近代修理の始まり・奈良・天平の仏像

■近代修理の始まり・興福寺の仏像

 明治30年(1897)に古社寺保存法が制定されると、仏像は国宝の名のもとに修理されるようになった。修理費の大半を国が補助する制度である。前近代の社会体制が崩壊して荒廃していた興福寺では、仏像の修理は明治35年(1902)からであり、はじめは5年間続いた。いずれも日本文化を代表する奈良時代、または鎌倉初期の仏像が修理された。

 明治20年(1887)頃、興福寺の金堂には他の堂宇の仏像が集まっていた。前列右から西金堂の仁王像(阿形)、南円堂法相六神像(3躯)、後列に乾漆十大弟子と八部衆(各2姫)が並んでいた。

 明治34年(1901)から東大寺法華堂の諸仏の修理が始まり、日本美術院はいきなり難しい局面を迎えたが、明治35年(1902)には他の南都の寺の仏像も着手した。西大寺は塔本四仏薬師寺は二天王像(後述)十一面観音立像興福寺は東金堂の維摩像、文殊像、北円堂の四天王像脱活乾漆造の八部衆像など七件である。乾漆阿修羅像はこの時に修理された。次の年(1903)も興福寺は六件と他の奈良の寺より多く、乾漆造の十大弟子像東金堂の十二神将像などの群像が含まれている。いずれも奈良時代または鎌倉復興期の仏像で、日本を代表する仏像彫刻がこの時、集中的に修理されたのであった。

 また同寺の南円堂の諸尊の修理を整理すると、法相六祖像明治35(1902)、四天王像(明治36(1903))、本尊不空羂索観音像(明治37(1904))である。本尊不空羂索観音像の修理の年は興福寺ではこの一件に限られた。光背・台座を完備した丈六の観音像の修理がいかに大事業であったかが想像されよう。

  明治39年(1906)食堂千手観音像明治40年(1907)日光・月光菩薩像中金堂および東金堂の四天王像の修理が確認される。前近代の社会体制が崩壊し、存亡の危機に遭遇した興福寺にとっては、これをもって主要伽藍の仏像の修理は(北円堂分を除いて)一段落したとみてよいだろう。この時の修理記録は納文書には図面等がみえず、具体的なことが検証しにくいものの、仏像修理百年の歴史を振り返るのに欠くことのできない仏像であることに変わりはなく、その意義は重要である。本展示では法相六祖像のうちの二体(伝行賀像、伝神教像)とともに、新納忠之介の調査手帳から該当箇所を比較展示することにした。

 なお興福寺の仏像は昭和50年代から平成10年代にかけて再修理されている。これは、漆箔や彩色の浮き上がりに対する剥落止めの処置を中心としたもので、ふのりとともに、新しい合成樹脂の材料を使った修理である。

■法隆寺に伝わる救世観音、百済観音

 明治38年(1905)、日本美術院の事務所を東大寺勧学院に置いた。法隆寺の修理もその年に始まっている。最初は飛鳥時代の木彫仏の修理であった。この時の修理囲および竣工後に撮影したガラス乾板がいまも残っている。修理図は補修および補足箇所を色分けして図示したもので、この方法は仏像修理百年、いまも続いている。翌年、日本美術院は二部制となり、第二部が国宝修理を担当し、奈良に本拠を置いた。

 金堂の釈迦三尊像にならぶ飛鳥時代前期彫刻の名品。胸前で宝珠を捧げる長身の像で、鰭状 の天衣が左右相称に意匠化される。目の大きな、アルカイックスマイルの顔立ちは神秘的な威力に優る。(上図左)

 法隆寺に伝わる救世観音、百済観音および金堂四天王像は明治38年(1905)から翌年にかけて修理された。これらは第1回目の国宝指定・明治30年(1898)12月に含まれており、樟材(クスノキ)で造られた著名な飛鳥時代の木彫である。明治17年(1884)、京阪地方古社寺調査を行っていたフェノロサや岡倉天心らが、秘仏であった救世観音像の観音厨子の扉をかなり強引に開けたという有名な話がある。それから二十年後、古社寺保存法に基づく修理が可能となったのである。

