円山応挙(別冊太陽)

000

■絵画の可能性の追求、実験的制作

内山淳一

▶滋応挙と円満院門主祐常

313bc81f

 年号が宝暦から明和に変わると、応挙の画家人生にも大きな転機が訪れる。奉公先の高級玩具商尾張屋勘兵衛が出入りしていた門跡寺院宝鏡寺(別名「人形寺」)。その蓮池院尼公に宝暦末年に仕えたことで、皇室や公家につながりを持った応挙は、琵琶湖の南端に位置する門跡寺院円満院の祐常門主(一七二三〜七三)に抱えられることになったのである。祐常は二条家の出身で、蓮池院尼公が仕えた青綺門院(桜町天皇の皇后)の弟であった。

 「月渚」の号をもつ風流人だった祐常は、当時流行の本草学に刺激され動植物の写生を熱心に行うなど、絵画における写実の重要性に気づいていた応挙は祐常のユニークな注文に応じるのみならず、この十歳年長のパトロンに絵画の技術指導を授けていたことが祐常の日記的雑記帳『万誌(ばんし)』中の記述から確認できる。両者のかかわりは明和二(一七六五)年に始まるとされるが、それから祐常の没する安永二(一七七三)年十二月二日まで、応挙三十三歳から四十一歳までの八〜九年間に及ぶ時期を応挙の「円満院時代」と呼んでいる。両者とも中国元代の花鳥画名手であった銭舜挙(せんしゅんきょ)(銭選、一二三五頃〜一三〇一頃)風の精密な描写力を高く評価しており、明和三年以後生涯にわたって名乗ることになる「応挙」の名(字は仲選)もそれに因み祐常が命名したものと考えられている。また、明和五(一七六八)年には 『平安人物志』画家の部に三十六歳にして二番手として掲載されるなど、世間的な評価も高まりつつあった。

4731

 『万誌』には「秘聞録」として、画材や技法のみならず応挙の絵画制作上の理念を教えてくれる記述が随所に残されている。応挙の円満院時代は、絵画志向を同じくする祐常のもとで理論を実践する機会に恵まれた、画業上最も重要な一時期だったと考えられるのである。ここでは、その理論と実践の軌跡の一端を紹介してみたい。

■生物にて写すべし〜リアルさの追究〜

 「秘聞録」には、応挙の言葉として「画学物二目ヲ付ル意ナクテハ不レ成レ画…真ヲトクト覚へ人物鳥獣其真ヲ写、気ヲ写ス第一ト(シ)、其上理ヲ学て可レ付レ意云々」とある。

 対象を注意深く観察して写生し、生き生きとした生命感を写すことを第一義とした上で、理(ものの構造や構成原理)学び意(画家の創作意図)を加えることの大切さを説くのだが、このようなシステマティックな思考方法は応挙の一大特徴といえる。 

%e5%86%86%e6%ba%80%e9%99%a2%e7%a5%90%e5%b8%b8

 門人奥文鳴(おくぶんめい)が享和元(一八〇一)年に著わした『仙斎円山先生伝』は、「真物ヲ臨写シテ新図ヲ編述スルニアラズンバ、画図卜称スルニ足ンヤ」という応挙の象徴的な言辞とともに、円満院祐常(えんまんいん ゆうじょう)の命により「昆虫草木写真一百幀ヲ描ク。其精緻微密幾(ほと)ント造化ノ工ヲ奪フ」と、多くの写生図が描かれていたことを伝える。また「秘聞録」には、「図出来ルホドナラハ生物ニテ可二写学、依レ之予亦日記ノ小冊ヲ以日々囲二得之、山川草木禽獣虫魚人物、何ニてモ見レ生可二図写置」ともある。応挙がこの言を自ら実践し、夥(おびただ)しい量の写生を手がけていたことは、『写生雑録帖』はじめ残された多くの写生図が実証している応挙33歳~41歳までの8~9年間(円満院時代)と言われている。

