建築の日本展

■建築の日本展

木内俊彦  

▶︎可能性としての木造

 日本列島は高温多湿で、木材をどこでも調達できる条件を備えています。先人たちは、その可能性を最大限に活かしてきました。木を山で持続的に育て、流通させ、目的に応じて現場で組み立てる。伝統建築も木組も大工秘伝書も、そのような木の文化の証です。木造建築が世界的に見直されている現在、日本の木の文化で世界に貢献することはできないでしょうか。

 振り返るべき遺伝子のひとつは、日本に西洋建築がもたらされた近代にあります。日本の木が育てた思想や技術は、その後の鉄骨造やコンクリート造の近現代建築にもインスピレーションを与えてきました。入手や加工にさまぎまな「力」の集中が欠かせない「石の文化」とは異なり、「木の文化」では、津々浦々の職人が設計と施工の技術を持ち、各地で材料が入手でき、構造を足したり、修理して取り替えたりすることも可能です。19世紀に西洋文明が流入する以前に極められた木造の技は、精緻に制御される現代の情報社会やテクノロジーのあり方とも親和性があると言えます


▶︎平等院鳳鳳堂の組物

 けがれた地を離れ、浄土へと翔び立つような建築をつくりたいこ浄土思想が流行した平安未弧ある貴族のロマンチックな想いが一つの有名な建築を生み出した。京都・宇治川の辺りに残る平等院鳳凰堂。機能性のない鉤(かぎ)の手に折れた翼廊 (よくろう・主屋から独立した別の建造物となっている・下図例)を持つ平面構成も特異であるが、やはり深く突き出し、かつ伸びやかな反りをもつ屋根こそが鳳風をイメージしたこの建築には欠かせなかった。

 しかし、屋根を深く突き出すことは構造的に大きな困難を伴う。当時の屋根は土を盛って瓦を葺いていたためかなりの重量であった。それを支えるため下方の部材を外側へ持ち出していく構造体組物である。斗 (ます)と呼ぶブロック材と肘木(ひじき)と呼ぶ横架材を交互に積み、外側にせり出していくのである。しかも単純に横に出していたのでは早い段階で屋根荷重に負けてしまうので、途中で斜め下方に差し込む尾垂木という長い材を入れ、尻側に荷重をかけテコの原理で先端を持ち上げる工夫も組み込まれている。

 この組物の技術は仏教建築の伝来とともに大陸から持ち込まれたのだが、大陸よりも風雨が強いわが国では軒をさらに深く出さざるを得なかった。ゆえに組物を有していても歳月を経た軒は次第に垂れてしまったのである。

 

 そこで工匠たちはある工夫を思いつくこ屋根裏の隙間を広げてそこに太く長い丸太を突っ込めば屋根を深く出すことができると。人々の目にとまる組物はそれなりの美しさが求められるため太さの限界がある。しかし桔木(はねぎ)と呼ばれる太い丸太を屋根裏に隠してテコの原理で跳ね上げればその制限はない。鎌倉時代から始まる桔木の技法はその便利さから以降急速に普及していく。それは同時に組物の衰退を意味していた。もはや屋根荷重を受ける必要のない組物はただの飾りとしてつくられていくようになる。

 平等院鳳凰堂は桔木(はねぎ)が登場する直前の時代につくられたため、まだ組物が構造的な力強さを持っている。古代建築が持つ構造美の最後の輝きがここに見て取れよう

 日本は温暖湿潤な気候から豊かな木材資源を有する。一方で地震や台風などの過酷な自然災害が存在する。そのような条件から必然的に木材同士を組み合わせるための加工技術、つまり材木を伸ばすための「継手」、交差させて組むための「仕口」の技が高度に発達することになった。それは社寺における複雑に木材を交差させて組み上げる組物、数寄屋における曲面同士を隙間なく組み合わせる丸太仕事民家における力強い小屋組に端的に表れているこ つまり伝統建築の美は木組の構造美といっても過言ではないほどに昇華されたのである。

 ところが近代建築の申し子として登場した鉄筋コンクリート造が、木組を建築の表舞台から消し去ってしまう。とりわけ安全上の問題から、オフィスビルを始めとする大型建築から木材は駆逐され、すべて鉄とコンクリートでつくられることになった。それでは日本の伝統的な構造美はどうなるのか。丹下健三を始めとするモダニズム建築家は鉄筋コンクリートで木組の構造美を再現できないか果敢にチャレンジしている。香川県庁舎・1958年はその代表作であろう。

