大原美術館 「その歴史と現在」

シンポジウム:大原孫三郎が遺したもの
その歴史と現在

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柳沢秀行(やなぎさわ・ひでゆき) 財団法人 大原美術館 学芸課長

 大原孫三郎が生まれ,その拠点とし,そして私たちの美術館がある倉敷の町について,少しだけお話させていただきます。倉敷の町は,江戸時代は天領でした。幕府の直轄領ですが,運河を使った物流拠点として商業が盛んゆえ,武士階級よりも町人たちが主導権を持ちます。つまり町人たちの自治意識が高い町なのですが,この気風を受け継いで今でも市民レベルの自治意識が強いのが倉敷の特徴の一つです。そうした江戸時代の町衆の中でも大原家は中心的な存在ですが,明治の世になり幸四郎,そして孫三郎へと代が移っても,その立場に変わりはありません。

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 その孫三郎が,今から250年ほど前に建てられた大原家から倉敷川を隔てた真向かいに,建てたのが大原美術館です。開館が1930年所蔵品3千点でそのうち絵画が約1千点です。こう言えば立派ですが,人間の数で言うと実に小さな所帯です。専門の学芸員,いわば美術館の専門的な部分を司る仕事をするのは現在実質4名です。他にもお客様に対してチケットを売る,あるいは館内の警備や営繕をするスタッフを含めても総勢60名にも満たない小さな組織です。基本的に収入は,入館料収入とミュージアムショップの売り上げだけで,何とかやり繰りしています。

 この美術館を作り上げたのは大原孫三郎,そして画家の児島虎次郎の二人です。孫三郎は現在のクラボウ,クラレを経営した実業家です。また一方で,私は「社会事業家」と言っていますが,他にも「社会貢献」とも「社会基盤整備」とでも言える活動をしています。つまりは,単に企業経営者として営利を追求する仕事だけではなく,社会にとって必要な組織や施設など公益性を重視した活動を積極的に仕掛けていったのが,孫三郎です。

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 一方の,児島虎次郎は岡山県出身で東京美術学校に学んだ画家です。二人の年齢は孫三郎が1歳年上という近いものです。二人が初めて出会ったのは,虎次郎が東京美術学校へ進むにあたり,孫三郎が主導していた奨学金をもらいに行った際のことですが,地元の古老で虎次郎に会った方が,「春風がにおうような,本当にすばらしい人だった」と言うように,虎次郎は人格も優れていて,本当に孫三郎と虎次郎の2人は,奨学金を出す人,出される人という関係ではなくて,生涯にわたって親しい友人として付き合っていたとうかがっています。

 今日の場に限らず,こうした話をさせていただく時には,いつもここでお見せするスライドをそのまま使って孫三郎の非営利事業をご紹介します。特に倉敷では,小学校4年生は倉敷市の歴史として必ず大原孫三郎についての学習を行いますが,まさにそうした子どもたちにも,今からお話しさせていただくことをそのままにお伝えしています。まず,孫三郎の社会事業のきっかけは岡山孤児院のサポートです。岡山・倉敷地域はキリスト教のプロテスタントの信仰が非常に早くから盛んでした。そして,そうした信者たちが様々な社会事業を行います。

 石井十次もキリストの教えを真っ直ぐに信じた方で,その実践として岡山孤児院を創設します。しかし,なにしろ数多くの子どもたちを抱えて運営もままならない状況です。その石井を信じ,孤児院運営を積極的に支援したのが大原孫三郎です。それから,孫三郎の成したこととして,いつも紹介させていただくのが,今日ご発表なされた皆様の活動である病院や研究所です。さらに,孫三郎の活動として若竹の園という保育園があります。これは美術館と敷地が接しておりまして,孫三郎の奥さんの寿恵子夫人が設立して,何と1925年から現在まで続いている保育園です。こうしたハード・施設面だけではなくて,孫三郎の場合,ソフトというべき事業も行っております。彼がまだ20歳代の始めの頃から続けた倉敷日曜講演は全部で75回とも76回とも継続された事業です。マスメディアが未発達でしたから,日本のなかのオピニオンリーダーを呼んできて直接話をしてもらうのが一番早い。そこで,いろいろな方をお招きしての講演会が,倉敷日曜講演です。この写真1は,徳富蘇峰を招いた時のものですが,どれが孫三郎なのかわかりますか?左端にいるちょっと突っ張ったような兄ちゃんが孫三郎。髭を生やして偉そうにしているけど,まだ今の大学生くらいの年齢です。孫三郎は家督を譲られ,倉敷紡績の社長となった若かりし頃から,こういった事業を継続していったのです。