49

 応挙が三十歳を過ぎた宝暦末年、ある人からの依頼で銭舜挙(せんしゅんきょ)の花鳥図を模写したところ実物と模写と区別がつかないほどで世間の評判となった。これが契機となっで宝鏡寺門跡(面々(どど)御所)の蓮池院(れんちいん)尼公との関係が深まったという。その後制作された「花鳥図」双幅(上図)などは、その片鱗をうかがわせる作品といえるであろう。また、緑青に金泥の細線を重ねることでインコの華麗な羽毛を表現する「青鸚哥(いんこ)図(下図)沈南痍の作品を模写したものといい、現物からの写生だけでなく絵画作品をも参考にしていたことが確認できる。祐常の出自である二条家ともゆかりの深い近衛家熙(いえひろ)に仕えた渡辺始輿(しこう)の「鳥類真写図巻」を忠実に模写した作品も知られている(31頁)。

tumblr_n2j6getvme1qzwpxio1_128033 %e6%b2%88%e5%8d%97%e7%97%8d%e5%bf%9c%e6%8c%99%e3%83%bb%e9%b3%a5%e5%9b%b3

 「秘聞録」には応挙の教えとしで、実見することの困難なものは「画本」に依るべきである、と記されているのである。

 実物と絵画の双方から学んだ自然の造形を、応挙はさらに自作へと展開させることになる。円満院時代の最初期に位置づけられる明和二(一七六五)年の「双鶴図」(上図)にはすでに的確な対象描写が実現されているが、これらの作品を経て円満院時代を代表する名作「牡丹孔雀図」(下図)が描かれるに至るのである。

48

琵琶湖宇治川写生図巻一巻の内 紙本墨画淡彩明和7(1770)年 京都国立博物館

明和7年8月27日から翌日にかけて、琵琶湖西岸から宇治川を下りながら日に映る風景や文物をそのままに写生したもの(一部に別時期のスケッチを含む)。琵琶湖風景に始まり、月、船上の人物、釣人、蚊取り、藻取り、膳所(ぜぜ)城、水流などとともに、帝や雁・鴬などのさまざまな姿態が描き込まれている。巻頭に「紙数弐拾枚」とあり、もとは袋綴の写生帳だったと思われる。人物については体の線を墨で描き、その上から衣を朱繰で描写するなど、「四条河原納涼図」下絵と同手法を見せる。実際の観察に基づく一次写生で、写生に打ち込む応挙の息づかいまでが聞こえてきそうである。

50 51

   応挙は、立体物そのものの捉え方につき石を例に、「石見二三面一事、上一面、左右二面、合三面」と説く。立体である描写対象には、その立体感を表現しやすい方向がある。例えば立方体を正面から見れば、単に正方形という平面しか見えないが、視点を斜め方向に移動すると、上面と左右二面あわせて三面を見ることができ、立方体という形体のもつ立体的特徴を表現できると説いているのである「雪中山水図屏風」(下図)など同時期の作品をはじめ、応挙の描いた若組や山岳の立体感溢れる表現からも、応挙がこの理念を実践していたことがわかる。このよぅな応挙の思考法の基盤には、前章で紹介した眼鏡絵制作の経験があったはずだが、それと同時に日頃目にする機会に恵まれたはずの京都および近郊の寺社に伝来した中国山水画などからの影響も忘れてはならないだろう。明和四(一七六七)年の「湖山姻濁図」(下図)や同七年の「蓬莱仙突図屏風」などが見せる構築的かつ重層的なモチーフ配置は、明らかに中国古画学習の成果といえるのである。

57

 石に三面を見るように、手足なども正面や側面より斜め方向から描いた方が格段に画面に空間を感じさせることができるだろう。しかし、その描写は上記二方向からのそれに比べ不安定なものとならざるを得ない。視覚を知識や経験が補正してしまい、結果として誤った長さや大きさとして認識してしまうためである。

