アンドリュー・ワイエス

■ワイエスのヘルガ組曲」

ワシントン・ナショナル・ギャラリー副館長)ジョン・ウイルマーデイング 

 アンドリュー・ワイエスの絵は多くの人々に親しまれ、アメリカの伝統に深く根を下ろしている。それにもかかわらず、いわゆるヘルガシリーズと呼ばれる作品には息を呑むような新鮮さがある。この連作はマスコミに大きく取り上げられ、皮相な意味でセンセーションを巻き起こした。しかしよく見てみると、このシリーズは視覚的・技術的な積み重ねの力強さをじかに私たちに伝えていることが分かる。そうした力強さは今までのワイエスにもなかったわけではないが、これほどの一貫性と衝撃をもって現れたことはない。むろん、今までのワイエスと共通するところもある。たとえば西洋美術からアメリカ美術、近代美術にいたる美術史の中で占める位置、ブランデイーワインの伝統との結びつき、アメリカ絵画におけるワイエスー族の歴史、そしてアンドリュー・ワイエス個人の様式と芸術観と制作法から生まれる魅力などがそれである。

 作品の数の多さとテーマから、このシリーズはまさに「組曲」と呼ぶにふさわしい。そう呼ぶことで様々な意味合いが喚起される。これはまぎれもない連作であり、いくつもの重複する部分と内面的な反復性をもっている。大部分が家を、それも部屋の中を背景にして描かれているこれらの絵は、閉鎖性や個人の秘密性を暗示する。また音楽の手法のように叙情的なリズムが徐々に展開されていく。

 シリーズの主題はすべてヘルガ・テストーフである。彼女はペンシルヴェニア州チャッズフォードにあるワイエス家の隣人である。(作品のうち数点はヘルガの娘カーメンをモデルにしている。)制作期間は1971年から1985年までの15年間。ワイエスはヘルガが38歳のときに初めて彼女を描き、53歳のヘルガを最後にシリーズに終止符を打った。画家が一人のモデルにこれほど長期間、これほど密接な目で関わり続けたのはアメリカ芸術史上まれである。その意味においてもこのヘルガ・シリーズは、人間が歳を重ねていくときの変化や芸術的な成長を織り込んだ数々のイメージを、われわれに与えてくれる。

 レナード・アンドリューズが買い取った作品は240点にのぼる。テンペラ4点、ドライブラッシュ9点、水彩63点、鉛筆による素描が164点で、大部分が紙に描かれている。ほかに、このシリーズに連なる作品としては、すでに別のコレクションに入っていた「白昼夢」「防寒コート」「ナップザック」の3点、およびワイエスの妻ベッツイ・ワイエスがレナード・E.B.アンドリューズ財団に寄贈したく秋〉<恋人たち〉<夜の帳〉の3点がある。このシリーズ全体を通して明らかにされるのは、抑制と複雑さ、画面の質感と深い情感の表現に重要な焦点が当てられていることだ。

 ワイエスはいつも一つのイメージに集中して取り組み、多くの習作を描くという方法をとってきたが、今度のヘルガ・シリーズも、そういった連作として注目に値する。ワイエスが一つの作品に関連する膨大なデリサンを公開するのは初めてのことだ。しかも、そのほとんどが制作過程を伝える習作としての城を超えており、見事に彫琢された、荘厳なほどの独自の美しさを見せている。

 シリーズは30余のさまざまなつながりのあるポーズで構成されている。一つのポーズにたった1枚の習作しかないものもあれば、数点、なかには十数点以上あるものもある。とくに多いのは眠っているヘルガの連作で、いくつかのポーズで描かれた35点以上のデッサンと水彩画がある。裸のヘルガ、服を着ているヘルガ、室内にいるヘルガ、戸外のヘルガ、眠っているヘルガ、目覚めているヘルガ。さまざまな季節のさまざまな時間のヘルガを見るとき、私たちは昔のヨーロッパやアメリカ美術の伝統が形を変えて反復されていることに思いあたる。19世紀風に言えば、これはワイエスの「四季」と「人生航路」なのである。

