空海と密教美術

■空海の生涯と東寺講堂の立体曼荼羅

丸山士郎

■一空海の生涯

 空海の生涯については、同時代に書かれた伝記や空海自身が記した自伝があり、当時の人物としてはよく知ることができる。最も重要な伝記は、『続日本後紀』承和二年(八三五)三月二十五日条の浮和太政天皇の弔書に含まれる記述である。自伝はいくつかあるが、『三教指帰』の序文は出家前の青年期の様子を伝える。『三教指帰』は空海の著述で、儒教、道教、仏教の優劣を述べて、仏教が最も優れたものであるということを戯曲風に著したものである。

 内容は、延暦十六年(七九七)頃に著された聾瞽指帰』(ろうこしいき)(上図)とほぼ同じ文章であるが、序文がそれには無い空海の生い立ちの記述に変わっていて、入居後に書かれたと考えられている。入居中については、空海が帰国後に朝廷に提出した報告書である「御請来目録」(下図左)に様々なことが記される。

 

 また、空海が書いた文章を集めた「性霊集」(上図右)にも、空海の事績を伝えるものが多くある。それらによって空海の生涯を簡単に追うことにする。

▶空海の生立ち

 空海は、宝亀五年(七七四)讃岐国(現在の香川県)多度郡に生まれた。生家は佐伯氏で、讃岐国造りの流れをくむ家であった。延暦七年(七八八)、十五歳のときに叔父の従五位下阿刀大足から文書の習読を学び十八歳の時に京の大学に入って勉学に励んだ。大学で学ぶ間に、一人の僧に出会い『虚空蔵求聞持法』という経典を示された。それは、もし経に説かれている通りに虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えれば、あらゆる経典の文句を暗記し、意味を理解することができるというものであった。空海はその言葉を信じ、阿波国の大滝岳に登り、また、土佐国の室戸崎で一心不乱に修行すると、それに応えて虚空蔵菩薩の応化である明星が空に現れたという。

 大学では官吏になるための勉強をしていたが、修行するうちに朝廷での出世や経済的な豊かさを求めることが次第に疎(うと)ましくなり、出家を望むようになる。しかし、周囲から忠孝に反するといって反対にあった。『聾瞽指帰』はそのような周囲を説得するように書かれた、出家の宣言書のようなものであった。

 その後しばらくの間の事績は不明であるが、『日本後紀』によると三十一歳の時に得度したという。得度とは国から正式に僧として認められることをいうので、それまでは未公認の僧であったことになる。空海三十一歳は延暦二十三年(八〇四)に当たるが、入唐した年でもあった。留学僧として唐に渡るには正式な僧になる必要があったが、なぜそれに合わせるように得度が可能であったのか、そもそも、なぜ留学僧に択(えら)ばれたのかは不明である。その時点ですでに僧として高い評価を得ていたのかもしれない。

入唐

 『日本後紀』延暦二十四年六月八日条によると、遣唐使一行は延暦二十三年七月六日に肥前国(現在の佐賀県)松浦都田浦を出航する。当時、大陸への航海は命がけであり、空海が乗った船は嵐のため予定地の明州(現在の漸江省寧波市)から南に遠く離れた福州(現在の福建省)に八月十日に漂着した。その後も、上陸許可がおりずに一行はそこで足止めされ、空海が福州の監察便(責任者)に書状を送って許可を求めている。(『性霊集』巻第五)。そのかいもあってか大使等の長安入りは認められるが、空海には許可がおりず、改めて許可を求めている(同)。

 十二月二十一日に長安に着くが、すぐに仏教の修行に集中することはできなかった。翌延暦二十四年二月に遣唐便が帰国すると、空海はようやく時間を得て高徳名僧を歴訪し、偶然、青竜寺で師となる恵果に出会った恵果は、多くの密教経典を漢訳し、密教を大成した不空の弟子で、その不空は、インドから密教を中国に伝えた金剛智の弟子であった。

  

