第3章「因」について

■第三章「因」について

▶三法印(仏教の三大根本命題)

 般若心経における「空の哲学」の核心について述べたが、仏教ではこれを一般的にどういう形でいいあらわしていたかをみてみよう。仏教には三法印と呼ばれるものがある。これは仏教と他教との根本的な相違点を示す指標であるとともに、存在の本質に関する仏教哲学上の命題である。

 それは、

一、諸行無常  

二、諸法無我

  三、一切皆空

 である。

注) 一切皆空のかわりに涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を入れる場合もある。しかし一切皆空も涅槃寂静も本質的には大差ない。

 しかし、私は仏教哲学の根本理論を明らかにする命題として、欠くことのできないものは、因縁所生(いんねんしょしょう・一切の現象はすべて因(原因)・縁(条件)によって果(結果)としてある・因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅する)であると思う。なぜならば、因縁所生は一切皆空や埋葬寂静と裏表の関係にあり、一切皆空や涅槃寂静((ねはんじゃくじょう)は、仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界涅槃)は、静やかな安らぎの境地寂静)であるということを指す)を論理的に説明するものが因縁所生であるからである。また因縁所生は、縁起と呼ばれるが、『稲稈経』には、「縁起を見るものは、法を見、法を見るものは、仏陀を見る」と善かれているし、竜樹は『中論』の第一章において、まっさきにこの因縁の問題を取りあげている。したがって、仏教の三大根本命題には、諸行無常諸法無我のはかに因縁所生を取りあげるのが至当だと思う。

 ではつぎにそれらを順次説明しよう。

 一、諸行無常 

 万物はすべて絶えざる運動と変化の過程にあるということ。行とは存在のこと。存在を「行くもの」として、すなわち不断の変化と発展の過程にあるものとして、とらえた概念である。無常とは恒常でないこと。つまりたえず変化し発展していること。ギリシアの哲学者へラクレイトス(紀元前六世紀末ごろ)が「万物流転す」、といったのと同じである。

 存在がたえず変化し、発展しているということは、存在は絶えざる自己否定の過程にあるということ。絶えざる自己否定の過程にあるということは、存在はそれ自体であると同時に、それ自体ではないということ。つまり色即是空(色は即ち是れ空なり)ということである。それほ同時につぎの諸法無我ということに通じる。

 二、諸法無我

 いかなる存在にも自性はないということ。法という言葉にはいろいろな意味があり、法則、真理、仏の教え、規範、存在など多くの意味に用いられるが、もともとの意味は客観的自然のことであり、森羅万象の個々の存在のことである。この客観的世界は法則に支配されているから、この法則のことも法と呼び、法則は真理を反映したものであるから、真理のことも法と呼び、その真理を説いたものが仏の教えであるから、仏の教えも法と呼び、法則や真理や仏の教えは人間に対する規範であるから、規範も法と呼ぶ。

註1 西洋的思考法は分析的であるため、言葉も細分化され、限定されるが、逆に東洋的思考法ほ直感的、総合的であるため、言葉も包括的、統一的である。 註2 法とは梵語でダルマ(dharma)という。中国禅宗の初祖菩提達磨(六世紀のはじめ)のダルマとは、この法のことであり、客観的世界、すなわち真理とひとつになった人、という称号である。

 釈迦生存当時のインドには、いろいろな学派が起こり62の学派があったといわれているが、どの派も「この世界にはなんらかの基本的な実体があり、それが変化発展して万物を生じたものである」と主張した。

 たとえば、『ヴェーダ』以来の正統バラモン教は、この世界は、梵天(プラーフマー)や自在天(マヘーシュバラ)などの最高神が創造し、支配しているものであると主張し、ウパニシャッドの正統派哲学は、宇宙人生にはそれを支配する最高原理、すなわち梵我(プラーフマン)があり、それは万物に遍満しているが、人間の場合にはその分身としての個我(アートマン)が心の奥に永遠不変の実体として存在している、と説いた。またヨーガ派は、精神原理としての神我(プルシャ)と物質原理としての自性(プラクリティ)とが、この宇宙人生を構成する基本原理である、と二元論を主張した。また六師外道の一派であるアジタ・ケーサカンバラは地・水・火・風の四元素こそ、あらゆるものの究極的な要素であり、この四元素の離合集散によってさまざまな現象が起こると説いた。