あの御本尊(救世観音・筆者加注)も、さア廿年もなりますか、私が御修理致しました。樟の木で、お厨子から出したときプーンと木の香りがいたしました。(新納忠之介談・1941)

 新納資料には、これらの修理に関する修理図解とガラス乾板がある。修理図解は補修および新補箇所を色分けしたもので、美術院が独自に考案したものである。これに限らず、美術院が修理した仏像は、初期の段階は別として、本来、修理図解が作成されたと考えてよいだろう。修理図解は修理個所を後世に伝えるために作成されたものであり、天心が構想した文化財修理のあり方のひとつである。このような資料は今日、百年余り続いて来た文化財修理の大きな財産である。たとえば百済観音像の天衣の先端は補足されたことが分かる(図4・5・6)このことは文化財を保存管理する上で基本台帳となるべき性格を持つものであり、また学術上も貴重な資料である。

■平等院鳳風堂の雲中供養菩薩像明治38〜39年(1905〜06)

 雲中供養菩薩像平安後期の典雅な美術を伝える名品だが、修理前は「甲の破片を乙に乙のものを丙に付したる等の状況」であった。明治の修理では、すべての像が解体され、鳳風堂の扉絵や壁画の例を参考にして、各部材は正しい位置に復され、あるいは復元された。この時の修理箇所は修理図に図示された。それは、天心が構想した修理法の一つだろう。なお美術院の事務所は明治44年(1911)奈良市水門町の東大寺塔頭・無量院内に移された

 雲中供養菩薩像は平安時代、王朝貴族の典雅で優美な美意識を伝える名品であり、本尊阿弥陀如来像と同じく、天喜元年(1052)大仏師定朝一門が製作したと推定される。

 修理前の姿は手先や腕などの取りつけが混乱しており、明治の修理ではそれらを正しい位置に復位するため解体修理が実施された。その時の修理図によって、補足()および補修箇所()が明解に色分けされたことが分かる。

 さて平等院のこの国宝修理は明治38年(1905)9月から始まった(「阿弥陀如来像内木札」)。ただし、それより10年ほど前の明治28年(1895)、まだ古社寺保存法もなく、日本美術院の創立間もない時期に、平等院では平安遷都1000年の大祭典に際し、伽藍の修繕の許可を京都府庁に願い出て、京都府知事から京都美術工芸学校長の今泉雄作に仏像等の修理の「修繕検査」を依託した(「明治巳略誌」明治28年(1895)4月15旦。

 『日出新聞』(2945号 同年1月9日付)にも「鳳凰堂の修繕」と題した記事が載っている。それによると、修理監督の今泉雄作の談として、明治維新後に至り幾分か修繕を加えられたもの、旧形を破壊されたものも少なくなく、今回の主な修理は台座・蓮華および尾廊(鳳凰堂)の修理であり、できる限り「旧来の木片を蒐集し、蓮華取附方等の如き一孔穴と雖も新らたに穿たざる様に」請負仏師に注意を与えたと記している。この時(明治28年)の修理の仏工、大工の請負高を記す文書(請負高書)によると、仏工司は京都山本茂助同田村庄七であり、『日出新聞』記事では仏工山本茂祐(下京区寺町松原東入ル)と記す。

 最初に記したように、日本美術院の修理は明治38年(1905)9月からだが(国宝指定は明治37年二月)、新納資料ではその着工の年月日は同年7月とし、2ヶ月早い。この当たりの検証は今後の課題である。竣工は翌年(1906)12月15日であった。本尊、天蓋および雲中供養菩薩像の修理であり、主幹岡倉天心の下で実施された。新納文書のなかには「鳳凰堂五十三仏修繕工法仕様書」があり、その「説明」によると、以前の修理(明治18年とするが、先に記したように美術院が着手する以前の直近の修理は28年である)では、離脱した部材を正しい位置に接合するという基本が守られていないと、痛烈な批判の文章を記している。長文だが、以下に引用する。

