■雪村
▶︎はじめに
画僧、雪村周継(せっそんしゅうけい)とは 文化のレベルや質を何で測るか。その判断基準は作家の主義・主張と相まって難しい面がある。そこで単純に国が指定している国宝や重要文化財の数で見てみるのも一つの判断基準である。この場合、文化財を保有している県単位でみるか、作品を制作した作者ごとにみるか、いくつかの見方がある。そこで、わかりやすく本県出身の作者ごとに指定文化財の数を通して本県の文化レベルを考えてみたい。
■雪村の作品 (雪村重要文化財一覧 ・国指定重要文化財)(作品名)
▶︎紙本墨画松二鷹図
▶︎紙本墨画竹林七賢図
▶︎紙本墨画机々鳥図
▶︎紙本淡彩風涛図
▶︎紙本墨画淡彩夏冬山水図
▶︎紙本墨画中琴高左右群仙図
▶︎紙本若色雪村自画像
▶︎紙本墨画花鳥図
▶︎紙本墨画呂洞賓図
国の宝である指定文化財を国宝、重要文化財に分けて見てみると、室町時代、関東で活動した水墨画の画僧、雪村周継(常陸大宮市出身)は現存する作品中、九点が国の重要文化財指定を受けている。「竹林七賢人」、「呂洞賓図」、「雪村自画像」、「風涛図」などである。明治から昭和にかけて活躍した日本画の画家、横山大観(水戸市出身)は「満湘八景撃と「生々流転図」の二点が同じく国の重要文化財となっている。大観と同じ時期に生きた陶芸家の板谷波山(筑西市出身)は、「彩鷲果文花瓶」と「採光彩磁珍果文花瓶」の二点が国指定重要文化財である。
これらの指定状況からみて、本県出身の芸術家が国レベルで高い評価を受けていることがわかる。なかでも雪村はダントツである。「雪舟は西国におり、雪村は関東にいた」(=本朝画史)と並べ称された雪村は、明治期、日本画の再興に力を尽くした岡倉天心をして「雪舟を表面とすれば、雪村はその裏面芸けり」とまでいわせた人物である。たとえれば、コインの裏と表のように優劣つけ難い、といっているように受け取れる。まさに、日本の水墨画を代表する画聖といってもいい存在である。
にもかかわらず、本県で広く知られていない。その理由はいくつかあると思う。まず、雪村作品を見る機会が少ないことがあげられる。作品の多くが日本国内外に点在している。重文指定九作品の所在都県は、各三点ずつ東京、京都、奈良に分散している。残念ながら本県には、重要文化財指定作品はない。従ってこれらの作品を見ようとすれば、遠くまで足を運ばざるを得ない。
とはいえ、県内に雪村作品がないわけではない。三春町歴史民俗資料館に展示されている雪村自画像(複製)=福島県田村郡三春町。茨城県立歴史館や笠間稲荷美術館、鹿島神宮、常陸太田市などが作品を所蔵しているが、常時、見られる状態にあるわけではない。常設展示は鹿島神宮所蔵の 「百馬図」にとどまっている。
次にマスコミが取り上げてこなかったことも一因だろう。本県を代表する芸術家にもかかわらず、県民に研究成果や各地の動きを十分、伝えてこなかったのではないか。その背景には、研究者が少なく、成果を公にできる機会が少なかったことも考えられる。また、雪村に関係する史跡を訪れる人も少ない。雪村事蹟が顕在化されていないため、観光的な話題性に欠けていた。常陸大宮市の雪村筆洗いの池記念碑、常陸太田市の雪村顕彰碑、県郷土工芸品の雪村団扇はあるものの、観光面からのアプローチはまだまだ手薄といってもいい。こうした事情がからみあって雪村の認知度が低いのではないか。
対して「西の雪舟」はどうだろう。雪舟の出身地は岡山県総社市。終焉の地は島根県益田市とされる。活動の範囲は室町時代の守護大名大内氏の拠点、山口県を中心に中国地方に及ぶ。顕彰事業は一九二一(大正一〇)年に第一次雪舟終焉地保存会が発足したことから本格化した。一九五〇(昭和二五)年に第二次雪舟終焉地顕彰会、一九八∩)(昭和五五)年に第三次雪舟顕彰会が発足。雪舟ゆかりの地で寺や墓、庭園、記念館などの修復、整備が進められた。また、総社市、益田市、山口市を始め、修行他の相国寺がある京都市など雪舟ゆかり自治体が「雪舟サミット」を開催し、連携しながら地域文化の向上に取り組んでいる。山口から津和野、益田に通じる国道九号を「雪舟街道」と命名し、観光客の取り込みにも積極的だ。
