山岳仏教と御霊信仰
■山岳仏教と御霊信仰
山河に宿る神々は、人びとに多くの恵みを与えてくれるとともに、時として甚大な災害をももたらす存在として畏怖されてきた。そのため、神々が住まう山々は、容易には人びとが近づくことのできない聖地として、遠くから山宗めつつも山中に足を踏み入れることは決して許されなかった。しかし、持戒・悔過しながら山林修行に励むことで、身体の清浄性と呪術的な能力を獲得した浄〕号ようそう行僧と呼ばれる僧侶だけは、神聖な山々に分け入り、託宣を受けるなど神々との交信が可能だったのである。神仏習合を推し進めたのは、こうした神々の住む聖なる山々に分け入った浄行僧たちであり、前節で取り上げたたいち上こつ室生山寺を建立した賢操をはじめ、白山を開いた泰澄ま′八が人や、箱根山に神宮寺を建立した万巻上人、会津磐梯山にえにちとくいつ恵日寺を開いた徳一などはその代表的な存在である。真言{示を開いた弘法大師空海が高野山を開いたもの地主た、山神への祈りを捧げるために男体山への登頂を試みた山林修行者の一人だった。空海の撰述になる「二荒山碑文」には次のようにある。「神護景雲元年神である狩場明神の導きによるものであり、また日本天台宗の開祖・最澄が建立した延暦寺が立つ比叡山も、大中lユよくい山咋神が住まう神山として奈良時代にはすでに多くの山林修行者が入山していた。
奈良時代末期に日光の霊峰男体山を開いた勝道もま(七六七)、勝道は、当時すでに補陀落山と呼ばれていた男体山に登拝を試みたが、濃霧と雷に阻まれて成し遂げることができずにいた。天応二年(七人二)に山麓で七日間にわたって読経・礼拝してから再び山頂を目指したところ、ついに成し遂げ、そこに小庵を結んで礼仏供養を行った。延暦三年(七八四)、再び登頂した後に中禅寺湖の畔に神宮寺を建てた。」以上の空海の文章からは、大自然から幾度と無く道を阻まれながらも篤い信仰心によって山に挑み続け、苦行の末に神の音芸心にかなうことによってついに聖地に到達することができたという、勝道の山林修行者として+具撃な姿が目に浮かんでくる。
こうした勝道の行実を伝えるように、男体山の山頂からは、三鈷杵・三鈷鏡・掲磨などの密教法具や錫杖・柄香炉などの仏具、経筒などの理経関係遺品、鋼造千手観音像などの仏像や御正体などおびただしい品が出土しており、その中には奈良時代後半から平安時代初期に製作されたと考えられるものも少なくない鵡。特に奈良時代にさかのぼる密教法具がこれほどまとまって伝来する例は他になく、この地が早くから最新の密教を受け容れるだけの山岳仏教の拠点となっていたことをうかがわせる。さらに出土の中には精巧な海獣葡萄鏡苧2などの唐式鏡数面も含まれており、これら唐から舶載された考えられる品は、あるいは下野薬師寺に止任したと「言われる如法など中国からの渡来僧の関与が想定できるかもしれない。
如法は鑑真の弟子として下野薬師寺の戒壇設立に関わった律僧で、勝道は如法から受戒して同寺で修行に励んだのち、山に入って補陀落山に至ったという。前述のように、神仏習合思想の流布には悔過や放生という戒律の実践が深く関わっているが、その推進には天平勝宝五年(七五三)にわが国に初めて体系的な戒律を伝えたと言われる鑑真(六八八〜七六三)の教団が深く関与したと指摘されている。例えば、多度神宮寺や室生山寺の創建に関わった賢環や、大神神社の神宮寺である大神寺に入った浄三は、鑑真から戒を受けていることが知られており、勝道も同様に鑑真の弟子である如法を通じてこうした神仏習合思想に触れることで、神宮寺の建立を決意することになつたのかもしれない。男体山頂上から出土した唐式鏡は、神仏習合思想が中国からもたらされたものであることを静かに物語っているのである。
