宍塚般若寺と結界石

宍塚般若寺

 土浦市宍塚の竜王山般若寺は、桜川下涜の南岸、宍塚丘陵北麓の標高五m程の微高地上に立地する。現在真言宗豊山派であるが、鐘楼に残る鎌倉時代梵鐘の銘文や二基の結界石などより、常陸における西大寺流真言律宗の拠点であったことが判明している。

   

 境内釈迦堂には木造釈迦如来像が安置され、その制作年代は鎌倉末期〜南北朝期と推定されている。

 土浦市教育委員会によって昭和61年に確認調査が行われ、中世の溝・土壌、中世瓦を含む瓦溜、削平された古墳の周溝と埴輪などが検出された。中世の遺物では「寺五重塔瓦也」の裏文字を型押しした平瓦や巴紋軒丸瓦・数種の軒平瓦、内耳土鍋、瓦質壷、かわらけなどの概要が報告されている。このほかの出土品をみると、貿易陶磁器では青白磁梅瓶・竜泉窯青磁鏑達弁文碗・砧青磁花生・香炉、褐粕四耳壷、天目茶碗、鉄粕茶人、国産陶器では瀬戸鉄粕牡丹文瓶子灰粕水滴・四耳壷・瓶子、常滑摺鉢・婆・壷、美濃瀬戸(灰粕卸皿・盤・鉢・平碗・香炉・仏華瓶・瓶子、天目茶碗)在地土器では内耳鍋・かわらけ・灯明皿・壷・嚢・摺鉢、火鉢、金属製品では若〜破片、溶解青銅塊などが出土している。一三世紀前半代の常滑甕も見られるが、陶磁器は一三世紀後半〜一四世紀前半と一五世紀前半のものを主体とし、室町期に退転したと推定される。同様な陶磁器組成は、大栄町大慈恩寺でもうかがえる。

 忍性の行実を記す『性公大徳譜』には「寺院結界七十九」「殺生禁断六十三」とあり、『本朝高僧伝』にも「度者二七四十人、寺院結界七九箇所、伽藍修営八三所、仏塔建立二十区、大蔵経納所十四戒、架橋一八九所‥」と記す。筑波山南麓に残された「大界外相」右、「不殺生界」石には忍性止住期と重なるものが多く字体もー致する点から忍性が主催した結界の標石と考えられている。建長五年(一二五三)の七月二九日にまず宍塚般若寺が結界され、ついで九月一一日に三村山極楽寺で殺生を禁断、さらに九月二九日に新治東城寺(釈迦院もしくは地蔵院)で結界したことが知られる。

 ここでいう「結界」とは、神社仏閣などを俗界と画し聖域とすることをさすが、特に律宗や禅宗など戒律を重んじる宗派の寺院で一定の区画を限定し、その区域内で僧侶が住み説戒に勤めることをいう。

 戒律仏教における僧侶の結界には大きく大界、戒場、小界の三種類があり、最も基本的な「大界」とは、範囲が大きく通常結界する伽藍の区域を示し、外相はその外側を表わしている。これは僧侶たちが一緒に住し一緒に布薩の儀式をなすために限った領域を示す。

 布薩とは、半月ごとに僧侶が集って戒経を説き、半月間の自己の行為を懺悔し戒を守ることを誓いあう儀式で、「大界」内の僧侶全員が布薩への参加を義務付けられている。よって大界結界は律院化を契機に行なわれる (松尾 一九九二)。

 なおインドでは布薩を十五日 (白月)と三十日 (黒月) に、日本では十四・十五日と二十九・三十日に行なった。般若寺・東城寺の「大界外相」石がともに二十九日と刻むのはそのためらしい(井坂 一九九一)。山城速成就院の結界儀礼の主催は、事実上の次期西大寺長老選出の意義を持っていたとの指摘があり、忍性が下向間もない常陸で頻に結界儀礼を行なったことは、東国における律宗教壇の指導者としての地位を示している。また布薩の実施は同心する僧侶たちの寺院への参集を促し、そこはしばしぼ教学の場となり、同学たちの絆は横の連帯をつくりだした。西大寺流の関東布教の初期に実施された寺院結界は、広範な人脈形成に大きな役割を果たしたと考えられる。