いわばこういったハード,ソフトの両面にわたる公益性を重視した事業のひとつとして,大原美術館もできてきたわけです。

 では,大原美術館の創設までに話を絞ります。児島虎次郎は,東京美術学校,現在の東京芸術大学に入学します。その美術学校を2度も飛び級して卒業します。

 そして現在の大学院にあたる研究科に在籍します。その在籍中の1907年に東京府勧業博覧会美術展で見事に一等賞となります。この展覧会は,その同じ年に文部省すなわち国が開催した日本初の官設展である文部省美術展覧会の,いわば予行演習的な前哨戦でした。つまり学生コンペではなく,日本中のプロが集まる展覧会で,児島は見事一等賞になったのです。この時に一等賞は複数いますけれども,ほかの一等賞を見ると,文展の審査員クラスもいますから,まさに虎次郎は大学院生ながら日本で一番の賞を取ってしまったわけです。

 この受賞を聞いて孫三郎は喜びます。そして虎次郎を5年間ヨーロッパに行かせます。児島は,最初はフランスに行き,その後ベルギーのゲントに移ります。このゲントの美術学校も主席で卒業し,またフランスのサロン・ナショナルへも入選するという活躍を見せます。1912年の帰国にあたり虎次郎は「日本の芸術界のために作品を1点,買わせてくれ」と孫三郎に手紙を書きます。この時は孫三郎も何の戸惑いもなく,どうぞ買ってきなさいということでアマン・ジャンの《髪》という作品を買ってきます。アマン・ジャンは当時のフランスのサロンの中心的な人物でした。ですから虎次郎にとっては自分がやっと入選した展覧会の一番偉い人の作品を1点買ってきたわけです。

 これを日本に持って帰ってきまして,私蔵することなくすぐに東京で公開しますが,たちまち画家たちの間で大きな反響を呼びます。

 第一次世界大戦が終結すると児島は改めて画家としてのトレーニングをするために,1919年に再渡欧します。そして,この時に孫三郎へと作品をもっと買わせてくれと手紙で頼むことになります。

 もしかしたら西洋へ渡る前から話はしていたのかもしれません。ただ少なくとも児島が再渡欧してからでも一年近く孫三郎はイエスと言いませんでした。これを現在の当館理事長で孫三郎の孫にあたる大原謙一郎は,孫三郎はずっとその社会的意義を思案していたのだと考えています。研究所を作る,病院を作る,奨学金制度を作るという,社会に対して直接役に立つ活動については,孫三郎にためらいはない。けれども,絵を買い集めてくることがいったい世の中にどういう意義があるのか,これは熟慮すべき問題だったと,謙一郎理事長は見ています。

 児島がヨーロッパから手紙で願い出てから,ようやく一年経って孫三郎は絵を買えという電報を送ります。そこから虎次郎はすごい買い方をします。徹底してリサーチです。現在,児島虎次郎が集めたヨーロッパ語の文献が千冊以上残されています。それらによって児島は,当時のヨーロッパでだれが重要なのか,日本に持って帰るべき作家はだれなのか,とリサーチをかけます。それから現在でも大きな国際展ですが,ヴェネチア・ビエンナーレも見に行っていましたから,児島はヨーロッパの同時代美術のかなり正確な俯瞰図も手に入れていたわけです。

