■庭とは何か
庭とは、私にとつて訪れる人をもてなす「心の表現」の場であり、修行を重ねてきた私自身の「自己の表現」の場です。
禅の言葉に「牛の飲む水は乳となり 蛇の飲む水は毒となる(牛飲水成乳蛇飲水成毒)」という言葉があります。同じ水なのに、飲んだもの次第で毒にも乳にもなる。庭も同じなのです。ですから日頃からより良い乳にできるよう絶え間ない修行が必要なのです。
庭の作り手となる私の心が整っていなければ、精神性の高いものはできません。庭は私自身を映し出す鏡であり、私そのものだからです。
曹洞宗の大本山総持寺で雲水修行をしたとき、最初の数週間で七四人中、十四人が逃げ出す厳しさを味わいました。肉体的にも精神的にも限界のところに現れる、本当の自分とは何か。その後も「本来の自己」を見つめ続ける修行を重ねてきましたが、私にとつて、その生き様を映し出すのが庭であり、力量を試されるのが庭づくりなのです。庭とは何か
限られた敷地の中に、「わび」 「さび」 「幽玄」 といった日本古来から続く空気と禅の精神性を、どう映し出すか。そこに力を注ぐのです。
欧米では 「かたち」をいかに美しく保つかに主眼を置きます。欧州の庭園は左右対称です。石の文化ですから、建物は石造です。二階、三階建てが多く、庭は上の階から見下ろしたときに美しく見えるようにデザインされています。
日本庭園の場合は、逆です。「かたち」よりも、そこに漂う空気、そして精神性を重視し、それを空間に映し出すことに重きを置きます。その場でしか感じられない大自然を、その場の素材同士や、建物と庭との関係性を大切に、バランスをとりながら配置します。木の文化で、建物は木造です。
心の静けさも、安定感も、大自然に包まれたような至福感も、そこを訪れる人にとつて、深い部分で関わりの持てる庭を作るためには、いかに人の心の中に入っていく庭を作ることができる力量があるか、それが私にかかつているのです。
私の庭と人々が対峠したとき、静かにたたずみ、じつと眺めたくなる庭。そして、自らの生き方を見つめ直し、今、ここに生きていられることの素晴らしさを実感できるような空間。その庭園が日本を代表する空間造形芸術となるよう、日々精進に励んでいるのです。
■石、木、土…すべての命を尊敬することから
庭を作るときの、前提となる考え方があります。「すべてのものに命がある」 ということです。
これは私たち人間以外の命を、心から尊敬することです。木には木の命があり、道理があり、そして、心があります。石にも、土にも、水にも、すべてのものには命があります。これはすべての考え方の基本になつていることです。
すると、どうその命を生かすか、考え始めます。これをたとえば場所ならば「大地の心をつかむ」、「地心をよむ」と言い、石ならば「石心をよむ」、木ならば「木心をよむ」と表現します。
たとえば傾いていたり、曲がつていたり、クセのある木も、どうしたらその木ならではの特徴を生かせるのかを、考えます。
建築は、設計図面があり、施行日程があり、寸法が決まればどんどん素材を使って計画の中で作業を進めていくことができます。
しかし、私の手掛ける庭は、そうはいきません。まず、自然の石や木に、寸法通りのものはないからです。
石を一つ据えるにも、本当に時間をかけて、その石が持つ魅力を最大限に引き出すにはどうしたらいいのか考え抜き、徹底的に、石と対話します。
その石の命(石心)を尊敬し、生かすために、その石の置き方一つ、角度一つを考え抜きます。微妙な据え方の変化一つで、庭全体の空間がガラリと変わるからです。
■心を研ぎ澄ます
庭とは訪れる人をもてなす 「心の表現」の場であり、修行を重ねてきた私自身の「自己の表現」の場であると述べました。
そんな庭をデザインするためには、その場に立ったときに、澄んだ心の状態で、「この場はどういう土地なのか」、大地の心を深く見抜く力が必要です。
そのために、私にとつては、普段の「自然の観察」と「坐禅」が欠かせません。日頃から、自分の心を研ぎ澄まし、自然をよく観察することで心身ともに鍛え、大地の心をよむ受け皿となる自分の心を、いつも澄んだ状態にしておくのです。
日々、どうしても私たちの生活には雑念がつき、欲も執着も生まれます。そういうものを押さえ、できる限り取り除いていく訓練、日.頃の湛然は必要なものです。それが、禅の代表的な修行「坐禅」 です。坐禅は、心を一つにとどめず、何にも執着しない、純真無垢な時間を持つ最良の方法です。