 応挙の,言葉を借りれば、「人食婁ハ長クミュル、寸法ルニハアラズ、又生写生物ヨリ大キクミ可レ有二其心得一・⊥となる。そこで応挙仕見下のように説く。

 「…手足等モ不レ尽レ意時、鏡ニウツシテ可レ図」

 「…人物手足鏡ニクツシ、我手足ヲモ可レ 写レ以レ鏡、写以二遠目鏡一可レ写レ之云々」

 視覚の不安定さを解消するため、鏡や望遠鏡の利用を説くのだが、これらの器具もまた若年時の尾張屋での経験が活かされているのである。

▶三遠の法〜視角と空間の創出〜

 応挙は、この考え方をさらに空間そのものへと展開する。「秘聞録」には、

「三遠之法、平遠深遠高遠此三、人物花鳥  山水万物三遠ヲ可レ意、々不レ掛ハ図不二出 来一云々、クルシンデ学ブヘシ…」

%e9%9b%aa%e6%9d%be%e5%9b%b3%e5%b1%8f%e9%a2%a8

とある。応挙は、山水画の空間表現として東洋画の世界で伝統的に使用されてきた「三遠」すなわち高遠・深遠・平遠という概念を、仰視・水平視・俯瞰視といった視線の角度(視角)の問題として捉えていたようである。先に触れた「雪中山水図屏風」などは、これら三つの視角を一図中に実現しょうとした作例といえようが、個々の視角においても応挙はさまざまな試みを繰り広げていた。例えば、仰視的な表現としては「雪松図屏風」(上図)右隻に描かれた松のように、開いた傘を下から見上げるような視点からの空間づくりを、水平視においては山水図屏風右隻に見られる複数の消失点を意識した空間づくり、ないしは「雨竹風竹図屏風」(下図)に描かれた竹林の、屏風を立てたような前後関係を感じさせる配列、そして僻轍視ではさきの「山水図屏風」の左隻前景に見るごとき、描かれたものの上面をことさらに意識させるような多くの景観配置を指摘することができる。71%e9%9b%a8%e7%ab%b9%e9%a2%a8%e7%ab%b9%e5%9b%b3%e5%b1%8f%e9%a2%a856

 戯れ遊ぶ童子が印象的な「芭蕉童児図屏風」の画面左側、一線上に並ぶ童子の頭部を体躯の傾きや高さの違いで描き分けた作品も、視角を主眼に据えた表現と見なせるであろう。安永元(一七七二)年、祐常が円満院に滝がないことを惜しんで応挙に描かせたという「大湊布図」の圧倒的な臨場感は、竪三・六メートルにも及ぶ巨大さもさることながら、上下の岩組がそれぞれの視角に沿う形で的確に描出されている故に実現したものだったのである。

58 58-1

 水平視的な視角による描法の一つとして、鳥転痕や虎の図などに顕著な「短縮法」的な表現が 挙げられよう。例えば先に触れた「双鶴図」(前図)の後方に位置する鶴の首の表現や「牡丹孔雀図」(上図)における雌孔雀のそれの表現にも使われている。三面をことさら強調するように配置された岩石表現とも相まって、ちょうど自らの居場所を確保するかのように画面には 確かな奥行き感が生み出されているのである。

 そして、この高度な技法の裏付けとなるのが、 羽毛の輪状の重なりである。試しにその並びに 沿って弧を描いてみれば、輪切り状の楕円曲線が浮かび上がることになる。また応挙の描いた多くの虎図の、例えば尾のような部位においても輪切り状の縞模様を利用した短縮表現がなされていることに気づくはずである。羽毛といい虎の縞模様といい、自然の造形を自らが意図する表現にこれほどうまく合致させた画家の観察眼には驚くばかりである。応挙は好んでこの表現を用い、鳥や虎以外にも鯉など水中の魚の描写において、鱗の連なりで楕円曲線を作り出すのである。

img_1%e9%9b%b2%e9%be%8d%e5%9b%b3%e5%b1%8f%e9%a2%a8%e3%83%bb%e5%86%86%e5%b1%b1%e5%bf%9c%e6%8c%99

 このような過程を経て初めて、安永二(一七七三)年円満院時代の最後を飾る大作「雲龍図屏風」(上図)の短縮法を駆使した劇的な空間や、「芙蓉飛雁・寒菊水禽図」双幅に見るような仰視ないしは水平視による二羽の雁と、僻轍視による水禽の群れとを対置した名作が生み出されることになったといえるのだろう。

 なお、応挙の開拓した空間表現としては、さらに鑑賞者と画面との距離や位置関係の問題が残されている。「秘聞録」において、「遠見の絵」「近見の絵」と記される言説であそこれについては誌面の関係上、前出の「応挙画の風景金刀比羅宮」の項で扱った。

(うちやま・じゆんいち)

■作品を解剖する

 応挙画のさまざまなモチーフを抽出し、時系列で並べてみると葛藤を繰り返し新たな工夫を生みだしでいった彼の創作の方法や趣向の深さ・幅広さ、驚くべき技量の高さが見えてくる。応挙の魅力をより詳細に分析する、試みの章。