 初めて会ったときに恵果は、空海が長安にいることを知っていて、会うことが待ち遠しかった、と笑みを浮かべて言ったという。それが二月以降の何時であったかは不明であるが、六月に胎蔵界学法濯頂、七月に金剛界学法潅頂、八月に伝法潅頂を受けている。学法潅頂は、密教尊と縁を結ぶ結縁潅頂のことであるが、伝法潅頂は、密教のすべてを修めたものでなければ受けられない。伝法潅頂を済ませると、恵果は「密教は奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画をかりて悟らないものに開き示す。種々の姿や印契(いんけい)は、仏の慈悲から出たもので、一目見ただけで成仏できるが、経典や疏では密かに略されていて、それが図像では示されている。密教の要はここにあり、伝法も受法もこれを捨ててはありえない。」といって、両界曼荼羅・経典・法具を造って空海に授け帰国して布教することを勧めた。

 十二月に恵果が没すると空海は帰国を決意する。ちょうどその頃、同年一月に徳宗皇帝が没し、噸宗皇帝に代わったことへの慶弔の意を伝えるために日本から高階真人遠成派遣されていた。空海は遠成に帰国を願い出たのであった(『性霊集』巻第五)。翌大同元年(八〇六)のおそらく三月に長安を出発、四月に越州(現在の漸江省紹興市)に着くと、仏典その他の書物収集への協力を越州の節度使(責任者)に依頼している。八月に明州を出航したといい、十月に太宰府に到着する。帰国すると空海は、請来した経典・絵画・彫刻・仏具などの目録(『御請来目録』)を十月二十二日に作成し、朝廷に提出した。今回出品される、真言七祖像(下図左)・犍陀穀糸袈裟 (けんだこくしけさ)(下図右)、密教法具(下段左)、諸尊仏龕(ぶつがん・下段右)は、その目録に掲載される作品である。

 

 さて、空海は留学を二年間で終えたが、当初は二十年間の予定であった。空海は『御請来目録』の中で、期間を短縮した罪は死して余りあるが、得難い法を生きて請来(しょうらい・仏像・経典などを請い受けて外国から持って来ること)できたことを密かに喜んでいると述べている。期間短縮が問題となったのか、あるいは文章の習読を学んだ叔父の阿刀大足が伊予親王に学問を教授する侍読であったため、大同二年十月にあった伊予親王の政変の影響が空海まで及んだのか、しばらく京に入ることがなかったようである。嵯峨天皇に代が替わると入京し大同四年(八〇九)七月に高雄山寺遍在の神護寺)に居を構えたという。その頃、最澄との交流があり、「風信雲芦の書き出しであることから名づけられた「風信帖」(40)は最澄に宛てた空海自筆の書状である。

▶神護寺−日本密教の出発点

高雄山寺に居を構えた空海は、密教宣布の活動を本格的に開始する弘仁元年(八一〇)十月に国家のために修法を行うことの許可を求め、その間は高雄山寺より出ないとしている(『性霊集』巻第四)。弘仁二年に長岡京所在の乙訓寺の別当となり、弘仁三年に辞して高雄山寺に還住したと伝える資料がある。弘仁三年十一月に金剛界濯頂、同年十二月に胎蔵界灌頂、同四年三月に金剛界灌頂という、人々が密教尊と緑を結ぶ儀式を行っている。その時の参加者名簿が「灌頂歴名」(下図)で、一回目と二回目の筆頭には最澄の名前がある。弘仁三年十二月に高雄山寺の三綱(寺の役職)を択(えら)んでいる(『性霊集』巻第九)。

 高雄山寺は和気氏(わけうじ)によって建てられた寺であるが、天長元年(八二四)に同じく和気氏によって建てられた神願寺と合併して神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)(神護寺)と名を改め、純粋な密教寺院となった(『類衆三代格』巻第二)。空海が精力的に堂宇(殿堂)の整備を進めたことは、承平元年(九三一)に記された神護寺の財産目録である『神護寺実録帳』からうかがうことができる。主要なものを抜き出せば、次のような堂宇や安置仏があったことが知られる。

○根本堂 金色十一面観音像 檀像薬師仏像一躯 檀像阿弥陀仏一躯 八幡大菩薩像一軒

○根本真言堂 胎蔵臭素羅一軒 金剛界鼻茶羅一鮪   金銀泥絵赤紫綾裏八葉形錦。天長皇帝御願。

○五仏堂 金色金剛界等身五仏

○五大堂 五大倉怒彩色木像 天長 皇帝御願

○毘丘道都宝塔

  ○五大虚空蔵菩薩彩色木像五躯

 

 高雄曼荼羅(上図左)               金剛業菩薩(上図右)

