復興のための文化力

■福島の復旧・復興と埋蔵文化財

■各時代の物資・情報の集積地

 福島県浜通り地域北部にあたる南相馬市の史跡真野古墳群周辺は、阿武隈山地から流れる複数の河川が合流する陸路、水路の結節点に位置します。わずか2キロ四方に弥生時代から平安時代までの重要な遺跡が集中して見つかっており、各時代で物資や情報が集積する場所であったと考えられます。

▶︎天神沢遺跡

 地元の考古学研究者である竹島国基(くにもと)によって発見された遺跡です。竹島は昭和28年から精力的に遺物の採集を進め、稲作技術とともに伝わった大陸系磨製石器を含む弥生時代中期の石器を多量に採集しました。これら石器群には未製品も多く含まれることから、この遺跡は石器製作地で、周辺の集落だけでなく、仙台平野などの集落に石器を供給したと考えられます東北地方の弥生社会の交流を考える上で重要な遺跡です

▶︎八幡林遺跡

 平成25年に個人住宅建設に伴い発掘調査が実施され、古墳時代前期の建物跡から東北地方で初めてとなる船が描かれた土器が出土しました。土器には関東地方東部の特徴が見られることから、この時代にも海を通じて盛んな交流があったことがうかがわれます。

▶︎史跡・真野古墳群

古墳時代中期から後期になると、段丘上に100基以上の古墳から成る真野古墳群が現れます。昭和24年に土取工事に伴う緊急調査がなされたA地区20号墳では、埋葬施設から 刀飾りである金銅製双魚佩(そうぎょはい)が2点出土しました。金銅製双魚僻は全国でも奈良県藤ノ木古墳などの有力古墳から数例しか出土例がありません。A地区20号墳の被葬者が特別な有力者であったことを示すとともに、ヤマト王権との関わりや真野古墳群の被葬者像に迫ることができる資料です

 昭和23年に慶應義塾大学清水潤三教授を団長とする調査団により最初の発掘調査が行われ、翌24年に土取り工事によって埋葬主体部が発見されたため再調査が行われた。この調査時に金銅製双魚佩が出土している。現在は土取りや調査の残骸として僅かに高まりが窺えるのみで往時の姿は見る影もない。
20号墳は、前方部が西に向いており、全長は28.5m、後円部径16m、前方部前端長17mを測る。周溝はあるが明確ではない。埋葬主体部は礫郭で、平面は3m×3.5m、深さは1.3m、西側に羨道状の礫敷部が取り付く。
遺物は礫郭内から直刀、鉄剣、鉄鏃、馬具、金銅製双魚佩などの金属製品のほか、土師器の壺が出土している。玉川一郎氏によれば、この土師器壺は住社式に平行するものでで6世紀中頃の所産と推定している(6)。
金銅製双魚佩は2点出土しており(甲・乙)、甲は残存長23.1㎝、最大幅10.6㎝、乙は残存長21.3㎝、最大幅10.5㎝を測る。それぞれ腹側を 向かい合わせて上部で接するほか、胸鰭、腹鰭、尾鰭で接している。魚の部分は1枚の金銅板であるが、頭部には2枚の金銅板を合わせた半円状の金具が鋲で取 り付けられている。甲の残存する尾鰭の端部には小孔が開けられている。目の孔は甲が四角形、乙が円形に打ち抜かれており、大阪府羽曳野市峯ケ塚古墳例のようにガラス玉などが嵌められていた可能性が高い奈良県奈良市藤ノ木古墳の例では双魚佩から延びた帯が玉纏大刀に巻きついていたことから大刀の飾りとされており、本例も伴出したいずれかの直刀の飾りであったとも考えられる。
昭和58年に県指定重要文化財に指定されているが、表面に布片や撚り紐状の物質が付着していたことから袋に縫い付けてあったものと類推し、古代中国の「双魚袋」と同様のものとして指定時の名称は「金銅製双魚袋金具」となっている。ここでは旧来から呼び習わされている「金銅製双魚佩」を用いることとする。

▶︎大六天遺跡

奈良・平安時代になると、相馬地域には東日本最大級の製鉄遺跡群が出現します。蝦夷(えみし)との戦いのために行方(なめかた)軍団が設置され、律令国家の東北経営を支える地域として、重要な役割を果たしました。古墳時代中期から平安時代の集落跡である大六天遺跡では、軍団の次官名である「小毅(しょうき)」と刻まれた須恵器が出土しました。行方軍団の次官がこの地域に存在したことを実証するものです。真野古墳群周辺では東日本大震災以後、復興事業などに伴う数多くの発掘調査が実施されました。そこで得られた一つ一つの調査成果をこれら重要遺跡の資料と合わせ、東北地方の古代史を解き明かしていくことが期待されます。(川田 強)

