古墳時代後期・飛鳥時代

「古の日本(倭)の歴史」https://www.yasutarofujita.com/ (平成31年1月14日公表)を情報の組織化という形で個人的に編集したものであり、その著者の藤田泰太郎氏はこの編集作業に一切関与していない。■古墳時代後期・飛鳥時代

藤田 泰太郎

1.古墳時代後期(6世紀、継体天皇~崇峻天皇)

 継体天皇(けいたいてんのう、450年?〈允恭天皇39年〉 – 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)は応神天皇の5世孫であり、父は彦主人王(ひこうしのおう/ひこうしのおおきみ、生没年不詳)である。近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向で育てられて、男大迹王(をほどのおおきみ)として5世紀末の越前地方を統治していた。

 506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人らが協議して、越前にいた男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心中疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかい,あら)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめてから即位の決心をした。

 翌年、河内国樟葉宮(かわうちのくすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。継体は、即位19年後の526年、ようやく大倭(おおやまと・後の大和国)に都を定めることができた。(百済本記を基にして継体紀から年号が定まる。また、継体天皇は直接に以降の皇統に繋がることが確認されている。)

 継体天皇6年(512年)、大伴金村は、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの要求を入れて任那4県を割譲し、百済と結んで高句麗、新羅に対抗しようとしたが、かえって任那の離反、新羅の侵攻を招いた。527年、ヤマト王権の近江毛野6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、筑紫の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。磐井は挙兵し、火の国(「肥の国」ともいう。現在の長崎、佐賀、熊本の3県を含む地域)と豊の国(豊前国と豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を阻んで交戦した

 継体天皇大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、麁鹿火が将軍に任命された。528年磐井軍麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。その後531年、継体天皇は皇子(安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御した。

 『百済本記』では、天皇と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。継体陵とされる今城塚古墳からの出土と思われる阿蘇ピンク石(当時石棺に使用)が発されている。

 大伴金村は、安閑、宣化、欽明天皇の時代にも大連として権勢を保ち屯倉(みやけ・ヤマト王権の支配制度の一つの設置)などに励んだ。しかし、欽明天皇の代に入ると天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭し、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿(もののべ の おこしなどから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退した。

 雄略朝以来、倭は百済と同盟関係にあり、高句麗の南下と高句麗の影響を受けた新羅の侵攻に対抗してきた。512年倭国は任那4県を百済に割譲した。また、513年百済より五経博士が渡来538年百済の聖名王により仏教が公伝した。古墳石室も竪穴式石室に代わって、朝鮮風の横穴式石室が主流となった。

 554年聖名王が新羅で戦死する。そしてついに、562年には任那が新羅によって滅亡させられる。かくして、古来(縄文時代前期)より維持してきた南韓の倭国の領土をすべて失うことになる。このことは、任那・伊都国連合の出自と思われる崇神・応神天皇を掲げる皇統にとり由々しき事態であり、ヤマト王権は、任那滅亡以来、度々任那の回復を図るがことごとく失敗した。

 6世紀半ばに大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対(排仏)派物部尾輿と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫ともいわれる蘇我稲目が争った(崇仏論争)。

 552年、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇(29代)は「これほど素晴らしい教えを聞いたことはない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神の祟りを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てたという。

 第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立し、仏像を祀っていたが、疫病が流行したため、尾輿の息子にあたる守屋が敏達天皇(30代)に仏教受容をとりやめるよう進言馬子の建てた寺に火をつけ、仏像を流し捨てる

 用明天皇(31代)即位後両氏は仏教を巡って対立するが、やがて諸豪族を率いた馬子が守屋を討ち滅ぼし(衣摺の戦い)、寺院の建立も盛んに行われるようになった。これ以後、邪馬台国以来権力を振るった。物部氏も権勢に陰りがみられるようになり、蘇我氏の全盛が始まる

 戦い後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇・すしゅんてんのう・32代)。この間、581年には、中国は文帝により長い分裂の時代を終えて再び統一され、国号を隋とし中央集権体制をひいた。崇峻天皇は傀儡で政治の実権は馬子が持ち、これに不満な天皇は馬子と対立した。592年馬子東漢駒崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇・33代)。天皇家史上初の女帝である。

​▶︎飛鳥時代(6世紀末~8世紀初頭、推古天皇~元明天皇)

聖徳太子(しょうとくたいし、574年2月7日〈敏達天皇3年1月1日〉- 622年4月8日〈推古天皇30年2月22日〉)または厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第2皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は、後世の尊称ないし諡号である

