土浦の里(読物)

■楽しんで酒を飲む sanoya佐野屋

 子どもの頃で今でも忘んにぇえ事は、いたずらして私はよく物を壊した事ですよ。そんで学校なんぞでもいろんなものを壊したりしましたが、校長先生という人がある時私が花瓶を壊したのを見て、怒りはしねえで〝直しとけよ″って二百言われた。それから私は直そうと思ったけども直るわけはねえ、そしたら二日ぐらいたって先生が〝どうだ直ったか″ってゆった。それからまた何んにもゆわなかったけんとも、丁度一週間ぐれえたったか、先生に呼ばれてこうた事をゆわれた。

〝これ、おめえな、壊れたものちゅうのはいくら直せったって、誰がやっても元通りにゃなんねえもんだ。おれがやったって出来っこね、え。そんだから物ちゅうのは粗末にしねえで、大事にして壊さねえように心がけろよ″ って、こう言われた。

 私は大勢の先生を見たがね、あんな人は今も居ねえんじゃねえかと思うね。ところがこの先生も初めっからこうた先生ではねかったってゆう話だな。若い頃は酒飲んで、暴れん坊で始末になんなかったそうだ。誰にもなんともしょうがね、え。酒癖が悪いってゆう人だったんだな。それを母親が心配して〝教師にまでなってんのを、こうたに酒ばかし飲んでんではどうしようもね、え″って思って、なんとかすっペと思ったが、またその日も酒飲みに行って帰って来ね、え。そんで母親は寒中のことだったが通りの田んぼの縁んとこさ隠れてて、じつと帰って来んの待ってたそうだ。そしたら夜がふけて、息子はふらふら帰って来た。そんで母親はいきなり田ん中から飛び出して、息子の体突き飛ばして、田ん中さ埋めちまったんだそうだ。まあ寒中のこってな、春先みてえに水があるわけでねえから命に別条があるなんてことはなかったんだが、息子は田ん中さ大の字にひっくりかえってそのまま寝ちまった。母親の方は母親で、何ともゆわねえでスタスタ家さ帰っちまった。そんで息子は朝方まで横んなってたが、さすがに寒さで目えさまして、田ん中でよくよく考えっ事があったんだろうよ、それから酒を飲む事はあっても、決して自分を失なうまでは飲まなくなったそうだ。

 こうした先生だから、年とって校長んなっても、生徒を教えんのに短気な教え方はしねえで、一生心ん中さ残るような教え方が出来たんではねえかと思うな。

 それから先の先生の話の大分後の事だが、青年会で夜学というものをやって、若い学校の先生が当番で順ぐりに生徒を教えることになった。ところがある晩、いくら待ってても先生が来ね、え。どうしたんだっペ、もう来やしめえから帰っペか、なんて言ってたら、そこへ先生が酔っ払って入って来た。そしてその先生が手えついてゆう事には〝おれは今晩酔っ払っちまって、どうにも教えられねえ。そんだから、今晩のとこはかんべんしてくれ、あとで教えてやっから今日は帰ってくろ″とこう言った。

 そん時私は〝ああこの先生は偉いもんだ。酔っ払ってんのをなんとか隠す事も出来んのに、生徒にあやまって言い訳立てて、出来ね、えこんだ″ ってこう思って、今でもその晩の事は記憶にはっきり残ってますよ。

 酒と言えば私の父という人も酒のんべえであった。それというのは私の父親は養子でここへ来たんだが、養子に来る前の実家というのは子どもの育たねえ家であったそうだな。三つ、四つんなっと、子どもがコローリ、コローリと死んじまう。そんで実家の親たちが弱って、どうしたら良かんべ、と相談ぶって、そうしてっとこへ私の父が病気んなったればもう手の尽くしようがねえ、そんで、ハアしょうがねえ、酒でも飲ましてみろって誰かがそうたことゆったんで、そんじゃそうすべかってゆって飲ましてみたれば、病気がすっかり良くなっちまった。そんでこれは子どもを病気にしねえためには酒を飲ませんに限るってゆうんで、三つ、四つの暗から酒飲ませてた。

