坂本屋

 “地元の繭で、きもの” の夢を実現「日本絹文化振興会」

株式会社「坂本屋」代表 飯塚康二

 創業88 年、老舗の呉服店 去る10 月10 日の祝祭日、茨城県荒川 沖の駅前通りは、きものを着飾った老若男 女が行き交い、時ならぬ華やかな賑わいを みせていた。 創業88 年を迎え、当代三代目が当主の 大型和装販売店「坂本屋」の“米寿祭“が 10 月8日から17 日まで開催され今日はそ の中日である。 お忙しいなか、早速三代目の当主飯塚康 二さんに話を伺った。製紙工場

 『そもそも私のところが、提携支援事業 のグループにお声掛けいただいたのは、先 代久二が提携支援グループ「日本絹文化振 興会」の代表を務められている堀留の大手 問屋の株式会社「丸上」さんと50 年来の お付き合いがあったからだと思います。 もともと、私は地元の養蚕家の方々が丹 精を込めて作った繭から最終商品である反 物までつくりあげ、地元のきもの好きの方 たちに着ていただいたらどんなに素晴らし いことかと、そんな“夢” を描いていました。 ただ、以前は、生産された繭は一括して J A 全農茨城が扱っており、いくら地元の 繭とはいえ我々呉服屋だけで、どうこうで きるものではありませんでした。

 ところがここ数年で情勢は変わり、丸上 さん、また以前からいろいろと取引のあっ た白生地問屋「幸和」の梅田幸平さん、県 下下大津で全令桑育を指導する沢辺和夫さ ん、地元養蚕組合長の松澤喜昭さんみなさ んのお骨折りで川上(養蚕)から川下(和 服販売)まで一体化された提携グループが つくられ、念願の“地元の繭できものを” が実現したわけです。』 それでは、この辺で原点に戻って、坂本 屋さんが88 年も前にこの土浦(荒川沖) 極細1号(本会蚕業技術研究所が育成)の糸を 使った「白地綾」のきものを88 周年で特に販売 10 シルクレポート 2011.11 で呉服屋を創業された理由は、何だったの だろうか。スクリーンショット(2014-12-06-10.47.36)

 康二さんによると、祖父の飯塚静夫さん が藤代からの行商で荒川沖(かつては、繭 の町土浦の玄関口として栄えていた)に立 ち寄った際、当時1,000 人からの女工さん で、大層なにぎわいだった岡谷館製糸所荒 川沖工場(通称、岡谷館)を目の当たりにし、 ここに店を持つ決意を固めたという。 時は巡り、隆盛を誇ったかの岡谷館も廃 業して既に70 年が経ち、現在ではその面 影を朽ちかけた建物の一部に残すのみであ る。 新機軸を連発する三代目 実は三代目の康二さん、大学の建築科を 卒業、東京で建築設計事務所を構えていた が、久二さんに呼び戻される。 建築設計の夢捨てがたく、当初は、荒川 沖に設計事務所を構え、坂本屋の方は経理 面をみるといういささか、半身構えの中途 半端なスタートとなった。 これではいけない。半身構えでは、どち らも中途半端になり,共倒れになる恐れさ えある。康二さんの決断は早かった。80 年以上も続いたこの家業の呉服屋一本に絞 る決意を固めた。あるいは平易だったかも しれない設計事務所をたたみ、退路を断っ たのである。

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 しかし、その建築設計への情熱は、新店 舗の設計に遺憾なく発揮され、大断面木工 造2階建て内外の空間には、康二さんの想 い、そして工夫の数々がそこかしこに生か されている。 その建物の名称がまたユニークだ。 名付けて「夢の藏」という。「夢の藏」 とは“きもの好き” の顧客に、間口を広げ、 きもの着装のきっかけをつくり、一人でも 多くの人に「きもの」を楽しんでもらえる 空間を提供しようと考え出された文字どお りの「藏」である。 その柱は4本。「着・遊・誂・縁」である。  着  ・・・「きもの専門店」として、成 人式をはじめ、地域の「きもの相談窓口」 的役割を自負され、初めてきもの着用に挑 “和装文化” の情報発信基地ともいえる「夢の藏」 「前面が道路、遠景に古い建物」 往時の隆盛が偲ばれる「岡谷館」の一部 シルクレポート 2011.11 11 戦される方が楽しく楽に着付けられるよう な、前結びの着付け教室・「夢の藏」和学 院(着付教室・日本刺繍教室、和裁教室) を開催。こちらの方の講師には、康二さん の奥様の美奈子さんが主体で取り組まれて いる。  遊  ・・・「きものde お出掛けの会」(き ものを着て楽しむ様々な催し)、や「たし なみ塾」(きものを100 倍楽しむ講座、簡 単な半衿の付け方)等々、顧客のアイデア をもとに企画ものには特に力を入れ、とに かくお客様にお店に来てもらうこと、藏の 一部はいわば“顧客のサロンのようにお使 いいただく” がコンセプトだという。

