作のなかにもしばしば見られ、学人を励まし、導いている言葉である。

 ところで、一般的に悟りとは、修行(坐禅)の結果として得るものとされている。であれば、修行を積んで、その到達点として悟りがあるということであろう。しかし如浄禅師の言葉は違っていた。「坐禅は身心脱落である」、つまり「坐禅」という〝修行″が、「身心脱落」すなわち〝悟り″にほかならないというのである。

 おそらく道元禅師にもまだ理解しがたい言葉であったのではないだろうか。しかし禅師は如浄禅師の言葉をそのまま信じ、ただひたすら坐った。昼夜にわたり厳しい坐禅が続けられた。

 そしてある日の早朝の坐禅。如浄禅師が僧堂(坐禅堂)に人望して堂内を巡って歩き、修行僧が居眠りをしているのを見て、叱りつけた。「坐禅は必ず身心脱落でなければならない。その言葉を聞いた時、禅師の迷いは消え去っていた。そして、早朝の坐禅の後、如浄禅師の部屋を訪ねて焼香礼拝し、身心脱落したことを報告した。如浄禅師は、その真実なることを知って喜び、悟りの証明を与えた。

 一方、ともに入宋した明全和尚は中国暦の宝慶元年(一二二五)五月、病に倒れ、志半ばにして無念の客死を遂げた(中国滞在 1223~1226~1227)

▶帰郷

 宝慶三年(一二二七)夏、禅師は既に嗣法(しほう・弟子が師の法を継ぐこと)し、如浄禅師の認める後継者の一人となっていた。嗣法というのは、いわゆる免許皆伝のことであり、その証明を禅師は受けていた。しかしながら、なお禅師は如浄禅師の側に仕えていた。

 このころ、如浄禅師はかなり老衰し、余命幾ばくもない状態であった。しかし、如浄禅師の勧めで、禅師は帰国を決意する。師の遷化(僧侶が亡くなることをいう)を看取ってから帰国することもできたであろうし、禅師もそれを望んだと思うのだが、如浄禅師は一日も早い帰国を勧めた。「道元よ、早く日本に帰って、正伝の仏法を広めるのだ」(『行状記』)。

 これが、真の師の言葉であり、仏祖の思いであった。如浄禅師にとって、道元禅師に看病してもらったところで、いまやどうなるものでもなかった。それよりも、一日もはやく日本に帰って、仏祖の正しい教えを広めること、それこそが如浄禅師の願いであった。禅師は、そのような師の思いを知り、帰国を決意したのである。

 それからまもなくの七月十七日、如浄禅師は遷化した。禅師は、すでに帰国の途上にあった。和暦の安貞元年(一二二七)、禅師二十八歳の時のことである。


■禅の普及 (二十八〜四十三歳)

坐禅を広めることに邁進する道元。精力的に正法の教えを撰述し、示衆する。普く衆生のために。

明全塔明全の遺骨を携えて宋から帰国した道元は、建仁寺に向かい、遺骨を納めた。いまもここに明全が眠る。撮影=永野一晃 撮影協力=京都・建仁寺

▶妥協なき布教

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 帰国後まもなく、禅師は『普勧坐禅儀』を著した。この書は、如浄禅師より教えられた正しい坐禅を説き明かすと」もに、具体的な坐禅の作法を示して、人々に坐禅を行うことを勧めたものである。

 正伝の仏法における坐禅は、悟りを得るための坐禅ではない。ただ、これは安楽 の法門である。菩提を究め尽くす修証である。(『普勧坐禅儀』)

 禅師は、普(あまね)く人々に坐禅を勧めた。禅師が説く坐禅の大きな特徴は、「習禅」(悟りを目的とした修行としての坐禅)ではなく、安楽の法門としての坐禅である。

 当時、坐禅というと一般的には、悟りを得ることを目的とした修行であり、換言すれば、坐禅は悟りを得る一つの方法であると思われていた。禅師は人々に坐禅を勧めるにあたり、そのような誤解を正さなければならなかった。なぜなら、前述したように、自ら中国に渡り如浄禅師より伝えられた正伝の仏法における坐禅はそうではなかったからである。坐禅は悟りを得るための苦行ではなく、安楽(煩悩や苦悩から解き放たれた)の行であり、さらに言えば悟りの行であり、仏の行であった。