 以上五十二躯は皆后世粗末なる修理を加えたるのみならず、最近明治18年の修繕の如きは誠に遺憾極まりなきものにして、甲の破片を乙に乙のものを丙に付したる等の状況を呈し、補足も随て甚だ粗末にして其儘付し置くに忍びざるを以て、庇の絵及柱の模様中にある天人等に依り、其腎を張り或は手を挙げ或は下げたる等の形状に相照考し皆之を改補し、又糊木屑等にてもり上げたる為めに虫蝕等を生ぜる部分も少なからざれば、木寄の部分は一先づ皆之を解剖し、欠損の箇所を填補し、麦漆を以て堅牢に付着せしめ、漆工の順序を以て之を補ひたる后、在来の箇所に倣い彩色古色を施す。背部の腎坪は鉄にして皆腐錆せるを以て今回之を銅に改め、解剖の際内部より充分なる仕掛を以て堅牢に之を打止めたり。(『日本美術院彫刻等修理記録Ⅶ京都篇2』奈良国立文化財研究所1980)

 これをまとめると、不適切な位置にある部材は正しい位置に復したこと、新補の腕は粗末であり鑑賞上見苦しいので、扉や壁画の天人像を参考にしながら形状を整えたこと、補修箇所が糊木屑(糊に木粉を混ぜたもの)を使用したため、すでに虫蝕が進んでおり、一旦部材を解体し、欠損箇所を補い、改めて麦漆(漆に小麦粉を混ぜたもの)で緊結したこと、今回の新補箇所には古色を施したこと、背面に打たれた留め金具(肘壷)は鉄から銅に替えたことなどが報告されている。なおこれらの修理図解の和綴本が本展覧会準備中に美術院で見つかった。本来は新納資料に属すべきものなのだが、新約家から奈良国立文化財研究所に移る以前に、何らかの事情で一括文書から外れていたもので、十年ほど前に新納家から美術院に預けられていた資料群の中にあった。それには五十一姫すべてが修理図解されており、補足箇所(赤)と補修箇所(緑)を色分けして明示されている。今日ではこの色分けは補足詐が青、補修箇所が赤としており、赤色の使い方が逆になっているのは面白い。

 以上の修理仕様は、今日行われている保存修理の記載と異なるものではなく、すでに明治の時代にそれが確立していることに改めて気づくのである。「古社寺保存は研究するのが眼目である。決して職人になってはいけない。従って貴殿らにやって貰ふものは研究的なものでなくてはいかぬ」と岡倉天心が語った言葉の実践であったことが改めて理解される。また51躯のうちの11躯の頭部がこの時補われており、当時の保存状態が尋常でなかったことが図解によってよく分かる。なお手臂 (ひじ)、持物等の補作については扉・壁画や柱絵を参考にしてなされているが、このことについては、「上膊(じょうはく・肩とひじの間の腕の部分)以下、あるいは前膊(ぜんはく・腕のひじから手首までの部分。下膊(かはく))以下が後補されているものでも、その腕の向きや持物等にさして不自然さは感じさせない。」という評価が今日なされていることを付記する(水野・1987)。また彫刻修理に洋釘を使った早い例として雲中供養菩薩像が注目されている(西川・1981)。

