禅宗様建築

■禅宗様建築 

佐々木日嘉里

 平安末期治承四(一一八〇)年、平重衡による「南都焼討(なんとやきうち)」によって東大寺も興福寺も主要伽藍のほとんどが焼失した。しかしこの出来事は、日本建築にとつて大きな転換となり、まったく新しい構造を伴う新たな建築様式を日本にもたらすきっかけとなったのである。

 東大寺再建のための大勧進となった重源、そのあとを引き継いだ栄西。二人が中国から取り入れた新しい構法は、それまでのものとはまつたく異なる技法で組み上げられたものであつた。重源は南宋の南部で用いられた建築手法を取り入れ大仏様」を確立し、栄西は南宋の禅宗寺院の様式を導入、後の「禅宗様」の魁(さきがけ)となる。

 栄西以降、日本に禅宗が拡がり、建長五(一二五三)年には南宋から渡来した禅僧、蘭渓道隆によって、建長寺が建立された。中国径山万寿寺の伽藍を模したとされており、創建当時の建物は現存しないが、「建長寺指図写」元弘元(一三三一)年(上図)により、当時の伽藍配置が南宋の五山様式を踏襲していることが読み取れる。

 南北朝期に五山十刹の制が定着すると、建長寺の構法は禅宗寺院建築の規範となり、やがて全国の禅宗寺院に影響を及ぼし、新しい構法は拡がっていった。こうして、伽藍配置や平面、構造、意匠(デザイン)など、それぞれにおいて画期的で合理的な特徴を持つ「禅宗様」が確立されたのである。 建長寺をはじめとする五山の仏殿は、五間四方の主屋に裳階が取り囲む、という大規模なもので、それ以外の仏殿と比べると規模などに著しい格差が見られたという。

 この規模の仏殿は失われてしまったが、基本的な禅宗様としての構造が同じ建物は今でも残っている。鎌倉時代建立(一三二〇年)の下関市・功山寺仏殿(下図)が禅宗様の仏殿としては最も古く、大きさは三間四方で裳階が取り囲む建物である

 室町時代に建てられた禅宗様の建物には、東村山市・正福寺地蔵堂(一四〇七年)(下図左)山梨市・清白寺仏殿(一四一五年)、鎌倉市・円覚寺舎利殿(十五世紀前半〜中頃 右図)などがある。これらの建物と、より古い時代に建てられた功山寺仏殿とを比べてみると、規模や形式がそれぞれ非常に似通っていることがわかる。このことから、室町時代には「禅宗様」という様式の統一が図られ定型化していたことがうかがわれる。その後近世に至るまで、「禅宗様」の定型化は基本において崩れることなく用いられ、和様建築に大きな影響をもたらしていった。

 

 それでは、「禅宗様」とはどのような特徴を持つものであろうか。

 何よりも、伝統的な「和様」と大きく異なる特徴は、その構造にある。そは貫(ぬき)を用いた合理的で堅固な構法である。平安時代以前の和様建築は、太 なげい柱と厚い壁で軸部を支え、横材の長押(なげし)で押さえる構法であつた。これに対し禅宗様建築は、柱に穴を穿(うが・1 穴をあけること)ちその中に貫(ぬき)を通して楔で締め、柱と柱をつなぎ止める構法である。

 この貫は、長押に比べ構造的に非常に優れている。細い材でも支持力が強まるため、厚い壁は必要なくなり、柱はそれまでよりも細くなり、木材の確保に効果をあげた。貫には多くの種類があり、それらは使われる場所などによって区別されている。中国では、初唐の頃からすでに貫の芽生えがあり、宋代以降には構造的な意味での其の技法が発達しており、重源や栄西はこの技法を取り入れたのである。

 組物の用い方にも和様とは異なる大きな変化があつた。柱の上に盤上の台輪を廻し、その上に組物を乗せるが、柱の上だけではなく、柱と柱の中間につめぐみも組物を置いた。「詰組(つめぐみ)」と呼ばれるこの構法によって、重い屋根を支えられるようになつたのである。それだけでなく軒廻りは、ぎつしりと詰め込まれた組物によって華やかな印象を生み出している(下図)

