助郷一揆の時代

牛久助郷一揆の時代

■第3回「牛久助郷一揆の時代」

 この女化神社で、文化元年(1804)10月18日に大事件は勃発しました。「牛久助郷一揆」です。天明の大飢饉の直後で、農民は困窮疲弊していました。このような環境の中、幕府は街道の宿駅に公用の荷の継ぎ立てのため、助郷制度という宿駅を苦しめる制度を設けました。牛久宿は50人50匹(馬)を常備することが義務づけられました。

 この人馬で、参勤交代などの公用の荷を次の宿場まで遅滞なく送り届けなければならないというものでした。しかし、生活困窮で食べ物も不足している時代に、幕府は農民の困窮を少しでも和らげる政策を打たず、ルール一辺倒でした。そこで、農民は蜂起したのです。18日に周辺の55か村から2000人が集結し、名主の邸(名主には非がなかった)、更には助郷制度を利用した人馬請負業の「和籐治」という制度を悪用した人物が現れ、これらの邸などを打ち壊しました。この一揆の報で、幕府は周辺の各藩に指示し、鉄砲隊を続々と派遣したのです。このため本陣を襲撃する事で動き出した一揆は引き返し、女化が原と阿見が原で解散しました(要約) 農民一揆というと、農民の暴動のように思われがちですが「一揆」を広辞苑で見ますと、「正義と人道のために一身を捧げる民」で、江戸時代の百姓一揆の指導者・犠牲者を指します。このように過去の歴史が見直され、現在では「義民」として評価されています。

■録音-1

■録音-2

■録音-3

■録音-4