たとえば、毎日泥道びをしていたら、服も体も泥だらけになつてしまいます。そこで一週間に一度、洗濯をする。するとまたきれいになりますが、また泥がつく。そこでまた一週間後、洗濯をします。この繰り返しなら、ついた泥が落ちないような状態になることはありません。洗濯のように、習慣的に自分の心を一度リセットするものとして、忙しければ、週に一回の坐禅でも構わないと思います。ただし、できることであれば、頻繁にされることが望ましいです。
慣れてくると、坐禅をしている間に、鳥のさえずりや風の音、若葉や花の香りなど、普段は気がつかないことに気がつきます。そして「鳥が鳴いているな」 という考えをそこにとどめず、右から左に流せるように、雑念も、とり憑かれていた悩みも流せるようになります。そんな心が澄んだ状態になつてはじめて、場と対峠できるようになるのです。
■自分をごまかさない修行が表現になる
庭をつくることは、修行です。
寺では農作業の労働も「作務(さむ)」と言って仏道修行ですし、坐禅も禅の代表的な修行の一つです。 そんな修行の中でも私にとつて、とくに 「庭をつくる」ということは、これまで行なつてきた修行によって得たもの、できあがつてきた私という人間自身がそこに反映されるという、修行なのです。「本来の自己」を見つめる空間を再現するためには、そこに私をどう表現していくか、庭という空間に一身に自分を注ぎ込みます。ごまかしのきかない、おそろしいものでもあり′ます。
たとえば白砂の上にはうき目、砂紋をつけるという作業も、ずっと集中し、無心にやると、最後まで線は曲がりません。ところが 「うまく、まっすぐひいてやろう」などと思ったりすると途端にそこで集中が切れ、曲がってしまいます。「この位置で何か考えたな」と雑念が入ったことなどが、すぐに見えてしまいます。そういう意味で修行なのです。
また、建物も庭も、完成後も美しく守っていくためには、掃除という修行も欠かせません。とくに大切なのは、見えないところまでもきれいにするということです。たとえば、木の裏側です。表は人から見えますが、反対側は誰にも見えない位置にあるから掃除をしなくてもいいというのではありません。自分自身をごまかしてはいけません。
すべての行為の中には真理、道理がどこかにひそんでいる、というのが禅の立場です。どんなものでも、無駄なものは一切あり得ません。
自分をごまかさない修行が、庭づくりという表現につながるのです。
曹洞宗砥園寺紫雲台「籠門庭」柑99年「籠門庭」北側からの眺め
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暮らしの中に 「行」として行なう、つまり修行があるのです。修行があるから学問ではなく、仏教の宗派になっているのです。そこが大きな違いです。
修行をしていくことによって、自分が気がついたもの、自分の本来の心と出会います。これを 「会得した心」と言いますが、人はそれを何かをもつて表現し、何かの形に置き換えていきたいと思うのです。そんなとき、絵が上手な人、文学的素養のある人、彫刻や庭のような立体系が好きな人など、それぞれが得意分野で自分の会得した心を表現していくことになります。
昔の祖師方の大悟したときの契機というものを、自分で想像して、その瞬間を絵に描いた人たちもいます。彼らを、絵を描くことを得意とした僧侶ということで、「画僧」と言います。また、文学で表現しようとした人は漢詩をよみました。彼らを「五山僧」と言います。五山文学です。また、いしだてそう立体系が好きな人は庭をつくりました。彼らを「石立僧(いしだてそう)」と言います。書は墨蹟と言い、全員たしなみました。
絵では雪舟が、庭では夢窓国師が、五山文学では春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が有名です。
皆、自分で感じたことを、空間で表現したり、平面で表現したり、文学で表現したりするのです。
そんな人々が集まり、いわゆるサロンのようなものをひらきます。この場所のことを会所と言います。