 したがって、釈迦が、この世の存在にはいかなるものにも実体はない(諸法無我)、と説いたことは、まさに前代未聞のことであり、天動説に対する地動説のような革命的な考え方であった。そしてこの考え方は、人生の面では固定的な観念としての絶対的なものを認めない立場、すなわち、一切皆空の考え方でもある。

三、因縁所生

 因縁所生とは、「存在はすべて因と縁から生じたものである」ということ。

伽経(りょうがきょう)』は、これを「因縁の和合によりて諸法生ず」と表現している。竜樹もこれを「中論』のまっさきに取りあげて、「あらゆる存在はどこにあっても、またいかなるものであっても、自体から生じたものでもなく、また他体から生じたものでもなく、また自体と他体の両方から生じたものでもなく、また因なくして生じたものでもない」と説明している。これは、「あらゆる存在は関連の発展それ自体の中に存在の根拠を有するものであって自体であれ、他体であれ、どのような実体からも生ずるものではない」ということである。

 しかし、私ははじめ、この「因」と「縁」ということの意味が精確に分からなかった。最初はただ漠然とこれを「原因」と「条件」というふうに考えてみた。しかし、「万物は原因と条件から成る」というのでは世界の説明としては当然すぎる。そこで、つぎにはこれを「内国」と「外国」というふうに考えてみた。しかし、「万物は内因と外因とから成る」というのも存在の実体を説明した語としてははっきりしない。

 そこで、今度はこれを「直接因」と「間接因」というふうに考えてみた。しかし、「万物は直接国と間接国とから成る」というのもやはり関係を述べただけで実体が分からない。ところが、前にも書いたように、ある日毛沢東の『矛盾論』を読んでいたらたまたまそこに「因とは変化の根拠であり、縁とは変化の条件であって、鶏の卵は適当な温度を与えられると鶏に変化するが、しかし温度は石を鶏にかえることほできない。両者の根拠が違うからである」と書かれているのを見て、「あっ、これだな」と思った。要するに、「因」とは天地開闢以来連綿と続いている生命の流れであり、「縁」とはその生命の流れの過程における関連であり、相互依存関係である。私という人間は悠久たる生命の流れの中のほんの一瞬の過程であり、しかも、その私は全宇宙からみれば原子核よりも小さい存在にすぎないかもしれない。しかしその私は同時に、生命の流れそのものであり、生命の流れの全体である。「個」であると同時に「全」であり、「一」であると同時に「一切」である。

 これが、いかなる存在にも仏性がある悉有仏性(シツウブッショウ)ということであり、また生命の重さ、尊さの根源である。

 ただここであらかじめ注意しておきたいことは、生命の流れとか、仏性というと、なんとなくそういうものがあるような先入観にとらわれてしまう。しかし、諸法無我のところでも説明したように、そのような固定したものはない。生命の流れといってもそれは関係それ自体の自己発展にすぎない。しかし、関係それ自体の自己発展といっただけでは、抽象的で分かりにくいので、私はこれを生命の流れと表現したのである。

 竜樹はこの生命の流れのことを、「依存関係の生起」と呼んでいる。そして「依存関係の生起は生起しない」という。「依存関係の生起は生起しない」ということは、「依存関係の生起」それ自体は絶対的なものだということである。また「依存関係」が生起するということは、この世界が相対的なものとしてあらわれるということである。ここでたんに「依存関係」といわず、わぎわざ「依存関係の生起」といったのは、この「依存関係」を固定的なものとみるのでなく、絶えざる変化と発展の過程にあるものとみたからである。

