ザッキン

■キュビスムとエコール・ド・バリの間

井関正昭(東京庭園美術館館長)

 オシップ・ザッキン(1890〜1967)について書かれたものをいくつか見ているうちに感じた一つは、ザッキンとキュビスムの関係に対する考え方の違いである。つまり、ザッキンを完全なキュビストと考えるか、いやもっと別の要素が入り混じってその結果彼はキュビスムを超えた彫刻家ではないか、とすれば、どのように超えたのだろうといったザッキンの実態を見極めようという多様な姿勢である。

 多くの人がさまぎまにザッキンを語っているわけだが、勿論ザッキンが今世紀の偉大な彫刻家の一人であることに変りはない。

 きかん気で少し気取りのある物腰と詩人のような瞑想的な雰囲気をもつ一人の青年がいくつかの鞄(かばん)をぶら下げてパリの北停車場に降りたったのは1909年の10月であった。故郷のスモレンスクからザッキンが初めてパリに出たこの年は、ブラックがエスタックで描いた風景画をマティスが「キューブ」という言葉で評してキュビスムの名称が生まれた翌年である。その前の年にピカソは《アヴィニョンの娘たち》を描いてキュビスムの理念を顕示していた。

 キュビスムの誕生を印したとされるこの《アヴィニョンの娘たち》は、しかしキュビスム自身の絵ではない。

 キュビスムはピカソとブラックの直観によって生まれたのは事実だが、≪アヴィニョンの娘たち》はむしろピカソがアフリカの黒人彫刻に出会ったことを証明する点で重要なのである。キュビスムとアフリカ彫刻の関連の重要性はザッキンの初期、彼がパリに出て一時期ロダンの強い影響を受けた頭像や群像彫刻を制作したのち、彼自身のその後の生成に大きな役割を果たすことになる。

 

 ピカソがコラージュ(: : collage)とは現代絵画の技法の1つで、フランス語の「糊付け」を意味する言葉)を、ブラックがパピエ・コレ((papier colléはフランス語、英語では「pasted paper」であり、「何かをのり付けした紙」の意味である) )の技法を発見して1911年ごろからいわゆる古典的キュビスムの作品を発表したころ、キュビスムにおける黒人彫刻の直接のイメージはすでに過去のものになっていたといえよう。しかし、ザッキンにおいてはアフリカの黒人彫刻はキュビスムが古典的、分析的キュビスムから総合的なキュビスムに移る同じ時代に深くかかわっていたのである。このことはザッキンの1913年の作品≪聖家族》や翌年の〈女性の胸像》(下右)、そして同年の≪ヘルマフロディーテ》(下左)にも)たる作品群で明らかである。

註:主観的構成の意図を持たない「意想外の組み合わせ」としてのコラージュは1919年マックス・エルンストが発案した。主に新聞切れなどや針金ビーズなどの絵具以外の物を色々と組み合わせて画面に貼り付けることにより特殊効果を生み出すことが出来る。後に様々な方向で工夫されて発展し、現在に至る。

 キュビスムは本来平面の絵画における革命だったのに比べ、ザッキンの立体の中では黒人彫刻自体が立体的な構造であるため彼がより一層の親和感をもったのも理解できる。従ってやや短絡していえば、ザッキンがその後黒人彫刻の直接の影響から離れ、分解した対象の部分を再構成するというキュビスムの理念に一見忠実に見えながら、いわば三次元のキュビスムらしい作品を続けるのだが、実はそれらは再構成ではなく、当初から独立した一つの建築的な構成の創造であることが次第にわかるのである。そしてそれらの作品では外部の空間はいつも彫刻の内部に自由に入りこむ。

 この場合、ザッキンの作品に見られる幾何学的な構成、とりわけ顔の表情における凹凸の逆置はピカソのキュビスムの理念をいつも色濃く残しているが、しかし全体の構造は時にはレジェの機械の組織のような、時にはデヰリコの彫刻のようなシュルレアリスムの形態を示し、これらが総合されてザッキンの独自の構成を生んだのだといってよい。