 それだけの事をした上で,物故作家の場合は画商を訪ねますが,現存している画家の場合は直接訪ねて行って,お願いして作品を買い集めます。その際には,先ほどのアマン・ジャンなどにも協力を求めて縁故をたどることもあったようです。

 この収集に際して,マティスやモネからも直接譲られています。ただ2人とも人気作家ですから,画家のところへ行っても不良在庫はないのです。と言うことは,その手元には彼らにとっても重要な作品が置いてあるわけです。

 マティスは自分の娘を描いた作品を家に飾られていて,児島はそれを譲り受けてきます。自分の娘を描いた作品を売り物にして他人に渡すというのはふつうない話です。モネの場合は,忙しいから1か月たったらもう1回訪ねるようにうながされ,そしてモネがある程度選んでおいた作品のなかから《睡蓮》を買ってきます

 こうして買い集めた作品を日本に持って帰って,1921年に倉敷で公開したところ,日本中から大勢の人が集まった。その状況を見て,孫三郎は,西洋の優れた作品を収集し,日本に持って帰って公開することの社会的なニーズを読み取り,逆に孫三郎から虎次郎へヨーロッパにもう1回買いに行け,絵描きとしてのトレーニングよりも作品収集のために行きなさいとなって,さらなる収集が行われていきます。そして,エル・グレコ,コロー,クールベ,マネ,ドガ,シスレー,シニャック,ロートレック,モロー,シャヴァンヌ,ゴーギャン,セガンティーニなど今でも大原美術館を代表する作品が収集されることになります。

 これらの作品は倉敷,そして東京,京都で公開され大反響を呼びます。そして二人は作品をいつでも見られる常設展示施設の建設を模索することになります。虎次郎が集めた作品を紹介しましたが,これは今では買えないのです。なぜ買えないかというと売っていないからです。お金があっても買えない。実は1920年代初頭はこれだけの収集が出来るラストチャンスで,MOMA(ニューヨーク近代美術館)の開設も1929年です。アメリカの富豪たちがヨーロッパで絵を買い集められたのはみんな20年代初頭です。このあと世界恐慌になって,第二次世界大戦が勃発し,そして戦後になると,もう19世紀末から20世紀初頭の絵画は品薄となります。

 もちろん,今でもものすごいお金を用意して狙って行けば50年ぐらいで買い揃えられるかもしれないけれども,これだけの短期間に,まあ相応の金額で集められる最後のチャンスを児島虎次郎はうまく使えていたわけです。

 うまいタイミングといえば,大原の作品が日本に帰ってきた後,日本は美術品に関する100%関税をかけます。おそらくは1923年の関東大震災が契機だと思いますが,この関税により,松方幸次郎のコレクションなどは日本への輸入が断念され,そして戦争で焼け,戦後になってようやくフランスから貸与という形で,今はその一部だけが上野にあります国立西洋美術館となるにとどまります

 残念ながら虎次郎は1929年に亡くなってしまいます。孫三郎と虎次郎の二人の間では,どこに美術館を造ろうかとずっと考えながら,なかなか結論が出なかったのですが,虎次郎の死を契機にして,孫三郎は自分の家の真ん前に美術館を造ることにしたわけです。

 こうして1930年に,児島虎次郎が収集してきたヨーロッパの絵画と,児島虎次郎が収集してきたエジプトと中国の古い物,それから児島虎次郎が画家として自分自身で描き残した作品をもって大原美術館が開館します。今まであまり注目されていませんけれども,児島の場合,ヨーロッパの美の源流はエジプト・オリエントに,東洋の美の源流は中国にあるということで各々の古いものをずいぶん買ってきています。

 こうして大原美術館は開館します。孫三郎は「今を生きる人々にとって意義あることは」と多様な活動を行いますが,こと虎次郎とのパートナーシップのうちには,優れた同時代西洋の作品の収集と公開という成果を残したわけです。