 これで「因」と「縁」の正しい意味が分かった。「因」とは存在を存在たらしめている根拠であり、大自然における運動それ自体であり、生命の流れである。また生命のはたらきといってもいいであろう。ところが、一般にいわれる「因」という言葉にほもうひとつ別の意味がある。つぎにそれをみてみよう。

▶「根因」と「関係因」

 因にはもうひとつ別の意味がある。それは「火災の原因」であるとか、「故障の原因」などという場合の原因のことである。つまり、事物の因果関係における原因のことである。そこで私はこの因と、前に述べた「生命の流れ」としての因とを区別するために、前者を「関係因」と呼び、後者を「根因」と名づける。「関係困」は原因と結果との相対的関係であるのに対して、「根因」は世界の発展それ自体の絶対的関係であるということができよう。また「関係因」は、「根因」の自己運動の過程の一部分を抜き出して、そこに、原因と結果との因果関係を認めたものにすぎない。これをエンゲルスはつぎのようにいっている。「原因と結果とは限られた関係においてのみ妥当する観念であって、その限られた関係を世界全体との全体的連関のなかで考察すると、両者はたちまち消滅して単なる普遍的な交互作用という観念に転化する

またレーニンはいう、

 「自然ははじめもなく、終わりもない。自然のうちにあるすべてのものは交互作用をし、すべては相対的で、すべてほ結果でもあれば原因でもあり、すべては全面的であり、相互的である」(哲学ノート212p)。つまり、根因とは存在が、たえずひとつの関連から他の関連に移行していることである。

 揉皮(なめしかわ)加工職人でありながら、マルクスやエンゲルスとは別に、独力で唯物弁証法の理論を展開し「(人間の)頭脳のはたらきの本質」という本をあらわしたディーツゲン(1828~1888年)はその本の中で、「ある物の原因とは、そのものの連関のことである」といっている。

 自然の合法則性、因果性、必然性と呼ばれるものは、この関連性のことである。

 われわれほ、よく宿命とか運命という言葉を口にする。ときには前世の因縁という言葉も耳にする。これらの言葉には自分ではどうすることもできないものという嘆きと諦めのひびきがある。しかし、この嘆きの裏にほ、同時になんとかならないかという未練がある。なんとかなりそうでいて、なんともならないという壁にぶつかったとき、人は宿命とか運命ということを強く感じるのである。

 なんともならないことを必然といいなんとかなりそうなことを自由というわれわれの人生はこの必然と自由との統一である。

 ある宗教家は、「宿命とは変えられないもののことであり、運命とは変えられるもののことである」といった。これも人生に自由と必然の両面があることを述べた言葉である。

 しかし、宿命とか運命という言葉には本来このような違いはない。運命も「さだめ」と呼ばれるように、変えられない一面がある。宿命とは「生命が宿っている姿」であり、運命とは「生命が運ばれて行く姿」であって、どちらも人の世が生命の流れの過程であることを述べたにすぎない。したがって、宿命にも自由と必然の両面があり、運命にも自由と必然の両面がある自由とは必然に従って生きることである。必然に逆らうからそこに不自由を感じるのであり、必然に従って生きれば、なにからもさまたげられず自由である。いかに自由がいいからといって、食べないで生きるわけにいかず、ねないで生きることはできない。自然という名の必然に従ってこそ、われわれは生きることができ、ほんとうの自由を満喫することができる。

 望んでも無理なことははじめから望まず、やれることに対しておおいに努力してこそ、自由があるといえよう。自由のための闘争というとなんとなく必然を無視することのように考えがちである。しかしそうではない。自由のための闘争というのは、不自然に対する闘争であり、必然的でないことに対して必然性を回復しょうとする運動である。

 宿命や運命と同じように、誤った意味に解されている言葉に「諦め」がある。諦めといえは、自由の放棄のように解されている。しかしそうではない。諦めとは、何ができることで、何ができないことであるかをはっきりさせること、つまり明らめることであり、それに従うことである。

