牛久・修養団とは

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 蓮沼 門三(はすぬま もんぞう、1882年2月22日 – 1980年6月6日[1])は、社会教育団体「修養団」を設立した日本の社会教育家

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 1882年(明治15年)2月22日、福島県耶麻郡相川村(現・福島県喜多方市山都町)出身。小学校尋常科準教員を経た後の1903年(明治36年)、東京府師範学校(現・東京学芸大学)に入学し、寄宿舎に入る。在学中の1906年2月11日、仲間と共に修養団を創立、主幹を務めた。1907年に卒業、赤坂尋常高等小学校の訓導となる。1910年には修養団の運営に専念するため教職を辞し、四谷左門町に修養団の事務所を設置した。戦後は、東京青年文化会館の運営に携わった。1980年(昭和55年)6月6日午前3時30分、逝去(98歳)。会津会会員。

SYD

SYD(公益財団法人修養団)は、人生の充実を願い、心を磨き、潤いのある家庭や地域社会、職場を作ろうとする人たちの集まりです。平成23年3月22日に内閣総理大臣より「公益財団法人修養団」として、認定を受けました。1906年(明治39年)2月11日に、東京師範学校(現在の東京学芸大学)に在学中の蓮沼門三(1882~1980)を 中心とする学生達によって創立されました。

以来、社会教育団体として、特定の宗教や政党に属することなく、青少年の健全なる育成をはかるための教育を行うとともに、 “愛と汗”の精神を実践して、世界の福祉と平和に寄与することを目的としています。

平成25年度 基 本 方 針

手をつなぎ、心を合わせ 進めよう“幸せの種まき運動”

 昨年度は世界中が不況の波に襲われ、日本においてもその影響を受け、円高、デフレが止まらず、中国との関係悪化もあって経済的に大変厳しい年でした。政治的にはねじれ国会の影響から、与野党間での政争に終始し、何も決まらない状況が続き、12月の衆院総選挙において民主党から自民党へ政権交代となりました。

このような経済的、政治的低迷の中、平成23年3月11日に発生した東日本大震災とそれによって引き起こされた福島原子力発電所事故の被災地、 被災者への復興、支援がなかなか進まず、多くの被災者の方々が未だに仮設住宅に住みご苦労をされているのが現実です。

こうした中、修養団では引き続き被災者の方々を少しでもお助けしようと、石巻のボランティアハウスを活用した「SYD復興ボランティア隊in石巻」を16回、 「青少年炊き出しボランティア実践隊」を10回実施、その他被災された子どもたちをキャンプに無料招待するなど、多くの参加者と手をつなぎ、心を合わせて積極的に被災者支援活動を行い“幸せの種”をまき、心の絆を結んできました。この他、8年目を迎えた「出前講座“幸せの種まきキャンペーン”」も各地で好評を得、また社会人対象の「愛と汗の講習会」も参加者が増えて参りました。

 そこで平成25年度の基本方針を「手をつなぎ、心を合わせ 進めよう“幸せの種まき運動”」とし、今年度も被災者支援活動を継続して行うと共に、 各種の事業を通して一人でも多くの人と手をつなぎ、心を合わせて「こんにちは!どうぞ!ありがとう!」の“幸せの種”を一粒でも多くまいていくように注力していきます。経済的にも、政治的にもそして社会的にも混迷状態にある日本ですが、このような時だからこそ「愛と汗」の精神の具体的行動として“幸せの種まき”をし、心を豊かにしていく事が求められます。

 平成25年度も修養団の役職員、会員、同志が率先して、一人でも多くの人と手をつなぎ、心を合わせて“幸せの種まき運動”を力強く、積極的に進めていき、一輪でも多くの幸せの花が咲くように努力して参ります。

「創立者・蓮沼門三」と「誓願」

●誓願●

人よ醒(さ)めよ醒めて愛に帰れ
愛なき人生は暗黒なり
共に祈りつつ
すべての人と親しめ
わが住む郷(さと)に
一人の争う者もなきまでに

人よ起(た)てよ起ちて汗に帰れ
汗なき社会は堕落(だらく)なり
共に禱(いの)りつつ
すべての人と働け
わが住む里に
一人の怠(おこた)る者もなきまでに

 SYDは明治、大正、昭和、平成と約1世紀にわたり民間の社会教育団体として、総親和・総努力・総幸福の社会実現をめざし、 青少年の健全育成を柱に家庭教育、社会人教育など多彩な事業を展開してきました。

 「誓願」はSYDの創設者である蓮沼門三初代主幹が作り、大正9年にSYDの機関誌である「向上」に掲載されて以来、すべてのSYD活動の基本理念として受け継がれているものです。

■東京師範学校の仲間と蓮沼門三

 修養団創立への道程は明治36年(1903年)、蓮沼門三が東京府師範学校へ入学し、汚れた寄宿舎を見かねて単身美化活動を始めたことに端を発します。

 門三青年は単身この美化活動を続け、同志が生まれたのは37年1月に入ってからでした。雑巾をしぼった時、腫れあがった手の甲が破れ鮮血が吹き出し、 バケツの水を赤く染めても、雑巾がけを続ける門三を見た同室の一人が心を動かされ、協力を誓ったのです。それからは次々と同志が生まれました。

 こうして明治39年2月11日、師範学校の食堂に、全職員、学生約400人が集い、修養団が産声を上げました。