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 このような坐禅を人々に勧め、正しい仏法を国中に広めたいとの強い願いを持った禅師は、帰国の翌年、安貞二年(一二二八)、京都に入り、建仁寺に身を寄せてその実現をはかった。しかし、その願いを実践することは容易なことではなかった。

 かつて栄西禅師は、純粋な禅の教えを日本に広めようと志しながら、当時仏教界との軋轢(あつれき・人の仲が悪くあい争うこと。不和)を避けて、天台や真言の教えの布教も兼ね備えた道場を開いた。しかし、そのような妥協をまったく考えなかった禅師にとって、禅の流れをくむ「正伝の仏法」の布教は非常に困難であり、まさしく浮き草に寄るように、縁あるところに身を寄せなければならなかったのである。

 そんなある日、中国から寂円という僧が禅師の元にやってきた。寂円は、禅師とともに如浄禅師のもとで修行した僧である。如浄禅師を看取って後、道元禅師を慕ってはるばる訪ねてきたのであった。寂円は禅師が日本で禅の布教を始めたごく初期から、苦楽をともにすることになった。

 寛喜二年(一二三〇)、禅師は深草極楽寺の別院安養院に移り、転々と仮住まいする苦難の数年を過ごさなければならなかった。

 しかし禅師は、雲遊萍寄(うんゆうひょうき・雲の流れるごとく、浮き草の漂うごとく)の生活のなかでも、自ら伝えた教えを明らかにし、それを人々に伝えようと、寛喜三年(一二三一)に弁道話(べんどうわ)』を撰述した。先の『普勧坐禅儀』が坐禅の儀則について中心に示したのに対し、『弁道話』は坐禅に関する十八の設問自答を適して、正伝の仏法における坐禅の意義を明らかにしたものである。『弁道話』に次のような説示がある。

 修行と悟りがひとつではないと思うのは、仏教以外の人が言うことである。仏の教えでは、修行と悟りは一つである。今言う坐禅も、悟りの上での修行であるから、 初心者の弁道(修行)はそのまま本来の悟りのありかたの全体を現しているのである。そうであるから、修行の心得を授ける場合でも、修行のほかに悟りを期待してはいけないと教える。修行が直ちに本来の悟りの在り方を現しているからである。

 すでに修行が悟りであるから、悟りに際限(終わり)はなく、悟りの上での修行であるから、修行にはじめ(初心者であるとか未熟であるとか)はないのである。

 ここには、禅師の思想の特徴の一つであるし、「修証一等(しゅうしょういっとう)」ということが説かれている。「修証一等」というのは、修行と悟りが一つであるということである。禅師は「修行の中に悟りがある」と説いた。積み重ねの一日一日が大切なのである。たゆみない努力、怠りなき修行、そのことにおいては、初心者も熟練者も同じでなければならない、そのことは同等に評価されなければならない、ということである。結果よりも過程が重要なのだ。禅師は、異なる表現を駆使しながらこのことを繰り返し説いた。

▶興聖寺を開く

 さて、定まった布教拠点のない禅師であったが、それでも、まことの道理を諸処で語る禅師の名声は、月日を追って高まっていった。在俗の信者も次第に増え、ついに、中国から帰って六年の歳月を経た天福元年(一二三三)、京都深草の極楽寺の旧蹟に、観音導利興聖(かんのんどうりこうしょう)宝林寺(興聖寺)を開くことになったのである。

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 次に挙げるのは、興聖寺で行われた有名な説法である。

 上堂。云。山僧是歴叢林不多。只是等閑 見先師天童。然而不被天童護、天童還被 山僧讃。近来空手還郷。所以山僧無仏法。 任運且延時。朝朝日東出、夜夜月落西。 雲収山谷静、雨過四山低。三年必一関、 鶏向五更囁。(『永平広録』巻一ノ四八)