 「諦」という語のもともとの意味は真理ということである。日本語はどうしてこのように本来の意味がゆがめられ、消極的な意味に使用されるのであろうか。

 世界を(あるいは存在を)、ひとつの関連とみる、この「根因の論理」は、「空の哲学」において非常に重要な概念であり、原因はすなわち結果であり、結果はすなわち原因であるということを説明するだけでなく、理想と現実の問題、悟りと修行の問題、真理と仮設の問題を現実の生きた姿において説明する重要な論理である。

 存在を関連としてみるということは、統一体としてみることであり、観念的な存在としてでなく、具体的な存在としてとらえることである。

 色即是空・空即是色における色と空との関係も、この「根因の論理」にほかならない。そしてこの「根因」の具体的な姿としての「生命の流れ」についてつぎに考えてみよう。

▶「因」とは生命の流れである

 人間自身の直接の「因」は一個の受精卵である。人はすべて一個の受精卵を「因」とし、その分裂、増殖によって成長した。しかしその受精卵ももとは、両親の交合によって生まれたものであり、その両親はさらにまたその両親を「因」として生まれたものである。

 このように、親から親へとつぎつぎにさかのばってゆくと、われわれの「因」ほ最後には35億年前に海中に誕生した一個の原始生命にたどりつくことになる。逆にいえば、この原始生命が35億年かかって進化発展してきた全過程がわれわれひとりひとりの 「因」ということになる。

 しかし、その原始生命がこの地球上に誕生するためには、それ以前に地球自身の誕生(45億年前)がなければならず、また、その地球に彪大なエネルギーを供給している太陽の誕生(五〇億年前)がなければならず、さらに宇宙の誕生、つまり百数十億年前に起こった宇宙の大爆発(ビッグ・バン)までさかのぼることになる。今のところこれ以上は分からない。

 ところで、われわれの生命の根源である原始生命ほ、どうやって生まれたのであろうか。最近の生命科学によっていくらか明らかになったことほ、約三五億年前に、大気中にあった二酸化三炭素(C3O2)とホルムアルデヒド(HCHO)が紫外線や、稲妻の放電によって結合し、アミノ酸となり、それが原始の海の中で成長して原始生命の「種」になったのではないかといわれている。そしてこの原始生命からわれわれが高校で習う生物進化の歴史が始まり、胎生代、原生代、古生代、中生代、を経て、現在の新生代に至り、猿人、原人、旧人、を経て、2万5000年前に現代人の直接の先祖である、新人(ホモ・サピエンス)が出現する。そして原始生命から今日の人間が生まれるまでの進化の過程ほ受精卵が胎内で成長する個体発生の過程と同じだというが、それを参考までにみてみよう。

 「排卵された卵は輸卵管の入口近くで受精すると、卵割をはじめる。ヒトの卵は卵黄が少ないので、ウニのように等分に割れて行く。胞胚になるまでしだいに輸卵管内を子宮に向かって移動する。排卵後、およそ一週間で胞胚は子宮の粘膜に着き、粘膜の中へ陥没してしまうこれを着床という。ヒトの胚の発生は、ウニの場合と著しく異なり、胚膜が形成されるので、鳥類や爬虫類と似てくる。しかし鳥類の卵黄のうや、尿のうに相当する袋も形成されるが、ほとんど役立たない。これは哺乳類の祖先も、鳥類・爬虫類のように卵黄が多かったが、胚が母体内で育つように進化したため、必要な栄養を母体からとれるようになって、卵黄が退化したものと考えられる。受精後一ケ月たつと、胚は約一センチメートルに成長し、手足のもとや、尾もみられ、水中生活をしていたと思われる人類の遠い祖先の名ごりとしてえら孔もできる。二ケ月の終り頃からまったく、人らしい形となり、胚は胎児と呼ばれるようになる四〜五ヶ月になると、男女の性別も明らかとなり、母親は胎動として、胎児の動きを感じるようになる。八ケ月には人としての組織や器官はすべて完成し、あとほ成長するだけである」(NHK通信高校講座『生物』のテキストによる)