 推古天皇を中心とした三頭政治(聖徳太子(厩戸皇子)は皇太子となり、蘇我馬子と共に天皇を補佐)が始まり、天皇を中心とした中央集権体制を目指した593年、太子は四天王寺を建立する。


</3>

594年仏教興隆の詔を発した。595年高句麗の僧慧慈が渡来した。馬子は日本最初の本格的な伽藍配置をもつ飛鳥寺を建立する。

慧慈(えじ、? – 推古天皇31年2月22日(623年3月31日))は、飛鳥時代に高句麗から渡来した僧。 推古天皇3年(595年)に渡来し、厩戸皇子の仏教の師となった。 仏教を日本に広め、推古天皇4年(596年)法興寺(蘇我善德が寺司、現在の飛鳥寺安居院)が完成すると百済の僧慧聡と住し、ともに三宝の棟梁と称された

 598年、隋が高句麗に侵攻600年、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。601年、太子は斑鳩宮を造営した。602年、再び新羅征討の軍を起こした。

斑鳩宮(いかるがのみや)は、厩戸皇子(聖徳太子)が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿。 日本書紀によると厩戸皇子は、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだ。 また、皇子の手により、斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍群(法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺)が建立された。

 同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、来目皇子の死去のため、遠征は中止となった。603年冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であった。604年、十七条憲法を制定した。

来目皇子(くめのみこ 生没年 : ?~603)・・・用明天皇を父とする。聖徳太子の同母弟。推古10(602)年、新羅遠征の将軍となり、二万五千の軍勢を率いて筑紫の島郡に行き、そこで船舶を集め出征の準備をした。しかし、来目皇子は推古10(602)年に病に倒れ、翌年筑紫で没した。周防の裟婆(さば)で殯(もがり)が行われ、山口県防府市の桑山の山頂には殯(もがり)のあとにつくられたとされる塔ノ尾古遺跡が残されている。 久米寺は、推古天皇の眼病全快を感謝して来目皇子が建立したと伝わる。

 607年、小野妹子と鞍作福利を使者とし随に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。607年、太子は法隆寺を建立する。

鞍作 福利(くらつくり の ふくり、生没年不詳)は、飛鳥時代の通事(通訳)である。姓は村主。鞍作止利の子とする系図がある

裴世清(はいせいせい、生没年不詳)は、6世紀後半- 7世紀前半の中国隋代・唐代の官吏。 隋の煬帝による命令で俀國(倭国)を訪れた使者として名が知られている。

 612年隋の煬帝、高句麗に遠征するも敗退。

 618年李淵が隋の煬帝を殺害し、唐を建国

 620年、太子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。

 622年、太子は斑鳩宮で倒れ、そのまま逝去。皇極の御代になると、蘇我氏の専横が目立つようになる。蘇我蝦夷は入鹿を勝手に大臣にする

 642年、百済が新羅の諸城を攻める。

 643年新羅が唐に援軍を請う。同年、入鹿は蘇我氏と対立してきた聖徳太子の子、山背大兄王を斑鳩に襲撃したは、自分の挙兵によって戦が起き、人々が死ぬのは忍びないとして、自害。この事件により蘇我氏の権勢はますます高まり、蝦夷の横暴と若い入鹿の強硬な政治姿勢に次第に朝廷の中で孤立を深めていった。

 645年、中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する(乙巳の変)。蘇我蝦夷は自殺し、蘇我本家が滅亡。

 翌646年中大兄皇子は難波の宮で改新の詔を宣する(大化の改新)。 薄葬令、品部廃止の詔が出される。646年、冠位19階を制定する

 653年、遣唐使を送る。中大兄皇子、幸徳らを難波宮に残し、飛鳥に移る

 658年、唐が高句麗へ派兵

 660年唐・新羅が百済を滅ぼす

 661年、中大兄皇子が称制す。

 663年、百済復興を目指新羅軍を撃破すべく2万7千の軍を派遣するも、唐軍に白村江の戦で大敗する(百済の役)

 664年冠位26階を制定兵士・民部・家部の制「甲氏の宣」を施行

 唐の使者郭務悰が来日対馬、壱岐、筑紫防人を配置し、筑紫に水城を築き唐・新羅の来襲に備える

 667年中大兄皇子、大津の宮に遷都唐・新羅が高句麗へ侵攻

 668年、天智が即位。高句麗が滅亡する

 670年、全国的に戸籍を作る(庚午年籍)