行方団(なめかただん)は、7世紀から10世紀頃の日本で陸奥国に置かれた軍団の一つである。行方郡に置かれたと推定されるが、正確な位置は不明である。

▶︎非日常的な要素が目立つ縄文時代の遺跡

 浪江町は浜通り地域のほぼ中央に位置し、西半分が阿武隈高地東縁部の山地、東半分が丘陵・段丘・沖積地となっています。東半分で発達している河岸段丘は、山地から流れ出た請戸(うけど)川・高瀬川の両河川により形成されたもので、町内に分布する縄文時代の遺跡の多くは、それらの段丘上に立地しています。

 その一つである七社宮遺跡は、請戸川左岸の段丘上にあり、平成9年、縄文時代の動物祭祀に関する遺構や遺物が多数見つかり、注目を浴びました。

 調査区の北西角で一部を検出した動物祭祀遺構は、高さ20㎝ほどの方形マウンドの中央に双頭熊形石製品を据え、周辺に多数の礫や故意に破壊された石棒・石剣・石刀の破片、岩偶(がんぐう)脚部、鹿の骨などが配置されていました。マウンドが祭壇の役割を担い、その上で熊を中心とする動物祭祀が行われたと考えられています。

岩偶の用語解説 – 縄文時代の遺物の一つで,凝灰岩,砂岩などでつくられた石製の人形。土偶と同じように信仰と関係があるものと考えられている。

 このほか、焼けた動物の骨が入った土器が埋設された土坑群や、人面装飾が付いた特殊な注口土器も出土しました。

 遺構や遺物の内容に非日常的な要素が目立つことや、それらの量の多さに反し周囲では日常的な生活に伴う建物が1棟も見つかっていないことは、この遺跡の祭祀的な性格を物語っていると考えられます。              (池田 研)

▶︎ 受け継がれる近世の窯業技術

 大堀長井屋窯跡は、近世から近代初頭にかけて大堀相馬焼を生産した窯跡です。高瀬川左岸の阿武隈丘陵から太平洋側に延びた標高38〜40mの河岸段丘平坦面に築かれています。大堀相馬焼の窯跡としては、大熊町に所在する山神(やまかみ)窯跡に続く2例目の発掘調査事例で、大堀相馬焼の生産実態や変遷を解明する重要な遺跡です。

 大堀相馬焼は日用雑器を主休とする民窯で、その歴史は元禄年間(1688〜1704年)にさかのぼります。相馬藩士の半谷休閑(はんがいきゅうかん)と下男の左馬(さま)によって始められ、江戸時代後期から幕末にかけて大堀村と周辺の村々で100基を超える窯が操業しました。

堀長井屋窯跡からは、脚部が開放する形態のものを主体として、深山焼と類似する形態のものを含むIA.「四脚の桔梗台」38が多数出土している。報告書では桔梗台の出土は、文化後半から文政期の層以降にあたるとしている39。つまり大堀長井屋窯跡も19世紀のある時期から、単一の、もしくは主たる重ね積み用の窯道具として、成島系窯業同様に桔梗台を選択したとみられる。関根達人は、大堀相馬焼の桔梗台使用の開始を19世紀の中葉としているが、後進の成島系窯業の例から、大堀長井屋窯跡の報告書にあるように、19世紀の第二四半期には使用を開始している可能性は高いだろう。

 相馬藩は大堀相馬焼を保護・統制下に置き、普及と特産化、積極的な販路の拡大を図ったため、東北地方から江戸まで広い地域に製品が流通しました。明治維新後は自立した経営形態を確立して生産が続けられ、昭和53年に経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受け、技術技法の継承と後継者の確保育成に励んでいます。

 東日本大震災後、大堀相馬焼の生産地である大堀地区は一部を除き帰還困難区域となり、全ての窯元は避難を余儀なくされましたが、避難先でも各窯元が独自に経営を再開し、特有の文化が継承されています。(小泉博明)

▶︎寺院と港に伴う施設も検出

 郡山五番遺跡は、太平洋から直線で700㍍に位置する丘陵上に所在します。古くから布目瓦が出土していたことから、その性格を明らかにするため昭和52年から4回にわたり発掘調査を行いました。

