日本のダダ・構成主義

■1920年代前半の様相

水沢 勉

 もし,1920(大正9)年という年に限って,日本をはるかに望見するなら,そこに浮かびあがってくるこの極東の島国の婆は,それまでとは,どこかちがってみえるはずである。漁夫の利をしめた第一次世界大戦のつけがそろそろまわりはじめている。日本の近代化をかげでささえつづけてきた生糸の相場は,この年の1月21日に4350円の最高値にのぼりつめ,それを最後についに下落をはじめる。貿易収支の黒字をつづけた戦後の特需景気も,3月の株価下落で混乱の恐慌で終わりをつげ,日本銀行は,その年のうちに諮もの銀行に支払い準備金を融資しなければならなくなる。年のはじめにできたばかりの国際連盟には,旧ドイツ領の赤道以北の太平洋諸島の委任統治を目的に,日本はちゃっかり常任理事国におさまっているものの,シベリアに派兵したためにかえって諸外国との緊張がたかまり,朝鮮半島では前年の三・一運動以来,反日感情はますますたかまっている。近代国家としての国際的な態様をととのえる作業は,年末の11月訪日に3万300トンという戦艦「長門」を竣工させることである段階に確実に達しているが,その威容は,日本が列強の仲間入りしたことと同時に,ひとたびその16インチの砲門を外へと向けその照準をあわせるときが,日本が孤立へと追い込まれるときでもありうることを,すでに物語っていたのである。

 もちろん,だからといって,ひとびとの生活がそれほど急激に変わったわけではないだろう。国土を戦場と化することなく戦勝国となった日本は,漸進的に,大都市に資本と情報を集中させる制度を整備しつつあったからである。1919年4月都市計画法が公布され翌年,それが東京,横浜,名古屋,京都,大阪,神戸に適用されて挿図1中村率「エロシエンコ氏の像」1920年いる。やはり,1920年1月に発足した生活改善同盟会は,「本邦将来の住宅は漸次椅子式に改む可し」「住宅の間取設備は在来の接客本位を家族本位に改む可し」の二項をふくむ全六噴からなる「生活改善の方針」を発表している。また,この年の5月2日に,はじめてメーデーがおこなわれ東京上野公園に一万人以上のひとびとが結集していることもおもいだしておきたい。都市を舞台に,ひとびとの生活の意識が変わろうとしている。やがて,椅子にすわることを常態とする集合住宅がいくつも建設され都市中央部での示威行進が日常と化するだろう。

 ただ,都市化にともなうことが,すべてそのまま肯定的なあかるさにみたされていたわけではない。大都市化は,日本にかぎったことではないが,巨大化すればするほど,おのずと,アナーキスト,コミュニスト,あるいはテロリストの活動をゆるす空間を斑状に生みだすことになるが,これは,当然のことながら,それを「非合法」として封じ込めようとする制度の側の動きとのいたちごっこを演じさせずにはおかないだろう。美術に眼を転じてみても,たとえば,こういうことがある。中村舜(1887−1924年)は,この年の秋に,結核に蝕まれた病躯をおして,その代表作「エロシエンコ氏の像」(東京国立近代美術館蔵,挿図1)を完成させている。代表作とはいえほぼ一週間のあいだに描かれた10号の小品である。でも,そこには,作者自身がある友人に宛てた手紙のなかで,この作品にふれつつ「正しき方法を頑固に守る事,そしてそれを極度に充実せしめて,全く〈自己のものとなしきる〉事,そこに画家の真の道がある」と断言させた自信がみなぎっている。油彩という外来の手段をどのように消化するか,まさに「自己のものとなしきる」か,という技術的な課題が,きわめて大雑把にいうならば,それまでの日本の近代洋画の展開を悲喜こもごも彩ってきたとするなら,自身レンブラント,ルノアール,セザンヌと,ヨーロッパ近代への憧れを秘めながらも,さまぎまな傾向に分裂し揺れてきた中村葬による,ひとつの解答をこのちいさな肖像画にみることはゆるされるだろう。事実,この「エロシュンコ氏の像」は,この年の帝展(10月13日−11月訓日)に出品され大方の称賛を博し,現在にいたるまで画家の代表作でありつづけている。しかし,この肖像画は,注文画ではなかったし,また,率のほうも,エロシュンコという人物を,最初からモデルとして想定していたのでもなかった。画友の鶴田吾郎が目白駅頭で,たまたま,エロシュンコとは知らずに,モデルに格好の人物をみつけ,舜のアトリエに連れてきたのだった。やや,腑轍気味に,大袈裟なモニュメンタリティを排除しながら,この盲目の詩人の沈黙をみごとに掬いあげたこの「エロシュンコ氏の像」は,それゆえ,むしろ,つかのまの,偶然的ともいえるような人間的な交流を記録しているのである。しかも,その画家の視線は,エロシュンコを危険思想家としてつきまとう官憲の監視の眼と,まったく別のものでありながら,どこかで交錯してもいる。そして,この温和な人道主義者のエスベランテイストが,日本を「危険性をおぴた団休と密接な交渉をもち,社会主義もしくは無政府主義の宣伝を実行する」危険な人物として追われるのは,翌年5月28日のことだl)。