 しかしその挑戦も長続きせず、半世紀に渡り鉄筋コンクリート造が日本の建築界に君臨することになった。ところがあまりにも普及したため、かえって木組が新鮮に写るようになった。その一方で集成材や金物の技術も発達したため、大型建築も木組でつくることが可能になってきた。同時に戦後に大量に植林した杉や桧が伐採されずに余っている状況も問題視されている

 日本には手仕事で木を刻む技術をもった大工もまだ多く残っている。同時に工作機械を用いて効率的に加工を施すプレカットの技術も高度に発達している。近年の隈研吾の建築作品に表れているように、その技術をうまく活用することができるならば、木組の美しさが日本に復活する可能性も見えてくるであろう。(坂本忠規)

▶︎ 木 組

▶︎ミラノ国際博覧会2015日本館木組インフィニティ

 <木組インフィニテイ〉と称しているこの木組は、日本の木構造、木組の在り方を一つの形にしたものであると考える 金物を使用しない木組による構造は欧州の伝統建築でも数多く見られるが、欧州の伝統的な木組は間を壁で埋める平面的な見せ方が多い。対して日本の伝統的な木組は、柱を主体とした壁のない構成や深い軒の出などから奥行のある立体的な見せ方とすることが多い。こうした日本の伝統的な木組の空間的な在り方を再解釈し、構築したものが〈木組インフィニティ>もである。

 ミラノ博覧会では長さ2,080㎜、115㎜角の集成材を使用し、1本あたり8カ所の単純な相欠き加工をしただけの僅か4種類の基本部材で組み上げられている 500㎜角の立方体グリッドを基準とし、そのグリッドを傾けて連続させることで単純な部材構成でありながら見る角度によって表情が変わる多様な見え方を作り出している。

 建築本体や接地面にて振れ止めの為に金物で固定している個所はあるが、116mの自立した構造体としてファサードを構築しており、構造として効かせている金物は一切使用しない木材特有の粘り強さを最大限に活かした構造としている。

 長さ2,350㎜、120㎜角の国産カラマツ集成材を約20,000本、体積にして約670㎥を現地へ輸送し、長さ2′080㎜、115㎜角に現地で加工して使用したが、近年の国内外にみられるような大断面、長尺のCLT(直交集成板)とは異なり、1本1本は非常に小さな部材であり、現地職人の手作業により組み上げられた構造体であることも、この木組の大きな特徴の一つである。

 グリッドの大きさや奥行、角材サイズを変えることで、同じ仕組みでありながら、より多様な見え方を展開させることも可能である。(桑原遼介)

▶︎国際教養大学図書館

仙田満   2008年Akita lnternational University Library Senda Mitsuru 2008

◉杜の図書館

 緑あふれるキャンパスの景観と調和することが求められた 既存樹木を残すように図書館は配され、建物への日差しを遮りつつ、室内からはリラックスできる緑の景観が構成されている一票から見える緑の景色と、秋田杉による濃密な木造空間により【杜の図書館」の実現が目指された。

◉ブック・コロシアム

 図書館は本と人との出合いの場としての劇場空間「コロシアム」として計画された。洋書を中心とした段状のグレートホールと、和書を中心とした1階のリーディングスペースからなり、半円形平面のグレートホールは−中心に向かって段状に書架と閲覧席が組み合わされている。利用者は思い思いに本棚を巡り、気に入った場所で閲覧することができる二間覧席は、大空間の中にありながら、落ち着いたスペースとなっている。一方、他の学生の様子も伺えるので、お互いに学習意欲が喚起され、集中しやすい環境を実現しているこ半円形の空間的集中と、屋外の森への方向性を併せ持ち、回遊しながら発展する循環性が意図された。

◉秋田杉のハイブリッド架構

 半円形プランに、地場産スギ製材をつかって放射構造の屋根を架け渡し、和傘のように繊細で奥行き感のある豊かな木造空間が形成された‥入手容易かつ安価な5〜6寸角程度の地場産スギ製材を用いた2種頸の特徴的な組立梁壇(透梁合掌梁)を縦に重ねて、放射配置し、円弧中心から放射状に建てた斜柱で支持する傘状の構造である。屋根梁組上には 30㎜厚の構造用合板を直貼りして水平構面をつくり、ルーフ段差部にスティールのフィーレンデールトラスを配置し、鉛直荷重を支えつつ、ラーメンフレームで水平荷重を外周RC壁まで伝達する計画としている。木材同士の継手仕口には、「追掛け大栓継手」や「傾ぎそぎ入れ」など日本の伝統的な大工技術であるかん合式接合を用いて、簡素で美しいディテールが目指された。