 たしかに、そうした連想はわれわれの作品理解を助けるいくつかの手がかりを示唆している。すなわち、ヨーロッパおよびアメリカ美術の伝統の中に、ワイエスの芸術の伝統性と独創性の先駆けとなった作品、あるいは対置される作品を見つけるという手かかりである。ワイエスは父親のアトリエで絵の手ほどきを受けた衣と、もって生まれた才能を自分で磨いていった画家だが、他人の芸術に対しては常に注意深く観察してきた。また画家としてのキャリアを積んだのは、ペンシルヴュニア州のブラン升−ワイン渓谷とメイン州クッシングの海岸に近い田園地帯の二地方にほぼ限定される0ワイエスはこの二つの場所を行ったり来たりして過ごす0その移動の旅は、ここ数十年間のワイエスにとって仕事のためというより気晴らしのためだった。そのように限定された環境に生きてきたワイエスだが、録音された会話やインタヴューから推察するかぎり、彼が興味をもっているヨーロッパの巨匠やアメリカ美術の先達の作品についてはきわめて豊富な知識を持っていることが分かる。

 

 しかもワイエスは、どの画家が自分の画風とは異なるかをよく心得ている。彼の目には、たとえばルノアールやベラスケスの色彩や筆致は、あまりにもヨーロッパ的だと映る。ワイエスが意識的に芸術の精神とテクニックを学びとったのは、イタリアおよびヨーロッパ北部の初期ルネッサンスにおける巨匠たちからである。とくにワイエスの心を惹きつけたのは、その明噺さと構成の感覚、質感、とりわけ線の感覚であった。構図的なコントラストや光の反射に言及しながら、ワイエスは「ルネッサンスの巨匠ピエロ・デラ・フランチェスカの作品に非常に関心をもった」と述べている。彼が初めてその複製を見たのは少年時代だった。だが、それに勝るインスピレーションを得たのは、デューラーのドライブラッシュによる水彩とボッティチェリの精細な作品にみられる繊細さと力強さが揮然となった線からだ。「とくに私は北欧ルネッサンスの天才、アルブレヒトデューラーの版画に感嘆した」。N・C・ワイエスは息子にデューラーの銅版画の複製を与えた。若きアンドリュー・ワイエスはその主題と技法に深く感動する。デューラーに強い一体感を感じるワイエスにとって、この昔のドイツ人画家が最初の師であり、ドライブラッシュの手本を授けてくれた画家だった。ワイエスの意識の中にとくに強く残っているデューラーの素描は、有名な<仔兎・上図〉〈芝草〉である(アルベルカナ美術館・ウィーン)。

 

 後者はワイエスが「彼の最高傑作だ」と激賞する作品で、ワイエスのドライブラッシュ<弓>(1942年)のインスピレーションもそこから得られた。ワイエスの賛は、デューラーの質感の描写と、ささやかな対象にも向けらる。そこには精神的な意味でも文字どおりの意味でも質朴なつましやかさがあるという。周りの環境と結びついたヘルガがいかに土臭い、素朴なモデルか、注目すべきだろう。またワイエスは銅版画〈騎士、死と悪魔〉におけるデューラーの想像力豊か創作プロセスに触れ、「平凡なものが注意深く観察されて、素晴らしいものになる」と述べている。それと同じプロセスによて、観察され、変貌を遂げたヘルガが彼の作品の中に現れる。

 ヘルガ・シリーズの中でも秀逸なのがドライブラッシュの水彩画である。従来の流動的で即興的、暗示的な水彩とは違ってドライブラッシュは細部の具体的な豊かさを出すため筆から水を絞りとる。「ドライブラッシュは少しずつ層を重ねていく。私はそれを織物の工程と呼んでいる。水彩で塗った上に、あるいはそ‘内部にドライブラッシュの層を織りだしていくのだ」。この織物の比喩は、画家の使う絵筆の動物の毛、草の繊維、編んだ人間の髪にも通じるものがある。ぺルガの髪に重点を置いた作品が多いの意外ではない。とくに<ケープつきコート〉〈日除け>〈ひざまずく〉〈排水路〉〈ページボーイ〉〈花の冠〉<プロシア人> <隠れ場〉などにそれがよくみられる。これらの労作からうかがわれるのはデューラーの<仔兎〉と同じようなヘルガの鋭敏な動物的野性味、自然さ、穏やかさである。ワイエスがデューラーの精神的集中を頭に描いたように、私たちはワイエス自身の精神的集中を想像することができる。「私は、いかにして彼の素晴らしい指が筆から水分を絞りだし、乾かし、まだ水分の残った半乾きの筆にして、小さな動物の体毛の表面を織りだしていったか、手にとるように分かる」。ワイエスはまた、こうも言う。「私は自分の感情が対象に深く入り込んだときにドライブラッシュで描く」。

