■茨城の城郭
▶︎土浦城 土浦城所在:土浦市中央1丁目他
▶︎霞ケ浦西岸、桜川河口の三角州に築かれた土浦城
その姿が水に浮かぶ亀のように見えたことから亀城と呼ばれたと言うが、いわれははっきりしない。平安時代に平将門が築いたともいわれるが伝説と思われる。正確な築城時期は不明だが、鎌倉ないし室町時代になると桜川のつくる三角州に人が住み始め、その開発領主の館として土浦城の前身が築かれたと推定される。
▶︎永正13年(1516)菅谷氏→結城秀康→朽木氏→土屋氏→松平氏→明治4年(1871)
永享年間(1429−41)に岩泉三郎が築き、長禄3年(1459)から3年がかりで桜川の流路変更の大土木工事を完工したといわれるが疑問もある。この頃の土浦は信太庄の北端にあって小田氏領である南野庄と境を接していた。
永正13年(1516)、若泉氏は小田氏配下の菅谷氏に土浦城を奪われ、以後土浦は、小田氏の領土となった。しかし、弘治2年(1556)、佐竹氏に小田城を奪われた後の小田氏は木田余城(土浦市)と土浦城を反撃のための拠点としたが、城主菅谷氏も小田氏を支えきれず、天正11年(1583)に結局小田氏は佐竹氏の軍門に降った。そして戦国末期の天止18年(1590)、土浦城は徳川家廉に接収されその子結城秀康の所領となった。
土浦城の原形を築いたのは結城秀康といわれることも多いが、「結城検地」以外の城郭修築などについての記録は見つかっていない。ただ、江戸時代になり、慶長5年(1600)から松平氏、元和3年(1617)から西尾氏、慶安2年(1649)から朽木氏、寛文9年(1669)から土屋氏、天和2年(1682)から松平氏、貞享4年(1687)から明治4年(1871)の庵藩置県まで再び土屋氏と代々の城主によって城下町全体が整備されていったことは確かである。慶長9年(1604)松平信吉の時に水戸街道が整備され城下町の基礎が整えられ、元和6年(1620)から7年にかけて東西の櫓が、明暦2年(1656)には、朽木植網によって時を知らせる太鼓が置かれた櫓門(太鼓櫓、県指定火跡)が建てられた。江戸時代には政治も安定し、城の性格も砦から政治の中心地へと変わり、土浦城も藩主の居城、藩の役所として機能することになった。
松平家(藤井) 2代 19年 3万5千石
西尾家 2代 30年 2万石
朽木家 2代 18年 3万石
土屋家 2代 13年 4万5千石
松平家(大河内) 1代 5年 5万3千石
土屋家 10代 180年 6万5千石→9万5千石
本丸aと二の丸bの大半は県指定史跡で現在亀城公園となっており、堀・土塁・土橋の他、櫓門c・霞門d・旧前川口門(移築)eが残る。本丸土塁上には西櫓f・東櫓gが復元されている。2004年には櫓門と東櫓の間の十塁上に土塀も復元された。注意しなければならないのは、公園内の堀・土塁遺構は過去の公園整備の段階でかなりの改変を受けていることである。
例えば二の丸西側の土塁は現在はほぼ直線的であるが、江戸時代の古絵図によれば鋸状の横失がかかったいわゆる「屏風析⊥であった。櫓門脇の石垣、本丸土塁の堀際の石積みなども旧状を留めているとは言い難い。二本丸・二の丸の周囲には堀・土塁で区画された複数の郭(くるわ・城のかこい)があった二市街地となった現在ではほとんどの土塁は崩され堀は埋められているが、堀跡が道路や暗渠(あんきょ・地下に設けた水路)となっている部分も多く、ある程度は旧状を偲ぶことができる。
このように大きく改変を受けている土浦城の中にあって貴重な残存遺構として土塁が3か所に残されている。
1つ目は旧南門kの南東、東光寺境内の墓地の南東隅のわずかな土壇hがそれであり土浦市指定文化財になっている。
2つ目は旧西門mの北東、神龍寺境内の墓地の中にある140mほどの直線の土塁iとその北東端からわずかに良好に残る浄真寺西側の土塁分離したもう一つの土塁である。
3つ目は浄真寺西禄の80mほどの幅広の土塁jである。土浦城は南門k・北門β・西門mに馬出(うまだし・虎口(城の戦闘用出入口)の外側に曲輪を築いて防御力を高めたもの)を備えていた。南門kは角馬出、北門ゼは丸馬出を2つ重ねたいわゆる重ね馬出、西門mは変則的な丸馬山であった。高出徹氏によると全国の近世城郭では外郭部に桝形虎口を備える事例や内郭部に馬出を備える事例はあるが、土浦城のように外郭部に馬出を備えた例は皆無だという(「土浦城の構造」)。