■奈良美術院時代・唐招提寺金堂の仏像

▶︎東大寺勧学院

 明治39年(1906)8月、岡倉天心は日本美術院の組織を改組して二部制とした。第一部は絵画を中心とした新制作部門で、本部を茨城県の五浦に置いた。第二部は国宝修繕部門とし、本拠を奈良に置き、美術品の研究とともに国宝修理に当たることを計画した。新納忠之介(にいろ ちゅうのすけ)は第二部の責任者となり、東大寺勧学院を日本美術院第二部の事務所とした。勧学院は正倉院の南にあり、新納忠之介や菅原大三郎の居宅も兼ねた。事業の契約業務と人事権については第二部が独自に判断することになったが、しかし、経済的には顧問の高村光雲を通じて、天心の影響下にあった。修理事業のなかでも研究的内容のウエイトが大きくなると、経営上苦しい状態になるというジレンマがあったようである(西村・1969)。挿図2は日本美術院第二部の発足を機会に、東大寺勧学院門前で撮影されたもの。

 明治39年(1906)秋、各地の修理現場から奈良に集まった修理技術者15名が勢揃いした記念すべき写真である。門の右に懸けた「日本美術院第二部」の看板が真新しく、左の古い勧学院の看板と対比されて印象深い。引き続き奈良県、京都府、滋賀県の主要な国宝の修理が行われた(新納義雄・2005)。

▶︎水門の事務所

 明治四十四年(一九二)、東大寺の塔頭であった水門町の無量院の一部を借り受けて、事務所を移転した(挿図3)。その後、無量院内に百坪程の私有地を買い取って美術院の事務所を建てた。(新納談二九四二)。なお勧学院はその後しばらくしてから火災に遭って焼失している(大正十一年(一九二二)四月)。

挿図2 日本美術院第二部発足 東大寺勧学院門前 明治39年(1906)秋 前列左から濱田濱吉、川田貞吉、新納忠之介、菅原大三郎、国米元俊、後列左から五番目が明珍恒男 

 大正2年(1913)岡倉天心が亡くなつた。彼の他界を機に、二部制となつていた日本美術院はそれぞれ独自の道を歩むことになった。翌年(1914)第一部は「日本美術院」として独立し(今日「院展」として引き継がれる)、第二部は「美術院」と改称し、新納忠之介を給責任者として多数の技術者を集め、従来通り国宝修理を手掛けた。日本美術院時代と区別するため、この時期以降の美術院を一般に「奈良美術院」と呼ぶ傾向があるが、実は美術院それ自身は奈良美術院の名は使っていないという。また古美術品の模造製作を始めることとし、独立後の経済的自立に努めようとした正倉院御物や奈良の寺社の工芸品を模造して販売するという新しい事業である。事業内容の拡大であり、職員も増えた。この時期の職員は、東京美術学校を卒業して古美術に興味あるもの、奈良で集められた人達の弟子関係、新たにこの修理所に入所希望のもので構成された(西村・1969)。

■唐招提寺金堂の仏像の修理・大正5~7年(1916~18)

 二部制となっていた日本美術院は、天心没後(大正2年(1913))、それぞれ独自の道を歩むことになり、翌年、第二部は「美術院」と改称した。通称、奈良美術院。その頃の大きな修理は唐招提寺金堂の仏像である。これらは奈良後期から平安時代にかかる頃の脱活乾漆または木心乾漆造の大作であるが、本尊慮舎那仏の像底図解をみるように、この時に作成された修理図解は非常に精度が高い

 金堂には中央に慮舎那仏東方に薬師如来西方に千手観音の巨大な乾漆仏が安置される。奈良後期から平安初期にかけて順次揃えられたもので、このうち慮舎那仏は金堂の創建より前に造られたと推定される。

 「籠をもってこれを造り、布および漆をもって十三返を重ぬ」(『招提千歳伝記』)とあるように、盧舎那仏心木構造は中心の支柱材像内の曲面に沿った複雑な枠木から構成される。大正修理では中心の枠木を抜いて、像内及び枠木の亀裂修理した。

 台座内部には「造物部広足生」、「造漆部造弟麻呂」、「沙弥浄福」、「練奥子□道福」、「漆部雀甘」の墨書銘があり、漆塗りを専業とする工人のも知られる。「漆部大夫私仏所」(正倉院文書)との関係が注目される。

