第6章 仏教修行の原点

■第6章 仏教修行の原点

▶八 正 道 

 八正道とは、正見、正思惟、正語、正命、正精進、正念、正定、の八つの実践項目である。ここで注意しなければならないのは、「道」という言葉である。道とは、真理の実践ということである。したがって、八正道とは努力すべき目標であると同時に、実践を通じてあらわされた真理であり、結果でもある。つまりそれは、人間を通じて行ぜられた自然の道理でもある。だから、八正道のことを八支道ともいう。八支道とは、太い一本の真理(道)が八本の道に分かれてあらわれることである。

般若心経の表現を借りれば、

修行道ほ悟道(真理)に異ならず。 

倍道(真理)ほ修行道に異ならず。 

修行道ほ即ち走れ悟道(真理)なり。 

悟道(真理)ほ即ち是れ修行道なり。

 ということになる。したがって、八正道とは八中道のことでもある。しかし、声聞と呼ばれる比丘たちはこのことが分からず、これをただ修行の目標と考え、規範と考えるだけであった。ではつぎに八正道の語句の説明に移ろう。

一、正 見 正しい世界観、宇宙観、人生観をもつこと。見とは見解のこと。

二、正思惟  感情や因習にとらわれず、物事を筋道だてて考えること。今の言葉でいえば、科学的、合理的に考えるということ。

三、正 語 正しい言葉を用いること。

四、正 業 業とは所業のことであり、日常の生活態度のこと。たんに戒律を守るだけでなく、積極的に真理を実践すること。

五、正 命(しょうみょう) 人間がもっている能力を高め、生命力をフルに発揮すること

六、正特進 何事もいったん決心した以上は、最後まで諦めず、コツコツ努力すること。

七、正 念 念とは心をひとつに集中すること。正しい目標を念頭において、ひたすら念ずること。

八、正 定 禅定(ぜんじょう・心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想。また、その心の状態)のことである。禅とは梵語ディヤーナ(dhyana)の音訳禅那(ぜんな)がちぢまったもの。その漢訳が定(じょう)である。したがって、禅定とは同じ意味の語をふたつくっつけたもので、しかも梵漢兼語(梵語と漢語とがいっしよになったもの)である。禅定もこまかく分けると、いろいろな内容があり、(ちぎ、538-597)観の禅止の禅に分けているし、禅定の深化の程度によって、四段階に分ける考え方もある。また、念の禅、無想の禅さらに三昧の禅と三段階に分ける弾もある。もともとはヨーガの瞑想からしたもので、最終的には分別を捨て、発展宇宙と一体となることを目的とする。

 しかし、この八正道はすべてが釈迦の独創的発想によるものではない。インドには古くから瑜伽(よーが・yoga・漢訳は瑜伽(ゆが))という修行法があり、釈迦の教えもそれを基盤として発展したものである。八正道の正とは、従来からあるヨーガの修行法を批判的に正しく取り入れるという意味がこめられている。

 つぎにそのヨーガについて述べよう。

仏教の源流としてのヨーガ 

 インドにはかなり昔から喩伽(yoga)という修行法が伝わっていた。

 これは、人間の精神を、肉体や感覚の束縛から解き放って、つねに静寂、かつ安定した状態に保つことを目的とした修行法であった。

ヨーガの源流については、はっきりしたことは分からないが、六千年前からではないか、とか、インド北西部パンジャブ地方が発祥地で、インダス文明を築いたドラビタ人がその生みの親ではないか、などといわれている.

いずれにしても初期のヨーガは、自然発生的なもので、明確な形態や理論的裏づけがあったわけではない。とくにヨーガはもともと、理論よりも体験を重視し、自然から学び、自然に順応し、自然と一体となることを基本的な態度とした。

しかし、それがのちにインドに侵入してきたアーリア族の宗教(バラモン教)の中に取り入れられ、梵我一如((ぼんがいちにょ)とは、(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。 古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。 不二一元論(advaita, アドヴァイタ)ともいう。)の思想や、サーソキャ(数論)派の二元論の哲学によって体系化され、紀元前二世紀ごろ、サンスクリットの文法家として有名なパタンジャリー(パタンジャリは、紀元前2世紀ごろのインドの文法学者パーニニの文典『アシュターディヤーイー』(अष्ठाध्यायी)に対する注釈書として書かれた『マハーバーシヤ』により、サンスクリット文法学の体系を完成させた。)が、ヨーガ・スートラ(ヨーガ聖典)』を著わした。

しかし、ヨーガは「ヨーガ・スートラ』に書かれていることがそのすべてではない。ヨーガとは、本来、心を自由にコントロールすることによって、自然と一体となることを目的としたもので、そのための手段として、自己のうちにそなわっている能力を最高に開発することを重視した修行法である。