 (私は、宋の国において、(正しい師を求めて)叢林(そうりん・修行道場)を巡り歩いた。そして、たまたま如浄禅師にお逢いすることができて、如浄禅師のもとで、確かな仏法を明らめることができた。その後は、師匠の如浄禅師が戯れに偽り一言を言ってもけっして騙されることがなく、かえって私が師匠を騙したりしたのである。そのような何にも迷うことのない確かな落ち着きどころを得て、そして、まさに空手で(手に何も持たずに)、この身一つで日本に帰ってきた。だから、(何か特別な)ひとかけら仏法などというものも一欠片(ひとかけら)もないし、その実践といっても、ただ過ぎるままに時を過ごすだけだ。毎朝、太陽は東から昇り、毎晩、月は西に沈む。雲が晴れると山肌が現れ、雨が通り過ぎると辺りの山々は低い姿を現す。また、三年が過ぎると閏年に逢い、鶏は早朝に鳴くものである。そのほかに、何か特別な仏の教えがあるのではない。)

 当時、入宋した日本の僧侶たちは、中国で典籍(書籍・書物)などを収集し、持ち帰ることが多かった。しかし何も持たずに帰国したと語る禅師のこの説法には、「正法を会得した私が身ひとつでここにいるのだ」という、如浄禅師を嗣(つ)ぐ者としての自負と自信が満ちあふれている。この頃から、禅師の主著となる『正法眼蔵』の撰述示衆もはじまった。

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 興聖寺を開いた翌年には、後に禅師の後を嗣ぐ懐奘(えじょう)が参随(入門)した。懐奘は達磨宗の宗徒であったが、禅師と法論を交わすうちに、その教えがまことの仏法であると信受し、禅師の一番弟子となり、修行僧のリーダーとなった。

 その後、禅師の名声はますます上がり、多くの僧侶や一般の信者が集まった。門下の修行僧は五十人を超え、受戒(仏の戒律を受けること)の僧俗だけでも二千人を超えていたといわれる。

▶比叡山の圧迫と人々の支え

 禅師は興聖寺を得て、教えを世に打ち出す好機を迎えていた。このことは、国中に正しい仏法を伝えたいと願う禅師にとつて何よりの喜びであったが、一方で、比叡山からは強い圧迫を受けていた。

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 比叡山は、自らの拠り所とする天台宗のほかに、新しい宗旨(しゅうし・宗教の流派。宗門)や信仰の興ることを警戒し、すでに念仏宗の布教を停止させ、さかのぼる建久五年(一一九四)には、大日能忍の達磨宗や、栄西の禅宗の停止を朝廷に奏請(そうせい・天皇に申し上げて裁可を願う)した。達磨宗の能忍は京都にいられなくなり、多武峯(奈良県)に逃れ、その後、非業の死(災難などで思いがけない死に方をすること)をとげていた。禅師や興聖寺も例外ではなかった。比叡山の執拗な圧迫が続けられていた。そんな中、禅師は、時に京都六波羅の檀越(檀家)波多野義重の私宅におもむいて説法をした。

 生とは、たとえば人が船に乗っている時 のようなものです。この船は、私が帆をかじ さお 使い、舵を取り、樟をさしているとはいえ、 船が私を乗せているのですから、船のほかに私はありません。(しかし)私が船に 乗り、私がこの船を船ならしめています。この時のことをよく考えてみてください。まさにこの時は、この船が全世界です。大空も大海の水も彼方に見える岸も、船の時とともに移り変わってゆきます。このように、私が生を生ならしめ、生が私いるとき、私も、私を取り巻く環境も、船の働きの中にあります。生である私、私である生、それはこのようであるのです。(『正法眼蔵』「全機」)

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 波多野義重はじめ、武士たちは、道元禅師の説法を難しいと思いながらも、なにか心に響くものを感じていたに違いない。決して太平の世ではないこの時代に、常に生と死の狭間にいた武士たちにとって、神仏の加護、あるいは魂の拠り所が必要だったはずである。禅師は間違いなく、彼等の拠り所になっていた。彼等は、そのような禅師を支え、僧団を助けようとしてくれた。


