茨城の城郭

■茨城の城郭

(改訂版)「日本城郭大系<第4巻>」「茨城圏内には750か所を越える中近世城郭がある。

 地域性や歴史的意義、遺構の残り具合を要件に、約140城を選び、図と解説文で紹介」特に大き目で見やすい縄張図。

 茨城に関しては、守谷城、真壁城、筒戸城、久下田城、大生郷城、逆井城、大宝城、結城城、下妻城、土浦城、牛久城など。

▶︎土浦城  土浦城所在:土浦市中央1丁目他

▶︎霞ケ浦西岸、桜川河口の三角州に築かれた土浦城 

 その姿が水に浮かぶ亀のように見えたことから亀城と呼ばれたと言うが、いわれははっきりしない。平安時代に平将門が築いたともいわれるが伝説と思われる。正確な築城時期は不明だが、鎌倉ないし室町時代になると桜川のつくる三角州に人が住み始め、その開発領主の館として土浦城の前身が築かれたと推定される。

 ▶︎永正13年(1516)菅谷氏→結城秀康→朽木氏→土屋氏→松平氏→明治4年(1871)

 永享年間(1429−41)に岩泉三郎が築き、長禄3年(1459)から3年がかりで桜川の流路変更の大土木工事を完工したといわれるが疑問もある。この頃の土浦は信太庄の北端にあって小田氏領である南野庄と境を接していた。 

 永正13年(1516)、若泉氏は小田氏配下の菅谷氏に土浦城を奪われ、以後土浦は、小田氏の領土となった。しかし、弘治2年(1556)、佐竹氏に小田城を奪われた後の小田氏は木田余城(土浦市)と土浦城を反撃のための拠点としたが、城主菅谷氏も小田氏を支えきれず、天正11年(1583)に結局小田氏は佐竹氏の軍門に降った。そして戦国末期の天止18年(1590)、土浦城は徳川家廉に接収されその子結城秀康の所領となった。

 土浦城の原形を築いたのは結城秀康といわれることも多いが、「結城検地」以外の城郭修築などについての記録は見つかっていない。ただ、江戸時代になり、慶長5年(1600)から松平氏、元和3年(1617)から西尾氏、慶安2年(1649)から朽木氏寛文9年(1669)から土屋氏、天和2年(1682)から松平氏、貞享4年(1687)から明治4年(1871)の庵藩置県まで再び土屋氏と代々の城主によって城下町全体が整備されていったことは確かである。慶長9年(1604)松平信吉の時水戸街道が整備され城下町の基礎が整えられ、元和6年(1620)から7年にかけて東西の櫓が、明暦2年(1656)には、朽木植網によって時を知らせる太鼓が置かれた櫓門(太鼓櫓、県指定火跡)が建てられた。江戸時代には政治も安定し、城の性格も砦から政治の中心地へと変わり、土浦城も藩主の居城、藩の役所として機能することになった。

 以下の中小の大名が出入りし明治維新を迎えます。
しかし笠間に比べ在任期間は長かった為、各大名も本腰を入れ、土浦城と城下は徐々に近世城郭へと生まれ変わって行った様です。
松平家(藤井)    2代  19年  3万5千石
西尾家        2代  30年  2万石
朽木家        2代  18年  3万石
土屋家        2代  13年  4万5千石
松平家(大河内)   1代   5年  5万3千石
土屋家     10代 180年  6万5千石→9万5千石

 本丸aと二の丸bの大半は県指定史跡で現在亀城公園となっており、堀・土塁・土橋の他、櫓門c・霞門d・旧前川口門(移築)eが残る。本丸土塁上には西櫓f・東櫓gが復元されている。2004年には櫓門と東櫓の間の十塁上に土塀も復元された。注意しなければならないのは、公園内の堀・土塁遺構は過去の公園整備の段階でかなりの改変を受けていることである。

 例えば二の丸西側の土塁は現在はほぼ直線的であるが、江戸時代の古絵図によれば鋸状の横失がかかったいわゆる「屏風析⊥であった。櫓門脇の石垣、本丸土塁の堀際の石積みなども旧状を留めているとは言い難い。二本丸・二の丸の周囲には堀・土塁で区画された複数の郭(くるわ・城のかこい)があった二市街地となった現在ではほとんどの土塁は崩され堀は埋められているが、堀跡が道路や暗渠(あんきょ・地下に設けた水路)となっている部分も多く、ある程度は旧状を偲ぶことができる。