ヨーガの修行法は、指導者により、また地域により、まちまちで、全部で七二派あるといわれるが、沖正弘著『冥想ヨガ入門』によると、その主なものは、

一、理性開発を中心としたもの(ジュニヤーナ・ヨーガ)。

二、信仰行による心の聖化を重視したもの (バクティ・ヨーガ)。

三、心を心でコントロールすることに重点を置いたもの(ラージャ・ヨーガ)。 

四、生理をコントロールすることを主体としたもの(ハタ・ヨーガ)。 

五、生活における心身面の浄化にポイントをおいたもの(クリヤ・ヨーガ)。  

六、呪法的方法を重視したもの(マントラ・ヨーガ)。 

七、社会的活動、奉仕活動を主体としたもの (カルマ・ヨーガ)。

 などである。また、肉体と精神との関連を実践的に追究してきた結果、ヨーガからは貴重な数々の副産物があった。それは、医術であり、断食法であり、呼吸法であり、身心強化法であり、精神統一法であった。また、その中から、心霊術や武術が生まれ、また禅宗の瞑想行法として今日に伝えられている。ヨーガの実践家、沖正弘氏によれば、釈迦だけでなく、キリストもマホメットも、みな、ヨーガの修行によって悟りを開いたという。

 ヨーガという言葉が、ほじめて文献にでてくるのほアーリア人の最古の文献『リグ・ヴエーダ』(紀元前十二世紀から前九世紀ごろまでに編纂されたと推定される)の中においてである。そこで、「牛馬に道具をつけること」という意味で用いられている。しかし、この語が特定の修行法、すなわち、「体験を得るための修練の技術をあらわす術語」となったのは、紀元前六世紀ごろであったと思われる。そのころ編纂された『カタ・ウパニシャッド』の中に、その行法がはっきりと描かれている。そこでは、ヨーガを定義してつぎのようにいっている。「五つの知覚器官が意とともに静止し、覚もまた動かなくなったとき、人々はこれを至上の境地だという。かようにもろもろの心理器官をかたく執持することを人々はヨーガとみなしている」。

 これによれば、ヨーガという行法の目的は、たえず揺り動いてやまない心をしっかりおさえつけておくことであり、そのためには、心が外界からの刺激に対して、動揺しないように、まずその窓口である感覚器官を制御しなけれはならないということであった。

 それはあたかも、馬(知覚器官)を御することに似ているところから、これに対してヨーガという名がつけられたのである。この『カタ・ウパニシャッド』 の中に五蘊の思想がうかがえることほまことに興味深い。これをみても、仏教はある日突然無から生じたものでなく、歴史的所産であり、過去のさまざまな思想や伝統を基盤として発展したものであることが分かる。

 では、ヨーガがどういう形で、仏教の修行の中に取り入れられたかをみてみよう。その前に「ヨーガ・スートラ』の中で体系化されたヨーガの修行法をみることにする。

▶ヨーガの修行体系 

ヨーガの修行法「ヨーガ・スートラ』でほ、ヨーガの修行法(たんに「行法」ともいう)をつぎの八段階に整理している。

一、禁 戒 (ヤマ)  

二、勧 戒 (ニヤマ)  

三、坐 法 (アサソス)  

四、調息法 (プラナヤマ)  

五、制 感 (プラティヤハラ)ヽヽ

六、凝 念 (ダラーナ)  

七、静 慮 (ディヤーナ)  

八、三 昧 (サマーディ)

一の禁戒と、二の勧戒は、修行の予備段階に当たるもので、日常生活の規律である。仏教でいう戒律に相当する。悟りを得ようとする人間にとっての必要最低条件である。いかに悟りを得ようと思っていても、日常生活がデタラメであれば、どんなにほかの修行を一所懸命やっても成果のあがるほずがない。禁戒とは、やってはいけないことである。「汝……するなかれ」というのがこれである。モーセの十戒が有名であるが、山門の前に立っている、「不許華酒入山門」もこの一種である。撃とは、臭いの強い葱(ねぎ)類のことだが、食べると興奮し、修行のさまたげになるから、酒と同様寺の中に持ちこんではいけないという。

