乙戸村の巻

■乙戸村の巻

 本村は土浦市の南西端に位置し、前記の中村西根村の南部に接している。村の北西部にはこの村の名称のもとになったと思われる乙戸沼がある。乙戸は現在「オット」とつまって読んでいるが、「オツト」と読むのが正しいのではないか、これは新編常陸国誌でもそのように読ましている。「オツト」は発音しにくいので「オット」となってしまったものと思われる。今は面積も狭くなってしまったし、形も変っているがもとは「乙」という文字の形をしており、その沼の入口(戸)に発達した集落というので乙戸という地名が起こったといわれている。この沼の水は乙戸川となり小野川に注ぎ、霞ケ浦に注いでいる

 なお乙戸の名称については、「東寺百合文書」の関東御教書(みきょうしょ)の中に、「常陸国信太荘内若栗(わかぐり)・弘岡(広岡)・御安戸(ごあんと)郷等年貢事」という嘉暦四年(かりゃく・1329)4月5日の条にある御安戸郷を現在の乙戸と比定する説もある。それは乙戸村の小字に「ごあん」という地名が残っているからである。東村誌では乙戸は「於井戸(おいと)」と称し元禄年間(1688~1703)「追戸」と改め、近世乙戸と改称したとあるが、元禄から間もない正徳元年(1711)にはすでに乙戸となっているとは廃寺宝性院の「鰐口(わにぐち)」の銘によって明かである。

乙戸沼を中心とする低地の外は台地と谷津から成っており、台地特に高山・後門付近は縄文遺跡も発見されている。

※古墳時代の遺跡は,上浦市右籾地区に,木の宮遺跡B,峰崎遺跡C,権現前遺跡,小谷遺跡(12〉などがある。乙戸沼付近では高山遺跡(14〉と後門遺跡があり,乙戸川上流域の上浦市荒川沖には塚下遺跡と沖新田道祖神遺跡がある。ともに古墳時代の土師器の散布が見られる

さてこの地域は、大化改新後は常陸国信太郡に属し、信太郡十三郷のうち高来(たかく)郷(本郷は現在の阿見町什来か)に入っていた。この乙戸には将門に関する伝説がある。すなわち将門の乱鎮定後その麾下(きか・その軍団の指揮者に属する部下)のものがこの地にかくれこの村の起源となったというのである。

天慶二年(939)十一月二十一日将門常陸国府(現石岡市所在)を攻撃して、本拠鎌輪(かまのわ・結城郡千代川村鎌庭)を出発し、乙戸に程近い強清水(つくば市花室(はなむろ)付近)に駐留し、作戦を練り西浦(土浦入り)から水路船団をもって、石岡国府を攻撃したとみられているので、この伝説も興味が残る。なおこの強清水城(金田城とも)は戦国末期土浦城の攻防戦に、勇名をとどろかした沼尻又五郎の居城である。

 ところで中世のこの村についてはほとんど資料はないが、前記のように信太荘に入っていたと思われる。信太荘はもと皇室領であったが、文保二年(1318)に後宇多天皇はこれを東寺(京都市所在)に寄進したので、皇室領から寺領に変ったわけである。「御安戸郷」が現在の乙戸でなかったとしても、おそらくこの地域が東寺領であったと考えられる。しかし室町時代になると荘園は守護大名の私領化した。すなわち信太荘も小田氏から管領山内上杉家の所領に帰し、上杉氏は代官を遣わして支配していた。

 その後関東公方家の分裂や管領上杉家の失脚によって小田勢力が盛り返し、この地方もその勢力下におかれたものと思われる。

 さて江戸時代に入ると、この村は荒川沖村・沖新田村・菅谷村などと同じく、土浦市城内で土浦藩領に属していなかったところである。すなわち当村は麻生藩支族新庄氏(旗本はじめ三千石)の所領であった。新庄氏は藤原秀郷の末流で近江国(滋賀県)坂田郡新庄の地に居住した新庄を氏とした。新庄直頼(麻生藩祖)関ケ原戦に石田三成にくみしたので、会津藩蒲生家に預けられたが、慶長九年(1604)家康に罪を許され、常陸・下野両国で3万3000石を与えられ、行方郡麻生に居住した。これが麻生藩の成立であるが、直頼の四男直房の子直長が父直房のあとをつぎ、当村を含み三千石を領した。(これより先慶長18年麻生2代目藩主直長のとき、弟直房に3,000石を与え分家しこのとき、旗本新庄氏が成立した)。

 「寛政重修諸家譜(上図右)」によると当村が直長の所領となったのは寛文三年(1633)となって直頼父の遺領をつぐとき、弟直時・直徳に各五百石を分与したので、直頼の知行高2,000となった。また元禄八年(1695)より当村の一部は同じく旗本丹羽(にわ)五左衛門長守(ながもり)の知行所(ちぎょうしょ主君が家臣に与えた所領所・江戸幕府では幕臣である旗本,御家人に与えられた土地)(上図左例)となった。この新庄・丹羽両氏の支配は幕末まで続いており、明治4年の「旧高旧領取調帳」によると、新庄鋼五郎氏が113石余、丹羽仙次郎氏が197石余となっている。