▶︎大工秘伝書

 日本建築を「技術」あるいは「生産」という視点から振り返ってみると新たな面白さが見えてくる。古来、中国や朝鮮半島から木造のデザインと施工技術を輸入し、それを洗練させることで発展を遂げてきた日本建築は、二つの特殊な性格を有することになった。一つは木材の組み立てという生産方法をひたすら追求したことにより、全体形状を決めることよりも、個々の部材形状の効率的な決定が重視されたことである。他方は、とくに平安時代以降につちかわれた独自の美的感覚を部材同士の微妙な寸法関係で表現し、それが誰でも決定できるようなシステムが求められたことである。

 その結果として「木割術」と呼ばれる各部材同士の比例関係をシステム化した設計技術が登場した。これは基準寸法に係数を桂トけて目的の寸法を割り出す関係・Y=αXンを連続化したもので、現代でいうプログラミングと同じ発想である。この特殊な技術は工匠家の秘伝として代々継承されたが、室町時代になるとそれを文章や図面で表現し巻物形式の「秘伝書」として伝えることが始まる。しかし当初は門外不出であった秘伝書も、モノとして表現されたからには宿命的にコピーされることになり、写本というかたちで流出してしまう。挙句には江戸時代になると「雛形本」マニュアル本として出版されオープンソース化されてしまうのである。

 この木割術の普及は建築デザインのあり方を大きく変えた。寸法や形状は仕組みを知っていればデザイン能力など関係なく自動的に決定することができる。そこにもはや工夫の余地がないとすれば、工匠の関心は彫物や彩色へと向かう。江戸時代を象徴する装飾主体の建築はこうした技術と生産の発展を契機の一つにして発生したのである。さて、技術自体はオープンソース化されたにもかかわらず、江戸時代を通じて秘伝書の書写は続けられた。これは秘伝書を写させることで流派の絆を確かめたという意味もあり、また巻物にすることでそこに神秘性を残すという意味もあったと考えられている。江戸時代はこのような独得の建築文化が花開いていたのである。(坂本忠規)

■会津さざえ堂(旧正宗寺三匝堂) 1797年 重要文化財

 膠着したシステムを打破するのは何か。そのヒントがこの異形の建築に秘められている。江戸時代後期、建築のデザインは行き詰まっていた。形状はパターン化され カタログから選ぶだけ。寸法は木割術によって自動的に決定する。それでは面白くないので彫物に凝ってみる。そういう時代に二重螺旋のスロープを納めた頓狂な仏堂が地方寺院に突如として表れたのである。

 住職の郁堂禅師による考案とされるが詳細は不明。江戸時代、西国三十三ヶ所観音霊場や四国八十八ヶ所霊場の巡礼が爆発的に流行するが、遠方まで旅行できない庶民のために「お参りすれば霊場を巡礼したのと同じ功徳がある」とする建物をつくろうと考えたのである。「三匝(さんそう)」とは、仏法における「右繞三匝(うにょうさんそう)」、つまり仏に対して右廻に回まわる作法の意味を込めたのであろうその結果、三階建のお堂に33体の観音像を安置し、それも同じ場所を通らずに回れるよう二重螺旋構造としたところに機知がある。人々は不思議な3階建ての建物に登れるエンターテイメントを求めて殺到し、その後さざえ堂は関東から東北にかけて広がっていく。

 しかしその成功の陰には、既存の枠組みからはみ出したことによる観念的、技術的な大きな困難があったに違いない。それを成し遂げたのは住職の思いなのか、欲望なのか、あるいは大工の執念なのか。いずれにせよ大衆の欲望とクリエィターの熱意が合致した時、建築のブレイクスルーが起こることをこの建物が証明している。[坂本忠規]

■東照宮五重塔/1818年/江戸時代再建/重要文化財/世界文化遺産

 五重塔を構成する部材で、最も大事なのは、仏教的にも造形的にも、最上階の屋根から天に向かって突き出ている金属製の相輪である。巨大であるから相当な重量になり、それを支えるために直下に一本の巨大な柱を据える必要がある。これが心柱である。そしてその心柱を覆うために五重に屋根を積み上げたのである。