 円山応挙の人物画は、若い頃に眼鏡絵制作や人形の色塗リに携わっていた経験が基礎となっている。応挙は自身の目とレンズを通して捉えた身体各部を、中国絵画や版本、相書を参考に自在に組み立て、表面をていねいに彩色して、適度な現実感のある人形のような人物像を作り上げた。

107 108

 明和四(一七六七)年の「大石良雄図(百耕資料館−上図左)は、人形浄瑠璃や歌舞伎で人気を博した『仮名手本忠臣蔵』など一連の忠臣蔵物に取材したと推測される作品で、従来とは異なる現実感と典型美を同時に備えた人物像が確認できる。薄物の着物の下にはうっすらと身体の輪郭線が見え隠れし、確かな人間の存在感を示すいっぽう、女の薄紅色に染まる頬、艶のある日本髪、袖や裾からのぞく色白で華奢(きゃしゃ)な手足はまるで人形そのものといってよい。また、女と少年は「人物正写惣本」(天理大学附属天理図書館 上図右)の中年女性と若い男性の身体に着衣を重ねたよう人物な描写であることが注目される。ばんし『万誌』「秘聞録」 によれば、応挙は初心者が人物を画くにはまず骨格を定め、次に衣裳をつけるよう勧めており、人物画の制作には裸体を描いた画手本が必要と考えていた。

 この「人物正写惣本」は三巻構成で、第一・二巻には裸体が等身大に近い大きさで、第三巻には鏡や望遠鏡に映した身体の部分図が描かれている。中年女性や若い男き性のゆるやかに接続する関節や肌の理の整った肌は人形の身体を彷彿とさせ、また、中年男性の芝居がかった姿勢は武者人形のようである。一部の類型化した顔は本画作品にも確認できるため、必ずしもモデルをそのまま写したわけではない。人物画の制作用に貴賎・男女・年代別に典型的な人物像をまとめた画手本なのである。

 応挙は『万誌』「秘聞録」で、動物は写すことが難しいので人物鳥獣等は良くできた細工の人形を画本に用いるとよいと語り、自身も中国人物と和人物の画本数巻を秘蔵していたという。当時、人形は公家だけでなく武家、庶民まで広く愛好され、遊興や祭礼用に造り物の等身大人形が飾られたので、人間の代わりに人形を写す場合もあったであろう。また、『人物描写図法』(京都国立博物館・下図)には、裸価の上に着衣を重ねた和漢の人物像や、相書からの抜書きが掲載され、応挙が人物像を作り上げる際の具体的な手法を知ることができる。

109

 「楚蓬香図」(個人)は中国の故事人物図として一夫人を描いた作品で、初期の細面で長身の中国人物優に比べると、晩年は顔がやや丸みを帯びて和人物像に近づく傾向がある。応挙の描く美人は胡粉で磨いたような白い肌や薄紅色を帯びた頬が魅力的で、実際、美人の顔を隈取りする時、先端を裂いた紙縒(こよ)りで朱の粉を擦りつけてから羽帯で払うなど、人形の色塗りに近い彩色技法を用いていた。中には「三美人図」(徳願寺)のように個を描き分けた肖像画としての美人図もあるが、妓女の小さな手足に象徴されるように、人形の身体観に基づくという基本的な性格は一貫している。応挙が目指した人物、それは、本物の人間の現実感と造り物の人形の典型美とをハイブリッドした、新しい時代にふさわしい人物像だったのである。

 (かとう・ひろこ)

■水墨画のニュータイプ

 応挙というと、鮮やかな孔雀や、透明な青色に彩られた水面の描写を思い起こす人も多いであろう。しかし見逃せないのが、水墨画である。

140

 二十代、尾張屋時代の応挙が描いたものの多くが水墨画である。石田幽汀に学んだだけに狩野派風もみられるが、むしろそれにとどまらないのが面白い。太い筆を思い切り寝かせて、朴嗣なまでの筆致を連ね、山を面の集まりとして表現した「山水図」 T図)。応挙は つけ後に一筆の中に濃淡を表わす「付たて立」 を確立するが、それに通じる感覚も見い出せる。明和二(一七六五)年、三十三歳の時の 「破墨山水図」(舶〜朋頁) でも、無骨で押しの強い墨色と造形で描き切っている。狩野派というよりは、中世の水墨画の澄墨を思わせる大胆な表現である。一般的に、水墨画といっても材吐冥や技法は一遇りではない。青みがかった「青墨」もあれば、藍を混ぜて青く発色させる技法もあり、白い絵の具である胡粉と混合する場合もある。同時代の伊藤若沖や水墨画のニュータイプ与謝蕪村らの作品など、この頃、黒の墨のほかに、明らかに灰色の墨を併用している水墨画が多くみ おうばくぜんられる。江戸時代に黄葉禅の到来や画家の来日によってもたらされた中国、明清絵画の影響であろう。応挙の多彩な墨の色を使った水墨画も、この時代の新しいモードを基調とするものといってよい。

