徳川幕府は1600年代前半から、新田開発・洪水防御・舟運などのために、利根川など関東平野の河川の流路を大きく付替える大土木工事を行いました.利根川はかつて南へ流れ東京湾に流入していたのですが、平野中央にある分水界の台地を関宿において開削して、東に流れる常陸川に接続させるという河道付替え工事を1621年から実施しました(図8).これによって流域面積は大きく変わり、旧常陸川は旧利根川や渡良瀬川などが流す大流量の洪水を引き受けることになりました.
1629年には水海道の南において鬼怒川と小貝川を分離し、台地を4km開削して鬼怒川を利根川(旧常陸川)に合流させる工事を行いました.また、1630年には戸田井と羽根野の間で取手台地を開削し、押付にて小貝川を利根川に合流させました(図9).これらの河道付替えによりこれまで放置されていた鬼怒川・小貝川低湿地の利用が可能になり、灌漑用に福岡堰・岡堰・豊田堰の三大堰などを設けて、新田が開発されることとなりました.
もともと常陸川は取手台地のすぐ南を流れていたのですが、1630年に我孫子台地東端を布川と布佐の間において開削して、流路を南に移しました.現在もここは川幅が著しく狭い狭さく部になっています.新利根川は1660年ごろ開削が始められた人工河川で、かつてその上流部は利根川に接続していました.1922年には高須における小貝川の曲流部がショートカットされました.明治・大正期の地形図にはこれらの河道変遷の痕跡が認められます.
鬼怒川・小貝川の低地の幅は常陸川の低地に比べ広くて、ここを大流量の川が流れ関東平野東部の主河道であったことが分かります.鬼怒川と分離されている現在の小貝川は、上流に山地を持たない平地河川であり、農業用水の取水用河川となっています.大きな流路変更が行われた河川において氾濫が生じた場合、一般に洪水の主流は自然地形の傾斜方向に向かっていた元の流路をたどって流れ下ります.
1742年(寛保2年)以降、小貝川における堤防決壊による洪水は14回(決壊箇所数18)起こったという記録があります(図10).このうち右岸側(藤代側)は1950年の1回だけで、低地面の傾斜方向に(かつて鬼怒川が流れていた方向に)洪水が向かう傾向が非常に強いことが分かります.高須の曲流部がショートカットされる以前には、決壊はこの曲流部付近と利根川合流点付近で多く生じています.豊田では5回も決壊が起こりました.
合流点の上流では本流の高水位の影響をうけて決壊が生じやすいので、小貝川流域では雨が少なくても利根川上流山地内で大雨が降ると、小貝川が洪水になります.布川の狭さく部は合流点付近での利根川水位をより高くします.1935年9月には利根川からの逆流によって高須橋下流で左岸堤防が破堤し、東村までの百数十平方km(1981年洪水の5倍程度)が浸水を被りました.
平野部で大雨が降ると小貝川自体の流量が大きくなって氾濫が生じます.1938年6月の洪水はこのタイプで、佐貫駅の近くで破堤して140平方kmが浸水しました.石下町豊田などで破堤氾濫が生じた1986年8月の洪水もこのタイプです.1950年のように藤代側に氾濫すると小貝川堤防により流下が妨げられるので、堤防際から上流方向へと流入量と地形に応じて浸水域が広がり滞留します.