■永平道元・四十四〜五十四歳

布教の場を求めて越前へ。そして永平寺を開き、道元は高らかに宣言する。当処こそ、正法の道場である。

▶「天上天下、当処永平」

 比叡山の圧迫が激しさを増した寛元元年(三四三)夏、禅師の身にも危険が迫っていた。すでにそのような状況を見て取った波多野義重は、自領地であった越前(福井県)への移住を勧めた。禅師にとっても、もうそれしかなかった。と同時に、禅師の脳裏には、「お前はずいぶん若いが、年老いた高僧のような優れた風貌がある。山深く修行して仏祖の踏み行われた行いを実践しなさい。必ずや造が開けるであろう」(『宝慶記』)という如浄禅師の言葉が思い起こされたに違いない。決して権力に近づくことなく、深山幽谷でひたすら修行しなさい、如浄禅師の教えであった。

 禅師は興聖寺を弟子(懐奘)に任せ、帰国後十数年の歳月を過ごした京都をあとにし、七月、越前の地に移った。時に、四十四歳のことであった。

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 越前山中に移った道元禅師ら一行には、過酷な日々が待ち受けていた。波多野義重の外護があったとはいえ、気候、習俗等も京都とは違い、華やかな都とかけ離れた越前の山里での一からの再出発である。しばらく吉峰寺(きっぽうじ)という古寺に身を寄せることになったが、その修行生活は、予想以上に厳しいものだった。

 この年の冬はとくに雪が深く、寒さも厳しいものであったといわれる。住み慣れない地で厳しい冬を乗り切ることは、一山の大衆(だいしゅ・修行僧)にとって辛い試練の時期であった。「寒さを恐れるな。寒さにくじけて修行を怠ること、このことを恐れなさい」と禅師は大衆を励ました。

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 ことに苦難であったのは、大衆の食料の供給だった。当時、禅師に付き従って越前に移った門下は十数人であろうかと思われるが、これら修行僧の「食」を司ることは、想像以上にたいへんなことだったようだ。

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 門下の中に越前出身の義介(ぎかい)がいた。義介は十三歳の時、越前の波著(はじゃく・波着)寺で達磨宗の懐鑑(えかん)に就いて得度し、達磨宗の消滅にあたり、仁治二年(一二四一)に興聖寺の禅師のもとに入門していた。義介はこの地に知人も多く、生活環境も周知しており、禅師は当然のことながら、義介を最も頼りにしていた。

 禅師は、この義介に典座を任せた典座という役職は、大変重要な役職で、先に述べたように、中国では大力量の長老が務めていた要職だった。義介もそのことを知っており、ありがたくこの職を引き受け、よく努めた。義介は修行僧の食事を準備するために、毎度、八町(約九百メートル)の険しい曲坂を桶を担いで何度となく登り降りした。深雪の冬には、その辛苦はなおさらのことであったと思われる。

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 そんな中、越前に移った禅師の僧団は、波多野義重外護(俗人が権力や財力をもって仏教を保護し、種々の障害を除いて僧尼の修行を助けること)を得て、次第に修行道場の伽藍を整えていった。

 この間も禅師は『正法眼蔵』の撰述・示衆を続けながら、同時に、中国の天童山にも模した本格的な叢林(そうりん・禅寺)の建立に向けて準備をすすめ、ついに寛元二年(一二四四)には大仏寺(永平寺)が誕生する。この、本格的な修行道場の建立は、禅師の永年の悲願であったと思われる。 寛元四年(三聖ハ)六月、大仏寺を永平寺と改称した。

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天に道あり、以て高く清み、地に道あり、以て厚寧(こうねい)なり、人に道あり、以て安穏なり。所持に世尊降生(こうじょう)し、一手は天を指し、一手は地を指し、周行七歩して云(のたまわ)く「天上天下唯我独尊」と。世尊に道あり、是れ、悠もなりといえども、永平に道あり、大家、証明す。良久して云く、天上天下、当処永平と。(『永平広録』巻二)