さて、これまで見てきたように神仏習合を育んできた奈良時代以来の山林修行の伝統は、平安時代に入ると密教や中国の神仙思想の影響も受けながら、次第に修験道という形で体系化されていくことになる。修験道は、奈良時代はじめに葛城山を拠点に活躍した山林修行者だった役行者54を開祖に仮託している。しかし本格的な修験道の整備が進むのは平安時代に入った九世紀後半からで、例えば天台宗の密教僧である相応(八三一〜九一人)が千日にわたって比叡山諸峰の堂塔神社を巡拝する「回峰行」と呼ばれる修験行法を確立し、また醍醐音を開いた真言僧として著名な聖者(八三二〜九〇九) き∴かざ∴が金峯山(吉野山)を拠点に修験道を整備している。
特に金峯山では、修験道独自の神仏習合思想に基づいて生み出された神格である蔵王権現を礼拝するようになり、平安時代中期には修験道の全国への伝播とともに、蔵王権現を表した彫像52日や鏡像糾・懸仏などが各地の山岳寺院に安置されていった。その像容は、一面三日の盆怒相で、三鈷冠を被り、右手に三鈷杵を持って頭上に上げ、右手は刀印を結んで腰に当て、岩座の上で右足を大きく振り上げて空中を踏むというもので、密教の尊格である金剛童子の姿を典拠としていることが明らかにされている。蔵王権現の造像は、修験道の祖と仰がれる聖宝が、金峯山に如意輪観音の脇侍として多聞天像とともに造像した「金剛蔵王菩薩」に始まると考えられている(『醍醐根本僧正略伝』)。「金剛蔵王」はもともと「執金剛神」や「金剛童子」と同体の尊格といわれる。
挿図8 諸観音図像 奈良国立博物館
奈良時代には金鷲優婆塞と呼ばれていた修業時代の良弁(六人九〜七七三)が山中で執金剛神の塑像を昼夜礼拝したという伝説もあるように(『日本霊異記』第二十一)、もともとこれらの尊は山林修行者の守護神として信仰されてきた。同じく良弁が開いた石山寺は、奈良時代の創建以来、観音と「神王二体」の三尊を安置してきたが(『正倉院文書』)、聖宝が石山寺に入って以降、この三尊は如意輪観音、執金剛神、蔵王権現と称されるようになったという。石山寺の三尊の姿は承暦二年(一〇七人)六月の奥書を持つ「諸観音図像」【挿図8】に収められた一国によって知られるが、聖宝によって金峯山に安置された「金剛蔵王菩薩」は、同国に描かれる金剛童子形の「神王二体」を規範としている可能性が指摘されている。
さて、十世紀までの史料に「金剛蔵王」あるいは「金剛蔵王菩薩」の名前で記録されていた修験道の守護尊が、釈迦の垂迩神としての「蔵王権現」の名で登場するのは、藤原道長(九六六〜一〇二七)が寛弘四年(一〇〇七)八月に金峯山の山上に埋納した銅製経筒の銘文が初見である。同銘文に依れば、道長は「南無教主釈迦蔵王権現」の加護を願って金峯山に法華経・阿弥陀経・弥勤経を埋納したという。この道長による金峯山登頂と経塚埋納という出来事を境に、蔵王権現に対する信仰は急速に全国に広まっていった。例えば、山陰地・▲万の天ムロ系げい.れどう修験の一大拠点である三徳山三仏寺(鳥取)の投入堂には、いずれも平安中期から後期にかけて道立された蔵王権現立像七騒が伝来し、そのうち本展覧会出陳の像5之は、最近行われた年輪年代法による調査で万寿二年(一〇二五)に伐採された木材を用いて道立されたことが判明した。道長の金峰山登頂から時を隔てずに道立された蔵王権現の古像として、その価値は極めて高いといえよう。
以上のような山岳仏教と並び、平安時代において神仏習合を深化させるのに大きな役割を果たしたと考えられる御霊信仰について、ここで簡単に触れておきたい。
古代の人々は、自然災害の中でも特に恐れられた疫病の人hリ.㌻つ流行の原因を、政治的に不遇な死を遂げた人々の怨霊による崇(たた)りと考えた。疫病や災害を鎮めるためには、仏事や神事によって怨霊を慰撫することが求められるようになり、こうした儀礼は最終的に貞観五年(八六三)五月二十日条に国家主導によって神泉苑で行われた御霊会という形に結実する(『日本三代実録』)。この時の御霊会では、神泉苑(しんせんえん)において崇道天皇(すどうてんのう早良親王・さわらしんのう)以下六人の怨霊を「御霊(ごりょう)」と呼んで神として手厚く祀り、これを慰撫するために僧侶による神前読経や歌舞・芸能などが奉納されたという。