 以上のうち、高雄山寺以来の堂宇と考えられる根本堂のほかは、密教尊像が安置される。根本真言堂に安置される赤紫綾に金銀泥で描かれるという胎蔵界金剛界の曼荼羅は、高雄曼荼羅とも呼ばれる両界曼荼羅図(下図左)のことで、淳和天皇(下図右)の発願であることがわかる。

 

 これは入居中に恵果から授けられた彩色の両界曼荼羅、あるいはその写本を、金銀泥で写したもである。五仏堂に安置される五仏は、大日如来をはじめとした密教では最重要尊像であり、現存しないが空海が止住している間に造られたはずである。五大堂には、五大明王が安置されたが現存しない。これも淳和天皇の発願とあるので、空海在世時のものであろう。山中に所在するために大きな堂宇の建立が難しかったのか、東寺とは異なって五仏と五大明王は別の堂宇に安置されている。五菩薩がなく、五大明王が安置されたのは、より密教らしい尊像が選択されたためであろう。

 なお、宝塔と五大虚空蔵菩薩(上図左・右)は、『三代実録』貞観二年(八六〇)二月二十五日条によれば、空海の弟子真済(しんぜい)によって造られたことがわかる。

▶金剛峯寺−理想の壇場

 密教では入定(禅定<ぜんじょう・仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す>・瞑想)を重視するが、そのための場は深山中の平地が適する。空海は神護寺で活動を続けながらその地を求め、弘仁七年(八一六)六月十九日に高野を賜ることを天皇に願い出ている(『性霊集』巻第九)。当時の高野は、人の通った跡のない、四方を山に囲まれた幽静な平地であった。弘仁十年にはじめて結界を設け伽藍建立を開始する(同)。承和元年八月に二基の毘盧遮那法界体性塔(初重を平面方形、二重を平面円形とする二層塔は日本独自の形式であり、平安時代初期に空海が高野山に建立を計画)を建てるために人々に協力を求めている(『性霊集』巻第八)。二基とも失われたが、現在の大塔と西塔にあたり、大塔の方が先に完成して胎蔵界の五仏、西塔は仁和三年(八八七)完成といわれ、金剛界の五仏が安置された。今回出品される大日如来坐像(下図右)は、西塔安置像のうちの一体である。

 

 ところで、『日本後紀』弘仁十二年五月二十七日条には、この頃の空海について興味深い記述がある。それは讃岐国からの言上で、農業用溜池の堤防を修造しているが工夫が集らない。空海は当地の出身で、山中で修行し鳥獣に親しみ居で仏教を学んだ人物であり、いまは平安京に住むが人々から慕われている。そこで空海責任者にして事業を完成させたい、というものである。当時の一般の人々の空海への評価を知ることができる。

■二 東寺講堂の立体曼荼羅

 空海の活動はしだいに広がり、弘仁十三年に奈良・東大寺に灌頂道場(真言院)を建立する。そして、弘仁十四年には、東寺の経営を任されたのである。

 東寺は平安京造営計画の中で建てられた官寺で、開創当初は東寺と西寺の二寺のみが京中に建てることが許された。空海は経常を任されると、真言僧五十人を住まわせ、他宗僧の雑住を禁じることを願い出て許される(『類聚三代格』巻第二)。金堂はすでにあったので、講堂を建てて密教尊像を安置した。講堂諸像の開眼は承和六年(八三九)のことであるが、空海は承和二年高野山で入定しているので、講堂の完成を見ることは無かった。

 現在の講堂は、室町時代の延徳三年(一四九一)こに再建されたもので、堂は桁行九間梁間四間(幅三四メートル、奥行一五メートル)、中央に幅二四、奥行六・八メートル、高さ〇・九メートルの壇が築かれるが、それらは創建時の規模を伝えている。壇上には、二十一体の仏像が整然と並んでいる中央は大日如来で、それを囲むように四方に手前右から時計回りに、宝生・阿弥陀・不空成就・阿閦(あしゅく)の如来、その向かって右に金剛波羅蜜を中心に金剛宝・金剛法(上図左)金剛業(上図右)金剛薩唾の菩薩、向かって左に不動を中心に降三世(下図左)軍茶利大威徳(下図右)金剛夜叉の明王、