 このように大きく改変を受けている土浦城の中にあって貴重な残存遺構として土塁が3か所に残されている。

 1つ目は旧南門kの南東、東光寺境内の墓地の南東隅のわずかな土壇hがそれであり土浦市指定文化財になっている。

 2つ目は旧西門mの北東、神龍寺境内の墓地の中にある140mほどの直線の土塁iとその北東端からわずかに良好に残る浄真寺西側の土塁分離したもう一つの土塁である。

3つ目は浄真寺西禄の80mほどの幅広の土塁jである。土浦城は南門k・北門β・西門mに馬出(うまだし・虎口(城の戦闘用出入口)の外側に曲輪を築いて防御力を高めたもの)を備えていた。南門kは角馬出、北門ゼは丸馬出を2つ重ねたいわゆる重ね馬出、西門mは変則的な丸馬山であった。高出徹氏によると全国の近世城郭では外郭部に桝形虎口を備える事例や内郭部に馬出を備える事例はあるが、土浦城のように外郭部に馬出を備えた例は皆無だという(「土浦城の構造」)。

 これについては、2010年に行われた「沼津山本家文書」の調査の過程で、このわが国城郭史上で特異的な馬出の普請は、貞享2年(1684)に城主松平信輿の元で山本菅助晴方(4代目)が、初代菅助が編み出したとされる「山本勘助流域取」を採用して行ったことが判明した。

 以上、近世の土浦城について述べたが、中世の土浦城はどこにあったのであろうか。その場所としては亀城公園付近説と中城付近(n)説が比較的よく知られているが、ここでは立田付近説を紹介する。

 「常州土浦城図正保2年(1645))などの古絵図を見ると、土浦城周囲はほぼ全て深田だが、後に立田郭となる辺り(現土浦二高正門付近(0))だけは田畑と記載されている。立田郭の整備が始まる前の近世初期の時点ですでに周囲よりも地盤が固く標高も高かったようで、弾正畑(弾正塚)の伝承もあることから、中世に城館があった可能性も考えられる。土浦周辺は市街地となって久しく遺構の残存程度はけっしてよくないが、下に掲載した遺構推定図を手に城下町を散策し水都土浦の繁栄を偲んでいただけたらと思う。

*参考「土浦市史別巻土浦歴史地図」「土浦古地図の散歩道」、「史跡土浦城跡Ⅱ」(土浦市立博物館紀要 第15号 「「山本菅助」の実像を探る」2013

土浦城縄張復元図(作図:西山洋、『土浦市史別巻土浦歴史地図」の明治4年・6年の図を参考にして「土浦市都市計画図」へ重ねて表示した)

▶︎牛久城 牛久城所在:牛久市城中町字城中、根古屋

 牛久城は岡見氏の居城(きょじょう・その人がふだん住んでいる城)である。小田一族とされる岡見は最初は岡見城にいたといわれるが、天文年間(1532−55)に牛久城を築いてこの地に移ってきたというこ城は牛久沼に臨む比高15mほどの台地上に位置しており、城址には深い堀や土塁、土橋などがよく残っている。

 岡見氏はもとは小田氏に属しており、永禄年間(1558−70)の「小田味方の地利覚書」という史料には、岡見氏の城の筆頭として「うしょく」(牛久)の字が見えており、この頃までには岡見氏の拠点となっていた。天正10年(1582 )代に入ると、北からの佐竹氏多賀谷氏の攻勢が次第に強まってきており、小田氏も勢力を失っていった。

 そのため牛久城の岡見冶広は、北条氏に援助を求め、それを実現するために、小田原へ3人の人質を差し出している。だが岡見氏単独で多賀谷氏と対抗することは不可能であり、それを補うために北条氏は、北総周辺の諸将を牛久城に交代で詰めさせ、兵を駐屯させるようになる。これがいわゆる「牛久番」である。(コラム:北条氏の北進と牛久番」参照しかし天正18年(1590)、小田原の役が起こると、北条氏の滅亡とともに岡見氏も没落した。その後は、由良氏支配、天領(天領は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称)の時代を経山口氏が当地の領主となり、山口氏の陣屋支配が明治維新まで続いていくこととなる。