 こうやって父親という人は育てられたもんだから大した酒飲みであったんだが、実家の人らは、病気にゃなんねえでなんとか育ったもんの、家を継いだればやっぱり病気んなっかもしんね、え、と心配して、養子に出すことにした。そんでこの家さ来たわけだが、養子にいよいよ決まるってゆう時に、父親はこっちの親たちに向って言うには〝他の何んにもむこいんけんとも、酒だけちゃんと飲ませてくれれば、婿になってもいいでしょう〟とゆったそうだ。そしたらこの家の当主で、私の祖父に当る入ってゆうのは父親以上の大酒で、いくら飲んでもまいった、なんてゆう人ではなかったから、大いに気があって、そんで婿に決ったそうだ。

 おじいさんてゆう人は二升ぐれえの酒飲んだんでは、ハスンバ(高下駄)はいて平気で村内を歩き回った程の人でな、若い頃は大酒飲んでハスンバ履いて、付け馬の背中に米俵を二俵のっけて運んでったってゆう程の大した人だったんだ。

 ところが上には上が居たもんで、このおじいさんの男親という人は、私は話に聞いただけであったが、江戸相撲を十両までやったという人で、それはそれは大した大酒。この人の右に出る人は近隣近在で一人もなかったって話だ。この人は大酒飲んでもちっともふらふらなんぞしねえで、米俵を片手に一俵ずつ下げて、倉の入口んとこまで運んで来っと〝ほれ、ほれ′″ ってゆって、米俵を倉の中に投げ込んで、そうやって三段も四段も積み上げた程の力の持主だったそうだ。そんだから私の父親がいくら大酒飲みだからといっても、この家の代々の男らに比べりや大したことはなかったんですよ。

 酒に飲まれちまう人も多いですが、私の見てる人らの多くは、酒を楽しんで飲んでたように覚えてますな。 (明治8年 採話者 出島村 久保田保)

■荒川の競馬場

 荒川の競馬場は線路の東側でね、駅からも目と鼻の先に見えたんですわ。戦後も長い間空地んなって、草なぞがぼうぼう生えていたでしょう。 明治の末から大正時代ごろは駅を降りると辺りにはなんにもなくてね、畑の中に競馬場がぼっかりと広がってたんです。

 競馬場開設の出資者の中には私の親父も居りましたが、他には株木建設の株木政一、水戸の請負師の中島、荒川の地主で県議の高野良男、穀屋の湯原竹之助なぞ全部で十人ぐらいで、うすらにしか覚えてませんが、一人が十五円ぐらいずつ出したようです。

 しかし、この競馬場を開設する申請を出したところが、県が営利事業としては認めないんでね、競馬をやっても利益の殆んど全部を県に献金するというようなことになってしまって、結局利益どころかやる度にみんな損をして、段々手を引いちゃいました。

 私は中学生の時、ちょくちょく見物に行きましたが、馬券を買ったこともあります。私が馬券を買った時は株木さんの関係で、沢田ってゆう東京の親分が興業主になっていたと思います。馬も大して立派な馬とは言えませんが、ちゃんと東京から競馬馬を貨車で運んで釆て、一日に十二レースやったんです。一回毎に五頭か六頭ぐらいずつ走ったんですから、大したものですよ。草競馬ではありません、本物の競馬ですよ。

 馬券売場は小ちゃい掘立小屋で、前に板をくり抜いた丸窓があって、お金を握った手をその穴へつっ込むと馬券を渡してくれる、一枚がいくらだったか、それは覚えてません。

 見物席といってもスタンドなぞはありやしません。柵がぐる・っと回してあって、見物人は柵に寄っかかって見るわけです。その格好も着物の尻を端折ったり、股引に腹掛けといった、そんな格好でねじり鉢巻の土方のような人も多かったですね。

 スタートは、発馬機なんてゆうのはありゃしませんから、沌で仕切ってあって馬が並んだ頃合を見て、台の上の男が旗をばっと上げる。そうすると荒組の両はじを持っている男たちが、縄をはっと上げてスタートをするという、そんな仕掛けでした。 私は十二レースかけて、全部外れて一銭もなくなっちゃった。帰りの汽車賃もなくなったので湯原さんの家まで歩いていって借金して帰って来ました。借金といっても土浦、荒川間の汽車賃でね、十銭か十二銭だったと思います。(明治29年  採話者 土浦市桜町 大竹正之助)

荒川沖競馬場

1939年廃止。駅前に立地した、交通の便の良い競馬場だったようです。北側の一部に不明な部分があるため、想像を含め点線で表しています。跡地は現在も駅前で、ショッピングセンターや商店、住宅が建ち並び、道路形状の一部に競馬場の名残をとどめています。