 しかしこの構造には大きな問題があった。木材は繊維方向にはほとんど収縮しないが、繊維と直交する方向には乾燥と圧縮でそれなりに縮む、すると心柱は縮まないのに、廻りの屋根とそれを支える構造体年月が経つほど縮んでしまう。その結果、心柱と最上層の屋根が接合する部分に隙間を生じ、雨漏りするのである。仕方ないので、古来より必要に応じて心柱の根本を切り縮めてきた

 この問題を抜本的に解決したのが、日光東照宮の五重塔などに見られる懸垂式、つまり心柱を吊り下げるという大胆な方式である。廻りの屋根を支える構造体に心柱を吊り下げてしまえば、心柱も一緒に下がっていくので隙間はできない

 柱は本丸地面から力強く立ち上がり荷重を受けるものだが、それを無視して吊り下げてしまうには大きな勇気と決断が必要であったろう。江戸時代の工匠の関心は主に彫物に注がれたのだが、このような未解決の構造問題にも注がれていたのである。常識を覆す発想が建築を変えていく。見た目は派手だが、中をのぞくとそんな期待を抱かせてくれる工夫が隠されているのである。

 さて、時を経てこの五重塔にみる心柱が地震の揺れに対して制振作用を及ぼしているのではないかという説があらわれだした。模型による実験ではさほどの制振効果は確認されていないのだが、面白いことに、そこにアイデアを見出して実際に制振機能を持つ心柱をつくってしまった建築がある。ご存じ東京スカイツリーである。(坂本忠規)

■東京スカイツリー

 世界一高い自立式電波塔である<東京スカイツリー>は、平面形状が低層部の3本足の鼎を想起する三角形から高層部の円形の展望ロビーヘと連続的に変化し、三角形の頂点が描く稜線は日本刀の持つ「そり」を、円形に変化する部分からは、奈良・平安時代の寺院建築の列柱がもつ中央がゆるやかに膨らんだ「むくり」という伝統木造建築の曲線形状を生み出している。

 伝統的な塔状建築としては五重塔があり、高さ56mの東寺の五重塔が日本一の高さを誇る。この五重塔は、木造建築の中でも最も多くの伝説をもつ建物のひとつでもある。「五重塔が地震で倒壊したという記録がない」ことが、この伝説をつくりあげており、「スネークダンス」、「重箱構造」、「閂(かんぬき)説」、「心柱制振構造」などの構造設計者耐震思想を刺激された構造システムが提案されている。その中でも、五重塔の耐震機構で一番有名なのが、「心柱制振機構」で、など、さまざまな説が唱えられ、現代建築で五重塔から触発されその中でも、五重塔の耐震機構で一心柱が振り子のように上から吊るされていて制震装置の役目を果たすというものである。

 東京スカイツリーでは、この機構を現代の技術で評価、性能を特化して耐震設計に盛り込んでいる。鉄骨造の塔体の中央部に設置した鉄筋コンクリート造の円筒部を心柱とみなし、周期の異なる心柱と塔体をオイルダンパーで結びながら閂効果と合わせて、地震時の塔全体の揺れを制御するシステムとなっている。

 大工の経験学に基づいた伝統的構法の要素を、構造工学に基づいた最新技術で再評価しながら組み込むことで、その形態、耐震性能を有した現代建築として生み出された。[腰原幹雄]

■東大寺南大門

1199年:鎌倉時代国宝 世界文化遺産    東大寺南大門西南面

 正治元年・1199に重源(1121−1206)が再興した東大寺の大門。境内の南正面に位置し、大仏様と呼ばれる建築様式を表している。

 天平宝享六年・762頃に創建されたが、平重衡(しげひら)の南都焼討(1180)により、大仏殿などの主要建築とともに焼失した。その後、大勧進職に任命された重源のもと、陳和卿(ちんなけい)ら渡来人や東大寺工匠との協同で復興された挿肘木(さしひじき)を用いた六手先(むてさき)組物、幾重にも通る貫(ぬき)、隅にのみ見える扇垂木、繰形のついた木鼻、垂木の木口を覆う鼻隠板などに大仏様の特徴をうかがえる。上層まで達した長大な通し柱による深い吹き抜けが印象的だ。

 大仏様は鎌倉寺代の初頭に登場した中世寺院建築の一様式で、中国北宋時代福建地方からの影響が見て取れる。貫や挿肘木などの建築構造上有利な技法を用いるが、同じく重源が造営した<浄土寺浄土堂>1192などにも認められる。

 かつては「天竺様」などと呼ばれていたが、インド様式と誤解されないようにするため、大仏殿などで多用されたことをふまえ、のちにこの様式名に改められた。後年、大仏様の一部は東大寺工匠の末裔たちにより近畿地方や瀬戸内地方へと流通し、折衷様の建築に取り入れられた。