神前読経は延暦年間(七人二〜八〇五)の後半から正史に登場するようになり、松尾社や賀茂社、春日社などの有力な神社に附属した神宮寺において盛んに行われたことが知られる。貞観五年の御霊会では『金光明最勝王経』と『般若心経』が神前で読み上げられたが、歴史上、神前読経に最も多く用いられた経典は『大般若経』六百巻だった。
『大般若経』による神前読経については、『三宝絵』下巻乃の「大安寺の大股若会」に、次のような逸話を載せている。「奈良の大安寺を建立した道慈律師(?〜七四四)が語るところによれば、大安寺が初めて火事にあったのは、大和国高市郡の子部明神の社の木を切った時であり、この神は雷神であるために怒りの炎を出したのだ。この神の心を喜ばせてこの寺を守らせるために、『大般若経』を書写して大般若会を始めたのである。」この話からは、『大般若経』が神の怒りを鎮め、神の心を喜ばせるために読まれるべきものだったことが分かる。雷という形で示された神の怒りを『大般若経』によって鎮めるというのは、奈良時代に書写された三重・常楽寺所蔵の『大般若経(追行知識経)』72が、山岳修行中に雷にあった沙弥道行が伊勢大神のために書写したものであることにも示されている。史上初めての御霊会が、京都最大の龍神信仰の聖地だった神泉苑で行われたのも、崇りという形で怒りを示す神を龍神=雷神と認識したことによるものと考えられる。
こうした雷神としての御霊というイメージを平安時代の人びとに強烈に焼き付けたのが、北野天満宮をはじめ全国の天満宮に祭神として祀られる菅原道真(八四五〜九〇三)の存在だろう。道真は、右大臣にまで登りつめながら政治的謀略によって失脚し、失意のうちに太宰府の地で亡くなる。その後、毎年のように発生した早魅や疫病などの天変地異は道真の怨霊によるものと考えられるようになり、宮中の清涼殿に落雷が起こるに及び、雷神としての道真への人びとの畏怖はいやが上にも決定的なものになっていった【挿図9】。その後、「火雷天神」とも呼ばれた道真の怨霊は、天暦元年(九四七)以降に北野の廟堂に祀られ、仏法によってその怒りの炎は鎮められることになる。北野に建てられた三間三面の檜皮葺の神廟に影像が祀られて「天神」と号すようになり、『法華経』『金光明経』『大般若経』という護国の経典が奉納されることにより、鎮護国家の社として篤く崇敬されるようになった。
北野廟堂の伽藍は「北野宮寺」と呼ばれたように、中心となる神廟で祭祀が行われる一方、多宝塔など建ち並ぶ仏堂においては読経をはじめとする神明法楽のためのさまざまな仏事が行われたことだろう。こうした仏教寺院の体裁を備える伽藍は、祇園御霊、え会(祇園祭)が行われる祇園社についても同様だったことが知られ、かつては疫神の牛頭天王を祭神として祀る神殿(祇園天神堂)を中心に、牛頭天王の本地仏である薬師如来が安置される仏堂が併存するという、「観慶寺成神院」と呼ばれる神仏習合寺院だった。
このように御霊信仰に基づく寺社において特に神仏習合が進んだ背景には、御霊の慰撫が仏教儀礼によってなされるべきものという根強い考え方があったからに違いない。
▶︎本地垂速読
日本の神々は、本源的な存在である仏・菩薩(本地)が、衆生を救済するために仮にこの世に顕した姿(垂逆)であるとする「本地垂逆説」は、わが国に定着した神仏習合を説明する最も一般的な説として広まり、平安時代後期以降、有力な神社を中心としてそれぞれの祭神ごとに本地仏が確定していくようになる。例えば、『長秋記』m長元元年(一一三二)二月一日条によれば、熊野の本地仏は本宮が阿弥陀如来、那智が千手観音、新宮が薬師如来とされていたことがわかる。また、解脱房貞慶(二五五〜一二三一)が著した『春日御本地尺』川は、春日社の本地仏を一宮・釈迦、二宮・薬師如来、三宮・地蔵菩薩、四宮・十一面観音、若宮・文殊菩薩と規定し、これが最も一般的な説として流布する一方、一宮を不空箱素観音、四宮を大日如来とする別の春日本地仏の説も存在した。本地仏の選択は各社における個別の信仰背景に負うところが大きかったために、時代や需要層に応じてさまざまな説が生み出されたのだろう。