 さらに、これらの組物と組物の間隔を一定にし、この数値をもとに柱間の寸法を決める整然とした方法も確立された。

 北宋時代に編纂された建築書『営造法式』を見ると日本の禅宗様がこれらの構法を忠実に取り入れていたことが読み取れる(上図6)。

 また建物内部の新しい架構法は禅宗寺院の特徴的な仏堂空間をもたらした上図7)。

 高く伸びた来迎柱と側柱との間に大虹梁 (だいこうりゅう・上図右)を掛け渡し、その上に大瓶束(たいへいつか・下図左)を立て、頭貫(かしらぬき・下図右)を入れることで室内の柱の本数を減らすことが可能になつた

 頭貫の上には台輪を、さらにその上に二手先の組物を乗せ、いっそう高さを増し かがみて鏡天井を支える。側柱の組物から伸び上がる尾垂木尻(おだるきじり)が堂内全体を囲い、空間に上昇のリズムを作り上げる。このようにして和様にはなかつた広々とした空間の拡がりが確保されたのである。

 さて、これまで禅宗様の特徴を、伽藍配置、平面、構造などについて述べてきたが、最後に、各部分における禅宗様独自の特徴を説明しょう(下図)。

 禅宗様建築は中国の建築様式をできるだけ忠実に導入しようと努めていた。そのため仏殿には床を張らず、基壇を設け基壇上面は四半敷にする

 柱は円柱とし、上部と下部は、急にすぼませる粽(ちまき)を付ける。柱の根元と礎石の間には礎盤(そばん)を据える。柱と柱はでつなぎ、長押などは用いない(図9)。

                                    柱の頂部には頭貫を上から落とし込むが、頭貫の先端は柱の外側に突き出し、木鼻を形成する。木鼻には線形が付き、禅宗様特有の、絵様と呼ばれる渦巻きや若葉の彫刻が施されている。このような線形や絵様の多用が禅宗様の華やかさを感じさせる要因の一つである。

 頭貫上部の台輪も外側に突き出した部分は、頭貫と同様に繰形が付けられ、隅柱で租み合わされる(上図)。

 裳階は、海老虹梁(えびこうりょう)で側柱と裳階柱上の組物がつながれている側柱には根肘木(ねじき)が差し込まれ海老虹梁を下支えしている(下図左)。

 台輪の上には、斗(ます)と肘木(ひじき)<下図左右>が組み合わさってできる組物が乗る。斗は小振りで肘木の先は円弧状になっている。組物は詰組(つめぐみ)で、丸桁(下図左)に届くまで段ずつ壁面がせり出すよぅにして前方に出ている。組物の内部からは反りの強い尾垂木(オダルギ)が突き出し、軒(のき・ひさし)を支える大きな役割を担っている。下段の尾垂木は、上の尾垂木の補強の役目を果たすものと、見せかけの飾りのものと二つの形式がある(下図)。

 

 軒は、強い反りを持ち、扇を広げたように放射状に垂木が並ぶ。これを「扇垂木」といい、屋根の荷重が垂木に均等にかかる合理的な造りになっている(上図右)。

 壁は竪板壁は独特の意匠を持つ花頭窓(かとうまど)、戸は機能的で経済的で華やかな意匠の桟唐戸(さんからど)で、内法貫と地貫に打たれた藁座に吊るされる。欄間は内法貫と頭貫の間に弓欄間をはめ込む。

 

 小屋組は、野小屋を持ち、この点は風土に合わせた日本独自の構造になっている。屋根の形は入母屋造が多く、瓦の他に檜皮(ひわだ)柿葺(こけらぶき)なども使われている。また妻飾り・下図は虹梁大要形式が多く、懸鮎(げぎょ)三花懸鮎(げぎょ)

(図14)か、懸鮎(かぶらげぎょ)棟桁(むなげた)を覆う。

  

 このように定型化され、全国に広まったものを、禅宗様と称す。

(ささき・ひかり 花園大学非常勤講師)