仏像再興

■旧桑原薬師堂仏像群修復工程

牧野隆夫

① 現地調査

 仏像修理は、安置現場での調査から始まる。各像の損傷状態、構造や技法、法量(大きさ)、修理履歴等を記録し、写真撮影を行う。それをもとに修理仕様、全体計画を立案し、費用見積もりを立てる。

 桑原薬師堂仏像群は、薬師如来坐像 (県指定文化財)、阿弥陀三尊像(国指定重要文化財)は修理を終えていたが、その他の像は、明治半ば (推定)に行われた最後の修理以降、破損が進んでいた。新たに県指定になった15体の像を対象に3〜4体ずつ、平成21年度から4ケ年かけて修理を行った。

 

 新たに発見された部材もあり、さらに1ケ年追加され、町指定文化財となっていた三体の像も合わせて修理した。27年度にも追加修理を実施している。

② 搬出

 像を安全に運ぶため、薄葉紙(うすようし)・紙座布団(かみざぶとん)などで梱包して運び出す作業である。寺院であれば、それに先立ち発遣法要(仏像・位牌・仏壇から命を抜く法要のことで、魂抜き、お性根抜きなどと呼ばれています)を行う。

 21、22、23年度は薬師堂から、24年度以降は新設された美術館から搬出した。24年度の搬出時、片付けた薬師堂から見つかったリンゴ箱と段ボール箱各一個が館内収蔵室に置かれており、確認すると、明治修理以降脱落した仏像部材が多数入っていた。それらを包んでいた新聞は昭和21年のものであり、前回修理後30〜40年経った時点で破損が進んでいたことがわかる。欠失していたと思われていた各像の手先等ほとんどすべてが保存されていた。

③ 修理前写真撮影・記録

 工房に運び込み、現状の記録を取る。全体と損傷部分の写真撮影を行い、図面を描き起こし、状態を描き込む。いずれの傷も、自立が不安定な状態で、現地では安全のために壁にテグス(ヤママユガ科に属する蛾の幼虫の絹糸腺から作ったテグス(天蚕糸)や、スガ糸(絹)などが使用された。)で縛り付けられていた。表面ほ著しく汚れ、前回修理で塗られた彩色の剥落が進んでいた。接合している部分はほとんどすべて外れかけており、亀裂が生じていた。なくなっている部分も多かった。写真は未神像。

④ 表面途膜の除去

 表面塗膜は像の姿を損なっている上、その下で、致命的な構造の傷みや虫喰い等が生じており、根本的な修理作業の障害になるため、前回修理の彩色や漆箔は取り除いた。

 過去の何度かの修理ごとに塗り重ねられており、それらを取り除くことで、修理で付け加えられた部分もはっきりわかることになる。写真は丑神像(十二夜叉大将、十二神明王(じゅうにやしゃたいしょう/しんみょうおう)ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神のうちの一体である)。向かって右半分が表面除去後

⑤ 解体作業

 ④と並行して像の解体作業を行う。各像とも構造上最低でも10数箇所で接合されており、古くなった鉄くぎの腐食にかわ接着剤(膠の劣化により崩壊寸前であり、ごく簡単に作業が進んだ。写真は午神像。 

⑥ 清掃(洗浄)

 汚れを掃除・洗浄する。外面だけでなく、内部に挨や虫が入り込み、ネズミの巣があることも珍しくない。本仏像群も過去にネズミにかじられ補修された形跡が各所で見られた。

⑦ 解体写真撮影

 解体し、清掃を終えた部材をすべて並べ記録写真を撮る。外見上同じように見える仏像でも、制作時の材料の制約や形の表現方法の違いにより、一つとして同じ構造のものはない。桑原薬師堂の十二神将像は、造られた時代が異なるもの、作者の違い、修理履歴などから、現状の構造はそれぞれ大きく異なり、その差異が興味深い。

 前傾姿勢を取っている子神像(写真1.2)は、側面から見ると顔面から胸部分に別の材料を足していることがよくわかる

 亥神像(写真3)は、両腕を除く体の中心部分を一木で彫り出し、「内到」を行うため制作途中で前後に割り(写真4) 内部をくり抜いている。どちらの像も頭部を体から割り外す技法「割首(わりくび)」(写真5)を行っている。子像では脚部も割り外し「割脚(わりあし)」としている(写百子)。頭も脚も割り外すことにより、作業効率が格段に向上する。平安時代後期から始まった、合理的な木彫技法の一つである。

過去の修理で使用されていたくぎの一部(右)左から江戸期修理の鉄くぎ(和釘)竹くぎ右二本は明治期修理の鉄くぎ

⑧ 木質強化

 虫喰いや腐朽は木材強度を著しく低下させるので、木質の強化を行う。虫噴いと腐朽は混同されがちであるが、状況が異なるので、修理手法は変える必要がある。

 腐朽には通常、透明度の高い合成樹脂(アクリル系)を染み込ませて強化する。昔の修理では、漆や膠下地等を用いて強化を試みた例を、修理の過程で見たことがある。写真(左)は合成樹脂による含浸。  