 若いワイエスに影響を与えたもう一人の画家はボッティチェリである。ワイエスはこの巨匠からも絵画の主題と様式を学んだ。テンペラを使う現代の画家としてはワイエスの右に出るものはいない。この古い技法を利用するにあたって、ワイエスがルネッサンス絵画に目を向けたのは当然であろう。そこではボッティチェリの独特の技法が注意を引いた。ワイエスは言う。「昔の絵を調べてみれば、たとえばボッティチェリの〈ヴィーナスの誕生・上図〉など、カンヴァスを使っていても非常に美しく仕上げられていることが分かる。私もカンヴァスでテンペラを描いてみようと試してみたが、気に入らなかった。カンヴァスの弾力性が嫌いだった。あれは煩わしい」。

 ワイエスが追究してきたのはイメージの純化と表現媒材の硬さの両方によって得られる永続性である。蒸留水と卵黄に乾燥した絵具を混ぜるテンペラは、固まるのが早い。これを木の板を塗るというやり方は、感覚的にも形態的にも堅牢なイメージを求めるワイエスの意図にぴったりだったのだ。「エジプトのミイラのように、素材的には信じられないくらい永く続いているものもある。ある意味において、テンペラは建物に似ている。大地そのものの構造のように、層をいくつも重ねて築きあげていく建物だ」。

 ワイエスのテンペラはいろいろな点で大地を連想させる。これまでの多くの作品がそうであるように、ヘルガ・シリーズの作品は人物の肖像であると同時に風景の肖像でもある。持続性の概念と、テンペラの色、彼の住む田舎の色はワイエスにとって同じ物なのであり、どちらも瞑想的な孤独感を生み出す。「私がテンペラに惹かれた本当の理由は、その色の感じが好きだったからだろう。大地の色の、たとえばテラ・ヴェルデやオークル、赤褐色のような灰色の喪失感があるからテンペラが好きなのだ。それは孤独な寂蓼感に近い」。ワイエスのテンペラ画の多くは赤褐色が主体となっており、とりわけ<編んだ髪〉<髪を解いて><シープスキン><農道〉といぅたヘルガの作品には土の匂いが漂う。

 

 初期ルネッサンスの絵画とボッティチェリの作品か若いワイエスに与えた影響は画風に関してだけではない。昇華された属性と意味を備えた人物のイメージもあった。<花の冠〉の雄弁さ、穏やかさを見るとき、ワイエスが、<ヴィーナスの誕生〉(1482年)や<春〉(1478年)(ともにウフィツツイ美術館、フィレンツェ)に思いを馳せていたことが想像できるのではなかろうか。意識的にボッティチェリの裸体画を参照したり、神話的・哲学的な意味を与えようとしたのでないことは確かだが、ヘルガ作品には、女神とはいえないまでも自然の擬人化を暗示する光彩がある。ヘルガはまた愛の化身でもある。別の作品におけるヘルガが、もう少し肖像画に近いのに対して、この花の冠を被ったヘルガは春の女神フローラ、美の女神ヴィーナス、あるいはデューラーの庭から抜け出てきたイヴの神話さえ思い起こさせる。そこには寓話的な力がある。それがワイエスの言う平凡なものを素晴らしいものにするということなのだろう。

 さまざまなポーズと表情のヘルガを描くことによって、ワイエスは人間の異なった気分と側面を捉えようとしている。しかしワイエスにとって顔の細部を記録することは平凡なものの観察の一部にすぎない。そして私たちは、積み重ねられた描写の中に肖像以上の効果が生み出されていることに気づく。何枚ものヘルガの顔や容姿を見れば、ワイエスの絵がモデルを正確に描いているということは明らかだが、<花の冠・上図などの作品には、それより深い気分や連想が表現されているようだ。事実、個人をじっくり親祭して描くのはワイエスの長年の手法でありながら、モデルに伝統的な肖像画のポーズをとらせたことはめったにない。「私は自分を肖像画家だとは思わない。顔だけを描いてそれ以上のものを表現しようとするから。家の外にいる人なら、その人の表情に空が映り、その顔に人生を刻む雲が映しだされている。私はそういう本質を人物像の中におさめようとする。それは空を描いているようなものだ。