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 この礎の上に,さらに美術館を育てたのが,孫三郎の長男總一郎です。總一郎は企業経営のみならず,美術館の運営にも尽力します。クラレの社長交替の集合写真が,他でもなく大原美術館の前で撮られていますが,大原孫三郎から總一郎へと引き継がれた諸々の活動にとって,美術館がどのような位置を占めていたのかをうかがう,象徴的な出来事かなと思っています。

 さて,孫三郎と虎次郎の2人が,「今を生きる人々にとって意義あることは?」という問いのなかで,優れた作品の収集と公開をしてきた。そのうえで總一郎は,「美術館は生きて成長していくもの」とはっきりとした信念を示して,美術館活動に取り組みます。敗戦によって社会状況どころか人々の価値観までが全く変化してしまう。そのように価値観が変わってしまった社会のなかで,人々にとって意義のある活動をしようと思ったら,美術館もまた生きて成長していかなければだめだ,ということです。總一郎にとってお父さんたちが集めたコレクションを後生大事にそのまま維持するだけという選択肢も当然あったと思います。しかし總一郎は,美術館は生きて成長していくものと攻めの姿勢を示し第二次世界大戦終結とともにその活動を本格化させます。

 具体的には所蔵作品の拡充,それに伴う展示棟の増設。それから今では美術館では普及教育事業とされますけれども,各種講演会やコンサート事業を積極的に展開していきます。これは開館20周年,1950年の記念式典のシンポジウム会場の写真です(写真2)。これは日本博物館史にとってはすごく重要な1枚です。まず展示の手法が今とまったく違うわけです。いまこんな展示をしたら見づらいと言って怒られますけれども,当時では,たくさん見せることが優先されていたということがよくわかります。それから梅原龍三郎,安井曾太郎,それに志賀直哉とか武者小路実篤など白樺世代の長老たちがここに集まって語り合っていますが,エル・グレコの前でお茶を飲んじゃうんです。もっとすごいのは,たばこまで吸っちゃいます。いま日本のミュージアムでは,作品保護という観点から,こういったことはまったく禁止されていますけれども,実はこのような美術館,博物館のユーザーズマニュアルが確立するのはこの後になってです。そうしたことも大原美術館の歴史を見ているとわかります。

 さて,總一郎のコレクション拡充としては,セザンヌ,ロダン,ピサロといった,孫三郎,虎次郎が集めてきた時期を補完する作品があります。さらに總一郎は,その後から自分と同じ時代にかけての作品なども買っていきます。1951年,まさにサンフランシスコ講和条約と同じタイミングで,マティス展,ピカソ展,ルオー展など大規模なフランス美術展が東京と倉敷で立て続けに行われます。こういった機会を積極的にもうけては,同時にその出品作を買っていくことになります。1965年,開館35周年のシンポジウムの写真を見ると(写真3),總一郎の代となって収集したピカソやカンディンスキー,フォンタナなどの作品が壁にかかっています。またパネリストも,開館20周年のシンポジウムが,白樺派の長老たちであったのに対して,まだ若い同時代の作家や批評家が並びます。

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 ちなみに現館長の高階秀爾も写っておりまして,館長はこんな若かりし時から大原美術館に関わってきたわけです。總一郎のコレクションは,さらにジャン・フォートリエ,ジャクスン・ポロックなど,同じ時代を生きている作家たちへと広がります。アメリカではまだ戦後ではなく戦時下です。朝鮮戦争,ベトナム戦争がずっと続いていくなかで,いわば新しい価値観を模索する作家たち,当時で言う前衛的な,評価のまだまったく定まらない作家を買っていったのも總一郎の特徴です

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 日本の民藝運動にかかわる作家たちについては,柳宗悦を中心に日本民藝運動の設立趣意書が1927年の段階で出ますけれども,その頃から大原家はずっと付き合っています。これらの作家たちの作品をさらに収集し,そしてそれを見せるために大原家の米倉を改装して,工芸・東洋館という展示棟を作りました。民藝運動ですから,名もなき工人たちの仕事を再評価しつつ,その良さも生かして新しい仕事を作っていくという活動です。これをずっと支援していたわけですから,これらも単に伝統を墨守するだけではない新しい価値観を模索する活動と言えるのではないでしょうか。

