霞ヶ浦・桜川の治水と洪水の歴史

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霞ヶ浦・桜川の治水と洪水の歴史

 霞ヶ浦は,海面が現在よりも高かった縄文前期に陸地内に深く入り込んだ入海が内陸に閉じこめられた潟起源の浅い湖沼です.出口は利根川・鬼怒川の運搬土砂および鹿島砂丘によって閉ざされ複雑な水路をとっています(図15).このため排水能力不足および利根川からの逆流による洪水がたびたび発生しました.この対策として,1921年に横利根川に閘門を設けて利根川からの逆流を防ぐようにしました.また,排水河道の北利根川・常陸利根川を掘り下げ幅を広げて洪水の疎通を良くしました.しかしこれによって海水が逆流し霞ヶ浦沿岸で塩害が生じるようになったので,利根川との合流点に常陸川水門を1967年に完成させ,湖水位調節および逆流防止を行うようにしました.現在では,霞ヶ浦の計画高水位をT.P.2.0m(東京湾平均海面を基準とした標高.)とし,高さ2.1mの湖岸堤防が設けられています.
 霞ヶ浦の既往最高水位は1938年の2.5mで,このときには霞ヶ浦流域全体で死者25人,家屋流失・全潰180棟などの被害が生じました.これは総雨量700mmに達する梅雨前線豪雨によるもので,浸水は茨城南部低地の全域に及びました. 


 霞ヶ浦に流入する最大河川の桜川の河口部に土浦の市街があります.土浦は,低湿地に水壕を幾重にもめぐらして防御する平城として築造された土浦城の城下町であり,水に弱い生い立ちの街です.城の東には比高1mほどの砂州が南北に連なり,古い町並みをのせています.水戸街道は鉤形に屈曲しながら砂州上を通じています.この砂州は霞ヶ浦の増水から城を守る役目をもっていました.しかし一方これは内水の湛水を助長します.
 城の築造が始まった室町時代には桜川は城の北側を流れていました.明治の地形図にはその旧流路がみられます(図16).1893年に開通した常磐線は湖岸沿いに通し,盛土路盤に水防堤の役割をも持たせました.市街地の標高はほぼ2m以下と低く,江戸時代以来幾度も水害を被ってきました.とくに1938年6月末の洪水は激しいもので,桜川は 破堤して土浦町の最大浸水深は3.1mに達し,死者6,住家全半壊61,浸水4311などの大きな被害が生じました.1941年には利根川の洪水が霞ヶ浦に逆流してきて湖水位が2.1mに上昇し,住家4,340戸が浸水しました.



 桜川の河川改修は,計画流量毎秒1,000立方m,霞ヶ浦計画水位2.0mに基づいて実施され,河口から10kmの区間では築堤が完了しています.その上流部では,河道部が低地面よりもかなり低くなっているということもあって,連続した堤防がつくられていません(図17).筑波山塊からの土砂供給が少なくて,河流が低地面を侵食する状態にあることをこれは示しています.1986年には台風10号の大雨により,桜川中流部では全面的な浸水が生じましたが,この侵食河道部では,無堤部もあるにもかかわらず,浸水は河道付近に限られました.なおこのとき河口部では,桜川水位は警戒水位に達しませんでした.
 平野の地盤高分布をみて,河道部がより高いという天井川の状態にあるか,あるいは侵食性であるかを知っておくことは,危険域の判定に役立ちます.小貝川は氾濫が広く平野内に及ぶという堆積性(天井川的)の河川です.


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