 これがわれわれ人間の具体的な「因」(生命の流れ)である。仏教でいう因縁所生(存在は「国」と「縁」から成りたっている)の「因」とは、人間の場合はこの生命の流れにほかならない。

■生命現象

 別にここで生物学のおさらいをするつもりはないが、生命の流れ、すなわち「因」について明確な概念をもつことは、因縁所生を理解するうえで重要だと思われるので、生命についてさらに調べてみよう。

 生命の流れといっても、犬から鶏が生まれたり、猫から猿が生まれたりはしない。「蛙の子は蛙」というように、生命現象ほ同じ種を生み出してゆく。これを遺伝というが、遺伝現象はたんに親の形質を子に伝えるというだけでなく、それ自体が生命現象の重要な一環である。

▶染色体に含まれる遺伝子情報

 通常の生物の場合、この遺伝をつかさどっているのは染色体の中の遺伝子である。人間の細胞には、どれにも46個の染色体があり、その染色体はふたつずつ対になっていて、その対になった23個の染色体が、特定の形質の遺伝の役目をもち、とくに、その中の二種の染色体は、性の遺伝に深い関係がある。すなわち男子の細胞内にはⅩY染色体があり、女子の細胞にはⅩⅩ染色体がある。

 

 この染色体の中に糸のようになってはいっている遺伝子は、DNA(デオキシリボ核酸)と呼ばれているが、糖とリソ酸とが交互に並んだ二本の糸状のものがらせん状に巻かれたもので、この二本の糸は、糖の部分で双方の塩基によってつながれており、はしご状になっている。そして糖とリン酸と塩基とが一個ずつセットになったものをヌクレオチドと呼ぶ(下図参照)

▶遺伝子の結びつき方

 塩基にはA(アデミン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)という四つの種類があるが、これが遺伝情報を伝える文字の役目をし、この四種類の文字を三つずつ組み合わせて、暗号をつくり、その暗号によって20種類のアミノ酸があらわされている(四種類の文字の三つずつの組み合わせであらわされる情報の数は、4×4×4=64種類であるが、64種類の記号を全部使わず、余裕をもっている)。また、どの記号がどのアミノ酸をあらわすかということも分かっており、俗に遺伝暗号表と呼ばれるものがつくられている。

 そのうちのいくつかを示すとつぎのとおりである。

 CCC(プロリン)、GAC (アスパラギン酸)、AAG (リジン)、CGA (アルギニソ)、CAT(ヒスジン) 

 これらは塩基が一本の糸状の遺伝子の中に縦に並んであらわす暗号であるが、二本の糸をはしご状に横につないでいるときの塩基は、結合する相手が決まっていてAはTと、GはCとしか結合しない。そして、この遺伝子DNAは、自己と同じものを複製するとき、まず、二重らせん状の糸をほどき、その二本の糸がふたつに分かれて、その両方の糸の塩基が核内につくられている新しいヌクレオチドと結合して、もとと同じ二重らせん状のDNAとなる。こうして二組みのDNAになったものが、細胞分裂のときにふたつに分かれて、それぞれの細胞の中にまた一組みずつ伝えられることになる

▶遺伝子のはたらき

 人間の細胞一個の中にはいっている遺伝子を伸ばして、これを全部つなぎ合わせると1メートルにもなり、その中にはいっている暗号(主としてアミノ酸記号)は、50億個だという。人間の身体は、全部で約60兆個の細胞から成るといわれるから、人間の身体の中にある遺伝子の長さは約60兆メートル600億キロメートル)ということになる。ところが、その複雑な遺伝機構も、A、T、G、C、というたった四種類の塩基が基本となっており、これは大腸菌の細胞でも、人間のような高等動物の細胞の場合でも同じである。そして複雑な遺伝子複製のメカニズムも、この四種類の塩基が結びつく相手が、それぞれ決まっているというたったこれだけの約束ごとでうまく処理されている。