 それから日本の近代洋画を積極的に買い集めます。このジャンルを1950年代,60年代に買い集めたのは大原美術館だけです。神奈川県立近代美術館が1951年にできました。展覧会は積極的に開催しますけれども,作品を買い集めることまではいきません。東京の竹橋にある東京国立近代美術館は1952年に出来ます。これは国に寄贈したものや国が買い上げたものが収蔵されています。

 ですから自分たちの価値観に沿って,いわば,歴史を体系化しながら日本の近代絵画を買っていった先駆けが大原美術館だと言っていいと思います。そしてそのコレクションは,関根正二と小出楢重の作品が今では重要文化財に指定されていますが,恐らくこのコレクションからもう3点,4点は指定物品が生まれるだろうという質の高いものとなっています。

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 なぜ總一郎が日本近代洋画のコレクションを始めたか,その目的は正直はっきりとはわかりません。ただおそらくは,ヨーロッパ化することで近代化を遂げようとした明治以降の日本の国の歩みを振り返るために,日本の画家が西洋で培われた油絵という場において何をしようとしたか,そこで日本の独自性とヨーロッパとのかかわりをどうやって決着していったのかということを確認したかったのではないかと思います。ですからヨーロッパの作品をそのまま引き写したというレッスン段階の作品はほとんどなくて,たいていヨーロッパと何か格闘してきた作家たちが大原美術館に集まってきています

 それから總一郎は,やはり,同じ時代を生きる新しい価値観を模索した実験的な日本人作家たちの作品を買っていきます。そして,これらの作品を見ていただくために分館を1961年に造りました。こうして孫三郎と虎次郎に端を発するヨーロッパ絵画を見せる本館,日本の作品を見せる分館,それから民藝に主にかかわる作家たちを見せる工芸・東洋館が揃うことで,大原美術館の基本的な骨格が出来上がります。

 そして,現在では總一郎の長男大原謙一郎が理事長となり,そして東京大学の名誉教授で元国立西洋美術館館長であった高階秀爾が館長を務めます。高階館長の着任は7年前ですが,この二人の付き合いはずっと長いものです。高階館長着任以来,謙一郎理事長は自信を持って「第三創業」という言葉をはっきりとおっしゃるようになりました。孫三郎と虎次郎の最初の創業,總一郎による第二創業,そして21世紀の今が第三創業であるということを明確に言っているのです。

 これはどういうことかというと,最初の創業から今に至るまでに築いたコレクションと,創業以来一貫する公益性を重視する精神とを貴重な財産として,これをもう一度,21世紀の社会に対してフィットさせ,アウトプットしようとする活動を積極的に行おうというものです。具体的には,まずコレクションとその形成史をもう一回ちゃんと見直すことです。今日も,こういった歴史的な話をさも分かったかのように言うのも,実はこの7年間,一次資料にあたることからはじまって,コレクションの形成史の確認をしているからです。

 それからこの美術館には今申し上げただけでもいろいろな国の作品がありますから,多文化理解の装置という点をもっと磨き直そうとしています。それから外国ばかりではなく,倉敷という美しい日本の伝統的な町並みのなかに私たちの美術館がありますから,日本の良質の部分を磨き上げて,世界と出会わせようということもやっています。また少し局面が変わりますが,作品の生産者であるアーティストは市場の原理に任せていたらまずほとんどが駆逐されてしまいますから,アーティスト支援をして,新しい創造,クリエーションをサポートします。また一方で,生産者だけではなくて,それを享受する方たちに働きかけて,その美術館体験を充実してもらうようにしております。

 さて,重ねての話になりますが,美術館はまずは作品を調べて生かさなければいけません。そしてそれと同じくらい,作品を生み出す人とそれを享受する人を大切にし,制作者に対しては支えなければいけないし,鑑賞者に対してはつながなければいけない。これをしっかりやり直そうということを具体的に項目に落とし込むと様々な活動になっていくわけです。