 城は外郭部分まで含めると、実に広大なものである‥中心となる曲輪Ⅰ、Ⅱの北側には馬出と思われる細長い郭Aがあり、その北側に角馬出があったことが古図により知られる。しかし、城の遺構はこの中心部分だけにとどまらず、同辺台地の要所要所には堀切や横堀が掘られている。地勢が穏やかに低くなっている部分には横堀を設置したり、あるいは切岸加工を施すといった具合に丁寧な工事が見られる。このように牛久城は台地全体を城域として取り込んだ大規模な城郭であった。こうした広大な外郭部分を有している理由としては2つのことが考えられる。

○ 1つは、牛久城が軍事的境界点に位置しており、牛久番衆が交代で在番していたことからも想像できるように、かなり大規模な兵力の駐屯基地となっていたのではないかということであり、

○ もう1つは、軍事的緊張の中で城下集落を守るために、台地基部を分断することによって台地全体を要塞化することを意図していたのではないかということである。あるいは、この両方の理由からであるのかもしれないが、牛久城のすぐ何列に隣接する東林寺城もやはり広大な城郭であり、これらの城郭の規模が意味するところは、両城の機能を合わせて考えるべきであろう。

▶︎東林寺城 所在:牛久市新地町

 牛久城の西隣にあり、束林寺の背後の比高10m余りの台地上に築かれているこの台地は南側に向かって長く突きだしているもので、かつては両側には牛久沼が深く入り込んでいた。沼を挟んですぐ西側の岬には多賀谷氏が築いた八崎城<つくば市〉があった。「小田味方の地利覚書」には岡見氏の城として「とうりんじ」の名が見えており(城主は近藤治部・こんとうちふ)、永禄期頃にはすでに岡見氏の有力支城として存在していた。

 また、永禄7年(1564)2月9日には、小茎東林寺において越関の軍勢の乱暴狼藉を禁じた「河田長親制札」が出されており、小田城の攻撃に際して、上杉軍は東林寺近辺を陣所としていた。この城もとにかく広い。すぐ近くには広大な牛久城があるのに、どうしてこれほどの城が必要だったのであろうか。それほど多数の兵の数がいたとも思えず不思議ではあるが、これには「牛久番」が関係していると思われる。 現在、牛久番の将兵が実際にどの場所に詰めていたのかを確認できる史料はないが、東林寺城のすぐ西の対岸には多賀谷氏が築いた八崎(泊崎)城があi)、東林寺城が牛久城よりもさらに前線にあること、探さ10mほどもある大きな堀によって台地を掘切るという大工事を施し、区画された郭が非常に広大で兵站基地(へいたん・戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの)にふさわしい規模を備えている、といった点からすると、この城こそが牛久番で用いられていた城であるという見方もあろう。「野口豊前戦功覚書」には東林寺城での戦いについての記述が見られ、実際にここで多賀谷氏との合戦も行われていた二束林寺城の構造は、たびたび牛久番を勤めた井田因幡守居城坂田城(千葉県横芝光町)と類似している。このことも示唆的である、といえる。

東林寺城概念図(作図:余湖浩一、『牛久市史原始古代中世』を参考にした)

▶︎北条氏の北進と牛久

 永禄年間(1558−70)には上杉謙信の関東侵攻によって一時は押されつつあった北条氏であったが、元亀年間(1570−73)に入り、謙信との間に和凱Ⅶ立すると、再び北進を開始するようになる。天正2年(1574)には関宿合戦で勝利を収め、さらに下野に侵攻、小山氏の祇園城を攻臥これ以降、北条氏は常陸侵攻に向けて積極的に活動を始めていくのである。

 常陸南部の小領主たちは、おりしも南下政策を進めていた常陸北部の佐竹氏と、北進を開始した北条氏との間で、どちらに付き、どう生き延びていけばよいのか、その判断は悩ましい問題であった。かつては小田氏の影響下にあった江戸崎の土岐氏・牛久の岡見氏、さらには相馬地域の豊島氏、相馬氏らは、北条の大軍を直接目にするようになると、とても対抗することはできず、北条氏に従うようになる。