上図のように禅寺には方丈という建物があり、ここは六つ割になつていて、それぞれの部屋に名前と役割があります。内方丈というところの上奥の間(別名住持の間、または書院)を会所として皆が集まり、たとえば墨絵の得意な人が軸をかけるとします。すると、皆でその軸を見て、その軸から何を感じとるかということを、漢詩でその軸に書き加え表現したりします。それは、詩と画の軸で詩画軸というものになります。
また、中には庭を得意とする和尚などがいて、その軸から感じたものをもとに、次の機会までにそこに庭をつくつたりします。すると今度は庭を見ながら皆で考え、詩や絵をつくつたりして、ぐるぐる表現が回るのです。それは皆の心の表現ですから「あなたはこんなことに気がついているのか」と言い合う場所となつていたのです。
この部屋と周辺はもともと、住職が一番、自分の理想とする環境として、すべてを設えたいと願った場所です。 禅寺の住職は本来なら「樹下石上(じゅげせきじょう)」、つまり山中の大自然の中で一人静かに隠棲し、川の音を聞きながら石の上で坐禅をして、自由闊達でありながら静かな生活をするという理想を持っています。
しかし京都など、街の中ではそれができないために、この上奥の間の空間とその周辺に自然を象徴化しようと考えるわけです。滝の景色、山深い景色などです。
石立僧の鉄船宗煕(てっせんそうき・般若坊宗煕ともいう)は「三万里程を尺寸に縮む」と言い、本当に小さな場所に遥か彼方までの景色を落とし込むということをしていました。それが枯山水の始まりです。
■禅僧が武士に生き方を説いた
初めは禅僧たちだけがいわゆるサロン、会所に集まつて、盛んに活動が行なわれていました。しかし次第に仲間に入れてほしいと、武士が来ます。将軍も来たりします。彼らは物事に対する取り組み方、判断の基準を乞いにくるわけです。
武士は当時、年中戦いをして、たとえ親子兄弟でも天下をとるために殺し合いをしていました。すると、何を信じて生きればいいのかわからなくなります。1また、明日、戦いで命を落とすかもしれない恐怖心とどう戦えばいいのかわからず、今を生きるにはどういう心構えでいたらいいのかを知りたいと思うのです。
そんな武士にとつての大きな課題に対し、会所の禅僧たちは、「生きるとはどういうことか」 を説くことで、心を落ち着かせてあげたのです。鎌倉幕府のときも、歴代幕府の長は、皆、禅僧に教えを乞いました。
たとえば北条頼時は道元禅師について出家しています。 むがくそげんその息子の北条時宗は、無学祖元という中国の渡来僧を招き、円覚寺を作って、参禅しながら教えを乞いました。禅僧のもとに武士が通って、物事に対する考え方を学んだのです。次第に武士の中で会所での禅僧の活動の評判が高まり、武士たちは生き方だけでなく、そこから生まれる芸術文化を知りたい、生活にとりいれたいと言い始めたのです。 そうして禅寺から広がりを見せたものは二つあります。一つ目が書院造りの建物です。武士が住宅を造るとき、全部書院造りにしてしまったのです。
また、もう一つがお寺の書院です。もともと会所の場所として使用していた小さな部屋(上奥の間、別名住持の間、あるいは書院)では大人数を収容しきれなくなつたため、お寺にも、廊下でつないだ別棟の書院を造ってしまったのです。
つまり書院というのは、お寺で増築した部分の別棟書院と、武士が住宅として造った書院と、二つあります。
すべての日本の芸術、文化、芸能は、この書院、つまり会所の中から生まれたと言っても過言ではありません。
■一休文化学校
会所に来たのは、武士たちだけではありませんでした。各専門家も尋ねてきます。禅僧に教わりながら、その道を極めようとしたのです。
たとえば花、庭、絵というのは、平安時代は貴族がやっていましたが、鎌倉時代には禅僧にすべてとってかわられました。その後、禅僧のもとに通って学んでいた人たちが、今度は専門家として育ち始めるわけです。
もともと彼らは、師から技術を教わつても、本質がまだない状態です。そこで禅僧のもとで修行に励むのです。
たとえばトンチで有名な通称一休さん、応仁の乱からいち早く復興を遂げた大徳寺の一休禅師のもとには、連歌で有名な飯尾宗祇(いいおそうぎ)や、絵描きで有名な曾我蛇足(そがじゃそく)、茶の湯を大成した村田珠光や、能楽を高めた世阿弥の娘婿の金春禅竹(こんばるぜんちく)などが通いました。全員、一休禅師のお弟子さんなのです。つまりそこは一休文化学校でした。