 たとえば,作品の調査として,倉敷中央病院でCTスキャンを撮らせていただきました。ジャコメッティという作家の作品が,どのような素材そして手順で作ったのかが,分からないので,硬度分布と内部構造を把握するためにCTスキャンを撮ってくださいとお願いしたわけです。そうしたら病院のほうで皆さんが楽しそうにやってくださいました。こういったかたちで今でも皆様と連携をとらせていただいて,作品を調べ,生かすという活動を,やらせていただいています。

 それから来館者支援も頑張っています。小学校に上がる前の小さなお客様が年間で延べ4000名近く来館してくださっています。こういった幼稚園や保育園に通う未就学児童に対しては,彼らを招き入れるだけではなくて,目的に応じたプログラムを提供します。まずどの園でも最初にいらした時には,美術館がどのような場所であるのか理解してもらうためにピクトグラムをみせながら,美術館の使用の仕方をちゃんと教えます。彼らに1回,これをやると絶対覚えています。それから,次はまずはみんなで気楽に絵を見る。絵を見て,「何,描いてある?」「あ,そう,何でそう思った?」というような対話をしながら一緒に絵を見てみるというプログラムをしたり,絵をもっとよく見てもらうためにパズルをしたりしてもらう。それから,絵の前で絵を描くプログラムもやっています。

 5歳以下の子どもたちは,何が描かれているかだけではなくて,どう描かれているかということを,絵画からすごくうまく引っ張り出せます。年齢が重なって知識がたくさんついてしまうと,何が描かれているかから絵を見てしまいがちですが,5歳頃の子どもたちは作品の様々な要素に柔軟に反応してくれます。その反応したものをアウトプットする手段として,お話をしてもらったり,絵を描いてもらったりするわけです。

 そうすると,子どもたちが作品をどう見ているかがすぐわかります。例えば,エル・グレコを見た君は2人の関係に気が行っちゃったんだなとか,ピカソを見て牛の骨の形に興味を覚えたとか,という具合です。一番おもしろかったのは,二人の男の子が一生懸命に紙を真っ赤に塗っていて,そして塗りあがった上から,3本の黒い線を引いていた。彼らの前にあったのは,フォンタナという第二次大戦後のイタリアを代表する作家です。こういう,創造や想像をアウトプットすることに主眼を置いたプログラムを実施しながら,年間4000名の小さなお客様をお迎えしています。

 もっとも幼稚園,保育園,学校という組織との連携だと,距離やら拘束時間の問題が出てしまうので,家庭単位でいろいろなところから来ていただけることも狙って,毎年夏の終わりにチルドレンズ・アート・ミュージアム」という企画もやっています。これは,美術館のいろいろなところでワークショップを同時に開催するものです。いろいろなプログラムがありますから,中には作品を理解するためのものがあったり,あるいは作品を起点にしてお客様が新しいイマジネーションやクリエーションを生み出していくものもバランスよく配するようにします。

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 たとえば「アイビー美術館」。美術館前の石垣にはアイビーの葉っぱがいっぱい繁っていますから,そのアイビーの葉っぱの形に切った紙に絵でも言葉でも描いてもらって,描き上がったらどんどん付けていってもらいます。これだったら3歳児でもできます。それから大原美術館の工芸・東洋館の中庭には,パリ郊外のジヴェルニーにあるクロード・モネの庭から株分けされた睡蓮が浮かぶ濠があります。モネはずっとこの池の睡蓮を描いていますけれども,その池に育つ睡蓮を株分けしてもらったものです。その睡蓮が咲く一角を40個のグリッドで区切って,あなたはここね,ここを担当して描いてねと,一つのシーンを40人で分割して描くというプログラムがあります。そして出来上がった作品は,モネの《睡蓮》と一緒に展示してあげます。これは大阪成蹊大学の岩野勝人先生たちにお願いしていますが,このように外部の方にご協力いただくのもチルドレンズ・アート・ミュージアムの特徴です。