 美術院として独立した2年後の大正5年(1916)、唐招提寺金堂の仏像の修理が始まった金堂の仏像は8世紀後半から9世紀前半の巨大な乾漆仏であり、中央に慮舎那仏脱活乾漆造、像高304.5㎝)、左右に薬師如来木心乾漆造、像高336.5㎝)および千手観音木心乾漆造、像高535.7㎝)の三尊が安置されている。仏堂とともに創建当初の安置状況がそのまま残った稀有な例である。

 大正の修理では仏像移動は人力であった。15年程前に東大寺法華堂諸仏興福寺南円堂本尊不窒絹索観音坐像同寺食堂千手観音立像など重量級の丈六仏を動かして修理を行っているから、足場を組み、像を吊り上げるといった大仕事は経験済みである。

これより90年後(平成11〜21年)の金堂諸仏の修理では、境内の修理作業所に仏像を移動した時、現在の財団法人美術院によって仏像の重量が計測された。慮舎那仏では本体が459キロ、光背(全高509.0㎝)が260キロ、台座(全高201.3㎝)が693キロである。

 1000本の手を表わしていたとみられ、現在小脇手911本、大脇手32本を数える。ヒノキ材の木心乾漆造で、3体の金堂の仏像のなかでは最も新しく、9世紀に入つてから造られたかとみられる。やわらかな衣文の表現は乾漆仏の伝統である。

 巨像であるから自立するのに大きな装置が必要で、ヒノキ材数材で頭体の根幹を造り、像底では大きな角枘(ほぞ)が台座内部の井桁を通り、石造の須弥壇の内部に達している。中世、文治元年(1185)の地震により本像は転倒したので、仏師印勝がこれを修造している。

 修理はまず千手観音像から始められた(菅原・1981)。千手観音像の修理については、新納忠之介の談話を次に引く。

この修理の時には、千本の手を全部外してつけ直したのであったが、これが至って難物 で、部分的に写真を撮っておいて、あとからこの写真に基づいて、あの手この手と元通り につけていった。この修繕の時までは、落ちさうな手は素人が勝手にかすがいでとめたり、後ろの木の桟(さん)に打ち付けてあったり、建物の貫(ぬき・木造建築で柱等の垂直材間に通す水平材)にくくりつけてあるき、見ばえも悪く全く無茶苦茶であった。千手観音の御本体も鉄の棒を作ってもたすことにした。これは御本尊弥勅菩薩(ママ‥筆者注)も同様に施した。それから千手さんの光背が宙ぶらりんで浮いて不安であったが、これも鉄の棒で支えた。この千手観音には、外には珍しい工夫がしてある。先づ安置の場所だが、須弥壇(しゅみだん・仏教寺院において本尊を安置する場所)が石造で、これに木の框(かまち・床の端に渡す横木)を井桁に組み、石垣には四角い孔を彫ってその上に台座をのせ仏身がその上に立つ。そこで仏身から下にホゾを出して(これは脚部から同木でつづいてゐる)井桁の組みを貫き、更に石の孔にさし込んである。上の仏体が重いから、大事をとってさういふ注意を施したものであらう。それでも鎌倉時代の正治年中に奈良に大地震があって、地動のために仏像がかたむいた由の銘文〈図6−16)が、脚の下のホゾに記されてゐる。これらは、私が大正4年(大正五年か‥筆者加注)修理した際はじめて解ったことであった。(新納談・1952)。

 美術院の修理技術者たちは1901~2年東大寺法華堂興福寺の乾漆を手掛けていたから、この談話からも察せられるように、乾漆像の修理は一応の経験を持っていたのである。この大正の修理を振り返ると、まず気付くのはこの時作成された修理図解の豊富なことと、その精度の高さである。この修理記録は前にも述べたように新納資料の中にある。この記録は本来所有者、国および県に提出されたもので、本資料は美術院側の控えである。奈良県に提出されたものは県の行政文書(奈良県指定文化財)に保管されており(奈良県立図書情報館)、比較的保存もよい。