 発掘調査の結果、規格性のある掘立柱建物10棟、竪穴建物20棟、溝などが見つかったほか、8種類の軒丸瓦、5種類の軒平瓦、須恵器、土師器(はじき)、円面硯(えんめんけん)、漆紙、塔の模型、馬具などが出土しました。

 また、郡山五番遺跡の南に隣接する堂ノ上(どうのうえ)遺跡では、昭和53年の発掘調査で寺院とみられる一辺9.5mの建物の基礎遺構が見つかりました。平成28年、中間貯蔵施設建設のため、遺跡範囲を特定するための試掘調査を行ったところ、直径30㎝の柱跡が複数見つかりました。大規模な建物は7世紀後半から8世紀のものと考えられ、古代の役所の存在をうかがわせます。

 このほか、郡山五番遺跡にほど近い細谷川河口付近の四郎田(しろうた)B遺跡からは礎石建物と掘立柱建物が見つかっています。津(港)に伴う施設と考えられ、郡衛に関連する可能性が考えられています。

 これらのことから、郡山五番遺跡と隣接する堂ノ上道跡を含めた地域は、奈良・平安時代の寺院と役所、すなわち陸奥国標葉郡衛域(むつのくにしねはぐんが)と推定されています。

▶︎須意器、円面硯、盛尾など出土

 陣場沢窯跡群は、郡山五番遺跡南西800㍍の丘陵上にあります。平成2年に双葉高校史学部の生徒が窯壁が付いたままの須恵器片を採集したことがきっかけとなり、その存在が明らかになりました。しかし、見つかった段階ですでに窯のほとんどが町道に削平されていたため、窯のたき口部分の存在が確認されただけにとどまりました。

 平成3年、開発に伴い2度の発掘調査を実施し、4基の窯跡が検出されました。窯跡は砂岩質の地山をトンネル状に掘り抜いて造られていました。もろい土質のため、1号窯跡では天井部分の崩落をスサ入り粘土(わらや草を混ぜた粘土)で補強し、再使用した痕跡も確認されました。

 各窯跡からは須恵器の甕、杯(つき)、蓋、高杯(たかつき)、円面硯や螢尾などの破片が出土しました。これらの出土遣物から、7世紀中頃から終わりにかけて窯が操業していたことが分かりました。また、円面硯や頻尾が生産されていたことから、郡待とみられる郡山五番遺跡や堂ノ上遺跡に製品を供給する官窯であったとの見方が有力です。

 このほか、窯跡の近くから木炭とともに円面硯と聾の口縁部が理納された土坑が見つかっています。これは、子供の誕生に係る胞衣(えな)儀礼の遺構ではないかと考えられています。(吉野高光)

▶︎遺跡の保存、遺物の救出続く 

 南沢遺跡は、阿武隈山地から伸びる丘陵の東端、太平洋岸から2キロ内陸に入った小入野(こいりの)川の右岸に立地しています。昭和50年代に行われた土地造成工事の際に多数の縄文土器が見つかり、昭和58年に確認調査が行われました。

 出土土器から、縄文時代前期から後期のおよそ2000年にわたって、縄文時代の人々の営みがあったことが分かりました。中期末から後期初頭の竪穴建物が複数見つかっており、中間貯蔵施設用地内では最大規模の縄文時代の遺跡です。「町立民俗伝承館」に保管されていた出土遺物は、震災後に文化財レスキュー事業によって救出され、「福島県文化財センター白河館」の仮設収蔵庫に保管されています。

 梨木平(なしぎだいら)遺跡は、小人野川を挟んで南沢遺跡の対岸の台地上に立地します。昭和35年ごろ、畑の耕作中に地元住民が美しい石器を発見しました。これは石槍(いしやり)という縄文時代前期の石器ですが、丁寧な作りから「押出(おんだし)型ポイント」とも呼ばれ、縄文人が特別に作った宝物ともいわれます。石材は良質の頁岩(けつがん)で、山形方面から持ち込まれた可能性があります。

頁岩・・粘土が固まってできた水成岩。板状でやわらかく、薄くてはがれやすい。泥板岩。

 梨木平遺跡では平成29年、施設建設に伴う工事立会時に奈良時代の竪穴建物2棟が見つかったため、記録を作成しました。また、遺跡の4割は現状のまま保存することができました。(成田 裕)

▶︎中間貯蔵施設と遺跡調査〜大熊町〜住民の帰還は貯蔵親始から30年後

 中間貯蔵施設とは、除梁による汚染土壌や廃棄物を最終処分までの間、安全かつ集中的に貯蔵する施設のことで、東京電力福島第一原子力発電所を取り囲む形で大熊町と双葉町に整備されることが決定しています。中間貯蔵施設予定地は総面積16平方キ。手元(東京ドーム340個分)に及び、このうち11平方キロ㍍が大熊町に属しています。平成30年10月、叢初の土壌分別施設が夫沢(おっとざわ)地区に完成し、汚染土壌の搬入が始まりました。