 ダダイズム,そして構成主義が,日本でも知られるようになったのは,ちょうど,いくつもの事象が裡雑にからみあいながら,光と影を交錯させ,おおきく変化しようとしている時代に重なっていたのである。それでは,逆に,一体,どれほど日本のダダと構成主義は,その時代を彩ったのだろうか。

註1)「エロシュンコ氏の像」と時代のかかわりについては,酒井忠康「Fエロシエンコ氏の像jについて」,F中村葬展カタログ』,1984年,参照。

 小説家の石川淳(1899−1988年)は,あるエッセーで,みずからのダダ体験に触れてこう書いたことがある。「それでも,ダダの波のあとに置きぎりをくった貝殻の一かけらになつたやうな覚えはない。今おもへば,それはわたしの個性の抵抗が波をおよぎ抜けたなんぞといふ後生楽なはなしではなくて,当時のダダは,すくなくとも日本にまでおよぽした余波のかぎりでは,青二才の生活を巻きこんでゆくだけの力さへ欠けてゐたといふことになるだらう。よわいエネルギー。はたせるかな,ダダはつひに事件にまで至らないうちに,はなはだ日本化された浮浪現象としておのづから流れ去つた」(「ドガと鳥鍋と」F文学界』1962年3月号)。

 「事件」として,ダダイズムを1920年代初頭の日本に探しだすことは,やはり,たしかに難しい。一過性の運動体としての性格がつよいダダイズムが,「事件」として耳目をひかないならば,なにも「置きぎり」にしようがないにちがいない。パル,ツアラ,ヤンコらの拠点となったチューリヒのキャバレー・ヴオルテールに相当するようなジャンルをこえた芸術家たちのけたたましい出会いの場もなければ,1920年のベルリンで開かれた第一回国際ダダ見本市のような一大イベントも,日本にはなかった。どれをとっても,いわば散発の状態で,脈絡を欠いているという事実は,日本のダダイズムを考えるさいに,まず確認しておかなければならないだろう。

 むしろ,侵食するように,ある感情的な潤いをおびて,ダダイズムは,日本にしずかにつたわったというべきかもしれない。1920年8月15日付けのF萬朝報j紙に載った二本の記事「享楽主義の最新芸術」「ダダイズムー面観」によって刺激された高橋新吉(1鮒1−1987年)が,翌年4月に詩誌『シムーン』創刊号に発表した「倦怠」が,日本文学史上の最初のダダイズムの文学作品と考えられているl)。いきなり「皿」という文字が22回線り返される,この詰の破格は,それまでの新体詩の軌道を,たしかに大きく外れたものだ。しかし,たとえば,この詩の最後の部分「皿を割れ/皿を割れば/倦怠の響きが出る」をみてもあきらかなように,多くの論者が指摘するとおり,詩の基本には,社会の底辺であえぐ一青年の苦し奉が,つまり生活者としての感情の吐露がある。このことは,日本のダダイズムの性格を象徴しているようにおもえる。

 主題はきわだって非伝統的ではあっても,表現そのものにたいする表現の自己不信というものははっきりと意識されているわけではないのだ。1923年2月に出版された高橋新吉の第一詩集『ダダイスト新吉の詩』にも,そのような感情はそのまま投影されており,タイポグラフィーも特殊なものではなく,自他にむけた強烈な呪岨の念が全篇にあふれていて,むしろその感情の激しさによって,大きな影響を同世代の詩人たちにあたえたのだった。やがて高橋新吉は,ダダイズムを離れ禅にたいして急激に傾斜してゆき,その第一詩集の編集をかってでた辻潤(1884−1944年)も,むしろ,江戸の戯作趣味に,意図的にノンシャランな文体を駆使しながら接近してゆく。音声詩や同時詩といった音そのものとして言葉をとらえる姿勢や,タイポグラフィカルに言葉を造形的にとらえる視点は,すくなくともこのふたりには欠落している。芸術をささえている制度を相対化してしまうような,乾いた醒めている認識とはちがう自己告白的な心情の,ほとんど自棄のすてばちさが,たまたまそのとき日本に流れついたダダイズムと重なったのだという印象は,やはり,拭いさることはできない。ヨーロッパのダダイズムが伝統破壊をおこなう過程で,かえって芸術の素材そのものの意味や,事物のオブジェとしての性格や,無意識の存在を,あるポジティヴなものとして意識するようになり,そこにさらにひとつの可能性としてシュルレアリスムを展開させる歴史的な契機を潜ませ,一方では構成主義との接点ももちえたとするなら,ゆれる心情に沈滴する日本のダダは,個々人のうちに陥没することを運命づけられていたといえるかもしれない。