 (天にも道があるから、高く澄んでいるのである。大地にも道があるから、どっしり落ち着いているのである。人間にも道があるから、こころは安らかなのである。釈尊はお生まれになったとき、一手は天を指し、一手は地を指し、東西南北に七歩お歩きになって、〝天上天下唯我独尊″とおっしゃったが、わたしはいまこのように言いたい。当処こそ釈尊の教えを実践する道場、永平寺である。〝天上天下当処永平″)

 ここに名実ともに、正伝の仏法を宣揚し実践する礎が築かれ、教団(僧団)が確立し、さらに拡充がはかられてゆくことになる。

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▶鎌倉へ

 永平寺では、極めて綿密な行持(仏道修行)が行われていた。禅師は、日常生活におけるすべての行いが修行でありその修行は悟りを開くための手段ではなく、大切なかけがえのない行為であると説いた。まさに、一瞬一瞬を大切に、真剣に生きる修行が続いていた。それは、自分たちを仏に同化させる行であった。

 ある時、永平寺でひたすら修行生活を送る禅師のもとに、思わぬ知らせが届いた。鎌倉へ下向してくれないかという波多野義重からの要請であった。

 関白家の出身で、独力で入宋を果たし、中国から新しい禅の流れをくむ仏法を伝えた禅師の名声は、鎌倉の執権北条時頼に伝わっていたと思われる。時頼は、波多野氏と禅師との深いつながりを知り、禅師を鎌倉へ呼ぶように要請したのだろう。禅師は波多野氏の立場を察して万止むことを得ず鎌倉下向を決意した。

 宝治元年(一二四七)八月、禅師は永平寺を発ち、翌三月帰山するまでの約半年間、鎌倉に滞在した。鎌倉では禅師が永平寺を発つ二カ月ほど前、有力な御家人であった三浦氏一族が北条氏によってみな殺しになるという事件が起き、武家の勢力抗争の修羅場となっていた。そんな政情さめやらぬ鎌倉での滞在の日々は、こ仏法を広めるという志に支えられていたとしても、禅師にとって苦痛を伴うものであったにちがいない。

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 鎌倉滞在中の宿舎は名越(なごえ)の白衣舎(在俗の家)であった。名越には当時、鎌倉御家人の館が多くあったとされる。ここに滞在中に禅師が書いた書として「名越白衣舎示誡(なごえびゃくえしゃじかい)」という文書が残っている。宝治二年の二月十四日に書かれたもので、『大般捏槃経(だいはつねはんきょう)』第十九からの引用文である。の引用文の内容は、インドのマガダ国の阿闍世王(あじゃせおう)が父王を殺害した悔恨に苛(さいな)まれていたとき、六人の大臣が王を慰める言葉を述べた部分である。なぜこの書が名越の白衣舎で書かれたのか不明だが、おそらく禅師は、阿闍世王と同様の悪逆非道な殺教を行った時頼に、の阿闇世王の故事を伝え、懺悔の念を抱かせ、仏法に帰依させるとにょって、阿闍世王同様、悔恨に苛まれているであろう時頼に救いをさしのべようという思いがあったのかもしれない。

 禅師にも、の鎌倉行きを契機に正伝の仏法を天下に広めたいという願いがあったのかもしれないが、結局それは、実りあるものではなかったようだ。かえって、正伝の仏法を普く広めるとの困難さを知ったのではないだろうか。精神世界の荒廃した鎌倉の武家社会で、禅師の深遠な教えは受け入れられるような状態ではなかったのだろう。宝治二年春、禅師は鎌倉を離れ、三月十三日、永平寺に帰った。

▶弟子たちとともに

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 永平寺に戻った禅師は、弟子たちに語った。

 私が永平寺を留守にして鎌倉にいた半年あまりは、大空に孤独なまるい月がぼっかりと浮かんでいるようであった。今日、永平寺に帰ってきて、雲が喜んでいるような気配を感じるし、山を愛する想いが 以前にも増して甚大である。(『永平広録』巻三)

 禅師はこの後、一箇半箇接得(せっとく)につとめた。たとえ一人でも半人でもいいから、自分が中国から伝えた正しい教えを継承する真の弟子の養成を考え、力を尽くしたのである。

