中村西根村の巻

■中村西根村の巻

 本村は中村のところで述べたように、もと中村を含めて一つの村であったが、水戸街道の開通のとき街道沿いに中村東(中村宿)が生まれ、母村は中村東に対して中村西として区別したわけで、中村西が元村であるので西根という呼称を加え中村西根となったものと考えられる。

 さてこの中村にも、下館市の中村と同じような伝説がある。すなわちのちの仙台の伊達家の基礎をつくった伊佐朝宗(いさともむね)の次男宗村(中村念西入道)がこの地で没したというのである。宗村は源頼朝の奥州征伐のとき父に従って参戦し軍功を立て、奥州伊達郡(福島県)を賜わり宗村から伊達氏を名乗った。鎌倉街道に沿って古い五輪塔があったがそれが西入道の墓石ではないかといわれていた。現在は同地川村家の墓所の一隅に安置されている。近くの「御山」というところが墓所といわれている。

※伊佐朝宗 伊佐氏(いさし・いさうじ)は、平安時代から南北朝時代まで常陸国伊佐郡(現・茨城県筑西市)に住した伊達氏の祖とされる一族。従来は藤原氏の藤原北家山蔭流とされてきたが、下毛野朝臣とする説も提唱されている。また、桓武平氏繁盛流常陸大掾氏族の多気氏の一族とする説もあるが、これは刀伊の入寇で活躍し肥前国を賜った伊佐為賢を始祖とする肥前伊佐氏(鎮西平氏)であり、別系統である。

※常陸入道念西(ひたちにゅうどう ねんさい)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の御家人。通説では伊達氏の初代当主である伊達朝宗に比定されている。文治5年(1189年)の奥州合戦の石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)で息子の為宗、宗村、資綱、為家と共に功を立てたことが『吾妻鏡』に見出される。源頼朝は伊達郡を与えることで報い、念西はこれまでの伊佐、或いは中村の姓を改め、以後、伊達を称することになった。これが伊達氏の勃興である。

 本村は「中村」の西部に位置し、西は広岡村(現・つくば市広岡)に、南は乙戸村に、北は花室川を隔てて永国村と境している。北部の花室川流域と、広岡村境に入り込んだところは低く水田が開けているが、他は一般に筑波稲敷丘陵の一部で、畑や山林になっていることは村絵図に示されているが、最近交通路の発達によって急激に開発が進んできた。

 さてこれらの台地には至る所といっていいほど縄文前期以降の土器が発見されており、土師器・須恵器なども出土している。これによってこの台地に早くから人類が居住していたことがわかる。古墳も字不動・字白楽などに見られる。特に白楽の大日古墳は方墳として市内ではよく知られている。字宮脇付近には苦から金糞(かなくそ・鉄淳・てっさい)が出るといわれているが、おそらく古代製鉄の遺跡と思われる。

 このあたり「中村」の項で述べたように、大化以後は常陸国信太郡阿弥郷に属していた。鎌倉街道大聖寺裏から花室川を越えて、本村に入り木曾坪を経て荒川沖方面に向っていた。荘園時代は信太荘に入り、武家時代は小田勢力下にあったと思われる。しかし前述のように元中二年(北朝至徳二年1385)に、鎌倉公方足利氏満が関東管領上杉憲方の申請により、信太荘内の古来・矢作と共に中村郷を、鎌倉の明月院(上杉憲方の開山による寺で北条時頼の墓があり、あじさい寺として有名)に寄進しているところからみると、そのころ上杉氏の支配下にあったことがわかる。

 その後北条早雲の蹶起(けっき)により鎌倉公方の勢力衰え、従って上杉氏の勢力も後退し、小田勢力下に復したものと考えられる、江戸時代に入ると麻生藩新庄直好が、元和8年(1622)下野国から常陸新治郡へ所替の旨「寛政重修諸家譜(下図左)」に見えるので、このとき中村西根村(中村を含む)は乙戸村や大岩田村とともに新庄領になったものと思われる。

 

 「寛文印知集(上図右)」には寛文四年(1664)直好の子直暗が知行している。その後一旦幕府領となり代官石黒小左衛門の支配下に入り、土屋領になったのは元禄十二年(1699)からである村高(むらだか・江戸時代、村全体の田畑の石高(こくだか)の総量)四百七十石南郷組代官の支配下にあった。中村のところで述べたように、中村は西根村から分村したわけであるが、元禄十二年土屋領となったときも、中村としてその中に西根を含めている。寛政二年(1790)以降と考えられている土浦藩御領知郷村高辻帳にも中村として、九百十石となっており、明らかに中村(宿)と中村西根村を一つの村として扱っている。

 慶応元年(1865)村絵図では、中村西根絵図と称し明らかに区別している。いつごろから分れたかはっきりしないが、文献上から文政年間(1818~1829)ごろという推定が成立するようである。

 西根の鹿島神社の本殿・拝殿・鳥居は共に市指定の建造物である。この神社は社伝によると応永二年(1395)に竹来(阿見町)の鹿島二宮神社を勧請したものといわれている。

 

 本殿は茅茸の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、向拝柱(こうはいはしら)を角柱とする外は円柱を用いこの地方としては、規模の大きな社殿である。とくに古様(こよう)で雄大な木鼻(きばな・上図)注目に価する。建築年代についたては、安永九年(1780)の修理棟札(むなふだ・上図右)に、享保八年(1723)に建てられたことが記されている。拝殿は桁行三よりま間、中央の一間は実寸法で二間分ある梁間で、屋根は茅茸の寄棟造である。建築年代は文政五年(1822)と考えられている。

 鳥居は本柱の前後にそれぞれ二本の控柱をよつ七のしもったいわゆる四脚鳥居・両部鳥居の形式である。笠木の子反りも優美で県内でも珍らしい鳥居である。道立時代も寛延二年(一七四九)と明かである点が貴重である。

 明治維新後のこの村の行政上の変遷は中村と同様である。すなわち明治二年の版籍奉還で土浦藩(行政区としての名称)の管轄となり、土屋挙直が知藩事として政治を行った。明治四年廃藩置県によって、土浦藩は廃止となり、そのまま土浦県となったがその年のうちに、新治県に統合されて第一大区二小区に入った。

 明治八年になり新治県が茨城県に統合されるにおよんで、本村は茨城県第十大区二小区に変った。明治十二年郡区町村編成法の施行により、信太郡に属し中村・大岩田・小岩田・烏山・右籾・摩利山・乙戸・永国各村と連合し、連合戸長役場を中村に置いた。明治二十二年市町村制の施行により、そのままの区域で東村が設置され、村名としての中村西根はなくなった。なお村名「東村」は永国にあった吾妻神社からとったことは前記のとおりである。明治二十九年信太郡が廃止されたとき、東村は新治郡に編入された。昭和十四年六月東村は土浦町に合併となり東村の村名も五十年でなくなり、翌年の市制施行にともなって本村地域は土浦市中村西根町となった。

 最近道路の整備に伴い永峰地区には、老人福祉センター「ながみね」土浦市公設地方卸売市場など公共的な施設も設けられ、常総学院高等学校もこの地に開校された。住宅団地の造成も進み市の成長先端の趣きがある。