 の向かって右緑に梵天(下図左)、左縁に帝釈天(下図右)、

そして壇四隅に持国天(下図左)・増長天(下図右)広目天・多聞天の四天王が安置される。

 

この二十一尊は、『金剛頂経(こんごうじょうきょう)』と『仁王経念誦儀軌(にんのうぎょうねんしょうぎき)』という二つの経典の考えを組み合わせた上に、空海の考えも加えて構成されたと考えられる。近年、空海は『仁王経念誦儀軌』も『金剛頂経』の一部と考えていたので、空海としては全てが『金剛頂経』に依るという認識であったという指摘がなされている。

▶造像と密教図像

 講堂の諸像が開眼供養されたのは、承和六年(八三九)六月十五日のことで「御願の諸仏の開眼のために、公卿が皆東寺に集まった」(『続日本後紀』)と伝える。しかし、『続日本後紀』承和二年正月六日条に「空海は次のように奏上した。弘仁十四年の詔により、真言宗の僧五十人を東寺に住まわせ三密門を修行しています。いま堂舎はすでに建ちますが、修行や講説はまだ始まっていません。」という記事がある。そこでいう堂舎は旧来の金堂であるはずはない。この時期にいかなる堂があったかは不明であるが、講説を行う堂であるとすれば、講堂を指す可能性がある。

 『東宝記』講堂条に載る「東寺新定講堂図」という講堂の平面図に、「天長二年(八二五)四月二十日、勅使所定如図」という記述がある。空海が東寺の経営を任された弘仁十四年から二年後に、密教寺院としての中心堂宇となる講堂のプランが決定した。安置仏の造像は、堂宇の造営と並行して行われたであろうから、天長二年から十一年後の承和二年には仏像は安置されていたとみるべきであるが、承和六年に御願諸仏の開眼供養があったという記述も無視することはできない。この安置仏完成の時期に関する問題はあとで触れることにする。

 講堂の二十一体の構成は、密教によってもたらされた、それまでに見ないものであったが、個々の尊像の姿についても同様であった。特に明王は密教固有の尊格であり、多面多臂(ためんたひ・顔と腕が多い・阿修羅像のような像)の複雑な姿は、図像なしには造像できなかったはずである。例えば、『金剛頂喩伽降三世成就極深密門』という経典では、降三世明王の姿について比較的詳しく記述するが、胸前で印を結ぶ手について「二羽は印をもって心に当つ」としか示さない。小指を絡めた複雑な印は、図像を参考に造られたはずで、それは恵果が空海に語った言葉からも明らかである。このような儀軌的(ぎきてき・仏・菩薩 (ぼさつ) ・諸天などを念誦 (ねんじゅ) ・供養する方法や規則のような)な形状を図像に求めたのはいうまでもないが、講堂諸像では身体表現にも図像の影響が認められるのである。次に講堂諸像における図像の役割をみたい。

挿図 高雄曼荼羅 不動明王像(Ⅹ線)挿図 東寺講堂 不動明王坐像

 当初像が四体現存する五菩薩は、その手の形をみれば、金剛薩埵(さった・衆生と訳す。およそ生命あるもののすべての称)は高雄曼荼羅と一致し、他の像も別の図像に同じ姿を認めることができる。他の形状についてみると、高く結った髻(きつ・けい)は、高雄曼荼羅の尊像に見ることができ、毛筋を丁寧に表すのもその影響かもしれない。精悍(せいかん)な顔つきや、胸や腹部の筋肉質な肉取りは、それまでにないものであるが、やはり高雄曼荼羅の尊像に認められる身体表現である〈挿図1~4)。その筋肉質な身体表現はインドの菩薩像(下図〉にみられるもので、これほどまでに肉体を重視する意識は日本や中国の彫刻には認められない。空海は密教が生まれた地インドの仏像を留学中に見て、自分が指導した造仏にその表現を取り入れたのであろう。

 次に五大明王であるが、不動明王は図像の影響という点で大変に興味深い表現がある(下図)。その一つが、小鼻から口元にかけてできる皺の上にある稜線である。普通ここに皺のある線が表されることはないが、高雄曼荼羅中の不動明王に同じ形状の線があって、それによって口元の皺が表されている。講堂像では、口元の皺を表したうえに、線まで写し取ったのである。眉にある稜線の形状も高雄量茶羅像とよく似ている目頭の縁が斜めになる形や、唇がめくれたような表現歯や牙の形状も近似する。裾の襞が、足首下から上方に向って直線的に配される形式は、それまでに無いが、高雄曼荼羅像にみられる。