 

 私にとって空と風景は一つで、一方が他方を反映している。二つは混じり合っているのだ」。

 シリーズの中で、寓意に近づこうとした人物像としては、・おそらく<花の冠〉が最も示唆に富んでいる。これについては美術史の中にも豊かな伝統がある。たとえばレンブラントが妻をモデルにして描いた<花神のサスキア・上図左〉(1634年、エルミタージュ美術館、レニングラード、および1635年、ナショナル・ギャラリー、ロンドン)、愛人を描いた<花神のへンドリッキエ〉(1654年頃、メトロポリタン美術館、ニューヨーク)がそうである。レンブラントはこの種の作品の中にも人間の美しさや自然の豊かさ、こまやかな情愛、官能、そして繊細で崇高なリリシズムにいたるまで幅広い感情を表現しようとしている。それぞれの女性の被った花環は、成長と再生を実現する自然の包容力に彼女たちを結びつける。春めいた装いのヘルガは、秋を思わせるワイエスの風景の中で蘇りの象徴としてとくに感動的だ。 両家が繰り返し描く裸体は、いうまでもなく西洋美術における不朽のテーマである。無名のモデルか、愛人か、妻か、誰がポーズをとるにせよ、裸体は肉体を形態的に研究するものとして、あるいは愛を讃えるものとして、あるいは画家のアトリエのシンボルとして、さらには芸術の本質を考えるものとして、さまざまな役割を果たした。たとえば裸や着衣で横たわるヘルガにゴヤの<マハ〉から伝わるイメージを見ることができるし、〈黒いベルベット〉の連作でマネのくオランピア〉(1863年、オルセ美術館、バリ)を思い浮かべる。目的や動機は違うかもしれない。たとえばマネは、一つには19世たのパリにおける売春婦の生態に、もう一つには前から強い光に照らされて平らになったフォルムの視覚的処理に関心があった。しかし、オランピアにしてもヘルガにして首に巻きつけられた黒いベルベットのリボンが、裸を強調するものとして描かれていることはたしかである。どちらも身につけているものは、このリボンだけであり、このリボンがすぐにも手の届きそうな危うい官能を呼び起こすのである。

 こうした手法を使うことによって、裸体画は現実と理想のフォルムを対比させ、肉体的な愛と精神的な愛を考えさせる手段となる。ヘルガのトルソを描いたものには、前向きでも後向きでも、丹念に人体の分析が行われている。だが、簡潔に描かれた水彩やテンペラの中のヘルガは間違いなく「それ以上の何か」を表現している。

 こうしてヨーロッパの伝統に意識的に強い反応を示したワイエスは、それと同時に、現代のアメリカの画家であることも自認している。アメリカの伝統の流れの中にあって、ワイエスは様式としてのリアリズムと主題としての風景というアメリカ美術の主流を受け入れてきた。それはまた20世紀を表現することでもあった。彼の作品には現代の不安感や内省や孤独に対するワイエスの日が感じられる。たしかに彼が独立独歩の精神や生まれながらの霊感を強く求めていることを考えるとき、やはり故郷に帰り、あるいはそこにとどまったまま技術を磨いたチャールズ・ウイルソン・ピールやウイリアム・シドニー・マウントといった初期のアメリカの芸術家たちの系譜に連なるものとしてワイエスを見ることができる。また自然や自己や故国を凝視するワイエスをヘンリー・デイヴイッド・ソロー、エミリー・デイキンソン、ロバート・フロストなどのグループに入れることもできそうだ。ウォールデンの森やアマーストの白い部屋、ニューハンプシャーの石塀がそうだったように、ワイエスにとってはカーナーの丘の草原や穀物小屋の壁の豊かな線や表面が、果てしない物思いと刺激を与えてくれた。草原の傾斜地の輪郭や穀物小屋の直角の角度を使って、ワイエスは彼が比喩的に言う「大地そのものの構造のように」画面を組み立ててゆくのである。