 一方佐竹氏は小田氏と和睦し、常陸南部にもじわじわと勢力を広げつつあった。こうした状況によって、岡見氏、土岐氏らが北条方の最前線として、佐竹勢力と対峙するようになるのは必然であった。天正10年代(1582〜)佐竹氏に加担した下妻の多賀谷田氏岡見氏に対して圧力を加えてくる。多賀谷氏は岡見氏の持ち城であった谷田部城(つくば市)を攻め落とし、さらに岡見氏の2大拠点であつた牛久城と足高城の間に八崎城(つくば市)を築き、分断を図った

 これに危機感を抱いた北条氏は、岡見氏のために援軍を派遣した。こうして茨城県南部地域は北条勢力と佐竹勢力という2つの勢力による交戦地帯となっていった。このような状況の下で常陸南部の城館も急速に発達を遂げていく。史料の上からはこの頃「牛久番」というものが置かれ、北総周辺の領主であった高城(干葉県松戸市)、豊島(利根町)、井田(干葉県横芝光町)、国分(干葉県香取市)といった武将たちが在番していた様子を伺うことができる。

 岡見氏を援護するために、牛久城に北条配下の武将たちを交替で在番させる、これが牛久番であつた。こうして最前線にあり、在番衆を駐屯させる必要があった牛久城は、巨大な外郭部を備えた城郭として成長を遂げていった。これと同様に、北条氏が関連して巨大城郭として成長したと考えられている城には、美浦村の木原城などもある。木原城は霞ケ浦を挟んで、佐竹勢力に向かい合う最前線の城であった。こうした両勢力による緊張状態は、天正18年(1590)小田原の役によって北条氏が滅亡するまで続いていくのである。(余湖浩一)

▶︎岡見城館群 所在:牛久市岡見町字城山

 国道408号線の「岡見」の信号から南西に進むと、道が降っていくので、その辺りが台地の縁辺であることが分かる。この台地緑部に沿って岡見氏に関連したと思われる城館がいくつか並立している。

 最も北西側にあるのが本殿と呼ばれている方形に近い形の単郭の城館で、70×80mほどの規模がある。台地の先端部に位置し、崖に面した三方向には腰曲輪、台地続きの部分は土塁を高く盛り上げ、堀を二重にして防御を固めていた。

 この城の入口に「岡見城」の碑が建っている。溜池を挟んで東側の台地上にも周囲に土塁を巡らせた城館がある。こちらが西殿という場所である。「天保古図」(「土浦市備考・第三卷」所収)ではここも「古城」となっており、60×80mほどの長方形の郭であるが、所々土塁が分断されているこ本殿・西殿の2つはどちらも、古い時代の居館(きょかん)というイメージである。そういう意味では、岡見氏の発祥の場所であるという伝承と矛盾しない。

 県道を挟んでこの東南側に八幡山があるこ ここにはAの豪快な切り通し虎口が間口しているこまた幅広の土塁や腰曲輪、犬走りなど、城郭的構造物らしきものがいくつも見られる。しかし、北東の台地基部の方にはたいして遺構らしきものはない。また、この部分は天保年間の絵図でも古城と書かれていない。大竹房雄氏の教示によれば、八幡山については「城として認識されるまでに至らなかった、戦国末期の未完成の城ではないか」という。

 さらに東南側には南殿のある台地がある。ここには天保絵図で「古城有」と描かれているが、微妙な凸凹こそあれ、はっきりとした城郭遺構は見られない。城郭遺構が見られるのは、この台地の東南の端の部分である。ここには台地基部との間に堀を入れた1つの曲輪が存在している。堀・土塁の規模はさほど大きくはないが、形態はしっかり分かる。ただ、堀は掘られているものの、部内はほとんど削平されておらず自然地形のままである。物見台ではないかといわれるが、直径80mほどと、けっこう大きく、東南方向を押さえるための砦として構築されたものと見てよいであろう。

 さて、これらの城郭群をどのように理解すべきか。本殿、西殿は、岡見氏が牛久城などの本格的な城館を築く以前の簡素な城館と考えてよかろう。東南側の物見台と目されている部分も、ある時期に砦として急造されたものであろうこ 問題なのは中央の八幡山南端の「城郭的遺構」である。この大規模な切り通し部分は、一見すると確かに城の虎口のように見えるのであるが、並列する他の城館と比べると、この部分だけがあまりにも異質なもので、全体のバランスを欠いている。腰曲輪や土塁も明確に城郭遺構として確定できるほどのものではない。また、台地基部に当たる北側には何の防衛遺構も見られない。現時点では、八幡山の遺構については、「城郭遺構のようではあるが、断定するまでには至らない」といったところである。今後の調査を待ちたい。現在、八幡山と南殿との間のi尺にはバイパスが建設中である。この工事によつて、城址周辺は今後さらに変貌していくことであろう。(余湖浩一) 