 また、高雄曼荼羅像は頭部を右に向けるが、講堂像の頭部を、それと同じ角度になるように向かって右から見ると、目鼻立ちや、削いだような直線的な輪郭線の形状がよく似ていることに気付く。さらに講堂像の体部は、左体側の方がやや横に広がっているように見えるが、それは、頭部とは逆に、向かって左から見たときに、画像に似た姿となるようにするためではないだろうか。ただし、体部については頭部ほどの高雄曼荼羅像との類似性が認められないのは、同じのように腹部を突き出せば、全体の造形が破たんしてしまうためであろう。このように不動明王には、かなり強い図像へのこだわりが感じられるが、口元の皺の上にさらに稜線を表す点や、左体側が横に広がっている点などは、造形的にはかならずしも適当な表現とはいえない。

 他の四明王はどうであろうか。顎(あご)を少し引く口元の表現や、耳や衣の襞の形状が不動明王と共通することが指摘されていて、五体が一具であることは間違いない。しかし、面部や体部の肉取りを見れば、不動明王の抑揚を抑えた表現に対し、四明王の顔の肉取りはふくよかで柔らかな表現という相違がある。それは五菩薩の筋肉質な肉取りとも異なる。また、四明王は、眉や口元に稜線は刻まれない。降三世明王の、少し腰を落として大自在天王と烏摩を踏む姿は見事で、不動明王に見られた図像の特徴に無理やり合わせるような拙さは認められない。不動明王と他の四明王では表現に相違がある。

 

 次に、梵天と帝釈天であるが、五菩薩に見られた精悍(せいかん)な表情、筋肉質な体部の表現は、梵天では一層顕著になる。多臂(たひ)であることもあるが、胸の厚みは増し、肩幅も広くなって腹部に向かって極端に絞られる。大腿部や脹脛(ふくらはぎ)の肉取りの充実感が増している。それら身体表現は五菩薩以上に高雄曼荼羅との類似性が強い。帝釈天は後世の補修が多いが充実した体部や脚部の表現は梵天像と共通する。

 以上のように見てくると、講堂諸像の中に、いくつかの表現の発展段階があるように思える。五菩薩と梵天では、梵天により強い高雄曼荼羅との類似性が認められた。不動明王と他の四明王では、不動明王に図像写しに対する強いこだわりが感じられる一方で、それに起因する表現上の未熟さがあった。その強いこだわりと未熟さは初発的な状況から生じたと見ることはできないだろうか。それは、空海の図像写しへのこだわりと、それに応えるべき初めて表現に取り組んだ工人たちのひたむきさと理解できないだろうか。一方の四明王には初発性よりも成熟した表現力が備わっている。

 さきほど、講堂諸像は承和六年に開眼供養が行われたが、一方で、承和二年の段階で修行や講説が行える程度に堂が整っていたのではないかと推測した。その理由はこのあたりにあるのではないだろうか。つまり、一部の像から順次造像が行われ、承和二年までには堂として機能しうる尊像が安置されたということである。その場合の造像の順序であるが、中心的な像から造像されたであろうから、まず五仏から、あるいは各グループの中心尊像である大日如来、金剛波羅蜜菩薩、不動明王からと考えられよう。不動明王と四明王、五菩薩と梵天で、後者により進んだ表現が見られるのはそのためではないだろうか。四明王の柔らかな肉取りは、承和年間(八三四〜八四七)後半造像と考えられる、神護寺の五大虚空蔵菩薩(下図左右と共通する表現のように見える。

▶伝統の継承と発展

 東寺講堂諸像には密教による、新しい尊像構成や身体表現が見られることを指摘してきた。しかし一方で、講堂諸像には、伝統の継承とその発展も認められる。

 その一つが製作技法である。従来、講堂諸像の用材はクサマキといわれてきたが、近年、科学的な分析によってヒノキ材であることが判明した。像の大部分をヒノキの一材から彫出し、木彫でほぼ完成の状態まで造り、そこに漆と木粉を混ぜた木尿漆と呼ばれる素材で細部を塑形する。五菩薩では、漆箔の下地のように薄く全面に木尿漆を施している。その技法は奈良時代の木心乾漆技法に通じるが、一方で、木尿漆の使用量はごくわずかであることから、八世紀末頃から日本彫刻の主流となった一木彫像と見ることもできる。実際に、部分的に木尿漆を使用する一木彫像が少なからずある。講堂諸像は木心乾漆造りと一木彫像の両方の性格を有するのであるが、この期の主要な一木彫像がカヤ材で造られていること、逆に奈良時代の木心乾漆造りの木心がヒノキ材であることからすれば、木心乾漆造りからの発展という他の一木彫像とは異なる歴史的経緯がある。