雪舟、雪村の評価が岡倉天心が指摘するように「表と裏」の関係にあったとしてもなぜ、こうも認知度に差がついてしまったのか。確かに雪舟の作品は国指定の国宝が六点もある。重要文化財も一七点と驚異的である。この点数をみて「仕方ない」と思うかもしれないが、雪村には室町時代の作品とは思えないほどの自由さと奔放ざ、奇抜さが漂っている。指定文化財の数では劣るが、発想のユニークさは雪舟以上といえる。その点で現代に通じるものがある。雪村の価値は今後、さらに高まっていくのではないだろうか。
その雪村の生涯はいまだ、謎に満ちている。1500年前後、常陸国(茨城県)の北部、部垂(常陸大宮市)の下村田で生まれたとされる。その頃の常陸国北部は、地元で大きくなった豪族の佐竹氏が本家と分家に分かれて戦っていた。雪村はその佐竹氏の出身で、本家筋か、分家筋かはっきりしていない。本来なら武将として生きるところを故あって僧侶となり、画僧としての道を歩むことになった。絵の才能を開花させた雪村は、隣国奥州の蘆名氏から誘われて会津黒川(若松)へ赴く。そこで蘆名の殿様に絵の鑑賞法を教えた。さらに絵の道を究めるため当時、関東一の都であった小田原で絵の修行をすることになった。
途中、鹿沼や佐野、足利などに寄りながら小田原を治めていた後北条氏の菩提寺、箱根湯本の早雲寺に入る。さらに鎌倉の円覚寺、建長寺でも有名な水墨画の数々に触れ、修行に磨きをかけた。修行を終えて会津へ戻る途中、鹿島神宮により、さらに慕っていた高僧が聞いた寺々を回る。会津に戻った雪村は、城内の襖絵などを手掛けながら生涯でもっとも充実した時を送った。その後、隣の三春に移り、高齢になりながらも絵筆をとり続け、80歳を超えて亡くなった。
これまでの雪村研究は、作品から迫る手法が多かった。今回はその作品解説は止めて、先人たちの研究成果を踏まえつつ、生涯そのものに迫ることを試みた。人物像を伝えることが、県民に関心をもってもらえる一番いい方法ではないか、と考えたからである。そのため関係する地域に残る伝承も重要な手がかりと考ぇ、取り込んだ。本県から世界に誇れる水墨画の巨匠がでたことを知ってもらうことを第一の主眼とした。その意味で「雪村とは、どんな人かという疑問に少しは答えられたかな、と思う。本文を読んで雪村に対してさらに興味をもってもらえれば幸いである。
■二つの生誕説・・・「扁額」分かれる解釈
福島県田村郡三春町。役場近くに三春町歴史民俗資料館がある。そこに室町時代の画僧・雪村周継(以下雪村)の生誕時期を巡って二つの説を生むことにへんがくなった雪村庵の「扁額」がある。
「扁額」は江戸時代、三春の雪村庵跡を訪れ地元の僧が書いたもの。その真に庵の由緒書がある。文中の「八十余年前 有僧雪村」の「前」の解釈を巡って見解が分かれたのである。
雪村が1504(永正元)年に生まれたとする研究者は「八十余年前からいた」と読み、1492(明応元)年説の学者は「八十余年前までいた」と受け止めた。地元僧がこれを書いた1654(明暦四)年を基準に両者は八十余を「八裏面に由緒が書かれている雪村庵の扁板=福島県田村郡三春町の三春町歴史民侶資料館十四」と置き換えて生誕時期を算出してみせた。1504年説は、「八十余(四)年前からいた」とすれば、1658年から85年を引いた1574年に雪村は三春にいたことになる。さらに、江戸時代に狩野派の絵師が書いた画伝書に「雪村が書いた桧に七十歳の記載あり」としてこの時の雪村を70歳と推定した。一五七四年から七〇を引くと、一五〇四年となる。一方の1492年説も基準は同じ1658年だが、「八十余(四)年前までいた」を八四年前に亡くなったとみて、1658から84を引いた1574年を没年とみる。