⑨ 部材補修

 解体状態のままの部材に必要な補修を行う。部材単位の方が作業しやすいので、小さな欠損箇所や虫穴の処理、埋め木等は組み立てる前に行う。写真(上右)は巳像の体幹部前面材の埋め木作業。

⑩ 新補作業

 失われた部分や不適当な過去の修理箇所を新しく補う作業である。通常、狂いの少ないヒノキ材を用いて造り足す。

 現在の文化財修理では、失われた箇所をそのままにしておく傾向が強い。本仏像群も構造的に不可欠な失われた箇所や不適当な修理箇所以外、補わない方針であった。資料性のみを重視したこの考え方は、「宗教的文化財」としての仏像に対しては、再考すべきであると考えている。24年度、新たに発見された部材を復することができたので、結果としてはよかったと言えるが。

⑪ 玉眼の補修 

 顔の一部として彫出した眼を「彫眼(ちょうがん)」という。それに対し、本仏像群の大半の目には、「玉眼」が使われていた。正式には、水晶をアーモンド程度の大きさのレンズ状に薄く削り、裏から瞳を描き、白い紙(または綿)で押さえたものである(写真下)。

 本例の毘沙門天像と十二神将像は、江戸期の修理で半割りにした水晶の数珠玉や板状の水晶片を便宜的に使用していた。各像がすべて当初から玉眼であったことを立証するのは難しく、後補修理の補修という位置付けで、全部新しく補った。

 玉眼押さえに反古紙が用いられている場合もある。卯神像では、江戸初期の住職や修理にあたった仏師についての情報を示す消息(手紙)の一部が使用されており(写真上左)、他の像には人馬を墨描きしたと思われる紙片も多数用いられていた

⑫ 組み立て

 部材の補修や玉眼の組み込みを終え、全体を組み立てる。

 複雑な彫刻形状がうまく連続するよう注意するが、時間の経過で木材が乾燥により収縮、変形していることも多く、また過去の修理で部分的に削り落とされ、形が合わない場合もある。内部に制作時の柄(ほぞ)を持っている場合は、組み立てが制約され、神経を使う作業となる。接合には、膠、合成樹脂接着剤、竹くぎ、ステンレスくぎ等を使い分ける。写真は戌神像。 

⑬ 修理銘札納入

 地蔵・観音各像内部からは、過去の修理銘札、納入品、像内に直接書かれた墨書等が発見された。

 写真上右地蔵菩薩の元禄8年(1695)の修理銘札と小地蔵像。写真上中は亥神像像内銘で「建治3年……」と読め、造像銘とすれば、鎌倉時代後半1277年の作となり、外観からの時代予測を大きく下ることになる。

 今回修理の記録としては、事後に報告書を作成するが、像とともにより確実に将来に残るものとして、修理年月日、施主、寄付者、修理著名等を記載した木札を像内に納入する。写真上左は、江戸期と今回の修理銘札を束ねて観音像の首穴から像内に納めているところ。

⑭ 矧(は)ぎ目処理

 組み立てた像の材と材に生じる隙間は、埋めて整える必要がある。通常この作業は、伝統的な素材である漆木屎(うるしこくそ)を使う(写真下右)。

 漆木屎は、精製した漆液(写真下左)に小麦粉(水錬りしたもの)を混ぜ、粘着力のある耐水性の接着剤「麦漆」を作り、その中に木粉(通常はのこぎり屑・くず)を混ぜ、よく錬って粘土状にしたものである。乾燥後ほ木材と同様に削ることが可能である。

⑮ 色合わせ(補彩)

 新補・補修箇所を周りと違和感のない色に整える作業である。時間の経過を感じさせ、歴史性を残すため、原則として元の部分に対して新しく色を塗り替えたり、彩色を復元することはしない。今回修理では、表面除去により現れた、江戸期修理時に施された漆下地の色(薄茶)に合わせて色調を整えた。周辺の状態により用いるものは変わるが、通常は錆漆(さびうるし・漆の下地)や、顔料を膠(にかわ・写真上右)で溶いた絵の具を使用する。写真は子神像頭部。

⑯ 修理後写真撮影・記録

 修理完了後、全体の完成写真、補修箇所などの部分写真を撮影する。作成した図面に修理箇所を描き込み、報告文と合わせ少部数の修理報告ファイルを作成、提出する。

 写真の寅神像は、過去の修理で右腕が下向きに付けられていた (写真右)。手先の向きや鎧の紋様の連続から、振り上げているのが明白であり、今回修理で元の形に戻した(写真左)。  

⑰ 搬 入

 完成後は、輸送中危険のないよう梱包し、搬入する。本事業は函南町の公共財産に対する修理なので、搬入時に町の管財課が完了検査を実施し、検査合格により作業完了となる。

 作業中、長年薬師堂の仏像群を維持要れてきた保存会の方々と、函南町関係草名が工房での作業を視察するため来訪し、理や各像の技法等について解説した。