 671年、近江令を施行太政官制開始。天智天皇没する。

 672年、古代日本最大の内乱である壬申の乱が起る。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が朝廷軍に勝利大友皇子が自殺という、類稀な内乱であった。

 翌673年天武天皇(大海人皇子)飛鳥浄御原宮で即位し、唐に対抗できる国家体制の確立を図る。

 681年飛鳥浄御原令の編纂を開始し、草壁皇子を皇太子とする。681年、『帝紀』『旧辞』などの筆録・編集開始(『日本書記』)の詔。「禁式92条」の制定。日本および天皇の称号を用いる。藤原不比等天武・草壁を補佐

飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。 令22巻。 律令のうち令のみが制定・施行されたものである。 日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。

 684年天武天皇が後の藤原京を巡行、八色の姓の制定

 685年、四十八階冠位制を施行。

 686年天武天皇が没する

 689年、草壁皇子が没する。

 690年持統天皇が即位する。飛鳥浄御原管制を施行。戸令により庚寅年籍を作る。

 694年藤原京へ遷都

 696年、高市皇子が没する。

 697年、持統天皇が譲位し、文武天皇が即位

 701年、大宝律令を施行

 703年、持統が没する。

 707年藤原不比等の官僚として活躍を認め200戸の封土を与える。文武天皇が没し、元明天皇が即位

 710年、平城京に遷都。712年、太安萬侶(おおのやすまろ)が『古事記』を献上。

太 安万侶(おお の やすまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。名は安麻呂とも記される。姓は朝臣。小錦下・多品治の子とする後世の系図がある。官位は従四位下・民部卿、贈従三位。『古事記』の編者。

 713年、諸国に『風土記』の編纂を命じる

奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。

『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。ただし、この時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていたようである。

 714年、首皇子が立太子になる。

 715年、元明天皇が譲位して、元正天皇が即位。

 718年養老律令が完成

 720年舎人親王らが『日本書記』を奏上。藤原不比等没する。

 721年、元明天皇が没する。

 724年、元正天皇が譲位し、聖武天皇が即位する。

▶︎ 飛鳥・白鳳文化の開化と日本の国家体制の確立 と都城の建設

 倭国は百済と同盟関係を組み、高句麗の南下とその影響を受けた新羅の侵攻に当たり、512年には百済に任那4県を割譲した。また、538年、百済の聖名王により仏教が公伝した。しかし、554年、聖名王が新羅で戦死する。ついに、562年には任那が新羅によって滅亡させられる。658年、唐が高句麗へ派兵

 660年、唐・新羅が百済を滅ぼす。さらに667年、唐・新羅が高句麗へ侵攻。

 668年高句麗が滅亡するこの任那、百済さらに高句麗の滅亡により南韓の倭人の帰来、仏僧・知識人・工人が倭国に避難、渡来した。かくて、推古朝を頂点として大和を中心に仏教文化の飛鳥文化が開花した。

 飛鳥文化の時期は、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受けた、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され、仏教文化の最初の興隆期であった。

 それに続く、白鳳文化とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表されるものである。なお、白鳳とは『日本書紀』に現れない元号(逸元号などという)の一つである(しかし『続日本紀』には白鳳が記されている)。天武天皇の頃には使用されたと考えられており、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。

 ヤマト王権は大化の改新以降、強大な唐に対抗できる国家体制を確立しようとした。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令で初めて国家体制を敷いた重要な時期と重なっている。

 681年、天武は『日本書記』の編纂開始の詔を出し、日本および天皇の称号を用いた。日本は任那の同義語であり、ヤマト王権は天皇家の故地である任那の滅亡にともなう新しい時代に対応して、国家的自立と自負を表明するため、‘任那’の栄光の記憶を復活し、しかも‘日の御子’の治める国にふさわしく‘日本’という国号を立てたのではあるまいか。

 天武朝では新しい国家の首都である藤原京が造営が始まったが、この宮が日本で最初の都市といえる。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇(持統・文武・元明)に続けて使用された宮となったことが大きな特徴としてあげられる。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられる。

 藤原京は宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都建設となった。藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年に審議が始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造され、710年に遷都された。

 さらに、712年、『古事記』太朝臣安萬侶によって献上さる720年、舎人親王らにより日本の正史である『日本書記』が奏上される。