 いま述べた新納資料は現在奈良国立博物館が所蔵している。繰り返すが、この種の修理記 窯は戦前(完四五年以前)までの美術院側の控えであり、その時の修理に関する庶務および会計関係嘉が多く含まれている。昭和二十九年(完五四)に新納家から奈良国立文化財研究所へ、その後、管理換で当館に移された。さらに滋賀県の修理記録の編集が始められていたが、出版事業は継続されなかった。現在奈良国立博物館ではこれらの新納資料のデジタル化事業に着手しており、本展ではその一部を展示し、カタログに掲載している。すでに公刊された修理図は縮小かつ簡略図で紹介されており、必ずしも修理技術者の線描を正しく伝えていない。本展覧会でこれら修理図解を通して、実際の修理とは別に、修理技術者たちが精魂こめて図化したもう一つの仕事を知っていただければ幸いである。これらは「仏像の修理文化」を形成する貴重な資料である。

 この新納資料を通して、われわれは当時の修理のことが分かのであり、修理図解や修理中の写真によって学術的にも貴重な情報が得られるのである。ここで大正の修理のすべてを紹介できないが、平成の大修理では直接確認されなかった本尊盧舎那仏の像内の修理について以下に要約して紹介する。本像は脱括乾漆造であり、内部には木枠が装置されている。その構造は心柱的な性格の支柱材と、像内の曲面にそった複雑な枠木から構成される。本体を高梁に吊って、台座からおろし、その後、像底の底板を外し、像内に充満していた数百年来の塵芥を清掃した後、枠木の中心心棒を抜き取り、首部、像内及び枠木の亀裂を修理した。心棒には接ぎ木をして元のように挿し入れ、木枠を補強底板を張り、外部を修理した。

 台座では蓮華座の蓮肉内部に、「造物部広足生」、「造漆部造弟麻呂」、「沙弥浄福」、「練奥子」、「道福」、「漆部雀甘」の墨書(図6・13)が記されていた。これらは数少ない奈良時代の銘文資料として注目される。

 ところで大正7年(1918)5月奈良の古寺をまわった和辻哲郎は、唐招提寺を訪ねており、この時の仏像の修理現場を見学している。その印象記が、初期の古都奈良の仏像思索の書として名高い『古寺巡礼』(大正8年(1919))に載っているのでこれを引いておく。

金堂の大きい乾漆像を修繕しっつあるS氏に案内されて、わたしたちは堂内に歩み入った。(中略)わたしたちはその間(円柱‥筆者加注)を通って丈六の本尊の前へ出た。修繕材料の異臭が強く鼻をうつ。所々に傷口のできている本尊は蓮ムロからおろされて、須弥壇の上に敷いた藁のむしろにすわらされている。わたくしはその膝に近づいて、大きく波うつている衣文をなでてみた、S氏が側で、昔の漆の優良であったことなどを話している。あたりには古い乾漆の破片や漆の入れ物などが秩序もなく散らばっていて、その間に薄ぎたなく汚れた仕事着の人がつくばったまま猷州々と仕事をしている。古の仏師の心持ちがふと私の想像を刺激し始める。とにかく彼らは、仏像をつくるということそれ自身に強い幸福を感じていたのではなかろうか。

 ここに登場するS氏は現場主任の菅原大三郎である(菅原・1981)。すでに述べたように彼は東京美術学校の助手を経て日本美術院草創期の時から新納忠之介とともに修理を行ってきた草分け的存在の修理技術者である。菅原は大正8年(1919)唐招提寺の修理の大半を終えて美術院を辞した。その後播州清水寺の仁王像を新作した後、大正11年(1992)亡くなった。享年49歳

 千手観音の修理関係図だけでも優に二百枚を越える膨大なもので(父菅原大三郎は‥筆者加注)、これに情熱を傾けつくして生命を燃焼させてしまったのかもしれない。(菅原‥1981)