 これほちょうどコンピュータが0と1というたった二文字を基本的な要素としただけで、複雑な計算をスムーズに処理しているのに似ている。

 これが生きとし生けるものの「国」であり、生命の流れのメカニズムである。 ではつぎに物質の場合ほどうであろうか。

▶物質の「因」

 非生命体である物質の場合も、その「因」は遠く宇宙の誕生以前にさかのぼることができる。宇宙も進化しているが、爆発(ビッグ・バン)以前の宇宙では、ヘリウム反応が活発であったという。

 その後、ガスやチリが集まって星が生まれ、また各種の元素が生まれた。それが歴史的にみた物質の「因」である。その「因」は、現時点では物質の性質あるいは法則という形で作用している。物質もそれを細かく分けていくと、百何種類かの元素に分類される。各元素は固有の原子が集まったもので、その原子は一個の原子核と、それを取り巻く原子とから成り、各元素の性質の違いは、その電子や原子核の中の陽子などの素粒子の数の違いにすぎないことが分かった。そしてこれらの素粒子は、もうこれ以上は分割できないものであると考えられていた。

 しかし、最近の研究によれば、この陽子にも寿命があり、寿命がつきると正の電荷をもった陽一子と、中性のパイ中間子などにこわれ、最後ほ光とニュートリノになるという。

 これを一表にまとめるとつぎのようになる。

 こうやってみてくると、あらゆる存在ほ究極的には単純なふたつの対立する要素に帰着するように思える。 中国の『易経』には「一は二を生じ、二は万物を生ず」という言葉があり、また陰陽説は、世界のあらゆる現象を陰陽の組み合わせによって説明し、解釈しようとしている。しかし、最近の諸科学の成果をみていると、まさにたいていのものが最後にはふたつの対立した基本的な要素に還元されているようにみえる。

 レーニンはいう、「弁証法とは対象そのもののうちにある矛盾の研究である」と、

 「対立物の同一性(または統一)とは、自然(精神および、社会をも含めて)のすべての現象と過程のうちに、矛盾した、たがいに排除しあう、対立した傾向を承認すること(発見すること)である。世界のすべての過程を、その「自己運動」において、その自発的な発展において、その生き生きした生命において、認識する条件はそれらを対立物の統一として認識することである発展は対立物の闘争である。発展(進化)についてのふたつの基本的な考え方は、増減、繰返しとしての発展と対立物の統一としての発展である」と。そして自然界の諸現象界にみられる対立的要素をつぎのように指摘している。

「数学では − プラスとマイナス、微分と積分。  

力学では−−・作用と反作用。  

物理学では − 陽電気と陰電気。  

化学では − 諸原子の化合と分解。  

社会科学では − 階級闘争」(『哲学ノート』岩波文庫版196p) 

 しかし、このほかにもまだまだある。

生物における雄と雌。 

自律神経における交感神経と副交感神経。すなわち、促進と抑制。 

植物における炭酸同化作用と、動物における呼吸作用。  

宇宙における膨張と収縮。  

生命における生と死。  

光における粒子性と電磁波性。などである。

 毛沢東はいう。「すべての事物のうちに含まれている矛盾の側面の相互の依存と相互の闘争とが、すべての事物の生命を決定し、すべての事物の発展をうながす。どんな事物でも矛盾をふくんでいないものはなく、矛盾がなければ世界はない」(『実践論・矛盾論」40p)「単純な過程にはふたつの側面からなる矛盾がひとつしかないが、複雑な過程にはふたつの側面からなる矛盾がふたつ以上ある。またそれぞれふたつの側面からなる諸矛盾のあいだにもまた矛盾がある」(同71p)

 これが因縁所生の意味であり、般若心経における「色」の弁証法的解釈である。