なお下村広之氏蔵の天保十四年(1842)の文書によると、乙戸村が乙戸他のことについて、中村・中村西根村の乱暴を訴えたことが見えている。この沼が用水源として重要であったことが察せられる。

 乙戸沼の南東部にこの村の鎮守鹿島神社があった。右籾の先神社に合祀されたが社殿が残ったので、今日でも明神さまとして祀られている。寺としては前記の宝性院が中村道にあったが廃寺となっている。

 明治維新後は旗本領であったので、明治元年(1868)常陸知県事の管轄に入り、続いて同2年宮谷県(県庁は宮谷村現在の千葉県山武郡大網白里町にあった)に入ったが、明治三年十月土浦藩(行政区としての土浦藩)城の統廃合により土浦藩領に加えられた。明治四年の廃藩置県により土浦県に、同年中に新治県の第一大区二小区に、明治八年新治県が茨城県に統合されるにおよび、茨城県第十大区二小区となった。明治十二年郡区町村編成法の実施により、信太郡に入り中村・大岩田・小岩田・烏山・右籾・摩利山・中村西根と連合し、中村に連合戸長役場を置いた。明治二十二年市町村別の施行により、そのままの区域で東村となり、乙戸村の村名はなくなった東村大字乙戸となった。明治二十九年信太郡の廃止のとき、東村は新治郡に編入された。昭和十四年六月東村が土浦町に合併東村の村名もなくなり土浦町大字乙戸となり翌年土浦市制施行により土浦市乙戸町となり現在におよんでいる。乙戸村の巻を終わるにあたりつけ加えなければならないのは、小山田開墾地のことである。ここは乙戸村の南西部を占める荒地で、地番でも番外地となっている。明治維新後禄を失った旧藩士たちは生活の道をもとめ、あるものは土地を開墾して農業に従うものも少くなかった。この小山田開墾地もそれで、明治二十八年旧水戸藩士小山田克利が国有原野買取って、小山田農場として開拓したのでこの名がついた。長男新蔵はさらに広岡(桜村)の方に拡張した

 しかし入植者の努力にもかかわらず、痩せた土地ゆえに収穫は少く、例えば麦・小麦など反当り2俵から2俵半程度という状態であった。しかも小作料は金納で反当り10円以下で、高いわけではないが払えない。高利貸から借りて支払うようなわけで、小作人たち(60戸位)は滞納小作料の捧引と、今後の小作料の5割引を求めて団結して交渉したが話がつかず水戸地方裁判所土浦支部の調停裁判に持ち入まれたが成立しなかった。これを見かねた小作調停委員でもあった土浦神竜寺住職秋元梅峰の奔走により、昭和10年になってようやく解決し小作人の要求は大方みとめられた。いわゆる小山田小作争議として全国的に知られた。

 

※梅峰和尚 住職となった頃、人々の仏教に対する考えは良くありませんでした。明治はじめにおきた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が土浦にも影響していたからです。全国的なできごとでしたが、茨城は特に激しかったといいます。

和尚はそんな時代からこそ、み仏の教えを広めようとあえて厳しい道を進みます。1912年(大正元年)、筑南慈済会を結成し、罪人の更生保護に取り組みます。具体的には、刑務所を出た方をお寺で預かって、更生させてから社会復帰をさせました。(20年以上続けて、数百人を社会復帰させています)

そして、翌年1913年には大日本仏教保護団を組織します。ここで和尚は団長として、本格的に布教、貧民救済、産業の振興などに力を注ぎはじめます。

1915年、行方郡に欠食児童がいると新聞で報道されました。それを知った和尚と護国団は、土浦警察署と各寺院に協力してもらい問題解決にあたります。そして、政府と交渉し、外国のお米を安く手に入れることに成功します。お米は無料配布されたり、安く販売されて人々を救いました。(その日は4月8日。お釈迦様の誕生日でした)

 土浦市内で比較的自然が残っていたこの地域も、学園都市の建設にともなって、学園東大通り線が開通しまた常磐自動車道が走るようになったので、一躍脚光を浴びるようになり住宅団地の開発がすすみ、人口急増のため、最近乙戸南に乙戸小学校( 昭和59年4月1日)が建設された。また青少年を対象に宿泊訓練もできる「青少年研修センター」もこの地に設けられている。また乙戸沼も2回にわたる埋立てにより面積は1/3に縮少されたが、都市公園として整備され市民の憩の場所でもある。

またこの地方で珍らしいパゴタ型の白い建物に相輪をつけた、ビルマ釈迦堂のある仏照寺がある。浄土真宗の新らしい寺で、太平洋戦争インパール作戦で戦死された方々の霊と遺族の心を慰めて欲しいと昭和43年ビルマ政府から贈られた仏舎利とビルマ仏像を奉安している。