道元(別冊・太陽)
■道元が生きた時代
▶仏法の敗北
道元が生きた時代は、顕密(けんみつ)仏教(旧仏教)が仏教界に君臨していた時代でもある。この顕密仏教は古代仏教ではない。十世紀以降の中世社会への転換のなかで、その性格を変化させていたからだ。
院政時代、藤原摂関家の抑圧から自由になった天皇家は、仏法興隆を主導することによって王権の強化を図った。その結果、顕密仏教は大いに栄え、延暦寺などの権門(けんもん)寺院は経済基盤を中世的な荘園に移行させた。また、仏典研究は飛躍的な深化を遂げて多くの学僧を輩出したし、顕密仏教は中世文化の頂点にたち、その影響はあらゆる領域に及じんぎんだ。天皇・神舐(神々)はもとより、和歌・儒教・芸能や諸学問と、仏教との融合が進んでいる。
さらに顕密仏教は、王法仏法相依論(おうぽうぶっぽうそういろん)を提起し、王法と仏法とは盛衰を共にする運命共同体だと主張した。王権の安泰と国土の平和を実現するには、仏法興隆が不可欠であるというこの政治思想は、中世王権の支持を得て、顕密仏教は院政時代に最盛期を迎える。
しかし、治承四年(一一八〇)からの源平の争乱は社会に大きな衝撃を与えた。鎮護国家の祈祷に効き目がなかったからである。これまで朝廷は、末法を克服して平和を実現するため、莫大な財を仏教振興に投じてきた。にもかかわらず、仏法は内乱を防ぐことができなかった。そればかりか、東大寺大仏が焼失した。これは仏法が戦乱に敗れたことを意味している。なぜ、仏法が敗れたのか、人々はその重い問いを反芻した。
▶仏教革新運動と弾圧
その反省から、聖たちは仏教革新の運動をおこした。それには穏健派と急進派の二つの潮流がある。まず穏健派は、僧侶の在り方を反省して戒律の遵守を徹底しょうとし、急進派は仏教の教えや、王権と仏法との関係を根本的に見つめ直そうとした。
貞慶(じょうけい)・明恵・栄西・俊芿(しゅんじょう)・叡尊など穏健派の聖は、戒律の護持を提起した。当時、顕密仏教の世界では僧侶の妻帯と実子相続が普通となっていたし、仏法守護のためには武器を手にして仏敵を倒すことが大乗仏教徒のあるべき姿とされた。そして実際、「平氏打倒のために挙兵せよ」という以仁王(もちひとおう)の呼びかけに「悪僧」が応えたことがきっかけで、南都諸寺が平氏の焼き討ちにあっている。穏健派の人々はこうした戒律の乱れが原因で、祈祷の効き目がなくなり、仏法の破滅を招いたと考えた。そして戒律を厳格にまもり禁欲を貫くことによって、仏教の教えをもう一度活性化しょうとした。王権の優位性を認めつつ、僧侶の居ずまいを正そうとしたのが穏健派である。
一方、これまでの仏教の在り方や、世俗権力との関係に根源的な疑問をもった人々もいた。法然・親鸞・日蓮、そして道元である。彼らは仏教の教えを純粋化し絶対化して、自由な立場から社会や仏教の在り方をきびしく問いただし、ありうべき真の仏法を探究した。こうして、彼らの思想は時代を超えた普遍性を獲得する。
それに対し顕密仏教は、王法仏法相依論をさらに展開して、朝廷が保護すべき仏法を、既存の顕密八宗に限定させることに成功した。そして彼らは、新しい宗派を開くには勅許が必要であるという主張を提起し、これをもとに、禅宗と専修念仏に抑圧を加えた。建久五年(一一九四)、延暦寺の訴えにより朝廷は禅宗の布教を禁じたし、建永二年(一二〇七) には「八宗同心」の訴訟によって専修念仏の禁止令が発布された。専修念仏は「天魔」の教え、仏法の敵と断じられて、法然・親鸞らが流罪に処された。覚書二年(一二三〇)、道元が洛中退去と山城深草での閑居を余儀なくされたのも、こうした弾圧の一環である。
これに対し、栄西は穏健な立場からそれに臨んだ。「王法は仏法の主(あるじ)なり」と語って『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を執筆し、禅宗の護国機能を力説して禅宗弘通(ぐつう・禅宗の教えを広める)の勅許を得ようとしている。だが、その試みは挫折し、栄西は鎌倉に逃れた。
そして密教僧として鎌倉幕府の信頼を得たうえで、幕府の政治力を背景にして禅宗弘通に努めようとした。
▶俗権追随を拒否した道元
道元の歩んだ道は、それとは異なる。すでに中国留学で道元は、俗権に迎合する大慧派(だいえは)ではなく、山居での仏道修行を徹底する
てんどうにょじょう)を師として選んだ。また、禅宗弘通の勅許は仏祖の段階で得ているとして、朝廷から改めて勅許を得ることを不要とした。天皇を「小国辺土ノ国王」(『正法眼蔵』「礼拝得髄」)と言ってのける胆力は、栄西にはない。道元は仏道の根本に立ち帰ることによって、仏法の革新を果たそうとした。
宝治元年(一二四七)、北条時頼は道元を鎌倉に招いた。このころ時頼は、鎌倉幕府の宗教政策を劇的に変化させようとしていた。これまで鎌倉では、将軍の主導で顕密仏教の振興を図ってきた。しかし、寛元・宝治の政変で将軍権力に勝利した今、時頼は将軍と癒着した顕密僧に代わる、新たな宗教を必要とした。北条得宗の権力を象徴する、新たな仏法を彼は求めた。それだけに、俗権追随を否定する道元の純粋さは、北条時頼の意図にはそぐわなかった。二人は決裂し、時頼は建長寺に中国渡来の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を迎えることになる。五山派と道元門流の分岐はここに淵源(えんげん・みなもと。)している。これ以後、五山禅林は幕府権力と一体化しながら、爆発的な発展を遂げることになる。
(たいら・まさゆき/大阪大学大学院教授)
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