仏像鑑賞ツアー(かすみがうら市)

平成28年度 かすみがうら市指定文化財一斉公開

■お坊さんと巡る仏像鑑賞ツアー

講師:文殊院住職 黒澤 彰哉 

平成28年度かすみがうら市指定文化財一斉公開お坊さんと巡る仏像鑑賞ツアー配布資料

開催日 平成28年11月12日(土) 参加者 30名 PM1:30~( 係・バス乗降案内)

■中志筑(なかしづく)地区・千手観音堂・木造十一面千手観音菩薩立像

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▶千手観音堂について

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千手観音堂は、かつて朝日山慈眼院千手寺(せんじゅじ)と称する真言宗の寺院で、石岡市染谷地区の宝持寺の末寺でした。現在の堂宇(どうう・堂の軒。堂の建物)は、元禄十五年(1702)領主である本堂氏や、近郷近在の人々による寄付によって再建されたものです。

 千手寺は、檀家を持たない祈願のための寺で、かつては当寺住職が道路の向かい側にある須賀神社の別当職を勤めていたようです。しかし、やがて時代は下り当寺が廃寺となった頃に前後し、須賀神社の総代が管理を行うようになり、現在に至っています。

▶県指定文化財:木造十一面千手観音菩薩立像について

 千手観音菩薩の頭上に頂く十一面は、人々のどんな願いも見落とさないことを表し、千の手は様々な手段を尽くすという覚悟の表れです。

 本像は、朝日山千手寺慈眼院の本尊で、像高は189cmを測ります。寄木造り、合掌した手・腹の病を治す宝鉢(ほうはつ)を持った手のほかに四十の手をもっています。また、ふくよかな頬をもち、切れ長の眉と引き締まった口元に、鎌倉時代の写実的な表現法を見ることができます。琴在は収蔵庫に移されていますが、もとは千手観音堂(市指定文化財)に安置されていました。

■中志筑地区 長興寺・不動明王及び二童子立像

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長興寺について

 長興寺は、正式には鳳林山(ほうりんざん)瑞雲院(ずいうんいん)長興寺と称する曹洞宗の寺院で、慶長七年(1602)に出羽国より本堂氏を慕って来た竜山和尚によって開山されたといわれています。現在の山形県新庄市にある瑞雲院の末寺(まつじ・本山の支配下にある寺。)で、開山以降は、領主本堂氏の墓所となり、寺領50石が与えられました。琴在の堂宇(どうう)は、貞享(じょうきょう)元年(1684)の建立とされています。

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市指定文化財・不動明王及び二童子立像

 不動明王は、「動かざる者」の名を持ち、密教の教主である大日如来が衆生教  化のために変身した最高位の明王(みょうおう怒った顔つきをして悪魔を降伏(ごうぶく)し、仏法を守護する神。特に、不動明王)とされています。また、不動明王には、眷属(けんぞく)と「八大童子」という8人の少年が付き従います。

 本像は、本堂家の祈願寺であった真言宗華蔵院(けごんいん)の仏像で、室町時代の作といわれています。火焔光背(かえんこうはい・不動明王などの背後にある、燃え上がるほのおの形をした光背)を背にして岩座に立つ、像高115.4cmの仏像で、八大童子のうち、向かって右側に矜羯羅童子(こんがら)童子が、左側に制吒迦(せいたか)童子が配された三尊形式となっています。

■中志筑地区長興寺山門及び本堂

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 長興寺の山門及び本堂は、千手観音堂(朝日山慈眼院千手寺本堂)とともに、かすみがうら市内において優れた寺院建築として知られており、市指定文化財となっております。

▶本堂家の墓所

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 本堂家は、戦国時代に秋田県仙北郡(せんぼくぐん)の大名でしたが、関ヶ原の戦いの後に、かすみがうら市(旧千代田町の部分)に八千五百石の旗本として移封されてきました。 江戸時代から明治四年の廃藩置県まで10代の当主がおりましたが、

このうち初代茂親(しげちか)から4代繁玄親(はるちか)までは中志筑の曹洞宗長輿寺に埋葬され、5代苗親(なりちか)から8代親庸(ちかのり)までは東京都港区芝の曹洞宗青龍寺に埋葬されました。明治時代以降は、9代親道(ちかみち)・10代親久(ちかふさ)が長興寺に埋葬され、明治40年に清龍寺の墓地が道路拡張により改葬されたため、全ての墓石が長興寺に移されました