 シュルレアリスムは,1920年代末になって,あらためて日本に移入されることになるだろう。これは,日本のダダの弱点を物語っているかもしれない。しかし,複数の人間たちがつくりだす運動としてはなやかに社会の表層をおおうことのなかった日本のダダイズムは(一見,そのようにみえるマヴォイストたちの活躍でさえ,実は,例外ではない),むしろ,その陥没点にこそ,特異なエネルギーを貯えていたのである。それは,分断と孤立のなかで,ときおり不敵な火花を散らしている。モダニズムの運動を,受容し,その後ろ盾となる知的サークルや制度的な裏づけが,ヨーロッパとくらべたとき,どうしても脆弱な日本の美術状況が,こうした分断を強いたのにちがいない。とはいえ,あくまでわたしたちの課題は,それにもかかわらず,あるいは,それゆえに輝いている,その火花の魅力を語りだすことにある。

 美術にかぎって,あらためてもう一度,1920年という年に目を転じてみるならば,そこに断層といってもさしつかえないほどに,多くの,それまでとは質の異なった出来事がおこっていることに気づく。おそらく,このときに,いくつもの火種が播かれ,変化の兆しが生まれでたのである。

 たとえば,この年の10月1日に.は,「ロシア未来派の父」と称したダヴイートプルリューク(1882−1976年)が,友人ヴイクトール・パリモフ(18舶−1929年)とともにウラジオストックから海路裏日本の敦賀に,多くの作品を携えて,到着している。かれらにとっては,日本は,革命後のロシアの混乱と内戦から逃れるための一時の避難所であり通過点であったと思われるが,とくにプルリュークが,1922年8月16日に,神戸からニューヨークに出帆するまでの2年間弱の滞日中に,おこなった精力的な展覧会活動と日本の作家たちとの交遊は,その後の前衛的な美術運動に大きな衝撃と影響をおよぽしている。(この点では,1913年10月から11月にかけて,ドイツ政府のニュ⊥ギニア調査団の一員として,日本各地を視察したエーミール・ノルデが,もっとも制作のうえで脂ののりきった時期にありながら,あくまで観察者にとどまって,まったくといってよいほど当時の日本の美術状況と具体的なかかわりをもちえなかったのと対照的だ)。来日して間もない10月14日から同月知日まで,プルリュークらは,東京京橋の星製薬の社屋を借りて,大がかりな展覧会を開いている。プルリュークらが,実際に何点の作品を日本に招来したかは,正確にはわからないが,この星製薬での「日本に於ける最初のロシア画展覧会」と銘打った展覧会のカタログによれば,総計473点を数える。

 そのうち,プルリューク150点とパリモフ58点で中心をしめているのは当然のこととして,タトリン2点(題名,記載なし),マレーヴイツチ1点(「魚」)の作品がそれぞれ一点ずつ展示されていて注目をひく。それ以前に,美術雑誌に1910年代のロシアにおける美術の革命的な展開についての紹介が載ったことがなかったわけではない。画家山本鼎(1882−1946年)が,1916年の夏から冬にかけて5カ月間,モスクワに逗留した際,11月に同地で開かれた「ダイヤのジャック展」をみた印象にもとづき,日本の雑誌F美術』(1917年3月)に寄稿した文章「帰路の美術上所見」のなかで,マレーヴイツチ,クリューンなどの作品を,写真とみずからのスケッチで,紹介しているのである2)。

 しかし,やはり,直接,作品と作者に接する体験は,まったく次元を異にする波及作用をおよぽすことになる。とりわけ,ちょうどこの1920年の9月に結成されたばかりの未来派美術協会の画家たち,とくに木下秀一邸(18粥−)とブルリュークとの関係は,とても生産的で,ふたりの対話はのちに共著F未来派とは?答える』(1923年2月刊)となって結実する。ちょうど「日本に於ける最初のロシア画展覧会」が会場の壁いっぱいに作品を何段掛けにもして,そこに比較的穏健な写実的な作品から,、木下秀一価の回想によれば「/トさな白紙を台紙とし,それに色々の色紙を□・○・△・円筒・円錐体・長方形などに裁断したものを簡単に組み合わせ,配列して貼った」タトリンの構成主義的作品までもが同居していたように(残念なことに,タトリンの作品写其も展示の模様をつたえる写真も発見されていない)ルリュークを介して,作品と言葉によって,1910年代後半のさまぎまなヨーロッパの美術潮流が,ある生々しさをともなって,一気に揮然ながれこんでくるさまを想像することができる。事実,1921年の第2回の未来派美術協会展から参加することになる渋谷修は,ブルリュークによってダダイズムの存在を教えられたと証言している。