 そうした日常のもの、身近かなものに集中するほか、ワイエスは詩や日記を書くときの、あの集中力にも狙いをつける。彼の絵の中には時折、動きかけている人物、あるいは何かの動作をしている人物が見られるが、それは特定の動作やドラマを物語るものではない。ワイエスの風景は限定された静かな場所が多く、その風景の中に描かれる人間は一人で静かに瞑想にふけっている。

 

 たとえば、<仮収容所〉<黒いベルベット〉<キャンプファイアー〉<夜の帳〉<排水路〉<日除け〉<眠る〉〈ケープで歩くヘルガ〉<農道〉の中のヘルガがそうだ。本当に眠っているものからまどろんじっと考え込んでいるものまで、さまざまなポーズを「私には強い無常感があり、何かをしっかり摑まえていたいというあこがれがあもそれが人に悲しみとして映るのかもしれない。・・・それは“メランコリー”というより”思索”と言うほうがふさわしいだろう。私は過去や未来のことを考え、夢にひたる。そこにはすべての人間が生きている時間を超えた岩山や丘がある。

 同じように、エミリー・デイキンソンも自分の観察を直接的なものから普遍的なものへと拡大していく。「草原にはすることがあまりに少なく・・・/ただ一面の緑・・・その膝(ひざ)に太陽を抱く」

枯れるときにも   神々しいまでの匂いを放つ   眠りにつくときの慎ましい芳香のように   あるいは於の木の魔除けのように  それから、納屋の王国に住みつき   過ぎし日々を夢想する・・・

 ディキンソンにとってもワイエスにとっても、人間が風景の中にあるだけでなく風景と融け合って存在している。ワイエスはその融合を、特定の場所の一般化という作画上での抽象化と、人物の姿勢と凝視の中に表現された思考の純化によって達成する。こうした融合はワイエスの画風の特徴であり、ヘルガを描いた作品が、あるカテゴリーや定義に当てはめにくいのも、そのためである。「ヘルガ組曲」はアメリカ美術の中で古くから扱われてきたテーマ、すなわち肖像、裸体、風景、風俗といった主題の豊かな混交である。一般的には、肖像画は最初のアメリカ美術であり、二つの重要な意味で国民の基本的な要請に応えた。「新世界」の発見と移住が行われた最初の数世紀、肖像画は後世に記録を伝えるという実用的な目的で描かれ、そのほうが純粋な美意識よりも優先されたアメリカは歴史的に実用性や実際性、分かりやすく直接的なもの、技術や科学に関心を抱いてきた国である。そうした文化にあって、肖像画は(初期のアメリカ建築や家具と同じように)すぐに楽しめる、直接役に立つものだった。しかしそれと同時に、人間の顔や姿を描くことは民主主義における個人を讃え、ひいては各自の行為や業績を讃えることでもあった。肖像画は、慎ましく名もない人々を権力者や金持ちや英雄と同列に扱うことができる。事実、植民地時代、および独立して一つの国家となり、民主共和制の国として発展していった初期アメリカ史は、個人がそれぞれの野心を抱き、意見を表明し、行動を起こす歴史だったという見方がある。確かに、この国の初期の偉大な歴史画は活躍した人物の肖像画に見ることができるのであり、ベンジャミン・ウェストやジョン・シングルトン・コプリーらが基礎を築いた肖像画の伝統から浮かびあがってくるといえる。

 とすれば、それ以後、19世紀初期のギルバート・スチュアートやトーマス・サリー、19世紀後期のトマス・エイキンズ、ジェームズ・マタニール・ウイスラー、ジョン・シンガー・サージェント、そして今世紀におけるジョージ・ベローズ、ウォーカー・エヴアンズ、アンデイ・ウォーホルにいたるまで、人間の顔や姿を描写することがアメリカの主要な画家たちの関心を引きつけ、その分野で多くの仕事がなされてきたことも驚くにあたらない。アメリカの肖像画家は人物を格式ばらず打ち解けた雰囲気で描いている。われわれは彼らの的確な技巧と個性的な表現に感嘆している。ヘルガの作品もまた、顔や体格を詳細に分析して描かれた人物画として、この伝統に属するものである。