 ところで、講堂諸像と同じ技法で造られた像が九世紀を通じて残っている。作例をいくつか挙げれば、承和年間前半造像の大阪・観心寺の如意輪観音菩薩坐像、承和年間後半の京都・神護寺の五大虚空蔵菩薩坐像(上図左右)、嘉祥から仁寿年間(八四八〜八五三)頃の京都・安祥寺の五智如来坐像、貞観十一年(八六九)頃の観心寺の仏限仏母如来・弥勒如来坐像仁和四年(八八八)の京都・仁和寺の阿弥陀如来および両脇侍像(下図左)などで、寛平八年(八九六)の清涼寺(旧棲霞寺〉阿弥陀如来および両脇侍坐像が確認しうる中では最末期の作品とみられる。いずれも天皇や高位の貴族が発願したものであることから、官営の造仏工房の手になると考えられている。

 

 さて、奈良時代以来の伝統の継承と発展は、技法にとどまらず表現にも指摘できる。密教に由来する新しい表現を試みながら、均整の取れた破綻の無い表現は天平彫刻以来の伝統であることがすでに指摘されているが、ここでは、四天王の目に注目しながら講堂諸像の表現に見られる伝統の継承と発展を跡づけたい。

 東寺講堂の持国天(上図右)は、日本の四天王で最も強い怒りを示す像といってもいいかもしれない。右手を振り上げ、足下には邪鬼を踏みしめ、頭部をやや左下方に向ける。面部には怒りで筋が隆起する。開口して怒りを表すが、そこから発せられた大きな声が聞こえてくるかのようである。目は、瞑目と呼ばれる目頭部にも弧状の稼がある形式を採用するが、それは、奈良時代には四天王の怒りを表すうえで重要な役割を果たした。

 

 飛鳥時代に造られた奈良・法隆寺金堂や奈良・当麻寺の四天王は、直立する姿で、強い怒りの表情を表さず、瞑目も採用されない。瞑目が採用されるのは奈良時代からで、中国から新たにもたらされた形式と考えられる。講堂四天王では四体全てに朕目が採用されるが、奈良時代には四体の中でも怒りを最もあらわにする一体、またはそれに準ずる像を含めた二体に用いられるだけであった。人間の目ではありえないその形状は、人間の怒りの程度を超えた表情を表す場合や、迦楼羅のように人ならざるものに用いられたのである。なお、膜目の「瞑」は目を怒らすという意味で、怒りを表した目は全て瞑目といえるが、ここでは目頭に弧状の緑のある形式のものを瞑目と呼ぶことにする

 瞋目(しんもく・本来は怒った目または目を怒らせることをあらわす言葉、仏教においては明王像や神将像の目頭部の輪郭を弧のかたちであらわした目の形式のことをさす)を採用する現存最古の四天王は、八世紀の第二四半期(八二五〜八五〇)造像と推測される東大寺戒壇堂の四天王である持国天の目は瞋目で大きく見開き、口はへの字に結んで憮然(ぶぜん・意外な成り行きに驚いたり自分の力が及ばなかったりで、ぼうっとすること)とした表情をする。増長天は目を見開いて瞋目とし、開口して四体の中で最も強い怒りを表す。広目天と多聞天は目を細めて怒りを寵(こ・気持などを注ぎ込む)めるが、人間の怒りの表情に通じる。

 戒壇堂像に続くのは、奈良・東大寺法華堂の四天王である。持国天は、瞋目で大きく見開いて怒りをあらわにする。口は開いて上下の歯列をむき出す。増長天の拝する者を見据える目には怒りを帯びるが、人の怒りの表情の範囲は超えない。その形状は瞋目に似ているが、瞋目ではない。広目天と多聞天は直立し、前者は目を見開き、後者はわずかに目を細めている。四体の像が、それぞれ表情を違えて表されるが、それは奈良時代の四天王の大きな特徴である。