 ロシア未来派の身体的なアクションが,ブルリュークによって,木下につたえられ それが後年の木下のボディー・ペインティングの作品「コスチューム構成」(1925年5月の第1回三科会員展で発表)や1925年5月細目に築地小劇場で開かれた「劇場の三科」での,木下自身が「顔をすっかり色でクマドリしてシルクハットをかぶって」(横井弘三の言葉)登場し,F世界人類の共通詩唱』と題する無意味な絶叫にちかい詩を朗読する一種のパフォーマンスにまで,影響をおよぼしていることも忘れないでおきたい3)。

 「日本に於ける最初のロシア画展覧会」をみて,のちに「それは一般の日本人にとってすばらしい驚異であった。其処には現在の言葉を便ふと,怪奇派,空想派,物語派,写実主義,ダダ,構成派,未来派,立体のあらゆるものが実にきたならしく並んで居た。私は殆んど毎日その会場を訪ねた」(「我国に於ける新興芸術と新興芸術の現状」ほの囲』4月号,1927年)と回想した神原泰(1898−)は,ちょうどこの展覧会が催されていた1920年10月に,翌月の初個展に向けて,F第一回神原素量言責』を発表している。すでに神原は,1917年に「自動車の力動」で「鋭角,鋭角,鈍角/鋭角,鋭角,鋭角,鋭角,音/音の体積/運動の体積,光の欲望,光の感情……」と未来派の詩をうたい(『新潮』10月号),同年の第4回二科会展では「擬しき市街,おゝ複雑よ いらだちよ」という,現存もせず,写真も発見されていないが,題名そのものが,すでに未来派であることを充分に物語っている作品を展示している。

 しかし,その神原が,この宣言書では,未来派を「過去派よりも更に狭随にして更に皮相なる因襲と形式の中に,偏狭なる自己と貧弱なる芸術観を暴露」したものとして批判し,「われ今絶対に不可分にして自己と雰囲気とに融合し流動する生命そのものを,直ちに愛と直観とによりて全量的に補足しつゝ之を表現す」と,たからかに宣言している。同年11月の個展をシリーズ「生命の流動」で構成した神原の意図は,現存する作品では1922年の「スクリアビンのFエクスタシーの詩』に題す」(東京国立近代美術館歳,挿図2)に,その到達点をうかがうことができる。

 流動的な筆触と有機的な形態と神秘的な色彩には,スクリャービンの神秘和音との親和が感じられ楽音ばかりでなく,色彩,舞踏,芳香までもつかった神秘劇を試みた,この異貌の音楽家への神原の共感と理解を読み取ることができよう。この画面は,神原の個性の確立をおしえてくれるだけでなく,同時に,美術にとどまらず芸術の諸ジャンルと交流を計ろうとする画家の姿勢をも語っているのである。(この作品が描かれたのと同じ1922年10月に,神原は,二科会の仲間たちを中心にグループ・アクションを結成し,その宣言文を執筆しているが,そのなかでも,他のジャンルとの交流が目標として掲げられている。しかし,アクションそのものが1924年10月には解散するという短命に終わったために,それは実現することはなかった)。

 また,この1920年11月には,「日本に於ける最初のロシア画展覧会」と同じ星製薬を会場として,男耀会の第2回展が開催されていることも見逃せない。黒耀会は,同年4月に「芸術革命」と「社会革命」は,ひとつのものだと自覚して結成されたものであり,社会思想的な背景をもつ美術運動の萌芽ともいえるものだった。

挿図2 神原秦「スクリアピンのFエクスタシーの親に題す」1922年

 前年,1919年10月に尾竹竹披(1878-1936年)が結成した日本画の前衛的なグループ八火社もふくめて,帝展や在野の二科会といった既成の権威にたいする反発が,このころに一気に,噴出し,さまぎまなグループがつぎつぎと生まれでている。しかし,それらのグループは,反発という姿勢で結ばれていただけで,共通の造形的な了解が希薄なぶん,どうしても短期間のうちに離散集合を余儀なくされるのだった。ここで,その経緯を逐一追ってゆくことは,煩項にすぎよう。むしろ,そうした混乱した状態のなかで,ロシアとイタリアの未来派が問題にされ微弱にではあるが,ダダ的な要素もそこに混入し,さらに,1922年6月にはワルワーラ・ププノワ(18鉱一1983年)が来日し,彼女の論文4)をとおして,本格的にロシア構成主義が紹介され同じくこの年の6月に日本画家玉村方久斗(1893-1951年)が中心となって結成された第一作家同盟の11月に発刊された機関誌Fエポック』では,しきりに同時代のドイツの動向,とくに表現主義的な傾向がつたえられるなど,あきらかに,世界的な連動の一駒に日本も組み入れるような動きがあらわれたことに注目しよう。まだ,イデオロギッシュな闘争の図式もなく,反権威の姿勢として,あたらしいということが,至上価値としてあがめられそのなかにいくつもの,本来ならば矛盾しあう価値が,雑然と同居していた。村山知義(1鮒1-1977年)が,1年足らずのドイツ留学を終えて,1923年1月31日に東京にもどったとき,ちょうど,それは,いくつもの価値が方向づけをもとめていた時代に重なっていたのである。

