■四国八十八箇所霊場 (寺院) ―空海(弘法大師)が開いた―
―空海(弘法大師)が開いた―
空海は平安時代(概ね794~1190年)初期の高僧で、大だいにち日如にょらい来を本ほんぞん尊とする真言宗の開祖である。空海は「言葉は真実、真実は心である」といい、仏の真実の言葉、これすなわち「真しんごんしゅう言宗」という名をつけた。現在ブームをよんでいる四国八十八箇所霊場(寺院)巡じゅんれい礼も、空海が開いた霊場(寺院)巡りで、札ふだしょ所はどこも大師堂をもち弘法大師開基の縁起がある。空海は、承じょうわ和2年(835年)、62歳で入にゅうじゃく寂(僧尼の死)するが、86年後に第60代醍だ いご醐天皇より弘こう法ぼう大だいし師号ごう(※)が追つ いし諡(死後の贈り名)された。※大師号とは、天皇の命令による「生前の徳をほめ贈る称号」で、在世が平安時代の伝でんぎょう教大師最さいちょう澄、弘法大師空海、慈じ覚かく大師円えんにん仁、智ちしょう証大師円えんちん珍は大師号を追諡されのちに四大師と称されている。
■新四国八十八箇所霊場 (寺院 ) (牛久市周辺の高須弘信講)
ー城中の得月院は第53番 新地の東林寺は第 54番ー
四国八十八箇所霊場(寺院)参りが、全国的に庶民の間に、しかも集団での参拝が流は行やりだしたのは、江戸時代中期(※)といわれている。※徳川将軍が第5代綱吉より同11代家いえ斉なりまでの概ね1700~1800年の間をさす。 しかし、当時の四国はあまりにも遠路で、遍へ んろ路ができるのはごく一部の人びとにかぎられ、多くの庶民は果たすことができなかったのだった。 そのため、全国各地に四国八十八箇所霊場(寺院)を模も ほう倣して大小様々な遍路が次々と開設されていった。
江戸時代の後期(徳川第11代将軍家斉治世下)にあたる文政8年(1825年)のことであった。弘法大師のご利り やく益を得ようと、四国八十八箇所四国八十八箇所霊場(寺院)を模倣して下総国相馬郡東端の高須村(旧藤代町・現取手市。一部は龍ケ崎市帰属)の飯島四平という村人が発起人となり、同高須村の普賢院(明治初期に廃寺になると浄土宗高徳寺に移される)を第1番にして、相馬郡(のち北相馬郡・現在の取手市)内と常陸国の筑波・河内(のち稲敷郡・現在の龍ケ崎市・牛久市・つくば市〈旧茎崎町〉)両郡内に、それぞれ篤志家の協力を得、各村相応の地に新四国八十八箇所霊場(真言宗以外の寺院にも置かれた。位置は概ね牛久沼周辺)を指定し、そこに大師堂を建てて弘法大師尊像(石像)を安置した。城中村の曹洞宗稲荷山得月院に第53番が置かれ、新地村の曹洞宗福寿山東林寺には第54番が置かれた。
新四国八十八箇所霊場(寺院)巡拝の時期は毎年春彼岸後から4月と定められていたようだ。総行程は約28里<1里は4km・・・28×4=112>(約112km)に及び、戦前は徒歩で約1か月間、戦中戦後は往復自転車を利用して15日間を要した。この霊場巡礼ルートの人々の間では「春はお遍路さんの鈴の音がはこんでくる」といわれた。遍路たちは、各霊場や篤志家の家で、御神酒、おにぎり、煮物、茶菓子などの接待をうけた。新四国八十八箇所霊場(寺院)巡礼は巡拝総本部の役割をになった高徳寺が無住になり、また交通事情が危険な状態になってきたので、昭和40年(1965年)に一時中止されたがその後自然に廃れていった。