 もともとキュビスムは三次元の世界を概念のリアリズムとして二次元の絵画に還元することにより、絵画を一つの美的な存在として結実させるのを目的とした新しい考えであった。とすればザッキンの多くの素描は二次元の絵画というより三次元的な立体の単なる平面化にすぎないことに気づくはずである。とはいえ、勿論これらの素描たちが独立したタブローとして形態的にすぐれた絵画になっていることは忘れることはできない。

 結局、ザッキンをキュビストの一人とする場合、≪アヴィニョンの娘たち〉を原点としたピカソの分析的キュビスムのザッキンの個性による独自の解釈の延長上にある作品だけに限られるのではないだろうか。

 ところで、第一次世界大戦の始まる1915年以前の10年間のパリは、周知のように世界中から若い芸術家が集まり、彼らは芸術のメッカ、パリの魅力に取りつかれてそれぞれが印象派以後の波乱に満ちた芸術運動に自らかかわりながら個性的な人間集団を形成することになった。エコール・ド・パリという名称のもとで歴史上区別されるこの特異な現象の約10年間ほど西洋近代美術の誕生期として華麗で実り多い時期はなかったといっていい。

 オシップ・ザッキンもまさにこの中にいたのである。

 エコール・ド・パリはこういった人間集団の中の出会いから生まれた一つの芸術運動ではあったが、しかし一つの流派ではなかった。むしろエコール・ド・パリは相反する当時のいくつかの流派の総合的な名称だったといえよう。キュビスムもその一つであり、シュルレアリスム、表現主義、抽象主義などが主要な構成要素で、共通するのは芸術の創造における自由、独立、勇気の精神の環境の中で育ち、既成の価値観を拒否して印象派が1920年ザッキンとヴアランティーヌブラックスの結婚(右矧ま立会人の藤田嗣治夫事)発見し獲得したものを徹底的に追求する新たな一つの段階としての芸術運動だったのである。

 といこうことは、キュビスムのザッキンはエコール・ド・パリのザッキンと同じザッキンであるということで、彼が故郷からもってきた自由、独立、勇気の精神を充分に発挿できるこの華麗な時代の中にいるザッキンの宿命をわれわれは凝視せざるをえない。

 ピカソ、ブラック、グリス、モカリアーニ、シャガール、ブランクーシ、リプシッツ、バスキン、レジェ、デュシャン、藤田、ドローネー等々、これらをエコール・ド・パリの集団と考えることはできるが、この中でキュビストたちとしてあげられる名前はピカソ、ブラックそしてレジェ、ドローネー、アルキペンコである。

   

 エコール.ド・パリという現象を分析して、例えばジャン・カスーは次のように述べている。1914年の戦争前のモンパルナスには、世界中から集まった芸術家たちが住んでいた。イタリア、スペイン、スカンジナビア、アメリカ、日本、ハンガリー、スラヴ、中央および東ヨーロッパのユダヤ人等々彼らをひきつけた原動力は、芸術のメッカとしてまた最も力強い創造の行なわれる劇場としてのパリの魅力、最も多様な源泉から発した最も多様な傾向が秩序を保ちながらも完全に自己を開花させることのできる学校としてのパリの魅力である・・・。」

 エコール・ド・パリの中でキュビスムが最も際立った新しい芸術運動の流派だとすれば、ザッキンがかかわったキュビスムとピカソ、ブラックそしてマティスがかかわったキュビスムの間にどんな違いがあるかに問題は還元されそうである。

 だが前述したように、ザッキンのキュビスムがピカソやブラックが目指したセザンヌの幾何学的分析に基づく二次元の絵画的な性格をそれ程もっていないとすれば、エコール・ド・パリの中のザッキンの位置づけだけに限って議論されるべきかもしれない。

 時代的にいえばエコール・ド・パリという名称は1925年ごろからのモンパルナスを中心としたパリで若く困難な制作をしていた芸術家たちを指すことが多いのだが、それに比べればキュビスムはもっと早い時期に生まれ果敢に新たな芸術を作りだしたとされる。外国人を主体としたエコール・ド・パリの方は一定の理念はなく、モディリアーニやパスキン、シャガールなどに見られるようにむしろ不安と哀愁といった心理の表出に焦点が当てられたともいっていい。いずれも離れた故郷を背後に背負い、パリという都会の中で新しいフランス文化の創造に苦闘した上での使命感と孤独感に彼らは重圧を感じていたのである。