証1)日本近代文学史におけるダダイズムについては,神谷忠孝F日本のダダ』,1987年,

参照。2)ただし,山本鼎自身は,個々の作者名をあきらかにしていないが,近年,それを五十殿利治氏が作品と作者を同定している。T。ShiharuOm。ka・D。,idBurliukandtheJapaneseAvant-Garde,Cα批由血刀d桝〝お〃〃SJ〟〃わざ血dょぉ,20,No・1-2(Spring-Summer1986),p.113

3)五十殿利治「大正期の新興美術運動とF劇場の三科山,憾剃第5号,1987年,pp.85f.ならびにp.100参照。

4)「現代に於けるロシア絵画の帰趨について」F思想jlO月号,1922年「美術の末路について」F中央公論山1月号,1922年 .前者には,図版が14点付されている。それには,ステパーノワ2点,ポポーワ2点,ロトチエンコ6点が含まれている。論文の内容とのその影響については,浅野徹「大正期新興美術と構成主義」F構成主義と幾何学的抽象展カタログj,1984年,参照。ただし,ププノワは,これらの論文で.生産主義の立場にたって,反芸術的な姿勢を明確に打ち出しているが,それにたいする理論上の直接的な応答は,美術界には,筆者のみたかぎりでは見当らない。さらに,この年の二科会と未来派美術協会第3回展(三科インデペンデント展)にみずから出品した経験をふまえて書かれた「春のF美術季削を前にして一昨秋日本で見たF帝展』,F二科』及びF二科』展覧会に対する感想--」(F思創5月号,1923年)は,そのような立場にたったブプノワのきわめて冷静な,それだけに痛烈な,日本美術界への批判となっているが,これにも反応はなかったようだ。1923年秋に,ププノヮは,マヴオとのつながりをもったとされているが,その実際については,現在のところ,不明な点が多い。その微妙な政治的立場もふくめて,ププノワと日本のアヴァンギャルドの関係は,今後解明されてなくてはならない重要な課題である。

 村山知義は,ドイツから大きな作品が船便で届くのを待ちかねるように,帰国後の最初の展覧会を,手持ちで持ちかえることのできた小品に帰国後の作品をくわえ,十村山知義の意識的構成主義的小品展覧会-ニイツディー・インペコーフェンと『押しつけがましき優美さに』に棒ぐ--」と題して,東京神田の画材店文房堂三階で,5月15日から同月19日まで開催している。そのときの,当時としては,まだめずらしかったアート紙をつかったカタログをみると,作品4点の図版と村山自身の写真も図版として付されている。作品のほとんどが戦災で失われた現在では,もちろん,作品写真も記録としてきわめて重要だが,それ以上に,そわ村山そのひとの写真(挿図3)が印象的だ。村山は,ここでひとりの踊り手として登場している。のちにマヴォイストたちのシンボルともいうべきものになる「オカッパ頭(Buben-Kopf)」の髪型をして,暗色のテユニックのような寛衣をまとい,素足で,多分にステイール写真としての効果を意識して,村山は,ポーズをとっている。159センチの小柄な体躯で,痩せた村山の容姿は,きわめて女性的,ないしは中性的にみえる。「フムメルのワルツアを踊つてゐる私HummelsWalzerg。ta。ZtVOnmir」という説明が,日本語とドイツ語で,写異に添えられている。

 画壇へのデビューを,このようなかたちで飾った画家は,おそらくそれまでの日本にはいなかった。50点を数える出品作品をみると,そこには,「劇場の幕の図案」や「“シラノ・ド・ベルジュラッグ,の舞台装置」などがふくまれ美術の枠を打ち破って身体表現や演劇をも取り込もうとする意欲がおのずとつたわってくる。村山が,「自展自評」(F中央美術』7月号,1923年)で,「この個展をF押しつけがましき優美さ』に捧げたのは特に今の日本のフランスまがひの渋ごのみのちんと落ちついたひとりよがりの死んだやうな退廃の有様が嫌だつたからである」と説明したとおり,ベルリン滞在中に吸収したさまざまな影響が,日本の一般的な美術界と自分の経験との誤差を充分に意識したうえで,ここで一気に吐き出されている。たとえば,出品作のうち,現存することが確かめられている数少ない作品のひとつ「美しき少女に捧ぐ」(個人蔵,挿図4)をみると,画面左側に縦に「Sch伽enMadchengewidmet」,右側に横に「Nr.15.」,さらに「Nummer」と「M孟dchen」という文字が小さく画面に書き込まれ画面上部には,何を表示しているのか判然としない数字が並び,画面には,ある空間的な効果を生みだすように陰影を施された色面が組み合わされ それが,詰め物をした袋状の布のコラージュや,本来は画面左上に貼られていたが,現在は失われている小さな花模様のカーテンのような形をした布と抵抗しながら,画面全休としては絵画的な効果の枠をこわさずに,力強い構図をつくりだしている。