 大熊町では、いまだすべての住民が帰還していませんが、中間貯蔵施設地内に住民が帰還できるのは貯蔵開始から30年後、県外に最終処分場が完成し、土壌や廃棄物の処分が完了してからと想定されています。

▶︎中間貯蔵施設内の文化財の保存と継承

 中間貯蔵施設建設予定地内には、大熊町だけで25カ所の周知の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)があることが知られていました。環境省・福島県教育委員会・大熊町教育委員会は平成27年度から予定地内の遺跡確認調査を行い、新たに2カ所の遺跡を確認するとともに、綿密な試掘調査を行い、工事により失われてしまう遺跡では発掘調査を実施して記録を作成しました。このほか、有形・無形の文化財もたくさんあり、これらの文化財をどこまで救出し、記録を作成し、未来に伝えることができるかという課題に直面しています。

▶︎中間貯蔵施設の範囲と遺跡の分布

 大熊町の中間貯蔵施設予定地は11平方k㎡。その中に27カ所の遺跡がある。図は環境省の許可を受け、大熊町教育委員会で改変して作成。

▶︎梨木平遺跡の発掘調査

 奈良時代の竪穴建物の調査風景。調査にはヘルメットを着帽し、線量が高いため白い防護服、マスク、手袋を着用している。

▶︎陸奥国府多賀城に系譜を持つ瓦出土

 小浜代遺跡は海岸段丘上に立地し、昭和44〜46年、平成3〜6年、平成17年に発掘調査が実施されました。7〜9世紀の建物が検出されたほか、陸奥国府多賀城に系譜 を持つ重弁六菓蓮華文軒丸瓦(じゅうべんろくようれんげもんのきまるがわら)と重弧文軒平瓦(じゅうこもんのきひらがわら)が出土しました。

 『続日本紀』 によると、この地域は718年に陸奥国から分離した石城国にあたり、724年に再び陸奥国に編入されました。石城国内には10カ所の駅家(うまや)が設置され、通信や交通の役割を担いました。小浜代遺跡は石城国の北端に位置し、石城郡衙(ぐんが)に比定されている根岸遺跡から北に40キロ離れています。

 見つかった建物は4期に分かれます。1・2期は7世紀の複数の掘立柱建物群、3期は8世紀初頭からの多賀城系譜の瓦が葺(ふ)かれた瓦葺き基壇建物、4期は8世紀前半の礎石基壇建物です。1・2期と3・4期で遺跡の性格が大きく変化したと考えられ、『続日本紀』に記される陸奥国からの分離・再編が背景にあると推測されます

 また、須恵質の猿形土製品が出土しており、猿が厩(うまや)の守り神であるという後世の厩猿(うまやざる)信仰との関連が考えられるほか、金属器を模倣した須恵質鉢など寺院に関連する遣物も出土しています。

▶︎鉄鉱石によるたたら製鉄の工程判明  

 富岡町西部に位置する滝川製鉄遺跡は、幕末から明治にかけて操業された上手岡鉄山の製鉄場です。古代から砂鉄を主原料として行われてきた 「たたら製鉄」を、近代に原料を鉄鉱石に変え行っていました。

 上手岡鉄山は、1853年に南部藩の佐久間長左衛門(さくまちょうぎえもん)がこの地で製鉄を行ったことが始まりとされ、その後、経営者の交代や洋式高炉の導入、鉄鉱石の採掘のみを行うなど経営の形態を変えながら昭和30年代まで存続しました。

 発掘調査では、たたら製鉄を行うためのたかどの高殿建物を支える4間×4間 (7・2㍍四方)の主柱と9間×9間 (16・2㍍四方)の側柱を検出しました。建物内部では原料置き場や鍛冶炉、小舟様遺構を持つ石組みの地下構造などが、建物外部では富岡川から取水したとみられる溝が見つかりました。これらの遺構から、鉄鉱石を焙焼した後、水車動力で臼を動かして破砕し、ふるい分けを行って鉄鉱石の粒度をそろえるという工程を復元することができ、これは明治期に記された 『磐城物産誌』の上手岡鉄山の記述とも一致します。