 しかし、20世紀になってから第一次大戦後も含めた華麗なパリの時代の美術家たちを総称してエコール・ド・パリということができれば、疑いなくザッキンという芸術家はキュビスムの中の一人であり、かつエコール・ド・パリの代表者でもある

 ただし、ただそれだけなのだろうかという疑問も生まれる。

 ここでは、「重要なキュビスムの彫刻家4、5人の中にザッキンの名があげられるとしても、それは確かにまちがっていない。」というパリのザッキン美術館の前館長シルヴァン・ルコンプル氏の言葉と、「ザッキンはエコール・ド・パリの巨匠の一人である。その活動からいっても、エコール・ド・パリの中心そのものである。」という評論家のイオネル・ジャヌーの言葉を引用するにとどめたい。

 そしてこの二つの言葉の意味は多分ザッキンという芸術家はキュビスムを経験したにかかわらずエコール・ド・パリの芸術家として理解した方がよいということであろう。ということは、一面ザッキンはそういった流派や芸術運動にあまり関係がなかったのだという議論にもなるといっていい。たしかに、ザッキンにおけるキュビスムの体験はピカソと同様とくに初期において原始美術とりわけアフリカ黒人芸術の体験であり、ヨーロッパの伝統にないエジプトや東洋美術の体験でもあって、これが以後のザッキンの創造の原点になったのも確かである。

 ただ彼のピカソとは違ったその後の方向は、とりわけ20〜30年代以後、ホアン・グリスの分析的キュビスムの豊かな装飾的な解決と、さらにデ・キリコの影響の間の解決の間を揺れ動くという体験をしていた点が注目されよう。あるいは行為という演劇的な側面と表現主義の間の一つの解釈としての側面も見ることもできる。前者の成果としてはプチ・バレの作品くオルフェ〉があり、後者の成果としてはロッテルダムの≪破壊された都市》(下図)をあげることができよう。とりわけザッキンはピカソのキュビスムに対し立体(キューブ)よりむしろ量(ヴォリューム)の追求に向かった彫刻家であった。このことはキュビスムの観念的な構成の中にオブジェを閉じこめてしまう危機をザッキンが感じたことを現わすといっている。

 

 キュビスムが話題になったときザッキンはこんな風にいった。「キュビスムは事物を分解するのではなく再建する。それはオブジエの内部の骨格を再建し、フォルムを純化する運動だったが、これは何もキュビスムに限ったことではない。なぜなら生命に形を与えることはあらゆる絵画彫刻の課題なのだから。‥・…」。更にこうもいっている。「私はいわばキュビスムの幼少組に属していた。彼らと同居し彼らと交わったが決して彼ら主流派の壮年組とは行動を共にすることはなかった。」

 こうして見るとザッキンがキュビストの一人であるのは事実だが同時に広い意味でのエコール・ド・パリの巨匠の一人であり、かつそれ以上あるいはそれを超えた一人の全く独立した彫刻家であると考えるのも決して間違いではない。

 一方エコール・ド・パリについてザッキン自身がこんな風にいっているのは興味深い。「それは様々な特性の寄せ集めである。パリは感性をゆさぶり刺激を与えた。ロシア人がもたらしたのは、小川の岸辺にかかる雷の静けさ、水中で跳びはねる魚の音に遮られ、その昔が葦の茂みにこだまする。そんな森の静けさである。自然とのつながりが彼らに詩的な言葉を話させた。それは広大な起伏のある平原で生まれたロシアの詩であり、ツルゲーネフの〈狩人の思い出〉の雰囲気であり、幼少の頃の追憶の叙情詩的余韻である」

 多くの言葉を語っているザッキンの一つの言葉である。ここでは自らがエコール・ド・パリの芸術家であるが、それぞれの母国のもつ民族的な資質をパリで見事に開花させたとしてもザッキンはとりわけ母国の自然の郷愁をただよわせた芸術家であることを伝えている。