挿図3 踊る村山知義193年頃

挿図4 村山知義「美しき少女に捧ぐ」1922年

カタログの図版でしか判断できないが,「題の無い絵BildohneTitel」は,写真を利用したコラージュ,「壌のある静物StillebenmitFlaschen」は,総合的キュビスムをおもわせる静的な画面,「窓に侍れる女友達FreudinnenamFenster」は,あきらかにパウル・クレーの影響の色濃い作品であったことが推測できる。

 さまざまな価値が無秩序に入り乱れるという状況は,たんに日本ばかりでなく,20歳をすぎてまもなもミころにべルリンを体験した村山にとっても,同じであったにちがいない。インペコーフェンという17歳の少女の舞踏に「涙が止まらないほど」感激し,バウハウスにやってきたカンディンスキーの幾何学的な作品群にふれて,「肉欲の対象には絶対にならない少女が突然目の前にあらわれた」ときのように「いったい,こんなに美しくてもいいのだろうか」と心のなかで叫び,ヘルヴアルト・ヴァルデンのシュトゥルム画廊でクレーをみ,ピカソやブラックたちのあたらしい仕事にも触れ フォルクスビューネではエルンストトラーのF機械破壊者j,『群衆・人間』の上演に立ち会い,もちろんマックス・ラインハルトの主催するグローセス・シヤウシュピールのハンスニベルツイッヒが設計した「貝殻のように華麗」な内装の巨大な劇場ものぞいている(引用部分は村山知義F演劇的自叙伝第2部』,1974年,による)。その一方で,デュッセルドルフでの国際芸術家会議に出席したあとに訪れたドレスデンやミュンへンでは,ドイツ・ルネッサンスの画家たち,とくに,初期のルーカス・クラナッハ,グリューネヴァルト,デューラーに圧倒され未来派,表現派,ダダイズムの影響下に表現を模索すると同時に,まったく古典的な技法による板絵もこころみている1)。

 せめぎあっているいくつもの価値を,かなり強引に「意識的構成主義」という言葉のなかに押し込め,とりあえず理論武装をしつらえ,「ちんと落ち着いた」日本の美術状況のなかに投げ入れ ともかくなにか波紋をひきおこそうというのが,おそらく,帰国後まもないころの村山の戦略であったにちがいない。そして,自宅や喫茶店を使って,つぎつぎと個展を開き,理論家として美術雑誌・新聞に多くの挑発的な文章を発表して,表現派もキュビスムもダダイズムも構成主義も,つまり,その時点で日本に知られているヨーロッパの新しい美術的な動向のなにもかもを,その「意識的構成主義」からみれば,すでに過去であると断じ、葬り去ろうとした。

 その一方,その鋭い舌鋒を日本国内にも向けて,たとえば,ややのちのことになるが,二科会の急進派たちが結成した「アクション」の第2回展をみて,「君たちは第一にヨーロッパの流行に仕へ,第二に絶対の美とか芸術とかいふ因習的概令へ仕へ,第三に過まれる社会に仕へている」と容赦なく糾弾し,日本の前衛につきまとっている弱点までも指摘している(「アクションの諸君に苦言を呈する」Fみづゑ』6月号,1924年)。

 結局,「意識的構成主義」自体は,実践に並行する理論とレては明確な輪郭をあたえられないままに終わったが(その点については,本カタログ所載の五十殿利治氏のテクストで論じられている),村山自身はけっしてそれを認めはしなかったものの,結果的には,多分にべルリン・ダダ的な色彩の濃い,そのコラージュやオブジェ,あるいはダンスや演劇などの身休的な表矧こたいする関心までもふくみこんだその総合芸術的な志向は,日本の美術界に授げ込まれると,意外なほど,大きな波紋をひきおこし,おもいもかけない運動作用を及ぼしたのだった。こうして生まれたあたらしいグループがマヴオであり,美術の制度の枠をとり払って,束京という都市を舞台にして,既成の美術団体とは性格を異にした活動を展開したのである。

 マヴオは,村山が帰国した年の7月25日付けで,柳瀬正夢(1900−1945年),尾形亀之助(1鎌X)−1942年),村山知義,大浦周造(1890−1928年),門脇普邸の5者連名で,グループ結成を告げ,その第1回展を案内する招待状を印刷している。