「佐竹百年の乱」で太田を追われた佐竹当主がくまわれていた孫根城跡=城里町孫根
さらに「82歳」と判読できる落款のある絵を描いた年に雪村は亡くなったと解釈して、1574から82を引いて1492年を導き出した。二つの生誕説には三年の幅がある。見てきたように生誕時期はまだ、推定の域を出ていない。しかし、これらの算定によって生誕時期は1500年前後という見方が一般化した。
雪村の屏風画を持つ郡山市美術館の菅野洋人学芸員(50)は「当館では雪村の生没年を語る時、生まれは1500年ごろ、没年は1580年前後と話している」と説明する。この時代、常陸国北部は佐竹氏が支配していたが、一世紀に及ぶ内乱「佐竹百年の乱」の最中だった。そうした激動の世に雪村は産声を上げた。
◉扁額 門戸または室内にかけた額。一般的に横が長い。建物建設の思いなどを書き込むことがある。
◉佐竹百年の乱 室町時代、常陸国北部に勢力を誇っていた佐竹氏内部で起きた内乱。発端は本家が上杉家から養子を迎えたことに対し分家が反発したため。室町幕府や鎌倉公方を巻き込んで100年にわたって続いた。
■出身は佐竹氏・・・自ら「源周継」名乗る
雪村の出自は江戸時代に狩野派の絵師、狩野永納が書いた画人伝「本朝画史」にこうある。「僧雪村 佐竹の一族にして常州部垂の人なり」と。現在、出自に関してはこの画人伝に基づく佐竹氏出身説が定説となっている。佐竹氏は源義家の弟、義光を家祖とする源氏の武将。常陸国を統一した戦国大名である。雪村がこの佐竹氏出身であることを彷彿させる資料が栃木県鹿沼市の今宮神社に伝わっている。
同神社は鹿沼地域を勢力圏とした壬生氏が戦国時代、鹿沼城を築城した際、城の鎮守として創建した。雪村は同神社に百馬図巻を書いて奉納した。1546(天文15)年六月の日付がある「百馬図巻」の最後に雪村巻末に「源周継舟居斎」の署名がある「百馬図巻」=鹿沼市今宮町、今宮神社の款記(かんき・書画が完成したとき,それが自作であることを示すため,作品に姓名,字号,年月,識語(揮毫・<毛筆で文字や絵をかくこと>の場所,状況,動機等の),詩文などを記すこと)がある。ここに「源周継舟居斎」とある。なんと、雪村が自らを源周継と名乗っていたのである。 雪村が源周継と署名していたことは、雪村が源氏の出であることを雄弁に物語っている。しかし、これだけでは佐竹氏出身とは特定できない。そこで次に注目される点は「本朝画史」にある「常州」である。常州とは「常陸国」のこと。戦国時代、常陸国で「源氏」といえば真っ先に思い浮かぶのが佐竹氏である。
さらに、「常州」に続いて「部垂の人なり」とある。部垂は現在の常陸大宮市のこと。この一帯は当時「奥七郡」と呼ばれ、佐竹氏の支配地域だった。こうした事柄を踏まえて考えると「源周継」の「源」は、佐竹氏を意識した表記とみることができる。それは取りも直さず、自らの出自を明らかにするものだ。
常陸大宮市の甲(かぶと)神社奉加帳にある「源義昭」は本家当主佐竹義昭である。常陸太田市の佐竹寺奉加帳には本家に次ぐ東・北・南の御三家当主が源姓で署名している。
雪村が佐竹氏の出身であることは動かしがたい、といえる。多年、雪村を研究している福島県立博物館の川延安直学芸員(54)は「雪村は漂泊の画人ではない。名門佐竹氏出身のエリートだった」と指摘する。
◉『本朝画史』 江戸時代に著された本格的な画史・画人伝。絵師の狩野山雪が手がけ、子の永納が完成させた。
■出身地論争「下村田」説が最有力
水戸から国道118号を北進。那珂市下大賀を経て玉川橋を渡り、大宮の台地へ行く手前、左手玉川沿いに平坦地が広がる。常陸大宮市下村田である。中世から近世、下村田村があった地域である。
ここが雪村の生誕地を巡る議論で、茨城県側の中心地となった所である。今でもその痕跡を求め、訪ねてくる人がいる。