 天平勝宝五年(七五三)に渡来した鑑真は、日本彫刻史に大きな影響を及ぼした。その鑑真が請来(しょうらい・仏像・経典などを請い受けて外国から持って来ること)して、東大寺戒壇院に安置した厨子に描かれていた四天王を写したという線描画が伝わるが、その四天王は全像が瞋目で表される。鑑真が建立した奈良・唐招提寺金堂の四天王像は、開口する増長天を除き表情に激しい怒りは見られないが、全像に瞋目が採用されている。奈良時代の四天王としては例外的な存在で、前述の鑑真請来図像の採用といった特殊な状況が考えられよう。なお、鑑真との関係が考えられる同寺講堂の二天王は、ともに瞋目で表される。

 奈良・法隆寺食堂の四天王には、鑑真が請来した図像を取り入れた表現が指摘されるが、瞋目は二体にのみ採用される。延暦十年(七九一)頃造像の可能性がある興福寺北円堂の四天王は、口を大きく不気味に開けた像のみが瞋目である。

 興福寺東金堂の四天王は、九世紀初めに造られたと考えられるが、これまでに見てきた像とくらべると忿怒の度合いは一歩進んでいる。充満した面部、重厚な体躯は迫力に満ちている。広目天の凄まじい怒りは、講堂持国天のそれに通じる。瞋目は多聞天を除く三体に採用されるようになるが、忿怒の度合いはそれぞれ異なる。

 

 さて、東寺講堂の持国天(上図左)は前述のように極めて強い怒りを表すが、増長天も迫力に満ちた表現で、顔の筋は持国天以上に生起し、開口はしないが歯をむき出しにする(上図右)。両像とも瞋目が採用されるが、それにふさわしい怒りの表現である。一方、広目天は眉が吊り上がり唇は人のそれよりもかなり大きく表されるが、怒りの度合いを抑えた表現である(下図右)。瞋目とするが、奈良時代でもれぼ採用されなかったかもしれない。多聞天は補修が著しいが、近年の修理で両部は造像時の様子と大きく変わっていないことが判明したその目には瞋目が採用され、額には筋が見え、眉も吊り上る。

 

 しかし、唇は人のそれと同じ形状で、広目天よりもさらに怒りの度合い 刀は抑えられている(上図左)。これまで見てきたように、瞋目は奈良時代には最も怒りをあらわにする一体、あるいはそれに準じる像も含めた二体のみに用いられたが講堂像の直前頃には三体に用いられるようになり、講堂像では遂に四体すべてに瞋目が採用されたのである。それに伴って、怒りの相も全体に増しているが、各像をそれぞれ異なった表情で表すという奈良時代の伝統は、講堂像にも受け継がれる。

 最後に講堂像以降の四天王を概観しておこう。講堂諸像は官営造仏工房によって造られたことは既に述べたが、仁和四年(八八八)造像の仁和寺の増長天(下図)・多聞天も官営造仏工房の作品と広く認められている。他に京都・広隆寺の四天王(三体のみ現存)と京都・清涼寺の四天王も、それぞれ承和年間後半と、寛平八年(八九六)に造られた官営造仏工房の作品と見てよいと思う

 広隆寺像は、開口像が二体、閉口像が一体で、三体とも瞑目である。怒りが抑えられる多聞天が失われたと見られるので、瞋目でない像が含まれていたかもしれない。しかし、開口の二体は近似した表情で、この頃には表情を違えるという意識が失われつつあることがうかがえる。仁和寺像は二体とも瞋目である。四天王のうちの二体と考えられるが、その内一体は多聞天であるので、四体とも瞋目であったと見てよかろう。表情は、二体に大きな相違はなくなっている。清涼寺像は、四体が瞑目であり、表情も近似する。

 このように、講堂像以降、四天王は全像が瞋目となり、さらに一具内の表情にも類似性が出てきて、九世紀末頃には多様性よりも統一感が重視されるようになる。この傾向は、官営造仏工房の作品以外でも同様であり、講堂の四天王は、四天王の表現の歴史の中で一つの転換点であったということができるのである。

 (まるやましろう・東京国立博物館教育講座室長)