  誂  ・・・「着」「遊」で、きもの入門さ れた方の次のステップはいよいよ、“あな ただけの一枚のきものづくり”、ひととお り、きもののたしなみ、また、きもの・帯 の色柄をマスターされた方の相談ごとに親 身になってお世話する。  縁 ・・・きものを通しての“縁” を大 切に、心と心の結びつきにより、お客様に 必要とされる、「きもの専門店」をめざす こと。 4つの柱をもとに、お客様のニーズとと もに前進し続ける「和の情報発信基地」で ありたい、というのが店主康二さんの想い なのである。 情報発信で出色なのは、和のかわら版・ 月刊「きもの生活新聞」の発刊。23 年9 月号で第169 号というから、14 年間もの 長期間に亘り発行を続けていることにな る。まさしく、“継続は力なり” である。 提携支援グループの有力メンバー そもそも、坂本屋さんの取材が実現した 経緯は、冒頭でも触れた、きもの前売問屋 の株式会社丸上が代表を務める提携グルー プ「日本絹文化振興会」の活動を通じ、同 社の齋藤清二部長から「若手の経営者で、 いろいろユニークな経営活動を展開し、地 元茨城の繭にこだわり、地産地消の絹製品 を作り上げ、きもの愛好者を育てている地 元密着型の有力呉服店がある。」と紹介さ れたことが、ことの発端であった。 88 周年記念販売会の賑わい 全令桑育の掃立。その絹糸から織ったきものは光沢、 風合いが素晴らしい。 12 シルクレポート 2011.11 飯塚康二さんは今年で丁度50 才、「今 では設計屋より呉服屋の方がずっと長くな りました。」と笑うが、きもののきの字も わからずに飛び込んだ世界だけに、戸惑い も多かったが、当時はきもの世界の仕来り に疎い面もあり、その分が怖いモノ知らず のユニークな発想につながっているのだろ う。

 ただ、少しでも疑問に思ったことは、と ことん突き止めねば気がすまないという、 理科系だましいが、時に頭をもたげる。 康二さんはきものを扱うようになって、 その大元である蚕の飼い方さらには蚕品種 にまで興味が広がり梅田幸平さんと21 年 5月に(財)大日本蚕糸会の蚕業技術研究 所茨城県稲敷郡阿見町、井上元 はじめ 所長) を訪ねている。さらに、22 年の春には、 社長以下坂本屋の若いスタッフ全員が研修 のために同研究所を訪れている。 きものの前の絹、絹の前の生糸、生糸の 前の繭、繭のまえの蚕、坂本屋の店員さん は全員がその蚕の卵から、見て知っていて 最終商品であるきのもを販売しているわけ である。 やはり、最終商品のきものの知識だけで 販売するのとそれ以前の商品の成り立ちま で全てを承知していて顧客に説明するのと では、その販売姿勢の迫力は自ずと違って きて当然といえよう。 現在、(財)大日本蚕糸会が鋭意取組ん でいる蚕糸・絹業提携支援緊急対策事業の 展開、純国産絹マーク使用の奨励等の狙い は、提携支援事業については、川上(養蚕) から川下(和装販売)を一体化して、関連 する全関係者が効果的に提携事業を機能さ せ安定的かつ永続的に事業を進展させてい くことにある。 また、純国産絹マークについては、和装 品の生産履歴を明確にし、消費者に安心し てきものを求めて頂くというものだが、坂 本屋の事業展開の数々は、これら提携事業 関連の諸取り組みの原点に基づいたものと して高く評価されよう。 提携支援グループの有力メンバーの1人 として、地元蚕糸絹業の牽引役を自負され ている康二さん。今後益々のご活躍を期待 したい。