■ 関東大震災後の仏像の修理・円応寺の十王像

 大正12年(1923)9月1日に起きた関東大震災は、文化財にも大きな被害を及ぼした。相模湾を震源(マグニチュード七・九)とした地震の被害は、関東全域・静岡・山梨に広がり、特に東京・神奈川・千乗南部の被害は甚大であった。

 鎌倉地方の文化財もほとんど壊滅状態に陥り、多くの仏像が建物の下敷きになった。東国の鎌倉彫刻の屈指の優品である円応寺の初江王像も、他の十王像とともに被災した。翌年の秋から、これらの修理が鶴岡八幡宮境内の臨時修理工房で始まった。修理者は奈良から派遣された美術院の職員であり、工事主任は明珍恒男であった。修理は主に大破した部材を組上げることであった。

 大震災の翌年、鶴岡八幡宮境内の本建物が仏像修理の臨時工房として使用され、円応寺の十王像はそこで修理された。後に宝戒寺境内に工房が移され、さらに鎌倉周辺の仏像が集められて修理が行われた。この時の神奈川県内の文化財の被災と復旧について寺富弘康専門学芸員(神奈川県立歴史博物館)の論考があるので、それを参考としながら、円応寺の仏像を中心とした修理の経緯について次に紹介したい(寺寄・2002)。

 古都鎌倉のある神奈川県では寺院の全焼33、全壊387、半壊676、総計1000棟を超える堂宇(どうう・殿堂)が損壊した。仏像や什物類なども、倒壊した建物の下敷きとなつたものが多い。このような被害は神社でも同様であり、鎌倉の文化財は壊滅状態といった状況であった。特別保護建造物は9棟、国宝(美術工芸品)は110余点が倒壊または被損した。国宝の仏像(いずれも木造)の被害を記すと、極楽寺の釈迦如来立像(清涼寺式)釈迦如来坐像(転法輪印)および不動明王坐像は「甚しき壊裂を生ぜり」、覚園寺の地蔵菩薩立像は「著しく破壊せらる」、建長寺の北条時宗像は「壊裂の状凄惨を極む」円応寺(挿図4)の闘魔王・初江王・供生神(一一姫) の坐像は「身首処を異にし被害激甚なり」、浄智寺の地蔵菩薩坐像は「大破す」という状況であった。これは国の担当官中川思順が作成した詞書の引用かと推定される。高徳院の鎌倉大仏(銅造)は石造の基壇が崩れ、像自体も西向きに前方に40ないし50㎝ほどせり出し継ぎ目部分に亀裂を生じ、体内への進入口が塞がれてしまった。

 震災後、通常の古社寺保存費(大正12年度〈1923)では総額20万円)とは別枠で、文化財の震災復旧予算(特別枠14万円)が組まれ、修理は約11カ月後に着工した。多くは建物の復旧に使われ、国宝(美術工芸品)は通常経費の枠の中から充てられた(寺苧2002)。なお大正14年度(1925)は震災による国庫収入の激減により、ここ数年20万円を維持していた古社寺保存費が五万円減額されることなり、復旧事業は厳しい状況下に置かれた。

 いま記したように、震災後の翌年11月から修理は始まった。修理は奈良美術院が行つた。被災した仏像の数が多いので、修理技術者とともに、新作や模造担当の技術者も加わった職員のほとんどが鎌倉へ出張し、三カ年で被害に遭った全ての仏像を修理したという(西村・1969)。現場主任をつとめたのは、後(昭和10年〈1935〉)に美術院二代目主事とをる明珍恒男である(後述)。臨時の修理工房として鶴岡八幡宮境内の旧書芸駐屯所の「バラック」が利用された(図7・13)。また(図7-14)ははそのような臨時の修理工房で撮影された竣工間近の状況である。

 円応寺の魔王像が写っている。(明珍恒男が精魂を傾けたもののひとつは‥筆者加注)