 しかしそれと同時に、裸のヘルガは古くからある芸術家のモデルとしての伝統の中に位置づけることができる。ヨーロッパでは古代から現代にいたるまで裸体が繰り返し芸術家の関心を引き続け、アメリカでも教育的な方法として採り入れられてきた。

 理想的な形をした彫刻の裸体像や生きている人間の裸体をデッサンすることは、画家がテクニックを身につける上で欠かせないトレーニングだった。アメリカの画家はそうした裸体によって量感や質感、人体の有機的な相互関係を描写する技術を磨く一方、ヨーロッパの先人たちが残した肖像画によって、ときには神話や寓意を連想させるものを対象に吹き込む方法を学んでいった。この範疇に入るアメリカの最初の重要な作品はジョン・ヴアンダーリンの〈ナクソス島で眠るアリアドネ〉(1814年、ペンシルヴェニア・アカデミー、フィラデルフィア)である。このモデルのポーズは、ティツィアーノやジョルジョーネなどの巨匠にその起源をさかのぼることができる。ヴアンダーリンがパリ留学中ルーヴル美術館で多くの名画と出会い、ダヴイッドとアングルの指導の下に高まりつつあった新古典主義にも影響を受けたことを物語っている。ヴアンダーリンが着衣のアリアドネにどんな神話や理想を込めたにしろ、そこに見出されるもう一つの暗喩は遠景の澄み切った空や前景に置かれた優美な花々で現される「新世界」の汚れなき処女性だった。現代に引きつけて言えば、これと同じ庭園にアリアドネの末裔としてのヘルガが横たわっているのである。 ヴアンダーリンと同時代の画家たちも、自然な、くつろいだポーズの裸のモデルを多く描いている。なかでも最も注目すべき画家はジョン・トランブルとワシントン・オールストン(下図左右)である。この二人はヨーロッパに留学中、同時代の画家たちの様式と精神を採り入れて洗練された裸体のデッサンを描いた。その習作には確かな観察と品位のある情感をこめた描写が見られ、それがやはりヘルガのさまざまな姿に引き継がれている。

 19世紀半ばごろ裸体に対するアメリカ人の関心は神話の主人公や擬人化を表現した理想的な大理石像に集中していた。一方、当時の画家の多くはアメリカの風景に目を転じていたが、19世紀後半には再びアトトリエに戻り、ヨーロッパで流行していたスタイルに関心を移していく。勉強や旅行のためにヨーロッパを訪れたアメリカの画家たちは、裸体のモデルの研究に関心をもつ美術界の伝統を再び発見したのであった。

 ジョージ・フラー、アルバート・ライダー、ジョン・ラフアージ(上図)といった画家たちが描いた裸体画には想像による創作の傾向が見られ、文学的な連想をもったものが多い。あるいはまたウイリアム・メリット・チェイスやチャイルド・ハッサムの風景画や人物画は、質感や色や光を揺らめくように表現している。しかし着衣か裸体かを問わず、フォルムの純粋性に重きを置くもの(トマス・デューイング)や、重厚な立体感と理想化を排除した写実的な人物像(フランク・デュヴェネック)を描く画家も現れた。

 後者の流れを直接受け継いだのが、20世紀のジョージ・ベローズとエドワード・ホッパー(上図)である物質の世界を率直に見つめ、飾ることなく表現しようとする彼らの方法は、活力に満ちた新しい時代にふさわしいと思われた。とりわけホッパーは強烈な光と力強く平明な構図の中にモデルを隔離する。そうすることによって現実世界における孤独感と明快さとを同時に強調している。技術的にはホッパーとかなり違うワイエスが「現存する画家の中ではエドワード・ホッパーを最も尊敬する」と誉めるのも不思議ではない。

 ワイエスの作品はアメリカの風景画と風俗画の幅広い視野の中で捉えることができるが、とくにその二つがミックスし、人物が背景と並置される形をとった作品として見ることもできよう。ここでは戸外と室内の空間を含めたものとして風景を考えていきたい。ワイエスは異なる線や面を使って構図を組み立てるために、戸外と室内を利用している。ワイエスの風俗画的な要素は一般の風俗画とは違っていて、あるストーリーを説明するという考えはほとんどない。つまり物語や文学の内容を絵にすることには関心がない。したがって人物像が明白な動きを示していたり、何かの活動に熱中していることは珍しい。ワイエスはより幅広い人間性や死の運命を見つめている人間の姿を描く。そうした彼の関心の置き方、そして背景の地形や表現素材の選び方の中に、アメリカ美術にそびえる二人の先達ウインスロー・ホーマーとトマス・エイキンズの世界を見ることができる。