明治33年(1900年)9月
初代 飯塚静夫誕生初代
大正13年(1924年)4月
木炭車初代 飯塚静夫とその祖父文治により、荒川沖(現在の『夢の蔵』)の土地を整備し創業。
当時多荒川沖駅近くの製糸工場(岡野館)の女工員のお客様が多く、夜遅くまで賑わっていたとか。当初は、普段着の綿製品をはじめ、農作業用品、夜具地、棉などに至る生活衣料全般を取り扱う。
昭和5年(1930年)11月
二代目 飯塚久二(現会長)誕生。
昭和15年~昭和20年頃
第二次世界大戦により、国の統制下のもと、品不足で配給支給品の取り扱いを行っていた。
昭和28年(1953年)5月
坂本屋を法人化。
株式会社 坂本屋として、呉服、洋品、紳士服、雑貨をはじめ、総合衣料会社として発足した。
昭和28年(1953年)8月
二代目 飯塚久二(現会長)が早稲田大学時代に大きな交通事故に遭い、右腕負傷する。当時就職(高島屋)が決まっていたがそれを反古にして、後に坂本屋へ入社するきっかけとなった。またこの頃は、衣料品は戦後の統制時代であり、色々な製品が出来始めた。主に、綿・絣・織物・紬など。
昭和33年(1958年)3月
二代目女将 飯塚敏子・坂本屋に嫁ぐ
昭和36年(1961年)6月
三代目 飯塚康二(現社長)誕生。nidaime-sandaime
この頃は、銘仙からウールへと時代のニーズが変化していった時代。
昭和39年(1964年)10月
本店店内本店新装開店(現在の『夢の蔵』)
東京オリンピック開催の年であり、繊維製品は徐々に充実してきた時代になる。
昭和54年(1979年)10月
初代 飯塚静夫死去。この頃より、二代目が荒川沖駅の東口開発準備を勧め、さんぱる店出店に着手。
昭和56年(1981年)11月
坂本屋さんぱる点荒川沖ショッピングセンター『さんぱる』オープン。
さんぱる店出店。当時は本店とともに2店舗にて営業を行っていた。
昭和57年(1982年)3月
西口の本店は、「暮らしの衣料坂本屋」として営業していたが、本店店長の体調不良のため、やむなく閉店することになる。
平成5年(1993年)
三代目 飯塚康二 帰省。
「坂本屋+きもの生活設計事務所」設立。さんぱる店全面改装の為、帰省。
平成6年(1994年)6月
京都坂本屋オリジナル工房設立。
この頃より、各産地との結束を高め、オリジナル品の制作や産地から徐々に直接商品が入荷するようになる。
(坂本屋の産直価格スタート)
平成7年(1995年)10月
「三代目 飯塚康二 襲名披露展」開催。
坂本屋三代目おして正式にお披露目をする。
平成9年(1997年)2月
本店にて着付教室開設「坂本屋きもの着れる教室」
(『夢の蔵』和学院の前身)
(初代講師 塩谷美奈子 後の三代目女将。)
平成9年(1997年)10月
きもの好きなあなたの会」発足。
第1回きものパーティ開催。きものの好きな方々と、グルメの会・小旅行・歌舞伎や観劇・産地見学会・落語会などきものを楽しむ会を行い始める。
平成10年(1998年)4月
三代目と女将三代目女将 飯塚美奈子・坂本屋に嫁ぐ。
前結び「坂本屋きもの着れる教室」の講師として活動する。
坂本屋オリジナル「さくら染めショール」制作。
平成10年(1998年)11月
「染と織の産地協同組合」とのタイアップにより、さらに産地との絆が深まり、オリジナル品の開発を推進する。
「産地価格」の実現。
平成12年(2000年)10月
坂本屋創業77周年記念展。77周年
坂本屋オリジナル「黄色糸長襦袢(幸菱)」発表。
《きもの文集》
タンスに眠る心の思い出集『100年の詩』編集・発行。
坂本屋『夢の蔵』の構想が固まる。
平成13年(2001年)3月
2001年坂本屋オリジナル「百年・夢の蔵」オリジナルお召発表。
平成15年(2003年)
創業80周年坂本屋創業80周年記念きものパーティー開催。(楽天酒場にて)
平成15年(2003年)10月
坂本屋創業80周年記念展。
地元茨城産の繭による、白生地制作を試みるも、絹糸の製造工程の行政構造により制作出来ず、断念。
平成18年(2006年)7月
10年展三代目女将 飯塚美奈子 この道10年展開催。
オリジナル縁起物『実のなる手ぬぐい』発表。
平成20年(2008年)4月
「純国産絹製品取扱店 証紙番号005」に認定。
日本で5番目に「純国産絹製品取扱店」として認められた。
平成20年(2008年)10月
坂本屋創業85周年記念展。
地元茨城産の純粋繭により、白生地『常陸国白絹』を発表。
平成21年(2009年)9月
三代目店主 飯塚康二襲名。
平成21年(2009年)10月
地元茨城産の純粋繭により、『常陸国白綾』を発表。
皇室御用達献上品 小石丸(最高級絹糸)による白生地制作開始。
『常陸国白絹』による染名古屋帯発表。
平成22年(2010年)8月
荒川沖ショッピングセンター「さんぱる店」撤退。
さんぱる店における30年の営業に終止符。
平成22年(2010年)10月
坂本屋新装オープン坂本屋『夢の蔵』新築オープン。
『夢の蔵』和学院開講。
『夢の蔵』たしなみ塾のスタート。
平成23年(2011年)9月
袖マスター20時間講習会開催。
第一期生 2名誕生。《初代講師 飯塚美奈子》
(自分で振袖が着れるよう、20時間の短期講習会を開催。)
平成23年(2011年)10月
坂本屋創業88周年記念展。
常陸国白絹『88地紋のきもの』『88花織』を発表。
無地染、33色のぼかし染め、岡重オリジナル無地染めなどお誂えの体制を構築する。
平成25年(2013年)5月
三代目店主 飯塚康二 帰店20周年記念展開催。
平成25年(2013年)10月
坂本屋創業90周年記念 きものパーティ開催。
(ラ・フォレスタ・ディ・マニフィカにて)
平成25年(2013年)10月
『坂本屋創業90年祭』開催。現在に至る。