▶︎小坂城(おざかじょう) 所在:牛久市小坂町字愛宕山

 小坂城は、さほど大規模な城郭ではないが、北に鎌倉街道が通る交通の要衝に位置し、また、横矢(側面や背後から攻撃すること)折れを利かせた城塁などの遺構をよく残している。城の歴史、城主等については不明なことが多いが、岡見徴男氏所蔵「岡見系図」には岡見弾正忠治資の項に「常陸国河内郡牛久城築て居る、一説に初は同国小坂城に居るとも見へたり。」とある。牛久城に移る前の岡見氏の本城であったとする(ただし、あくまでも「一説に」である)。「岡見民本知行等覚書写」によると、隣接する「島田」「正直」が岡見氏領となっているので、小坂の地も岡見氏領であったと考えられ、岡見氏が、土岐氏との国境付近を監視するために築いた城だったのではないかと一応の推定ができる。付近には下小池城福田城(阿見町)、久野城泉城(龍ヶ崎市)など土岐氏に関連した城郭が多くあり、これらの城と対峠していたのであろう。

 小野川を挟んで東岸の泉城に伝わる伝承によると、泉城主の東条英重は、小田氏治と小坂村で戦って戦死したという。これが史実とすゴtば、小坂城はこの合戦に関係していたということも考えられる。国道に削られた先端の曲輪Ⅰが主部である。

その周囲は土塁と堀に囲まれていた。小坂城発掘時の測量図を見ると、削られた部分にも横堀が巡らされていたようである。特徴的なのは曲輪Ⅱ側に張りだした大きな櫓台で、北側に向かってにらみを利かせていた。曲輪Ⅰを囲むように曲輪(くるわ)Ⅱがあり、その先に曲輪Ⅲがある。曲輪Ⅲは巨大な馬出形状の曲輪で、その東側に補助的な曲輪Ⅳがある。ⅡやⅢの城塁には、ダイナミックに横矢を利かせた折れが認められ、この地域ではかなり技巧的な城郭の部類に属するといえよう。これらの特徴から、北条氏の関与を指摘する意見もある。

 ただし、岡見氏が北条氏に属した時期には、土岐氏も北条氏に属しており、その時期には両者の間での軍事的緊張は存在していなかったであろう。なお、発掘時には生活感のある遺物はあまり出ておらず、砦的な性格であった可能性が高いとしている。

 地元に伝わる昔話として「小坂城の笄松(こうがいまつ)」の話がある。昔々、小坂城に女中として働いていた「きく」という若い娘がいたこある日、きくがいつものように水を汲みに出ると、遠くに煙が上がっているのが見えたこそれは敵が兵糧を炊いている煙だったこ きくがそのことを殿様に注進すると、殿様は急いで家来たちを集めて備えを立て、そのおかげで敵の攻撃から城を守りぬくことができたというここの攻城戟の後、きくは殿様からほめらjt、褒美として美しい弄(くしのようなもの)をもらった=それは毀様からの拝領品でとてもとても大事なものであったこ ところがある日、きくは洗濯をしているときにあやまって、この弄を井戸に落としてしまう二 役懐からもらった大事なものをなくしたと分かったら、どんな罰を受汁るかもしれない。

 そのことに悲観したきくは、井戸に身を投げてしまったこその後、きくを偲んで、井戸の陽に′トさな松が植えられたこ その松はすくすく育ち、何年かたつと弄のような形になっていったこ それを見る人はみな「ごらん、あれはきくの魂が乗り移ったものだよ」とうわさするようになったという。

 やがて、小坂城は廃城になったが、井戸は変わらず水をたたえ、松も以前のままで残っているというこ しかし、現在、この井戸も松も分からなくなってしまっている= すでに失われてしまったものであろうか二 井戸も松も、小坂城の歴史とともに、過去の閤の中に消え去って行ってしまったのである。(余湖浩一)