 仏教では、比丘には二五〇戒、比丘尼には三五〇戒、という多くの戒があるが、在家信者も守らなければならない最も基本的な戒につぎの五戒がある。

不殺生戒 生物をむやみに殺さないこと。

不食盗戒 他人のものを盗まないこと。

不邪淫戒 よこしまな性関係は行なわないこと。

不妄語戒 酒を飲まないこと。

不飲酒戒 酒を飲まないこと。

 禁戒が悪いことをしてはならないという消極的な戒であるのに対して、勧戒とは積極的によいことを行なうことである。

 三の坐法(アサンス)とは、正しい坐り方、および各種の体位法のことである。  精神を安定させるにほ姿勢もきちんとしていなければならない。正しい姿勢はあらゆる行法の出発点である。坐禅のときの正坐はこの坐法のひとつである。しかし、アサンスというのはこの正坐法のことだけでなく、各種の体位法がこの中に包含される。体位法とは、ヨーガ独得の例の動作である。たとえば、足を首のうしろに回わしたり、変な恰好のさか立ちをしたり、身体をうしろに反らせて手で足首をつかんだりする体操である。これは、習慣からくる姿勢のゆがみをなおしたり、運動不足で固くなった関節を柔らかくしたりして、肉体の本来の機能を完全に発揮させるためのものである。また、それによって、肉体のアンバランスからくる精神的なかたよりを匡生(まさき・わくの中いっぱいに押しこめて形を直す)するのが本来の目的である。現在流行している中国の太極拳も、その源流はヨーガかもしれない。

 四の調息法(プラナヤマとは、呼吸法のことである。ヨーガでほ呼吸法を重視し、いろいろな動作に合わせた、最も効果的な呼吸法を考案している。また、呼吸は精神にょる肉体の支配を可能ならしめる機能をもったものと考えている。そして、精神による肉体コントロール術をマスターするために、いろいろな呼吸法を開発した。手刀で石を割ったり、刀剣の刃の上を素足で歩いたりするときの呼吸法はこの一種である。

 五の制感(プラティヤハラ)とは、五感をコントロールすることである。 本来は欲望を制御し、悟りを得るための能力を身につけるためのものであるが、熟練した人の中には焼け火箸(ひばし)を手でしごいてもあまり熱さを感じなかったり、火傷をしない人もいる。仏教でも三明六通といって、この種の「神通力」の可能性を認めているが、しかし、これはあくまで修行の副産物であって、決してそれを目的としてはならないと、釈迦も戒めている。日本にも昔は心霊術と称してこういう術を見せる人がときどきいた。

 六の凝念(ダラーナ)とは、ひとつのことだけに精神を集中し、統一することである。

 五番目までの修行法は、すべてこの六番目以降の修行を全うするための条件づくりのもので、これ以降が広義の禅定(ぜんんじょう・心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想)と呼ばれるものである。ヨーガではこれ以降を綜制(サムヤマ)と呼んでいる。(ちぎ、538-597)は、「天台小止観』の中で、これ以後を正修行と呼び、その前の段階を方便行といっている。

 七の静慮(ディアーナ)とは、いっさいの分別を放下(ほうげ・執着心を捨てて、心穏やかに生きる)して、ただ無念無想の状態になることである。ふつう禅定といえばこの段階のことである。

 八の三昧(サマーディ)とは、自他の区別がなくなり、対象そのものになりきって、すべてが生き生きと作用している状態で、禅定の最高の段階である。仏教では、この状態に達したとき、はじめて般若の智慧を体験として自覚できる完全な条件がととのったときだという。

▶ヨーガと仏教のかかわり

 このヨーガの修行体系をみると、釈迦の八正道はこの修行法を基本とし、それを発展させたものであることが分かる。正業、正命、正精進、正念、正定などは、ヨーガの修行法からきたものである。しかし、正見、正思惟、正語、に相当するものはヨーガにはない。なぜならば、ヨーガはもともと、理論や言葉によらないで、実践からくる体験を重んじる行法であり、これに対して仏教は体験だけでなく、存在の本質に関する理論も重視する教えだからである。仏教は合理的な宗教であるとよくいわれるが、それは仏教の教えのなかに、一貫して宇宙の根本法則に関する深い認識があるからである。仏教の中でも、密教はやや特異で、理論や教義は重視せず、もっぱら、行による修行に重点を置いている。密教という名前がもともと、顕教(理論や教義を重んずる教え)否定する立場からきたものである。だから、密教は仏教の里帰り(ヨーガへの)ともいえるであろう。しかし、悟りを得るということが、ヨーガのような厳しい修練過程を経たものでなければできないというのでは、悟りに至る門はますますせまくなり、そこを通る人ほ限られてしまう。そこで、密教の自力信仰に対する反動として生まれてきたのが他力信仰である。他力信仰とは、一口でいえば、真理に対して素直でさえあれば、真理のほうからわれわれを救ってくれるということである。ヨーガや、禅の瞑想行の狙いも、本来はこれと同じところにあった。つまり、真理に対していかに素直になるかという修行が禅定であったわけである。ここでもまた、目的と手段とが対立し、こんがらがり、堂々めぐりを繰り返す。しかし、目的と手段は決して別のものでほない。目的と手段を分けて考えるからおかしくなるのである。自力信仰と他力信仰の関係もそうである。また、修行の過程と悟りの証しの過程も同じである。目的即手段、自力信仰即他力信仰、修行即悟り、結果即原因、理論即実践、知即行、分別即無分別である。1