 大正12年(1923)関東大震災の砌(みぎり・ちょうどその事が現われる時)、その災渦を蒙った鎌倉の建長寺、円覚寺其他五箇寺の国宝修理であった。堂宇の倒壊によって可惜立派な国宝も木端微塵となつて、崇高の損容は影姿なく、斯(か)くなってしまった国宝の修理は未だ嘗てない。実に六ケ敷(むつかしき)仕事であつたが、彼は進んでこの修理工事主任として行ってくれた。蓋し苦労づくめであっただろうが、彼には寧ろその難工事に直面するの仕合せを感謝しながら刻苦励精(こっくれいせい)、遂に其の完成を見るに至った。徳富蘇峰サンの 如き、この修理の竣功を見て驚嘆され、明珍君は魔法師だ、人間業でなしたとも思へぬと大いに賞讃、社会に発表された。(新納忠之介・1940)

 本展覧会では円応寺の木造初江王坐像一躯と倶生神坐像二躯が展示される。これらは東国の鎌倉彫刻の屈指の優品であり、檜材の寄木造で、内刳りを施し、それぞれ玉眼を嵌め、彫刻の表面は布貼、下地して彩色するが、ほとんどが剥落している。修理は主に大破した部材を組上げる仕事であった。以下に「国宝修理竣成報告書」の修理仕様を引く。

修理右何レモ倒壊堂宇ノ↑敷トナリ折損裂傷甚シク寄木ハ頭部ヲ除クノ他悉ク離レ或ハ撃、マタ粉砕シテ紛失セル部分モアリ寄木及破片ハ一々ヨリ掃除シテ取調べ寄木ノ矧目、破片ハ、漆膠、鋼釘、璧三テ接合緊着セシメ欠損不足ノ為メ接続シ能ハザル箇所ハ槍材ヲ以テ適当二補足シ、矧目ヘハ、木屑ヲナシ其上二錯ヲ施シ古色仕上ゲトナシナルベク原形ヲ完全二保全セリ(中略)初江王左方玉眼ハ左顔面部縦こ割レテ離レシ為メ紛失セルヲ以テ許可ヲ得テ水晶ニテ新粛蔵人セリ、委細ハ図解こ記セリ

 なお初江王像の修理の際、像内から造像当初の銘文が確認され(図7−7)、制作年(延長3年〈1251)、および作者(仏師幸有)などが分かった。

 修理は大正14年(1925)5月に竣工した(『震災復旧鎌倉国宝写真帖大正14年〈1925〉8月)。その1ヶ月前に工房は宝戒寺境内に移転し、震災で損壊した鎌倉周辺の仏像がここに集められ、引き続き明珍恒男らが奈良美術院から派遣された。宝戒寺の修理工場は次第に関東の一種の修理所のようになったらしい。昭和3年(1928)鎌倉国宝館が出来ると、小さな修理はそこで行われた(明珍昭二ほか・2001)。なお鎌倉大仏は銅造であり、基壇の復旧の土木工事のこともあったから、美術院は担当しなかった。匂戦中戦後も継続して行われた修理 三十三観音堂の千手観音像昭和十年(一九三五)明珍恒男が美術院主事(二代)に就任する。

 二代目美術院長(S10~)、明治15年生まれ、東京美術学校卒業後、36年から美術院、明珍の兜で有名な家柄著名な著作は、「佛像彫刻」明珍恒夫著(S11)大八州出版。一昔前の彫刻史の論文には、よく「明珍の『仏像彫刻』による云々・・・」という記述に出う。修復技術者の眼・立場から、きちっと実証的かつ体系立って論述されたものは、本書をおいて無かった。

 本文、写真解説共に、実技者ならではの術解説、修理の実見記録が豊富で、重用された本。『明珍恒夫氏の急逝』高田十郎「奈良百題」(S18)青山出版社所収では、学術的にも多大な功績を残した明珍の急逝が惜しまれている。東寺食堂千手観音、四天王寺五重塔扉八天が最後の作品であった。昭和15年没、58歳。