 般若寺は遺品や発掘の所見からも寺容が整ったのは鎌倉前期以降と推定され、それは建長五年(一二五三)七月二十九日の大界結界以降のことであろう。

 鐘楼にある古鐘は高さ約一〇〇㎝、径約六〇㎝で、古く『集古十種』に拓影が収録された。銘文によれば、建治元年 (一二七五)八月の制作で、大工は棟梁物部氏のもとで鎌倉大仏鋳造に参加した鋳物師丹治久友である。丹治氏は物部氏とともに鎌倉時代を代表する鋳物師で、北条政権下で公工的な位置に在った。丹治久友と併記された大工千門重延は地方鋳物師と推定され共同鋳造がうかがえる。有力鋳物師といえども、鋳物生産が定着していない地域で独自に梵鐘のような大型鋳物の出吹きを行なうのは、要員や材料の手配などが困難であり、地方の鋳物師集団の協力のもとに出吹きにあたったとみられる(五十川 一九九二)。鎌倉大仏の鋳造工が般若寺梵鐘の鋳造に参画しているのは、忍性が鎌倉大仏寺の別当に就任したことと関係するようである。

 般若寺の東側に鎮守社として鹿島社を祀っており、忍性ら律僧の鹿島崇拝をうかがわせる(菊池 一九八六)。

▶般若寺五重塔と佐野子の河岸

 般若寺では「般若寺五重塔瓦也」の裏文字を型押しした平瓦や、三村山系の軒平瓦が出土しており、鎌倉後期頃には瓦葺の五重塔があったと推定される。『性公大徳譜』弘安元年(一二七八)条には忍性が真壁椎尾山薬王院に宝塔を造営した記事があり、尼寺三村塔供養(一二八二?)とあわせ、桜川流域の律院では鎌倉時代後期に塔の建設が相次いでおり、これらは一連の動きと考えられる。しかし正応四年(一二九一)年に忍性・春海らが落慶供養した金沢称名寺塔でさえ三重塔にとどまり、造営のため広域な勧進も行われており、当時の檀越(だんおち・施主)が問題となる。宍塚の地は、中世には信太荘の荘域に含まれ、鎌倉末期には、叡尊に戒を授けられた北条政村の一族の所領であり、五重塔の造営は、北条氏の強力な後援の産物とも考えられる。

 また内海に注ぐ河川と五重塔の整える律院という関係は、広島児福山市芦田川流域の旧西大寺末寺、草津常福寺(明王院)を髣髴とさせる。常福寺五重塔は貞和四年(一三四八)に民衆と弥勤菩薩との結縁を願い、沙門頼秀が一文勧進の小資を募って建立したもので、門前町である草戸千軒町とのかかわりが想定されている。また当地備後国長和荘の地頭は北条氏と関係の深い長井氏であった(志田原一九九一)。

 では同じく川べりに五重塔が聾える般若寺の近くには、草戸千軒町のような町場はなかったのだろうか。

 般若寺の1km弱東北、桜川支流の備前川の傍らに、佐野子共同墓地がある。墓地の中央の高まりに総高二六五Cmを測る佐野子五輪塔がそびえており、南北朝から室町時代頃のものと推定される。巨大な五輪塔を取り巻いて小型五輪塔・墓碑がびっしりと塚を覆い、「ザンマイ」と呼ばれている。周囲の石塔には室町朝に遡るものも含まれるが、多くは一六世紀以降のもので、まさに関西地方の惣墓の風景を思わせる。