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 「からだで感じる美術館」のプログラムは,若いアーティストの,みやじけいこさんにお願いしています。工芸・東洋館の建築を対象にして,特製ゴーグルで目を見えづらくしたうえで,数人ずつ肩につかまって列になりながら,素足になって館内を体験するというプログラムです。つまり視覚以外の嗅覚や聴覚を使って,美術館の作品ではなく,建物を楽しもうというプログラムです。

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 この工芸・東洋館では,京都造形芸術大学さんが数年続けて染色のプログラムを実施しています。ちょうどこの工芸館からベロンと舌が出てきたような大きな作品を,次々とやってくる参加者がみんなで場所を分担しながら作ってみます(写真4)。それにダンスのワークショップは岡山大学のモダンダンス部の在校生と卒業生たちにやってもらっています(写真5)。

 こういうかたちで若いアーティストや大学やこうしたいろいろな方たちと共同しながら,「チルドレンズ・アート・ミュージアム」を開催しています。もちろん,お客様は子どもだけではなくて,子ども連れの30~50歳代のお父さんたちも一緒になってということを狙っています。このように様々な方に作品と触れ合う場を改めて作るという事業にも汗をかいています。

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 制作者支援の方も頑張っています。大原家の旧別邸である有隣荘が美術館の真向かいにあります。ここを使いまして現代美術の作家の展覧会をやらせていただいています。中川幸夫,田嶋悦子,やなぎみわ,岡田修二。こうした日本を代表するようないい仕事をされている旬の作家が,大原美術館の歴史や作品を素材に新たな作品も作ります。例えば,モネの《睡蓮》を有隣荘の床の間に飾って,先ほど紹介した工芸・東洋館の脇にある,株分けされた《睡蓮》を描いた岡田修二さんの作品を障子のあるべき場所にはめこんで展示します。

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 それから児島虎次郎を大事にしたいということで,児島虎次郎が使っていた大きなアトリエを若い作家たちに使ってもらうための「アーティスト・イン・レジデンス」,滞在制作のプログラムも持っています。最初に招いたのが津上みゆきさんという30歳を超えたばかりの女性ですけれども,200号の大作を4点,2か月ぐらい真冬のアトリエで描いてくれました。

 町田久美さんもまだ40歳前ですけれども,高崎市のタワー美術館でワンマンショーをやったばかりです。アメリカの雑誌『TIME』に紹介されて,いまものすごく活躍しています。

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 作家たちは大学を出てもアーティストとしての仕事はなかなかないですし,お金という点もほとんど恵まれていません。もっと恵まれていないのは場所で,われわれのプログラムでは3か月間の生活費と材料費とこの場所を提供して,思い切り作品を描いてもらい,描いてもらったらそれを美術館で展示をするというプログラムをやらせていただいています。

■追加資料

日本の現代アートを一挙公開 本館では「名品たちの現代(コンテンポラリー)」同時開催中

大原理事長と高階館長を囲む参加アーティストたち

 西洋美術を中心に所蔵する日本初の私立美術館として1930(昭和5)年に開館した大原美術館(岡山県倉敷市)で、21世紀に入り新たに収蔵した48組の現代アーティストの作品を一堂に展示する特別企画展「Ohara Contemporary(オオハラ・コンテンポラリー)」が4月20日開幕した。

 西洋のほか、日本美術や工芸作品を所蔵する同館が、現代アートにさらに力を入れ始めたのは、高階秀爾館長が就任した2002年以降のこと。大原謙一郎理事長は、「過去83年の歴史を通じて常に最先端であり続けた大原美術館が、当時のコンテンポラリーであった泰西名画だけでなく、現在も最先端であり続けるための展覧会がOhara Contemporaryである。と同時に本館では西洋、日本の美術を制作年代順に並べる今だかつてない展示をしています。この揺るぎない土台があるからこそ、最先端のコンテンポラリーができる」と、今、現代アートを取り上げる意義を強調する。