挿図5 柳瀬正夢「五月の朝と朝飯前の私」1923年

挿図6 大浦周造「広告塔」1924年

挿図7 岡田龍夫と村山知義1924年村山知義のアトリエにて

 それと同時に,「マヴオの宣言」と題したビラを制作している。それには「△私達は私達が形成芸術家として同じい傾向であるから集まつた。△そしてそれは決して芸術上に於ける主義,信念の同一であるがためではない。△それ故私達のグループは積極的に芸術に関する何等かの主張を規定しようとしない」と善かれ グループの性格がネガティヴであることをみとめたうえで,「私達は先端に立つてゐる。そして永久に先端に立つであらう。私達は縛られていない。私達は過激だ。私達は革命する。私達は進む。私達は創る。私達は絶えず肯定し,否定する。私達は言葉のあらゆる意味に於て生きている,比べる物のない程」と高揚した気分を掛、あげている。村山以外のメンバーが,すでに未来派美術協会で作品を発表していたことからもわかるように,たしかに,それぞれの表現がまちまちだった。第1回展のカタログには図版が載っているが,それをみると,門脇の「N(84」は,未来派的な同時性や運動性を幾分感じさせるペインタリーな作品であり,尾形の「泥路の坂と牛の頭」は,カンディンスキーの20年代はじめの幾何学的な構図をみせ,大浦の「二人は話してゐる」は,総合的キュビスムをおもわせるコラージュ,そして,村山の「花と靴の使つてある作品」は,箱のなかにハイヒールの靴や花籠を入れたオブジェであったことがわかる。現存することが確かめられる数少ない作品である柳瀬の「五月の朝と朝飯前の私」(挿図5)は,すでに題名そのものが未来派的であり,画面もおそらく箆をつかって描かれたと思われる色面が運動感をひめながら重なりあって構成されている。生乾きの状態で,絵具が,波状に,平行線状に,あるいは格子状に,樟のようなものをつかって削り落とされて,多様なマチエールを生みだしている。ここにもまた,村山とはまったく異なった表現がある。

 「△講演会,劇,音楽会,雑誌の発行,その他も試みる。ポスター,ショオヰンドー,書籍の装釘,舞台装置,各種の装飾,建築設計等をも引き受ける」と「マヴオの宣言」には善かれている。マヴオが結成されてから1カ月ほどたった9月1日に,マグニチュード7.9の関東大震災が東京を襲い,約46万戸が全壊焼失し,一夜にして東京は廃墟と化した。この「第一次世界大戦後のドイツの状態を小型にしたような」(村山知義F演劇自叙伝第2部』)東京を舞台にして,マヴオは,バラックを設計し,それを装飾し(挿図6),第2回展を分散展と称して,都内のさまぎまな場所,喫茶店,レスートラン,あるいは公園のベンチまでもつかっておこなうなど,めまぐるしく活動を展開した。メンバーの多くは,出来上がった作品を潰して,そのうえに新作を描き,構成しなおし,発表におわれたのだった。その結果,マヴオの作品は,ほとんど残らないということになった。しかし,それゆえだからこそ,マヴオは,その活動においてこそ評価されなくてはならないという,きわめてダダ的な日本最初のグループという栄誉を担うことになったのである。

 こうした活動の場の拡大にともなって,マヴオのメンバーも増えてゆき,岡田龍夫(1鮒4−?)や高見沢路直(1899−)といった「パフォーマンス」にすぐれた才能を発揮する作家たちが加わることによって,「マヴオの宣言」にいう「劇,音楽会」が,実現されることになる。19Z4年6月28日には芸術の諸ジャンルの融合をめぎした「チエルテルの会」の第1回目の公演として,村山と岡田が踊り(挿図7),高見沢が「サウンド・コンストラクター」と称する石油樺や丸太や針金などでつくった騒音楽器で伴奏し,最後には,それを壊すという「パフォーマンス」がおこなわれたことがしられている。村山自身「四つか五つしかないレパートリー」(前掲書)といっているダンスのほとんどは,ベートーヴェンやフンメルといった古典派の音楽にあわせて踊るものとおもわれるが,おそらく,このふたりによって,そこにまったく異質の要素が加わったのである。「舞台装置」については,ベルリン滞在中から村山の最大の関心事であり,やはり,この年の12月には築地小劇場でのゲオルク・カイザー作『朝から夜中まで』のために全幕明け放しの裡雑で巨大な装置(挿図8)を村山は設計している。

 このいくつもの場面をひとつに組みたてあげた野心的で画期的な舞台装置は,幾何学的な構成という点ばかりでなく,そのきわめて単純化された図形の記号的な処理という点でも注目すべきものだった。魚や亀は完全に一種の絵文字として描かればらばらに散らばっている「朝」や「迄」や「Bar」といった文字と同じ水準で,構成物のなかに配置されている。二階右手奥のベッドや中央に奪える骸骨をおもわせる照明灯もふくめて,ここではすべてが記号化されている。

挿図8 村Il」知義F研から夜中まで」舞台装置1924年

挿図9 岡田龍夫リノカット F死刑宣告jより1925年

 いや,それは,すべてがタイポロジカルだとも,いいかえられるかもしれない。すくなくとも,この年の7月に刊行が開始された雑誌Fマヴオ』の独自のレイアウトとこの舞台装置には,多くの共通点がみとめられるのである。