 般若寺境内にもよく似た形で二回りほど小さい五輪塔が移築されており、両者の関係が推定される。ここはいまでこそ水田の中となっているが、東方に鹿島社の両があることも含め宍塚から虫掛への渡しの途上にあたり、江戸期の佐野子河岸は隣の飯田河岸と並んで水運の要衝でもある。五輪塔は桜川の中世河岸に営まれた記念碑的な塔と思われる。隣接する徴高地上には、古墳〜平安時代の土器にまじって、中世陶磁器がみられ、一三世紀以降の瀬戸・常滑陶器の破片などが散布している。北側にも塚や中世石塔・近世石仏が残り、近世に瓦葺の堂があったと考えられる。付近に散布する中近世陶磁器には蔵骨器のほか、この「場」の消費生活にかかわるものが含まれているようだ。

 更に東方の毛(かすげ)阿弥陀堂には南北朝頃の丈六阿弥陀如来立像や御正がある。佐野子墓地・柏毛の堂は永禄八年(一五六五)開基になる佐野子満蔵寺が管理していたが、それ以前は般若寺によって管理された、「無縁」の空間だったのではないだろうか。

▶般若寺開基伝承の成立

 竜王山般若寺は天暦元年(九四七)に平将門の次男将氏の娘安寿姫が開基したと伝える。

 ところで般若寺と同様な開基伝承は、般若寺の北西約二・五kmに所在する塚東福寺にも伝わる。東福寺は建長四年(一二五二) 三月忍性の開創と伝え伝忍性作の阿弥陀如来像を残し(『野沢血脈図』)、また一説では鎌倉極楽寺の乗海が建長年間中に開基したとも伝える。寺伝には疑問があるが、西大寺流の律寺で極楽寺末寺であった可能性が指摘されている。東福寺は南北朝末期の戦火で焼けて現在地に移ったと伝えるが、そこには以前から平将門の娘滝夜盛(叉)姫如蔵尼念持仏延命地蔵尊を本尊とする東福尼寺があり(「聖徳太子御正作延命地蔵尊略縁起」)、境内の古墳を如蔵尼の墓と伝えていた。古墳は削平され消滅したが、現在も巨大な石室材と尼塚の字名が残されている。境内には一四世紀〜一六世紀頃の五輪塔が密集しており、如蔵尼墓とされる古墳を核に形成された三味と考えられる。

 般若寺も、境内付近にはかつて龍王山という前方後円墳があった。寺が現在地に占地した契機は、これと無関係ではないようで、古墳を安寿姫の墳墓に仮託し、宗教的な核としていた可能性がある。

 なお安寿姫・滝夜盛(叉)姫如蔵尼伝承は、もともと十二世紀に成立した 『今昔物語集』に将門の子孫として登場する如蔵尼の伝承を原形とする。

 将門討伐後に奥州に過れた第三女は、恵日寺の傍に庵をたてて住んでいたが、病死して閣魔の庁に行く。しかし地蔵菩薩の弁護で蘇り、出家して如蔵と号した。以後一心に地蔵を念じ、人々から「地蔵尼君」と尊ばれて、歳八十を過ぎて端坐入滅したという。

 平氏系図には如蔵尼を記すものもあるが、将門との関係は娘・姪など一定せず、実在は疑わしく、地蔵信仰などとからめて創造された人物と考えられる。

 こうした伝承は民衆の素朴な歴史観に訴える点で、教化の先頭に立ち勧進を実行する説教師たちによっておおいに語られる価値を有してい。考古学的な所見からみて、これらの寺院の創建が古代に遡る可能性は乏しく、中世にこれらの寺院の造営に関与した律宗の勧進聖たちが、地元の古伝承を巧みに再編成したものと見るべきであろう。

般若寺の僧侶と造営活動

 『西大寺光明真言結縁過去帳』は、西大寺有縁の僧侶が没して後、光明真言会に結縁した際に記名され、律僧の没年の目安が得られる好資料である。西大寺四代長老良澄(一三三一)と五代長老覚津(一三四〇)の間に「実道房 常陸般若寺」「如一房 同寺」「来園房同寺」と常陸般若寺の僧三名が続けて記載され、歴代長老であったと考えられる。