 どの道もそうであろうが、いくら大勢の弟子がいようと、自分と同等の優れた後継者を育て上げるとができなければ、道は次第にすたれてゆく。反対に、たった一人でも、自分のすべてを受け継ぐ後継者がいれば、道は確実に保たれてゆくのである。弟子にとっては正しい師匠を選ぶことが大切だが、それ以上に、正法の継承にとっては、師匠がほんものの弟子を育て上げることが大切なのだ。ほんものの弟子を得たとき、師匠は「これでわしも死ねる」と言うのである。真剣に師を求める弟子と、ほんものの弟子を育てようとする師、その出会いによって仏教は代々伝わってきた。

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 禅師は、鎌倉から帰った後は永平寺を離れるとなく、弟子たちに教えを説き、ともに修行した。禅師にとって最も幸せな時期であったと思われる。

▶「渾身もとむるなく活きながら黄泉に陥つ」

 建長五年(一二五三)、禅師の身体は、弟子たちへの熱心な説法や、昼夜にわたる法語(『正法眼蔵』等)の撰述、厳しい修行の中でしだいに衰弱し、病魔におかされていた。の年の夏、病状はさらに悪化し、弟子の懐英は看病の日々を送っていたが、禅師の病はその後も回復する兆しはなく、半月ほどが過ぎた。その間にも、京都の波多野氏より、「病気療養のため、是非上洛していただきたい」との再三の要請があり、とうとう禅師は、義介に永平寺の留守を任せ、懐奘とともに上洛するとを決意、八月五日、上洛した。

 京都は禅師の生まれ故郷である。しかし、この旅路は、さぞかし辛い旅路であったと思われる。釈尊も死期を悟ったのち、生まれ故郷に向かって旅をする。弟子の阿難に支えられての苦しい旅の様子が『大般涅槃経』に示されているが、ある時は足の痛みを訴え、ある時はのどの渇きを訴えながら、故郷を目指した。しかし、その途中、クシナガラで入滅したのである。

 この釈尊の最後の旅路と、禅師の京都への旅が、私には一つに重なって思われる。永平寺を決して離れまいと言った禅師が死期を悟って京都へ旅立ったのは、釈尊を慕ってのとだったのだろうか。京都では、俗弟子の覚念の邸宅に滞在し、療養した。

 八月十五日の中秋には、次のような句を詠んでいる。

  また見んとおもいしときの 秋だにも今宵の月に  ねられやはする

鳴呼、また見たいものだと思っていたの中秋の名月を、こうしてまた見ることができた。ありがたいとだ。こうして今宵の月を、いつまでも眺めていたくて今日は寝られそうもない。)

 しかし、弟子たちの願いも空しく、建長五年(一二五三)八月二十八日(陽暦九月二十九日)、禅師はついに示寂。世寿五十四歳であった。

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 遺偈(ゆいげ) 

 五十四年照第一天 打箇勃跳鯖破大千 嘆 渾身無寛活陥黄泉 五十四年、第一天を照らす。この勃跳を打して、大千を触破す。渾身もとむるなく、活きながら黄泉に陥つ。

(五十四年の間、ひたすら第一天を照らし(ひとすじに仏法を求め)、飛び跳ねて宇宙の果てまで駆けめぐつた(正伝の仏法とめぐりあった)。ああ、いきながら黄泉(こうせん)に落ちようとも、もう何も求めるとはない。)

 禅師亡き後、懐奘は永平寺を受け継ぎ、禅師の書き残した教えを整理し、書写・編集して正伝の仏法を後代に伝えるとに力を尽くした。

 義介は懐奘の後の永平寺を継ぎ、その興隆に努めたまた、中国に渡り、中国の叢林の様子を視察し、れを日本に持ち帰って、永平寺を復興した。修行道場の充実をはかり、瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)禅師(一二六四〜一三二五)を育てた。

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 そして、瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)禅師に至って、道元禅師の弘法救生 (ぐほうぐじょう・教えを広め、衆生を救う)の思いは、みごとに花開くとになったのである。

(つのだ・たいりゆう/駒澤大学教授)

■道元年譜・曹洞宗系図

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