141

 大胆な筆づかいと墨色の探求。目に映った様子を繊細に写し取る写生的画風とは対照的だが、これもまた、応挙の個性的一面である。そればかりか、その観点から改めて「雲龍図屏風」(62〜67頁)や「雪松図屏風」(3〜6頁)を見てほしい。独創的な水墨画家としての傑作なのである。

 

■写 生

 応挙の写生帖には、葉先の小さな露から雄大な水辺の景 色まで、彼が捉えた美しく豊かな 世界が留められている。応挙の門 人・奥文鳴の著わした『仙斎円山 先生伝』によれば、応挙は円満院 の祐常門主の命で「昆虫草木一百偵」を描いたという。実際、世に応挙筆として伝来する写生帖は多 いが、そこには一つの謎があった。それは、なぜ同じ図が複数あるのか、という疑問である。

144

 「写生雑録帖』(個人)は明和八(一七七こ年頃に応挙が懐に入れて かいじよう持ち歩いていたと思われる懐帖である。動植物などの実物を写した一次写生図から、すでにある写生図を模写した二次写生図、古画の縮図、漢詩文の抜書きに至るまで、あらゆるものが素早い筆致で写しとられ、応挙が何をどのように見ていたのか追体験することができる。現在は巻子装の「琵琶湖宇治川写生図巻」(京都国立博物館48頁)も、元はこのような懐帖であった。

145

 『写生雑録帖』の一部の図は「写生図巻」(株式会社千穂)にも登場し、その整理された状態からみて、浄書として仕上げた二次写生図であ る。東京国立博物館所蔵の「写生 帖」には複数の共通図が含まれ、 渡辺始興筆「禽義之図」の模写の ほか、昆虫や蝶と蛾を集めた写生 帖もー緒に伝来している。このほ か、「昆虫・筍写生図」(三井記念美術館)や「写生図貼交屏風」(個人) のように、後世に鑑賞用として掛幅や屏風に仕立てられた図にも共通図がある。一連の写生図を分析すると、応挙の写生帖には、応挙が実物を写した一次写生図だけではなく、二次写生図や浄書、さらには、弟子が応挙の写生図を画手本として写した模写図も含まれていることがわかる。

147

 しかし、写生図同様、模写図も大変に貴重で重要な作品であることは、間違いない。なぜなら、写生図が模写されることによって、応挙の技法とともに、応挙が開いた新たな視覚が弟子に継承され、近代にまで流れ込んでいるからである。写生帖に写し取られた美しく豊かな世界は人々を魅了し、応挙のように対象を見つめ、応挙のように形体や色彩を捉える「視覚の革新」を促していったのである。

 

(かとう・ひろこ)

■筆 技

 応挙の絵のリアルさは、対象を把握する冷静なまなざしと、感情の起伏をできるだけ抑制し、「真実らしく」描くことに徹底した、彼の高い筆技によって支えられている。

148

 極端に冷静な観察眼は、応挙が若い頃に手掛けた眼鏡絵制作にともなう鏡やレンズの使用によって獲得した可能性が指摘されているが、彼の筆技についても、比較的早い時期の作例に、その表現の萌芽を見ることができ、興味深い。例えば、二十七歳頃描いたとされる眼鏡絵では、捷細な線と明快な色面との拮抗が、画面に現実感を与え、また、三十三歳で描いた 「破墨山水図」(三井記念美術館)も、抽象的な筆技をダイナミックに見せながら、中景の面的な筆触が、のちの「付立(つけたて)」への方向性を予見させる。同様に、三十九歳の作である「牡丹孔雀図」(相国寺)の孔雀の羽根では、中国絵画の技法に学び、顔料の下地に濃淡の墨を塗ることで、羽根のグラデーションや質感の再現に取り組んだ。