 洋式高炉導入直前、鉄鉱石を原料とするたたら製鉄は数カ所が知られ、滝川製鉄遺跡はその工程のほぼ全容を明らかにした貴重な遺跡です。(三瓶秀文)

▶︎ 複式炉をもつ竪穴建物検出

 代(だい)遺跡は井出(いで)川右岸の太平洋に面した標高約25㍍の河岸段丘上に立地しています。平成13〜14年度に発掘調査が行われ、縄文時代中期を中心として竪穴建物13棟、埋設土器など数多くの遺構を検出し、大規模な集落であることが判明しました。

 特に注目されるのは、縄文時代中期の東北地方南部でよく見つかる、複式炉をもつ建物です。南方200㍍の位置に隣接するいでうえのはら井出上ノ原(いでうえのはら)遺跡でも同様の建物が見つかっており、何らかの関係が推測されます。

 

沢の北側は、製鉄が主に行われたエリアで、調査区内からは(1)で紹介したような砂鉄を溶かしたカスである鉄滓の捨て場が積み重なって見つかりました。出土した鉄滓は、重量にしておよそ30トンに上ります。

沢の南側では、東寄りにトンネル式の木炭窯が6基並んで作られていました。作られた木炭は砂鉄を溶かす燃料として遺跡内で利用されたと考えられます。西寄りには竪形炉という半地下式の製鉄炉が3基見つかりました。このうちの一つは深さ1mほどの穴のへりを利用した福島県では珍しい炉形でした。

また、南側の台地上では長方形箱形炉という別の形式の製鉄炉の跡が見つかっていますが、この炉は、そばに鉄の刀が置かれ、鉄滓で埋め戻されていました。炉を閉じる際に何かの儀式を行ったと考えられます。

このように、今まで製鉄遺跡が多数調査されてきた相双地域でも見られなかったような知見が得られた調査となりました。今後は調査の成果をまとめる作業を行い、平成28年度中には報告書として刊行される予定です。

 遺物は2万点以上の縄文土器のほか、磨製石斧(せきふ)、石匙(いしさじ)土偶などが出土しました。中でも、アワビを模したと考えられる異形土器は表現がリアルな点が特筆されます。浜通り地域の縄文時代を考える上でとても重要な遺跡です。

▶︎周溝から複合口緑壷が出土

 代遺跡の西方約1キロの同じ河岸段丘上に立地する合張(がっぱり)古墳は、一辺約15㍍、高さl.2㍍の方墳です。周清から複合口縁壷などが出土したことから古墳時代前期、4世紀頃の古墳と考えられています。墳丘には4カ所の柱穴が検出され、正方形の掘立柱建物が建てられていたとみられます。埋葬施設は検出されなかったものの、浜通り地域の前期古墳の一つとして貴重な発見です。(坂本和也)

▶︎狩猟のキャンプ地として利用

 柳町Ⅱ遺跡は、浜通り地域南部の海岸平置しています。東日本大震災の復興伴い発掘調査が実施され、縄文時代〜前期初頭の遺跡であることが分かりました。

 発掘調査では縄文時代の竪穴建物6棟、土坑6基、焼士遺構4基と、古代の掘立柱棟、溝状遺構2条を検出しました。

南相馬市駐在では、東日本大震災復旧・復興関係の市町村の埋蔵文化財保護事業への支援も行っています。4月から6月まで、広野町の駅東側整備事業に伴い1,300㎡の本発掘調査の支援を行いました。調査の結果、縄文時代早期後半から前期初め頃(約6,500~7,000年前)の集落跡であることがわかり、竪穴住居跡6軒、縄文土器、石器など数多く見つかりました。一般的な縄文時代早期の集落跡は山奥や丘陵上に多く見られますが、柳町II遺跡は海に近く、平坦な場所に営まれていること、盛んに石器作りが行われていることなどがわかる貴重な発見でした。6月20日(土)に現地説明会が行われ、約60名の参加がありました

  6基の土坑のうち2基は深さ約1・5㍍面に1本の杭跡が確認されたことかを狩るための落とし穴として利用されたと考えられます。出土遺物の大半を占める石器は、道具作りに使用した原材料で核や石を割った際に出た剥片が多く、製作を行ったと考えられます。

 一般的な縄文時代早期の集落は見晴らし高台に営まれますが、柳町Ⅱ遺跡はい比較的平坦な場所に立地している点が珍しい事例です。集落周辺は葦などが生い茂る湿地帯とみられ、小さな丘陵を選落がつくられたとみられます。安定した場所でないことから、定住した集落で、狩猟を行うための”キャンプ地″のような集落であったと考えられます。(郡司 環)