「今はハウスがあるため人影を見ることはできないが、前は訪れる人をよく見掛けた」と近くの住人(七八)は話す。玉川沿いにある五輪塔を地元は「ゴリン様」と崇めている。また、五輪塔からから数百メートル離れた場所に池がある。そこに1981(昭和56)年三月、旧大宮町が建立した「雪村筆洗いの池」の雪村筆洗いの池とされる場所に立つ記念碑=常陸大宮市下村田記念碑がある。
雪村の生誕地を巡っては、江戸時代以降、大きく分けて二説があった。一つは狩野永納が著した画人伝「本朝画史」に記載された「常州部垂村田郷」説である。もう一つは同じ狩野派の絵師狩野二俣が書いた画史「丹青若木集」に載っている「岩城の人で同国田村郡三春に住す」とする説である。
それぞれの説は、同時代の書物でも踏襲された。奥州説を受け継いだ画工の印章や茶器について書いた「弁玉集」(著者不明)は「俗名田村平蔵」と俗名にまで踏み込んだ。一方、常州説を鮮明にした人物もいた。
この地を訪れた水戸藩下級武士、加藤寛斎は「常陸国北郡里程間数之記(ほくぐんりていけんすうのき)」で「雪村翁ハ下村田の産也」ときっばり。
さらに、常陸国出身の国学者、中山信名編さん、栗田寛増補の地誌「新編常陸国誌」も常州部垂村田郷を「按(あん)ずるに今の下村田村に有り」と書いた。
こうした生誕を巡る論争は雪村が佐竹氏の出身であることが決定的になったことで落着。下村田生誕説に代わる有力な説はでていない現状である。
福島県田村郡三春町、三春町歴史民俗資料館の藤井典子学芸員(40)は「開館記念で雪村展を開催するに当たり生誕地を含め検証を行った」と振り返る。その上で「検証の結果、田村平蔵説は一般的にみてあり得ない。田村家から出た人という資料もないし、田村家系図にも出ていない」と語る。
◉『丹青若木集』 江戸時代に絵師の狩野一渓によって著された画史。︎
■得度寺・・・那珂の臨済宗寺院か
「伝承としてこんな話が伝わっている。雪村はわんぱくだったので、寺で修行しろ、ということで家を出された」と。常陸大宮市下村田に生まれ、2015(平成二七)年、九九歳で亡くなった山崎篤さんは生前、雪村についてそんな話をしていた。幼くして寺に預けられたさまを彷彿させる話である。雪村は「周継という法諱(ほうい)を持つ。寺で修行し、得度を受けた証しである。
得度寺には、通常、近在の寺が選ばれる。修行の後、教えを受けた和尚から受戒を受ける。そこで授かるのが法諱である。
研究者は周継の「周」に注目した遥は当時、臨済宗夢窓(むそう)派に属する僧に与えられる法諱の通字(とおりじ)だった。下村田に近い那珂市静の静神社境内に雪村生誕時期室町時代初期、境内に臨清宗寺院があった静神社=那珂市静の1500年前後、二つの臨済宗寺院があった。いずれも静神社の別当を兼ねる有力寺院だった。 江戸時代に現在の同市下大賀に移転となった弘願寺と同じく同市飯田、さらに戸崎に移転後、廃寺となった静安寺である。
弘願寺の開山(初代)は、大拙祖能。後に雪村が引かれた復庵完己の幻住派に属する僧だ。開基(旦那)は佐竹九代当主、貞義。歴代住職の中に「周」の法諱を持つ人物が三人いる。静安寺は夢窓疎石が教えを受けた高峰顕日が開山。開基は佐竹貞義の嫡子で後を継いだ義篤。二代目住職は月山周枢(がっさんしゅうすう)である。月山は、佐竹貞義の庶長子(正室ではない女性から生まれた子供を指す語)で、夢窓疎石に弟子入り。京都天竜寺で修行し、帰国後、奥七郡(県北部)一帯で臨済宗の布教に努めた。
夢窓派の法系が濃い静安寺と住職三人が周の連字を持つ弘願寺は、双方とも雪村の得度寺になり得る要件を十分に備えていた。静神社一帯は、隣接する瓜連の常福寺などと合わせ奥七郡の中で、常陸太田増井(ましい)に次ぐ宗教的拠占性を誇っていた、と考えられる。弘願寺の歴代住職の中には、鎌倉・円覚寺をはじめ禅興寺などの住職を務めていた人物がやってきた。当然、鎌倉文化の流入もあった、とみていい。下村田村の目と鼻の先に先進の仏教文化が薫っていたのである。