 翌年の8月頃まで,中断をはさみながら,第7号まで,月刊誌として各約200部刊行されたFマヴオ』は,縦31.5,横3.5センチメートル,中綴のけっして大きな雑誌ではないが,ほとんど作品を否定しながら展開していったマヴオをしるために手元に残されている数少ない貴重な「オリジナル」である。第3号が,表紙の高見沢のコラージュ作品「ラシャメンの像」に火薬が使用されていたために発禁処分となり,第4号で,一旦経営的にゆきづまっている。それは,まさに,印刷物の限界を打ち破ろうとする野心的な試みだったのである。号を追うごとに,リノカットを多用するようになり,用紙こ新聞紙を使用したり(第3号),ゴム戸口で「無」という文字をランダムに押す作品(高見沢の「詩」,第4号)が現われるなど,印刷物としての可能性を,この雑誌は,大きく押し広げている。翌年の6月の第5号で,はば8カ月ぶりに雑誌Fマヴオjは活動を再開する。編集兼発行人の名前に,村山だけではなく,岡田とアナーキストの詩人萩原恭次郎(18粥−1938年)が加わっているのが目をひく2)。5号から7号までのFマヴオ』は,それまでの無差別な個性のぶつかりあいに比べるならば,このふたり,とくに岡田の個性につよく染められているようにみえる。すでにマヴオに加わるまえから「いろんな機械や道具の壊れたもの,古靴,ゴムマリ,針金,ゼンマイ,ブリキ類何でもいゝ何処か変つた形をしたものなる片つ端から集めて来て喜一杯がボロ屑の山となると,それを種々に組合せて感興を盛る手を発見」(岡田龍夫「マヴオの想ひ出」Fみづゑ』12月号,1937年)していた岡田は,「だがロシアのみ白い建設の光を放つ!り(「kk.Lの説明」Fマヴオ』第1号)と断言して,マヴォイストのなかでも,おそらくもっともラディカルなダダイストとなった。リノカットによる太い力強い罫線を縦横に走らせたFマヴオ』の最後の3号は,だから,岡田龍夫の息のかかった数少ない忘れがたみとな?が)。

 その岡田が,村山知義たちをも巻き込んで,さながらマヴォイストたちの作品集という趣のある萩原恭次郎の記念すべき詩集F死刑宣告jを装釘,出版したのは,1925年10月のことだ。村山のF朝から夜中まで』の舞台装置に現われていた骸骨の照明灯は,ここでは,土俗的なエネルギーをひめて,怪奇の衣装をまとって岡田のリノリウム板に刻まれている(挿図9)。「マヴオの宣言」にいう「書籍の装釘」が見事な達成をみせたときに,皮肉なことに,肝腎のマヴオ自身が,その揚力を失ってしまう。この年の9月に,村山知義は自慢であった「オカッパ」を斬り落として,「心座」を結成し,プロレタリア演劇へ足を踏み入れたのである。

1)このいかにも20年代的な古典回帰の問題は,村山の前衛性にばかり注目があつまり,その岸田劉生(1891−1929年)にたいする共感も含めて,ほとんど論じられていない。たとえば,ベルリンで描かれた「アンゲマイヤ夫人像」(所在不明,F演劇的自叙伝第2割に写莫あり)は,村山自身がモデル代を私つて描いていることからもわかるように,注文画ではなく,画家の例の動機に基づいて制作されている。そのほか,村山がベルリンで交遊したH本人画家永野芳光(1902−1968年)や和達知男(1恍X)−1925年)との相互影響も含めて,村山のなかで日本的な要素とベルリン的な要素が,どのように時間をおつて展開していったのかということを跡づける作業は,はじめられたばかりである。

2)岡田龍夫は,第4弓・(19Z3年10月刊)の「マヴオの広告」の柵に「脱会した」と善かれている。マヴオ結成に際しては,村山に批判的な距離をたもち,やや遅れてマヴオに参加した岡田と村Lいとのあいだに,この間,どのようなことがあったのかは,今後の調査をまたなくてはならない。3)岡田のリノカットのヒントは,プルリュークとけっして無関係でないことを,′ト野忠垂氏が指摘している。「今日なら金属板化するが,じかにリノリウムをつかって,だから当然刷庄の調節の欠くきたない効果ながら,リノカットは生れる。あのロシア未来派画家携行のル′りレスキー作F死の踊り」r樺刻などにみつけた岡田の創意にちがいない。西欧でもリノ版は二十世紀にはいっての出現で,ドイツからロシアに及んだのだが日本では軍揺会議の結果,軍艦甲板の敷物(いわゆる軍艦リノwarship−1inoleum)が卸こあふれ出したこの時期に画家の手に渡ったのであり,のちには学童版責の材料にもなる」(小野忠垂r近代日本の版画J,1971年,pp.64−65)。