 般若寺の建治元年(一二七五)銘梵鐘に見える「大勧進源海」は西大寺叡尊弟子の交名にみえる常陸国人の實道房源海で、般若寺の事実上の開山と推定されている。

 源海は当時新治村東城寺にいた無住房通暁 (一二二六〜一三一二)の師で、忍性とともに常陸に下向したと推定される。無住の『雑談集』に「二十九歳、実道坊上人二止観閲之。」「常州二実道房ノ上人卜申シ天台ノ学生ノ止観ノ講ノ時、源海ガ止観講ジ侍ル」とあり、律天台兼学の僧であることがわかる。無住が止観の講義を聞いたのは忍性が般若寺を結界して間もない一二五五年頃のことで、結界後間もなく止観の講義を始めたらしい。般若寺は大界結界以後、布薩(ふさつとは、仏教において、僧伽(僧団)に所属する出家修行者(比丘・比丘尼)達が、月2回、新月と満月の日(15日・30日)に集まり、具足戒(波羅提木叉)の戒本を読み上げ、抵触していないか確認、反省・懺悔する儀式)に際して各地の僧衆が集合したのを利用し、さまざまな行事が行なわれたはずで、その一環として源海も止観を講じたものであろう。

 また金沢文庫古文書3581に、「志々塚」(=般若寺)の止観と見えるのも、おそらく源海によって講じられたもので、「思いもかけていなかった用件がでてきて、三月ころ、志々塚にでかけることとなりました。止観があるとかで、宝光房は連れていこうと、近頃、おっしゃっておられましたが、御学問、御精進のこと、本当によろこばしいことです。ところで、『止観』の五巻がそちらにあります。ついでのおりにでも」とある。

 この書簡は、称名寺長老の妙性房審海(一二二七〜三〇四)が 『大乗起信論科文』 の書写に用いた紙背文である。宝光(法光)房了禅は一二八二年までに没しており、審海が忍性の推挙で称名寺に入った文永四年(一二六七)から間もない頃の手紙と推定され、宍塚般若寺に有縁の僧から出されたものである。この僧は、審海が般若寺に出かける折には、補佐役の了禅も一緒につれてくるよう求めている。東国の律寺では天台学を修める人が多かったようだ (金沢文庫一九九四)。審海・了禅は下野薬師寺・三村山・般若寺・鹿島神宮二屏総半島を頻繁に往来しており、称名寺に近い六浦から船に乗れば、乗り換えなしで簡単に土浦までこれたらしい。

 一三世紀後半の般若寺は関東各地から律僧を迎え止観を行なうだけの寺容を整えていたことは疑いない五重塔の造営も建治元年(一二七五)の梵鐘の施入、弘安五年 (一二八二)と伝える釈迦像の造立と近い時期と思われる。こうした造営事業を推進した源海もまた、学僧にして大勧進という二面性をそなえる律僧であった。

 境内の西方には源海の墓塔と推定される五輪塔が現存しており、高さ一九三㎝、水輪はやや偏平で臼形に近いタマネギ形で火輪は勾配ゆるやかで軒口は薄く、軒反りも緩い。台座には反花座・各面二窓の框座(かまちざ)を備え、格狭間(かくはざま)茨(いばら)が省略され退化した型式を示している。

 三村山五輪塔と同様、これも西大寺叡尊弟子の墓に採用された大型五輪塔のひとつで、本体高は五尺六寸で称名寺開山の審海の墓塔とほぼ同規模である。

 

 源海に師事した無住は嘉禄二年(一二二六)生まれで、師の源海はそれより年上と考えられる。源海が 『過去帳』に結縁(けちえん・仏道に入る縁を結ぶこと。仏道に帰依(きえ)すること)した一三三〇〜四〇年頃に没したとすると、百歳余の年齢に達し不自然である。よって結線は回忌供養に伴うもので、五輪塔は回忌供養塔と推定される。