 パリの喧騒の中でザッキンは故郷の自然への回想にふけっていたのは彼の自伝的回想録『槌とノミ』(1968)によく現われているが、いいかえるとそれは芸術の都としてパリに生きなければならない側面と、つまりパリの日常性にしがみつかなければならない現実と故郷という回想の二重写しの中に自分自身の世界を描かなければならない運命を現わしている。これはザッキンだけでなく他のエコール・ド・パリの芸術家シャガールや日本の藤田も同様であろう。このことを考えると自然に最大の敬意を払いながらザッキンは自然そのものを表現することをしなかった芸術家であるともいえよう。造形と創造という考えが絶えず彼の頭の中にあったはずであり、同時代の傾向としてまず若い時代は他の同じ若い芸術家ブランクーシ、リプシツツ、モディリアーニを刺激していた民族的な彫刻、とりわけアフリカの黒人彫刻がザッキンの造形に強く意識していたに違いない。キュビストとしてのブランクーシやアルキペンコが出品したアンデパンダン展を見てザッキンは打ち砕かれたと回想しているのもこれを現わしている。

 だが、ザッキンと自然との関係は芸術家の魂の原点としていっそう解明されなければならない。彼の多くの作品に見られる幾何学的な構成、つまり線と面で包まれた部分の構成は、彼のノミで深い溝で刻まれるに拘らず、その傍らの面を繊細な思いで膨らみをもたせ、それを愛する人のようにいたわり愛撫することを忘れない0そしてそれはいつも自然を魂の原点とする行為であった。「フォルムの世界はたえざる魅力をひめた無限の森林のごときものでありましょう」注7)という彼の言葉がまさにザッキンの原点なのである。

 また、とりわけ初期の木彫は彼がロシアの森の中の樹々に対する懐かしい想い出であり、形態ではなく魂においてまさしくそれはザッキンの作品の肉付けであるのは疑うことはできない。この点はキュビスムのピカソ、ブラック、マティスがもつ魂の原点であるフランスの伝統文化とは明らかに異なる点だといえよう。おそらくザッキンはピカソに敬意を払いながらも、自然を魂の原点とする自己の体験を自負したにちがいない。この意味で、ザッキンにとってキュビスムへの共感は、フランス文化の伝統にないアフリカの黒人彫刻の造形的なエキゾチックな自然だけだといえなくもない。彼は自分がキュビストであるという世評に対してはいつも反論してtゝたが、それもこういった自然に対するピカソたちのキュビストとの違いを認識してのことであろう。

 

 以上の点を簡単に作品に沿って見ると、1913年の《ヘルマフロディーテ》(上図左)のアフリカ彫刻の刺激が見られる作品から1925年の≪ヴィオールをもつ女》(上図右)に至る過程でザッキンは次第に幾何学的構成に進み、1926年のパリでの最初の個展でザッキンはすでにキュビスムからの決別を示したといえる。それ以後ザッキンらしい個性が確立されてゆくのだが、1930年の〈助言者》(下図右)ではデ・キリコ風のマネキン人形がザッキンの手にかかって古代ギリシャの衣装をまとったリズム感のある作品となっている。この作品は古典とキュビスムとシュールレアリスムの独創的な見事な統一といっていい。

 

 自然との直接のかかわりでは、自然の要素である木の幹や枝を人体と共通のものとした≪森〉(1945)や《人間の森》(1948)(上図下)といったシリーズがあるが、これらもシュール的な要素が強く見られる。キュビスムから全く離れた《ゴッホの胸像》(1955)(上図左)は、ゴッホの自画像に現われたゴッホ自身のあの極度の緊張感への共感であり、あるいは戦争の与える都市の破壊に対する非人間的な苦痛を現わす彼の代表作《破壊された都市〉(上図右)、ナチスの非人間的な行為に対する抗議である作品≪囚われた人》(1943)(下図)といったように、ザッキンのこういった多様な表現はつきつめればキュビスムやエコール・ド・パリを超えた彫刻表現の理想の実現だということができよう。

             (いせき・まさあき)