縄文時代の海岸線

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さらに詳しく 大串貝塚と巨人伝説

 今から、一万年以上も前、人々が狩猟や採集を中心とした生活を行っていた縄文時代には、温暖化の影響で、海岸線は、今よりもずっと内陸部まで入り込み、県南部の霞ヶ浦の一帯などは海の一部でした。このころの人々が採集した貝や魚、動物の骨などを捨てた跡である貝塚が、茨城県では、およそ300か所も発見されています。那珂川の下流部、水戸市のあたりでも、国の史跡として指定されている大串(おおぐし)貝塚などが見つかっています。奈良時代に記された『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』には、すでにこの大串貝塚のことが記録されています。

 縄文時代前期前半の貝塚と海岸線

 「平津(ひらつ)の駅家(うまや)の西、十二里に岡あり。名を大櫛(おおぐし)という。上古(いにしえ)に人あり。体は極めて長大(たけたか)く、身は丘壟(おか)の上に居ながら、手は海浜の蜃(うむぎ:巨大な蛤のこと)を摎(くじ)りぬ。其の食(くら)いし貝、積聚(つも)りて岡となりき。時の人、大朽(おおくち)の義を取りて、今は大櫛(おおくし)の岡という。」

 『常陸国風土記』が書かれた奈良時代には、海岸線も現在とほとんど同じ位置になっていました。海岸からこれだけ離れたところで海の貝が大量に見つかるということを、このころの人々は、巨人が食べた貝が積もって岡になったと説明したのでしょう。地名に関しても、「貝がたくさん朽ちている(大朽)」ことから「大櫛(おおくし)」と呼ばれるようになったと書かれています。

 その他にも、那珂川流域では、水戸市の千波湖(せんばこ)のあたりの柳崎(やなぎさき)貝塚や、ひたちなか市の遠原(とおばら)貝塚などの貝塚が見つかっており、かつてはこの辺りまで海岸線となっていたのだと考えられます。

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