 二世長老と推定される如一房智祥叡尊の弟子で河内出身である。金沢文庫古文書宍〇四の氏名未詳書状は、前林戒光寺の圓勸房の死去(一二八五頃)直前頃の書簡で、仏典の貸与に関する記述の中で如一房の名も見える。「裏書律系譜」の第十三表によれば鎌倉覚園寺開山の道照房心慧=智海、一三〇六没)−本理房智源−如一房智祥という「智」を通字とする血脈が記され、北京律學園寺に連なる僧であったと考えられる。

 三世長老と推定される乗圓房道海叡尊の弟子で大和出身と考えられる。金沢文庫古文書六皇は延慶二年(一三〇九)以前に出された和泉国守護安東助泰の書状で、乗円御房を推薦する内容がある。道海は永仁五年(一二九七)に武蔵安養寺で金剛界・胎蔵界の秘法を伝授されている。また嘉暦四年(一三二九)に弟子の光海に秘法の伝授を行っている。この文書の真には「康永元年(一三四二)卯月廿一日以此正本」と光海署名の書き込みがあり、このころ没したらしい。

 また 『金沢文庫古文書』 には正安三(一三〇一)二廿四に宍塚般若寺で雲忠 (五一歳)に秘法を伝授したことを示す二通の文書がある。他の文書が示す法脈からみて雲忠は乗圓房道海の兄弟子にあたると考えられる。

▶律宗と結界石

 中世の結界石の分布は全国的にも限られ、奈良盆地南西部と筑波山麓に集中する。現在でも寺の門前に「不許章酒入山門」と刻んだ碑がみられるが、これも結界石の一種である。「大界外相」石とは比丘の行動範囲(有場大界)を限定(結界)する標石で、大界結界は摩師(かつまし)・唱相師・答法師の三師が立ち会い唱相記を記しながら行われる(大森 一九七七)ことから、常陸下向時の忍性一行は少なくとも律義に通じた三人以上の西大寺僧で構成されていたと考えられ、蓮順房頼玄、隆信房定舜とともに実道房源海も候補となるだろう。

 般若寺境内筑波山雲母片岩製の二基の結界石があり、表面にはともに「大界外相」の刻銘がある。うち土浦市立博物館に移された一基は高さ一〇八㎝、中央の幅六〇㎝、厚さ一三㎝で、県の文化財に指定されており、裏面に「建長五年(一二五三)発丑七月二十九日」の日付がある。般若寺結界石二基は、すでに松平定信編『集古十種』に拓影が採録されているが、誤って大和般若寺のものとされていた。他の例から推して当初は四〜五基で構成されていたうちの二基と考えられ、他の結界石の発見が期待される。

 新治東城寺は徳一の伝承があり、最澄高弟の最仙の開基を伝える。創建当初は経塚群のある堂平に薬師堂があったと伝え、本堂内に秘仏として祀られる十一世紀中頃の薬師三尊はその旧本尊らしい(茨城県 一九八一)。忍性常陸下向の頃、この寺で修業中であった無住通暁の『沙石集』『雑談集』には、東城寺に関する記事がいくつかある。結界石は本堂境内より西方の山裾が本来の所在地である。「大界外相」石は字名を残す釈迦院周辺に四基現存するほか、東城寺境内に移築された一基に「建長五年突丑九月二十九日」銘があり、字体の類似から忍性による結界に伴うものと推定される。これらの結界石は、最も大型で紀年銘のあるものが領域の入り口に立てられ、他はそれぞれ四隅を画していたと推定されている(高井 一九七六)。付近の斜面には中小五輪塔の群在がみられ、地蔵院と通称する点からも東城寺の墓寺としての役割も考えられる。