 本堂家の墓所は、市指定文化財となっております。

■雪入(ゆきいり)地区・雪入の郷倉(ごうくら)・市指定文化財

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 雪入の郷倉は、雪入コミュニティセンター付近に所在します。郷倉は、「富裕者からの義損(ぎえん・義捐は「義援」とも書かれ、善意に基づく寄付といった意味)もしくは徴収によって得られた穀物を貯蔵して政府がこれを管理し、いったん必要を生じた場合には、適宜これを窮民に給与するための倉庫」であり、「義倉」とも呼ばれます。

 雪入の郷倉は、文化九年(1812)本堂家家臣の横手忠義(よこてただよし・郭応・かくおう)によって置かれました。横手忠義は、財政が困窮する本堂家の政治財政の一切を任され、様々な施策によって、立て直しを図りました。その施策は、植林事業、荒地開発、倹約の断行など様々です。その中のひとつが、この郷倉の設置で、年貢米の1/40を籾納で領内の各戸から徴収の上貯蔵し、凶年には窮民人貸付けを行い、平常の年はこれを換金し、本堂家の財政に繰り入れるといった内容でした。文化十一年(1814)、文政三年(1820)、天保五年(1834)には、実際に窮民への貸付が行われました。

▶郷倉内部の仏像

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阿弥陀如来像 寄木作り 漆箔(しっぱく) 像高83.5cm 膝幅77.5cm 奥行66.5cm 制作時期 室町時代 

 右手を胸元にあげ、左手を膝上に置く下品上生(げぽんじようしょう)の印を結ぶ阿弥陀如来坐像である。螺髪(らほつ)を太目に彫り出し、皿状の低い肉髻(にっけい・仏像の頭頂に一段高く隆起した部分のこと)として頭部を低く表現されています。頬はあまり膨らまず面長ので、眼を彫顔とし耳朶(みみたぶ)を大きめたあらわしています。頭部を下げた前向きの姿勢で、膝は別材の二材を鎹(かすがい)で接合して作り、体部に直角つけられています。膝底部に以下のような時期の異なる墨書が残きれています。

▶解 説

 墨書から明治13年に再興(彩色かと思われる)され、慶長13年(1608)に再興されたことが分かります。このことから制作時期は室町時代と考えられます。 比較的大型の仏像であることから、三尊形式で当初のまま伝えられてきたものと想われます。阿弥陀如来を本尊とする寺院が雪入地内に存在していたことは明らかで、雪入地区の歴史が室町時代まで遡ることを示す貴重な資料です。底部墨書 (A)慶長十参年 再建(B)干時 明治中興拾有三年 第二月再建ス

■下志筑地区・木造聖観音菩薩立像 木造阿弥陀如来坐像

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文殊院について

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 下志筑地区に所在する文殊院は、正式には豊森山(ほうしんさん)常玄寺(ほうげんじ)文殊院と称し、現在は、真言宗智山派に属しています。かつて、下志筑(しもしづく)地区には「常源寺(じょうげんじ)」という寺院が存在していました。この寺院が文殊院の前身と考えられており、江戸時代に入り、宥円(ゆうえん)上人により中興開山(ちゅうこう【中興】とは、いったん衰えた物事や状態を、再び盛んにすること)されたのが文殊院です。

▶市指定文化財:木造聖観音菩薩立像

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 観音菩薩という尊格は、紀元前にインドで誕生し、その後、多くの変化観音が生まれていきました。その中でも、聖観音は正統的な姿を伝えています。

 本像は、桧材を用いた一木造りで、漆箔、彫眼の聖観音菩薩立像です。

地髪をまばらに刻み、顔立ちは丸みのある頬に小ぶりの穏やかな目鼻立ちを表し、体部にまとう衣の表現も浅く、温和にまとめられています。平安時代末期の製作と考えられています。

▶市指定文化財:木造阿弥陀如来坐像 

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 阿弥陀如来は、西方極楽浄土の教主であり、臨終の折に迎えにきて極楽に往生させてくれる仏様です。

 本像は、文殊院境内にあった阿弥陀堂の本尊で、真言宗に改宗される前の常源(玄)寺の本尊であったと考えられます。桧材を用いた寄木造りで製作されています。漆塗古色仕上げで、玉眼入りの像です。高く盛りあがった肉髻をもち、螺髪(らほつ・仏像の丸まった髪の毛の名称・螺は巻貝の意味)を整然と刻み髪際をゆるい波形としています。肉髻のかたちや螺髪の表現などに古い製作技法が見られますが、顔立ちや衣文などから、製作年代は鎌倉時代末期と推定されています。

■中志筑地区の街中の様子

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