Ohara Contemporaryの分館会場風景

「古いものと同時に、常に時代とともに成長する美術館という信念のもと、新しいものに目を向けてきた」という高階館長をはじめスタッフが、“将来を担う若い作家への支援”を事業の目的に、継続してきたプロジェクトは3つからなる。一つは02年より旧大原家の別邸である有隣荘(1928年築)が特別公開される春と秋のいずれかに、作家に有隣荘を舞台に、その特性を活かした作品を展示してもらってきた。二つ目がARKO(アルコ、Artist in Residence Kurashiki, Ohara)と呼ばれる作家による滞在制作。毎年一人が児島虎次郎のアトリエで滞在制作をし、制作された作品を展示公開する取り組みとして、05年以降毎年作家を公募し招聘している。さらに07年には映像、パフォーマンス、イベント等の作品を手掛ける作家を取り上げ、倉敷に取材した作品を制作、公開するAM倉敷(Artist Meets Kurashiki)を開始するなど、10年あまりの活動は多岐にわたってきた。

工芸・東洋館に展示される三瀬夏之介さんと棟方志功の作品

「近年の現代アートは壁に掛ける絵や彫刻だけでなく、他のジャンルとの共同あるいは越境、境界横断的な作品が多い」(高階館長)と館外においても現代アートの様々な側面に注目し、若手作家の登竜門として上野の森美術館で毎年開催されているVOCA(Vision of Contemporary Art)展では05年から大原美術館賞1名を独自に選出、受賞作を買い上げるなど、コレクションの充実に繋げてきた。

  本展出品作86点は絵画、立体、写真、映像など若手作家の多様化する表現と作品の共鳴が見どころの一つとなっている。今後は作家や作品への理解と評価が深まり、国内に止まらず海外をも視野に入れたスケール感にも期待が寄せられる。「出品作家は現在最も旬な作家であり、全員が海外でも活躍する可能性があります。そのなかで行政や美術館やメディアなどが、どのように応援できるか、その道筋をつけていくことが必要である」と高階館長は指摘する。

  一方、「倉敷人としていつも思うことは、倉敷という何かの魂が若い作家、鑑賞者を呼び集めているのではないか、という気がするんです」という大原理事長の言葉にこそ、大原美術館のゆるぎない土台、その原点があるのではないか。現代の最先端美術館へ足を運んでほしい。

工芸・東洋館の中庭で「サン・チャイルド」とヤノベケンジさん

参加アーティスト

会田誠、淺井裕介、浅見貴子、岩熊力也、上田暁子、植松奎二、太田三郎、岡田修二、奥村美佳、小沢剛、押江千衣子、小谷元彦、小野博、off-Nibroll、柏原由佳、ジュン・グエン=ハツシバ、鯉江真紀子、鴻池朋子、小林孝亘、斎城卓、齋藤芽生、坂本夏子、佐藤翠、杉本博司、田窪恭治、田嶋悦子、辰野登恵子、津上みゆき、中川幸夫、蜷川実花、花澤武夫、東島毅、彦坂敏昭、樋口佳絵、平井優子×藤本隆行×辺見康孝、福田美蘭、藤本由紀夫、北城貴子、眞板雅文、町田久美、松井えり菜、三瀬夏之介、森山大道、やなぎみわ、ヤノベケンジ、山口晃、ログズギャラリー、渡辺おさむ(50音順)

鯉江真紀子さんの写真作品、左から「From the series “G”Is-1」、「From the series “M”Oh-1」、「From the series “M”Oh-2」、すべてタイプCプリント、アクリルパネル貼、2008年制作

【会期】 2013年4月20日(土)~7月7日(日)

【会場】 大原美術館分館、工芸・東洋館(岡山県倉敷市中央1―1―15)

☎086―422―0005

【休館】 月曜

【開館時間】 9:00~17:00(入館は閉館30分前まで)

【料金】 一般1300円、大学生800円、小中高生500円(本館、分館、工芸・東洋館、児島虎次郎記念館の料金含む)

【関連リンク】 大原美術館