 場所でいえば、ホーマーはメイン州、エイキンズはペンシルヴェニア州に住んでいた点でワイエスと共通する。またワイエスとホーマーとエイキンズも素描や水彩に秀でていた。ホーマーとは似たような技術の下地を学び、さらに単なるイラストレーションを超える技術を身につけていったという点でも通じるところがある。ワイエスはこの二人の画家を敬愛している。といっても条エイキンズについてはとくにその条件が厳しくなも「多くの人は、私がリアリズムを再興させたという。

 そしてエイキンズとホーマーに私を結びつけようとする。私の考えではそれは間違いだ。正直なところ私は自分を抽象画家だと思っている」。最後の言葉は、ワイエスが関心を抱いているのは本質的な構図とフォルムであり、表面的な現実感を超えた意味や情卓であったことを物語っている。

 エイキンズはワイエスのブランディーワインからほど遠からぬデラウェア川渓谷の草原で絵を描いて生涯の大半を過ごしたが、ワイエスは両者の作品に本質的な共通点があるかどうかについては、はっきり述べていない。「私はエイキンズを評価しているが、影響は受けていない・・・エイキンズは伝統性を重んじるフランスの両家ジェロームのアトリエで訓練を積んだ」。つまりワイエスから見れば、エイキンズの画風は彼とはかなり違うところにあった。にもかかわらず、ワイエスはエイキンズのリアリズムが細部を正確に表現する器用さ以上の力を持っていることを認める。ワイエスはインタヴューの中で述べている。「テクニックだけがすべてではないということに注目すべきだ。あるとき、エイキンズの夫人がアトリエに入ってきてこう言った。『まあ、あなた。あの手はずいぶん美しく描けたこと。あなたが描いたものの中でいちばんいいわ』。するとエイキンズはパレット・ナイフを取り上げて、カンヴァスから絵具を削りとってしまった。彼は『私が表現したかったのはそういう弓のじゃない。手を感じとらせたかったんだ』と言ったそうだ」。

 エイキンズに較べると、ホーマーの作品には情感とテクニックの両方について直観的に共感するものがあったらしい。「私はウィンスロー・ホーマーの作品、その水彩画が好きだった。それを丹念に研究して、水彩のいろいろなテクニックを吸収した。・・・水彩は私の世界の自由な一面を完壁に表現してくれる」。「ホーマーの水彩は自分の国に対する暖かい情感にあふれた、アメリカで最も繊細な絵だと思う。水彩は幅広い表現力可能なだけでなく、その親しみやすさ、率直さが、予期しない強さと情感を生むことがある。しかしワイエスは作品のできばえや制作方法の観察だけからホーマーの真価を理解したのではない。両者の作品の主題を比較しそみると、別な類似点があることが分かる。

 ホーマーは雑誌の挿絵画家として訓練を受け、ワイエスは父親のN.C.ワイエスと父親の師であったハワード・パイルから伝統技術を授けられた。ホーマーもワイエスも、その素描技術をあるレベルの力量へと完成させていった。予備的なスケッチから綿密に仕上げた鉛筆画にいたるあらゆる素描は、それによって独自の価値をもつ作品になっている。この二人の画家にとって水彩は、カンヴァスや板に描く本制作のための戸外習作なのかもしれない。さらにこの両者は、意識して描いたかどうかはともかくとして、主題や構図も似ている。とくに1870年代のホーマーは草原に座る人牧場を横切る人、じっと水平線を見つめる人、手近な判事に専念している人を繰り返し描いている。それは若者が空想にひたり、あるいは自己に目覚めた大人が物思いにふけっている姿だった。ホーマーは、まだ30代半ばのころ<真昼〉(1872年頃、ウズワース美術館、ハートフォード)やく牧場の少年たち〉(1874年、ボストン美術館)など、私たちがすでによく知っている絵を描いた。