▶六波羅蜜

 八正道は、小乗仏教では戒・定・慧の三学にまとめられたが、大乗仏教ではつぎの六波羅蜜に発展した。

一、布施波羅蜜 

二、持戒波羅蜜 

三、忍辱(にんにく)波羅蜜 

四、精進波羅蜜

五、禅定波羅蜜

六、般若波産蜜

 六波羅蜜は、六度ともいう(註 六波羅蜜は梵漢兼語であり、六度はその漢訳)。これは、菩薩が実践すべき修行徳目のことである。しかし、この波羅蜜は最初に説明したように修行の過程であると同時に、修行者の行を通じて真理が明らかになる過程でもある。だから、この語は特別な意味をもったものとして、そのまま梵語で呼ばれることが多い。

六波羅蜜の特徴は、般若、すなわち智が重視されていることと、自分ひとりの悟りだけでなく、衆生をことごとく悟りの世界に導き入れないことには自分の悟りもない、という利他の実践徳目が加わっていることである。大乗仏教の立場がこの修行法の中にもよくあらわれている。ひとつひとつ説明すると、つぎのようになる。

一、布施波羅蜜

檀那(だんな)波羅蜜ともいう (dana paramita) 布施は梵語ダーナ(dana)の漢訳である。ダーナの本来の意味は施しをすること、または施主のこと。日本語の「旦那さま」および、お寺の「檀徒」というのは、ここから出た言葉である。         布施には三種あって、一に財施(ざいせ)、二に法施(ほっせ)、三に無畏施(むいせ)といわれる。財施とは、金銭的な施し。法施とほ、教法を以って他を導くことであり、無畏施とは、身命を賭して他を救うことである。このように布施とは修行者が、衆生(しゅじょう・生命のあるすべてのもの。人間をはじめすべての生物)を物心両面から献身的に救いとることであったが、現代ではお布施といえばお寺が一方的に檀家からいただくことばかりになってしまった。

 二、持戒波羅妻 戸羅(しら・持戒)波羅蜜ともいう (sila paramita)

どの宗教にもある最低の基本的な戒律のこと。

 三、忍辱波幕蛮 せん提(せんだい)波羅蜜ともいう (ksanti paramita)

大乗仏教独得の利他の観念から生まれた修行徳目である。衆生を救いつくさないかぎり、みずからの救いもないとする立場にたつかぎり、それほ永遠の忍辱の過程である。ここに忍辱波羅蜜の重要な意味がある。

 四、精進波羅蜜 昆梨耶(びりや)波羅蜜ともいう (vrya pamita)

仏教は、「初発心時便成正覚( しょほっしんじ、べんじょうしょうがく・ 「発心」というのは「発菩提心」(ほつぼだいしん)の略で、仏道を修行して悟りの彼岸へ渡りたいという願心を持つことです。求道者たらんと決心したとたんに、成仏するということ)」を説くと同時に、他方では「永却不成仏(えいごうふじようぶつ・究極の悟りは永久に得られない)」を説く。

自転車はペダルを踏みはじめたとたんに立つが、しかし、いつまでも立っていようと思ったら、いつまでもペダルを踏みつづけなければならない。一度仏になったら、あとはずっと仏のままでいられるというものではない。

道元はいう。「かみをそり、またかみをそる。これ真出家児なり」(『法華転法華。また、「いわゆる仏向上事というは、仏にいたりて、すすみて、さらに仏をみるなり」(『仏向上事』)と。

五、禅定波黒蜜 禅那(ぜんな)波羅蜜ともいう (dhyana paramita)

大乗仏教には利他の行ばかりではなく、自利の行も必要であり、とくに、瞑想行によって、心を一境に住せしめ、あるいは、無念無想によっていっさいの分別を放下(ほうげ・一切を放り投げて無我の境地に入ること)し、万法に証せられる心の状態を準備しておく修行を欠かすことはできない。

 六、般若波羅蜜 智慧波羅蜜ともいう (parajnap paramita)

すでに説明したように般若とは真理のことであり、真理の実践のことである。真理を知ることがあらゆる修行の最終目標であり、終極の悟りである。また、あらゆる修行の出発点であり、利他と自利の両方を統一するものである。智もなく、得もなし あらゆる固定的観念を無と否定してきた般若心経は、最後に、悟りとはなにかということを学ぶことも、悟りを得るために修行することも、無だという。要するに、これらはすべて相対的世界での分別にすぎず、絶対的世界では無分別の分別のみがあるということを強調しているのである。

天桂禅師はいう

唯一切の名目は、分別趣向の名と知るべし。・・・六度を修し、一切を明らむるという智もなく、智なきゆえに果を得るということもなく、また智も得もなしという分別もなきなり