 竹林寺は、奈良盆地の西方、生駒山麓の小高い丘の上にある寺院で、行基菩薩の墓廟として名高い。天福二年 (二三四) 六月二十四日に竹林寺僧恵恩によって行基の遺骨が発掘されたが、若き日の忍性もその場に立ち会ったと推定される。行基舎利の発見は南都仏教界に大きな衝撃を与え、行基が大仏勧進に協力した関係から東大寺では円照らによって度々行基菩薩舎利供養が行われた。円照は一時竹林寺に住み、寂滅が再興した寺観を整備し、凝然も再三竹林寺に身を寄せ、『竹林寺略録』一巻を撰述した。

 

 生駒市郷土資料館には「大界外相」「大界南西角標」「大界東南角標」 の三基が展示され、竹林寺旧城東北隅には 「大界東北角標」石が現存する。本来寺域の四隅と山門の計五カ所に結界標識があったと推定され、これらの発見位置からみて、結界は行基墓を中心として厳密に設定されていたことがわかる。山門付近でみつかったものは、正面に「大界外相」「勧進沙門人西」背面に「生駒之霊峯十方如来圃化道場也 圏俄国之囲囲可致一礼菟域之懐 □□之徳篤示一等□□□建支提□」とあり、「建支提」とは行基墓上の宝塔をさし、往来する男女に行基墓への敬礼を求めている。

 結界石を造立した入西の名は嘉元二年(一言四)銘の無量寺五輪塔地輪にみえ、有里輿融寺の行基顕彰碑も彼の造立と推定されているが、嘉元三年(一三〇五)の『竹林寺略録』 にもその名が記されている。この『竹林寺略録』には「結作大界、定四方標畔、鮎約浄地為市洞庫宇」とあることから、忍性没後の嘉元三年 (三宝)頃の結界石と考えられる。この時結界を行なったのは唐招提寺出身で室生寺の中興開山である律僧の空智房忍空である(伊藤一九九四、生駒市教育委員会一九空ハ)

 室生寺では花崗岩製で項部山形・二段切り込みで「大界外相」とバン種子を刻む大界外相碑と、切り込みのない「大界東北…」石など計四基の存在が判明し、本来山門と四隅の五基と推定される (仲  一九九五)。

 寺の創建は宝亀八年(七七七)に遡り、鑑真に戒をうけた興福寺僧賢景の開山で、二世修円は徳一の師とする伝承もある。文永九年(三七二) 以降頃に空智房忍空が中興開山となり、乾元二年(一三〇三)・文保元年(三三)に伝法灌項を行うなど復興しており、竹林寺結界石との類似からも、室生寺結界石は忍空の遺品とみられる(伊藤 一九九四)。室生寺五輪塔も、西大寺様式の形態と内容を示し忍空の墓塔と見るのが妥当であろう。

 室生寺周辺の十輪寺・無山山寺・小倉観音寺にも結界石の存在が知られる。

 以上奈良県下の結界石は、いずれも筑波山麓のものより新しいが、竹林寺では行基墓の荘厳、室生寺でも戒律道場という性格がうかがえた。なお大阪府南河内郡太子町叡福寺の聖徳太子墓では、古墳の墳丘の裾をめぐり、外向きに密接して並んだ鎌倉期(文永〜弘安頃)の板碑列が環状にとりまき、更にその下段にも近世の板碑列がめぐり二段の垣をなしている。これは聖徳太子を如意輪観音の化身とする信仰に基づき営まれた結界石の一種とされ(田岡 一九七〇)、古墳そのものを結界しており、竹林寺行基墓を囲む結界石と同様な意味を持つものであろう。称名寺結界図の分析では、結界内には墓塔・骨堂を設けないことが指摘されていたが(桧尾 一九九二)、古代の聖人や祖師の墓はこの限りではなく、むしろ中核に位置している (伊藤 一九九四、生駒市教育委員会一九九大)。

 東国に数多くある律宗寺院の中でも、中世の結界石が見られるのは筑波山麓に限られる。関西地方の中世結界石が、古代仏教の祖師・聖人と密接に関わっていることからすると、筑波山麓についても、持戒僧徳一ゆかりの地であることと無縁ではあるまい。

(桃崎祐輔)