 ワイエスは35歳のとき、この情景を<遥か彼方に・下図〉(1952年、個人蔵)の中で反復している。その後の両者の単純化された風景画、すなわちホーマーの<北東風〉(1895年、メトロポリタン美術館、ニューヨーク)とワイエスの<雪風〉(1953年、ナショナル・ギャラリー、ワシントン)にも対照的なものが認められる。最後に、前景と遠景を対置させるという似たような構図の工夫が、ホーマーのく月の接吻〉(1904年、アデイソン美術館、マサチューセッツ州アンドーヴァー)とワイエスの<月の狂気〉(1984年、個人蔵)のぼんやりと現れた満月に見られる。いずれも画家の円熟した想像力から生まれた大胆な構図である。

 

 ヘルガシリーズに特につなかるものとしては、室内や戸外の若い女たちを描いたホーマーの1870年代後半の連作がある。1877年の作品<黒板〉(ガンス・コレクション、ロサンゼルス)は学校の室内を描いた連作の1枚で、中央の人物像を壁や空間の抽象的な幾何学図形が取り囲んでいる。この形式は作品の視覚的な構図を作っていると同時に、知的な秩序や続制、清澄という教育の概念を現してもいる(下図右)

 

 ワイエスもまた壁や戸口、窓、ポーチなどの幾何学的な線や平面に人物を置くという構図を繰り返し使っている。ヘルかシリーズでは<仮収容所〉〈日除け〉<白昼夢〉<復活祭〉<髪を解いて〉<排水路〉<戸口で〉<田舎の服〉などがその例である。ほとんどが何か考えごとをしている人間の像であり、室内の暗い閉鎖性が、ひそやかさと内省的な心の動きを示唆している。

 

 ワイエスと同じように、ホーマーにも田園や森で一息ついている女性を描いた一群の絵があり、その代表が1878年の〈疲れて〉上図左(テラ美術館、シカゴ)である。なかには田舎風の服を着た数人の少女のグループを描いたものもあるが、1870年代の終わり頃になると、本を読んだり花を摘んだりしている一人の女性に集中するようになった。そこでは水彩画のもつ牧歌的な雰囲気、明るい色彩、処理の新鮮さが、その人物像と自然の若々しい将来や成長を暗示している。そうした人間と風景との一体感は、ワスのヘルガ・シリーズにおける〈キャンプファイアー〉くケープコート〉〈ナップザック〉く果樹園にて〉上図右木に椅(こしかけ)って〉下図くケープでヘルガ〉〈農道〉く隠れ場〉にも見られるものである。

 ホーマーが着衣のヘルガとの関連で語られるとすれば字どおり服を脱ぎ、無防備に何一つ隠すことなく真実をさらくしたヘルガの裸体に対応するものをエイキンズに求めることができよう。ホーマーやワイエスとは違って、エイキンズは若いときl続的な美術教育を受けた画家である。最初はフィラデルフィア・ペンシルヴェニア・アカデミーで学び、次いで1860年代の窮境、パリでジュロームらの下で学んだ。エイキンズはこの時のアトリエでポーズをとるモデルを使って力強い木炭の素描を描いている。モデルは特定の人物ではなく、エイキンズの描写は気がなく素直だ。そこには凝った表現や理想化し美化しようと意図はほとんどなく、重さや量感や形、骨格と筋肉といったt」ティを表現することのみに関心があったようだ。そうした誠実察と描写は、ワイエスにおいてもその後のリアリズムにまで一貫する要素である。

 

 修業を終えたあとエイキンズも多くの肖像画を描いているは大量の注文をこなしたが、なかでも優れた作品は単なる再現の域を超えたものとして高い評価を受けた。その中でキンズは人間の性格や試練の重荷、人間にできることとできことが肉体や精神に与える影響を迫真的なリアリティをもってだしている。そうした対象のたくましさに対する賛美は、ワイスも通じる一面がある。キンズも自宅やアトリエの壁を背景テルにポーズをとらせたり、ときには妻のスーザンをモデルに肖像画を描いている。アトリエでモデルを使って描いた一連の裸体画をヘルガと関連づけることもできるが、作品の数や連轟制作期間の点でワイエスとは大きな隔たりがある