■空中都市 渋谷計画/磯崎新/計画案2011

 1960年代前半に磯崎新が制作した空中郡市には、いくつかのバリニーションがある西新宿を敷地として1960年から61年に制作された「新宿計画」は、ジョイント・コアと呼ばれる円柱状の垂直コアが林立する実に、構造ブレースが露出した居住ユニットシステマティック(体系的な」「組織的な)に架け渡されるものであった。

 その未来的な構成は、1961年に丹下健三が発表した東京計画1960で磯崎が担当したオフィス街に用いられた。(ただしコアが角柱となって垂直性が弱められている)ほか丹下健三の<築地計画>](1961−65)<山梨文化会館>(1966)などに展開した。ー方、磯崎自身は<新宿計画>の発展ヴァージョンとして、ジョイント・コアがギリシャ神殿の廃墟の円柱に接合された「孵化過程」を1962年4月に発表する。磯崎はこれを「構築されるべき都市を非構築の側へ引き戻す」(「建築における「日本的なもの」2003)と説明しているが、同じ1962年の11月に制作されたもう一つの空中都市が、ここに挙げた<渋谷計画>である。

 <新宿計画>と<渋谷計画>の大きな違いは、<新宿計画>では西新宿の広大な敷地が想定されていたのに対し、<渋谷計画>は既存街区の上空に住居群を浮かべる提案だったことである。ジョイント・コアは任意の空地に建られ、これを幹として、そこからのびていく枝(横動線)や葉(住居ユニット)が空中で連結する(中間に橋脚を立てずに架橋する刎橋(はねばし)の形式である)。

 このような構造形式は<東大寺南大門>(1203)の木組みが参照されたと言われるが、実際には参照されたのは構造だけではない。のちに磯崎自身が論じているように前掲書、磯崎は、東大寺南大門に文化の洗練を断ち切る「おどろおどろしい構築する力を見ていた。つまり、空中都市は、一方で「非構築」へ吸い寄せられながら、ほぼ同時に「構築」の意志にたどり着いた。この大きな振幅を可能にしたのは、750年の時を超えて構築力を宿しつづけていた木造の力だと考えることもできるだろう。(大内俊彦)

空中都市渋谷計画⊂G2011年/画像 森美術館/制作:芝浦工業大学八束はじめ研究室・菊池誠研究室、デジグルハリウッド大学院メタボリズム展示プロジェクト、森美術館


■ 梼 原 木橋ミュージアム / 隈研吾 2010年

 同じく隈研吾が設計した梼原(ゆすはら)町地域交流施設(1994)への増築で、道路をまたいでホテルと温泉施設を結ぶ連絡橋兼ギャラリーである。しかし、このようなプログラムの説明では、この建物を説明したことにはならない。ここの印象深いシルエットを持つ建築から、人々は一体どのようなメッセージを受け取っているのだろうか?

 橋に求められる長いスパンは、鉄筋コンクリートの大梁ではなく、鉄骨のトラス梁でもなく、断面18㎝×30㎝の細かい木材が積み上がりながら迫り出す方法で実現されている これによってまず、パーツの人間的スケールと、全体を見たときに背景の山にまで連続する景観的スケールが結びつく一橋には切妻の屋根がかけられて、動線としての開放性と居場所としての親密性が両立している。

 木材を積み重ねる方法は刎橋(はねばし)という伝統形式にならい、伝統木造の組物を彷彿させる日本的なものである一方、装飾的要素を排した幾何学的構成はグローバルにも理解できる。木材は、地元の木を地元で加工した集成材を用い、地元経済と結びついている。橋脚には鉄骨が組み合わされ技術は伝統的であると同時に現代的である。木が積み重なる組積式による物質性は、伝統的な軸組(柱梁)式の記号性を解体することが意図されている。

 以上のように、人間的スケールと景観的スケール開放性と親密日本らしさとグローバル性と地域性伝統と現代記号性と均質性など、様々な異なる領域を横断するようなデザインを、隈は「ノンヒエラルキー」という言葉で説明する。ノンヒエラルキーは、ユニバーサルと違って、普遍性を目指すものではなく、様々な差異を見定めた上で、その間を行き来する軽やかさをメッセージとして伝える戦略と言える。このような複雑なメッセージを一つのシルエットにまとめることは、多面性をもつ木造だからこそ可能であったことは間違いない。 (木内俊彦)