◉法諱 法名と同じ。僧尼になった時に教えを受けた師からつけてもらう名前。
◉得度 仏門に入って僧尼になる資格を得ること。僧尼なる儀式を得度式といい、教えを受けた法諱から法話を授かる。
■鹿島神宮「百馬図」奉納し祈願
鹿嶋市宮中。森の中にたたずむ鹿島神宮。石畳の参道を進み楼門を経て中に入ると、宝物館が左側に見える。ここに雪村筆「百馬図」が展示されている。現在、三枚の絵がある。紙本塁画。縦・横型の二種類。大きさは、いずれも約41㎝×26㎝。「鹿島大明神宮奉進納雪村」、「奉進納雪村筆」の款記(かんき・書画が完成したとき,それが自作であることを示すため,作品に姓名,字号,年月,識語(揮毫の場所,状況,動機等の),詩文などを記すこと)がある。鎌倉にあった雪村に転機が訪れた。「小田原市史」は1561(永禄四)年、上杉謙信が小田原城を包囲した事実を踏まえ「この戦乱を境に雪村は小田原を離れたと思われる」とみる。小田原を去った理由が謙信の小田原攻めにあったのか。あるいは蘆名氏側から何らかの連絡があって戻ることにしたのか。そこは分からない。
小田原を離れ、北へ向かった雪村は鹿島神宮へ「百馬図」を奉納した。会津から小田原へ向かった際も鹿沼の今宮神社に「百馬図」を奉納している。行きと帰り、まるで図っていたかのような動きである。鹿嶋市文化財保護審議会委員の森下松寿(66)氏は「鹿島神宮は茨城の中では宗教的な拠点だった」。
そこで雪村は何を祈願したのか。
「新鹿島神宮誌」(1995年、同神宮発行)は「百馬図」のいわれを「百日間参籠して一日一馬で「百馬図lの名の由来がある」と記述している。1939(昭和14)年の「官幣大社鹿島神宮宝物図鑑」(同神宮発行)は雪村筆百馬画を「今は二巻に纏(まと)められ、三十四図のみ」とし、「本図はもと百馬を存したのであるが、破損欠失(けっしつ)して現在に至った」と記している。
1869(明治二)年の点検で、桧が破損欠失していることを発見したという。それでも1939年当時、まだ三四枚の「百馬図」があったことになる。
同神宮の鹿島則良宮司(69)は「全ての絵があるわけではない。神宮に対して特段のことをしていただいた人にお礼として差しあげたようだ」と語る。当時と比べ数は少なくなっているが、雪村が描き残した思いは、作品に込められているはずである。「百馬図」で何を伝えたかったのだろうか。
◉鹿島神宮 常陸国の一宮。旧官幣大社。祭神は武甕槌神(たけみかつちのかみ)。歴代の武家政権から武の神様として崇められてきた。全国の鹿島神社の総本社。
■蘆名氏の庇護・・大作挑戦、充実の時代
会津盆地を阿賀川(大川)が流れる。新潟県に入って阿賀野川となる大河である。福島県内の阿賀川は会津坂下町付近で宮川(鶴沼川)を分岐する。
小田原、鎌倉を出て常陸国に立ち寄った雪村はさらに北上した。向かった先は蘆名氏城下の会津、大川と鶴沼川に囲まれた向羽黒山城(むかいはぐろやま・会津美里町)だった。
観音・羽黒・岩崎山を要害化(ようがい・険しい地形で,敵の攻撃を防ぐのに便利なこと)した巨大な山城だ。本城の黒川城(鶴ヶ城)が攻められたときに詰める城として崖名盛氏が築城した。1561(永禄四)年から城造りに入ったとされるので、雪村が小田原を出たころに該当する。雪村がいつ同城に入ったのか、不明であるが、それを探る上で貴重な手掛かりがある。
画人伝「増訂古画備考」(朝岡興禎著、一九〇四年発行)に雪村が1563(永禄六)年初秋、中国水墨画の画僧、牧谿(もっけい)の名画・八景図を写して進呈した、とする記述がある。進呈先は書いてないが、「継雪村舐船老」と号に「鶴船」を用いている。「鶴」は「鶴沼川」の「鶴」を連想させる文字である。
雪村はこの頃、築城中の同城近くの「鶴沼川」近辺に住み、牧谿の八景図を写し、巻物にして盛氏に進呈したのではないか。永禄六年という時期からみても進呈先は盛氏とみて間違いないだろう。
