第7章 無分別の分別
■第7章 無分別の分別
得(う)るところなきを以っての故に。菩提薩埵(ぼだいさった)は、般若波羅蜜多(はなにゃはらみった)に触るが故に、心に罣礙(けいげ)なく、罣礙なきが故に、恐怖(くふ)あることなく、一切の顛倒夢想(てんとうむそう)を遠離(おんり)し、究境(くきょう)す。
▶一切の分別を捨てよ
得るべきものはなにもないという「空」の立場にたっているから、菩薩の心にはひっかかりがなく、ひっかかりがないから、恐怖もない。また、「空」の立場では、現実をありのままに受けとるから、いかなる非現実的な観念論に陥ることもなく、この状態がそのまま涅槃である。
罣礙の罣とは、「ひっかかり」、礙は、「さまたげる」ということ。罣礙とは、「こういうことをしたら、悟りの道にそむくのではないだろうか」とか、「こういうことをしたら、あとで仏罰でもこうむりはしないだろうか」などとあれこれ思慮分別することである。
天桂禅師はいう。
「自心が無性なることをからだで体得しつくして、世間のことであれ、仏法界のことであれ、どんなことにも取捨選択の分別がなくなれば、煩悩とて忌み嫌う必要もなく、菩提だからといって、それを得ようとする必要もない。このように、何事も得るところのないものだと、はっきり自覚することが真の菩薩ということであり、また、般若波羅蜜多によるということである。この時、心に一片のひっかかりもとどこおりもない」 また、臨済和尚はいう。「お前たち世間では、仏道は修行して悟るものだというが、誤ってほいけない。もし、修行して得たものがあったら、それこそ迷いの上塗り、生死流転の業である。また、お前たちはよく「六度万行を修する』などというが、わしから見れば、これもまた迷いの業だ。仏を求め、法を求めるのも、地獄へおちる業。菩薩になろうとするのも、また、経論を学んだり研究するのも、すべて悪業をつくるのだ。仏や祖師とは、そんなことの全くいらなくなった無事の人である。だから、仏や祖師にとっては、迷いも悟りもみな清浄の業なのだ」(『臨済録」岩波文庫版七二ページ)
「もし、真正の修行者ならば、仏をも求めず、菩薩をも阿羅漢をも認めず、この世のありがたそうなものなど一切問題としない。そんなものからはるかに超越して、たとい天地がひっくり返ってもびくともせず、十方世界の仏たちがそろって出て来られてもいさかも喜ばず、三途の地獄が現われても微塵も怖れない。なぜかといえば、わしからみるとすべての存在は空相であって、因縁によって現われて有となり、因縁によってまた無となる・・・無心であれば、煩悩も邪魔にならない。心に分別や執着が無ければ、自然に仏道に達するだろう」(同書八三・八四ページ)
三世諸仏(さんぜしょぶつ)も般若波羅蜜多に依(よ)るが故(ゆえ)に、
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たまえり。
▶仏陀としての悟り
「三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得給えり」ここは、「過去、現在、未来を問わず、仏陀という仏陀はみな、この空の哲学(般若の智慧)によって、はじめて、仏陀としての最高の悟りを得られた」ということ。
三世とは、過去、現在、未来のことをいい、諸仏とはこの三世にあらわれたすべての仏陀のことである。仏陀といえば、釈迦ひとりのことだと思うが、そうではない。仏陀とは梵語ブッダ (buddaha)の漢音訳で、本来の意味は「悟りを開いた人」という普通名詞である。しかし、釈迦があまりにも偉大であったため、仏陀といえば釈迦を指すようになった。キリストも、本来の意味は救世主という普通名詞であったが、それがイエス・キリストのことをたんにキリストと呼ぶようになった。それと同じである。
仏陀は釈迦があらわれる前にも過去七仏といって、七人の仏陀がいたという。また、未来には未来仏として弥勤菩薩がもう一度この地上にあらわれるという。阿耨多羅三藐三菩提とは、梵語のアヌッタラー・サンミャクサンボーディ(anuttara samyak-sambo-dhih)の音写で、阿耨多羅とは、「無上の」、三藐は、「真実の」、三菩提は、「普遍的な」、という意味である。まとめて「無上正等正覚」と訳している。これは、仏陀と呼ばれる人だけが到達した最高の悟りのことである。これについて天桂禅師はつぎのように解釈している。
「無上とは見性より上に過ぐるものなきをいう」と。つまり、ふつう無上といえば、「これ以上のものがない」「最高のもの」という意味である。しかし、天桂禅師は、この無上とはたとえ仏陀の悟りといえど、所詮は、「存在に内在する法則を見ること以上のものではないという意味である」というのである。また、正等についても、「正等とは、まさにひとししと読むなり。何に等しきというに、山を見れば、山とひとしく、川を見ればれば川とひとしく、頭は頭、物は物に等しき。これを正等とも平等ともいうなり」と。
要するに天桂禅師は、森羅万象ことごとくこれ仏性ならざるはなく、物それ自体に仏法をみることが、真の悟りであると説いているのである。これは正覚という言葉についても同様である。天桂禅師はいう(分かりやすいように口語体にしたが、語調を味わうために一部そのままのところもある)。
「覚とは本覚の意味であるとか、姶覚の意味であるとか、いろいろな説がいわれるが、結局は、『汝が自心迷わざるを正覚とはいうなり。
この捏築は「一大事(真理)を明了した人だけが体得するものである』という人がいる。しかしそうではない。どんな衆生でも、涅槃を体得することができるのである。迷いも涅槃の世界での迷いにすぎず、悟りも涅槃における悟りにすぎない。迷ったからといって、埋葬の外に出るのでもなく、悟ったからといって、涅槃の中にはいるというようなものでもない。迷いというのほ、あたかも自分の家にいながら、それを忘れて他人の家にいると思うようなものである。だからここは、自分の家だと気がついたからといって、今はじめて自分の家にはいったのでもなく、もともとそこが、自分の本宅である。だから本覚ともいうのである。
しかし、それならば、『われわれは、はじめから涅槃という不生不滅のところにいるのだから、なにも努力しなくてもよいのか』、という考えに取り着いてしまう。しかし、そう考えたとたんに、自分の家を他人の家にしてしまっているのである。参禅して私のいわんとしていることをよくよく究めなさい」
故に知る。般若波羅蜜多は是れ大神呪(だいじんしゅ)なり。是れ大明呪(だいみょうしゅ)なり、是れ無上呪(むじょうしゅ)なり、是れ無等等呪(むとうどうしゅ)なり。能(よ)く一切の苦を除く。真実にして虚ならず。
真実は力である
般若心経はここで、結びとして般若の智慧をたたえるとともに、真理の行こそはあら
Top