50

 応挙の筆技の代名詞である「付立」は、輪郭線を用いない面的な一筆の中に、筆の側面などで濃淡のグラデーションを作り出し、立体感や質感を再現する描法だが、先に見たような線と面、色面と墨面と素地とのせめぎあいによって、対象をリアルに描こうとする試みこそが、こうした応挙ならではの「付立」を生み出したともいえよう。

%e9%9b%aa%e6%9d%be%e5%9b%b3%e5%b1%8f%e9%a2%a8%e9%9b%b2%e9%be%8d%e5%9b%b3%e5%b1%8f%e9%a2%a8%e3%83%bb%e5%86%86%e5%b1%b1%e5%bf%9c%e6%8c%99%e8%97%a4%e8%8a%b1%e5%9b%b3%e5%b1%8f%e9%a2%a8%e3%80%8c%e6%9d%be%e5%ad%94%e9%9b%80%e5%9b%b3%e8%a5%96%ef%bc%88%e5%a4%a7%e4%b9%97%e5%af%ba%ef%bc%89

 また、紙を塗り残し、そこにわずかな松葉を描くだけで、松葉に積もった雪を表現した「雪松図屏風」(三井記念美術館)や、墨の濃淡・潜み・擦れを駆使して、モチーフが渦巻くような立体感と躍動感を見事に表現した「雲龍図屏風」(上図)は、きわめて高度な応挙の筆技の真骨頂である。ただ、「藤花図屏風」(根津美術館)や「松孔雀図襖」(大乗寺)の金地に透ける「付立」の淡い墨色は、リアルなだけでなく、むしろ装飾的で幻想的な雰囲気をもたたえており、まさに、応挙は写実と装飾とを兼ね備えた卓越した筆技によって、絵画的なイリュージョンを成功させたといえるのではなかろうか。

(やすなが・たくよ)

■作品を解剖する

■仏教・儒学とのかかわり

安永拓世

 152

 視覚を優先させ、現実主義的な絵画を実践した応挙が、仏教に深く帰依したのかどうかはわからない。だが、幼少の頃郷里の金剛寺に入り、若い頃には円満院の祐常のもとで多くの絵画を制作し、その後も、草堂寺、無量寺、大乗寺、再び故郷の金剛寺といったように、各地の有力寺院とのかかわりが応挙の画業を支えたのはたしかである。そうした中で、応挙の絵画志向と、仏教的な思想が見事に融合した作品が、「七難七福図巻」(相国寺)と、一連の「大乗寺障壁画」(大乗寺)だろう。『仁王経』にある七難と七福を絵画化した「七難七福図巻」は、祐常の構想と下絵に基づきつつ、より現実らしさを付与するアレンジを加えて、経典が説く仏教観を仮想現実的に表現した。

%e4%b8%83%e9%9b%a3%e4%b8%83%e7%a6%8f%e5%9b%b3%e5%b7%bb

 また、「大乗寺障壁画」は、各部屋の画題や位置関係が、寺の周囲の自然景観とまんだら融合し、一種の立体量奈羅のような宗教的空間を演出しているともされる。同寺に伝わる「波上白骨坐禅図」も、生死などの仏教観を、よリリアルに絵画化した可能性が考えられよう。

152

いっぽう、応挙と儒学との関連せいについては不明な点も多いが、清田儋叟 (せいた-たんそう)(七一九〜八五)や皆川 淇園(みながわ きえん)(一七三四〜一八〇七)など、当時を代表する儒学者が、応挙を高く評価したことは見逃せない。儋叟『孔雀楼筆記』の中で、応挙が着色の花鳥画や人物画に優れ、温雅な人格も愛すべきであると述べる。また、洪園は、天明八(一七八八)年に応挙や呉春(一七五二〜一八〇七)など伏見の梅渓(ばいけい)へ梅見に出かけ、その際の紀行文やスケッチを貼った「梅渓紀行図屏風」(個人)を遺す。応挙没年の作である「竹・鶏図」(蓮台寺)は、応挙を訪ねた際に洪園が書いた賛により、制作経緯がわかり、応挙が最晩年まで淇園と親交したことをうかがわせる。

%e5%86%86%e5%b1%b1%e5%bf%9c%e6%8c%99%e5%83%8f

■参考資料・円山派系図・年代記

180181111