城は1568(永禄11)年に完成した。地元「本郷町史」(現会津美里町)は「巌館(がんかん・向羽黒山城)の装飾や障壁画に雪村作品が残る腕を振るったのが画僧雪村とその門弟であった」としている。金剛寺=福島県会津若松市七日町
この時期の雪村は屏風など大型の絵に挑戦し、最も充実した時期を送ったとみられている。会津若松市七日町、真言宗、金剛寺に雪村作「満湘八景図屏風(しょうしょうはっけいずびょうぶ)」(六曲一隻)がある。山口修譽住職(56)は「雪村が向羽黒山城にいたころに描かれたものではないかといわれている」と話す。当時の雪村の活躍を今日に伝える貴重な作品である。庇護者の盛氏の下で雪村は次々と大作に取り組み、盛氏も蘆名氏の最盛期を築いていた。両者相まって会津に独自文化が花開いていた時代だった。
◉向羽黒山城 戦国時代、会津を治めていた産名盛氏が築城。本城の会津黒川(若松)城の二倍もの面積を有し、岩崎・羽黒・観吉山を要塞化した巨大な山城である。
向羽黒山城跡から見る会津若松市の中心部=福島県大沼郡会津美里町
■会津から三春へ・・最晩年の創作始める
「雪村は向羽黒山城のディレクターとして行った。その仕事が終ったので、三春へきた」。福島県田村郡三春町、臨済宗福聚寺の玄侑宗久住職(60)は雪村の三春入りをこう語る。
産名盛氏の下で充実した時期を送っていた雪村は、活動の拠点を三春に移した。その時期を巡って幾つかの説があり、いまだに特定されていない。玄侑住職が指摘するように雪村の会津での役割が向羽黒山城内部装飾のディレクターであったとすると、同城が完成した一五六八(永禄一一)年以降、雪村はフリーの身となる。
蘆名盛氏は1570(元亀元)年、「北条氏政と結び、寺山(福島県棚倉町)
などで佐竹氏と戦う」(「福島県会津若松市史」など近隣の戦国大名と合戦をしている。三春の田村氏もその一人だった。「解説向羽黒山城跡」(同城跡検証事業実行委員会発行)は「葦名氏と田村氏は敵味方の関係が数年で入れ替わるが、雪村が両氏の間にあって自由に絵を描くことに無理はなかった」と指摘する。
この指摘に立つと、隣国同士の合戦は、雪村の三春行きに大きな影響を与えたとは考えにくい。むしろ、雪村がこれまでたどってきた復庵宗己(1280-1358 鎌倉-南北朝時代の僧。弘安(こうあん)3年生まれ。小田治久の猶子(ゆうし・兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの)。延慶(えんきょう)3年元(げん)( 中国)にわたり,中峰明本(みんぼん)の法をつぐ。建武(けんむ)2年郷里の常陸(ひたち)( 茨城県)に臨済(りんざい)禅の道場正受庵をひらく)の法系行脚が再び始まったとみた方がよさそうである。
三春の福聚寺は復庵宗己の開山である。しかも、福聚寺第七世鶴堂和尚の「鶴」 は雪村の号「鶴船」に通じる。三春町歴史民俗資料館発行の「三春福聚禅寺」の中に二人の接点を想起させる記述がある。「雪村は常陸から会津へ行く前に福聚寺に逗留し、(一部略)その後も何度か寺を訪ねて当時の鶴堂和尚と何らかの関係をもったのではないか」とこの想定に立つと、雪村は会津時代から三春を度々、訪れていた可能性がある。福聚寺の玄侑住職は「第九世の天心智寛和尚に引かれて福聚寺に来たのではないか」と推測している。天心和尚は田村義顕が招聘した関山派と呼ばれる法系に位置する名僧である。雪村は高齢になっていたと考えられるが、優れた人物に会うため果敢であった。田村氏城下の三春で、雪村は最晩年の創作活動を始めた。
◉田村氏 中世陸奥国の豪族 南北朝期、北畠顕家に従い南朝方で活躍。室町時代、三春に本拠を構え、田村清顕の時代、伊達氏と結んで勢力を急速に拡大した。
■終焉の地 観音寺で晩年過ごす
雪村庵裏手の竹林に倒れた状態の自然石の墓石=福島県郡山市西田町太田