さて、こうした本地垂逆説はどのようにしてわが国に受容され、確立されるに至ったのか。この点について近年、吉田一彦氏によって詳細な考察がなされているので、それに依りながら以下におおよその見通しを述べておきたい。
もともと本地垂逆説の源流は、中国仏教において発達した本質と現象、理念と現実という二元論的な思考方法にあり、特に天台宗の開祖である智讃(五三人〜五九七)は、この本質=「本」、現象=「逃」の概念によって『法華経』を「本門」と「逃門」に二分し、特に「如来寿量品」に示される、本来は無量の寿命を有する永遠の存在であるブッダが、衆生を救うために仮にわれわれの前に姿を現したのが、現実に八十年で生涯を閉じた釈迦なのだという、『法華経』の仏身論の根幹に関わる思想を「本」「迩」の概念で説明した。こうした智顕の本速概念を用いて、わが国で初めて本格的に『法華経』を解釈し、その二元論的思考や仏身論について論じたのは、日本天台宗の開祖である最澄(七六七〜八二二)だった。天長二年(八二五)成立の『叡山大師伝』には、聖徳太子を中国の高僧・南岳慧思(えし)の後身であるとして「南岳後身、聖徳垂逃」と記している。さらに 『日本三代実録』 貞観元年(八五九)八月二十八日条には、天台宗の僧・恵亮が延暦寺に賀茂・春日の二神のために年分度者二人の設置を求める中で、「大士垂迩、或王戎神」すなわち仏・菩薩(大士)が神として垂逃すると述べており、本迩の概念を神に対して用いた初見として注目される。以上のように、わが国で初期に本迩思想を受け容れたのは、智凝の『法華経』解釈を受けた最澄を中心とする天台宗であり、その概念を神に適用したのもやはり天ムロ宗が最初だったと考えられることは重要である。
挿図9 松崎天神縁起絵(第三巻第一段)山口・防府天満
「本地」の語の出現は「垂速」よりもはるかに遅れるといわれ、『続本朝往生伝』をはじめとする大江匡房(一〇四一〜一二一)の著作において、八幡大菩薩の「本覚」を無量寿如来とするなど、特定の神に対応する特定の仏菩薩が明確に述べられており、これを「本覚」という天台宗で重視された語によって表している。「本地」の語が定着するのは十二世紀半ばからで、『長秋記』m記載の熊野本地説はその早い例だろう。
以上から、「本地垂逃説」のわが国への受容とその後の展開が天台宗を中心に進められてきたことは明らかだが、その大元にあるのが、すでに中国天台宗で確立していた『法華経』「如来寿量品」に基づく釈迦の仏身論、すなわち「久遠常住」(永遠)のプッダ=法身と、衆生救済のための方便としてこの世に現れた釈迦=応身(化身)の対置という二元論があったことを強調しておきたい。こうした天台宗の仏身論にもとづく本地垂迩説を前提としたとき、平安時代中期以降、各神社に安置された「御正体」と呼ばれる礼拝像の持つ意味が一層明らかになるように思われる。
「御正体」とは、本地垂逆説によって祭神の本地仏を表した像のこと。多くの場合、鏡の表面に神仏を線刻した「鏡像」、あるいは鏡をかたどった円形の銅板に仏菩薩や神像を羊肉彫した「懸仏」のことを指す。「鏡像」については、わが国において十世紀末噴から製作されるようになるが、泉屋博古館蔵の釈迦三尊等鏡像引や長徳三年(九九七)銘をもつ三仏寺の胎蔵界中台八乗院鏡像氾をはじめ、初期の鏡像に天台宗に関わって製作されたものが多いことは注目される。
天台宗安居院流の唱導集である『神道集』「御正体事」を見てみると、「我朝ノ神明ノ御正勝」は「明鏡」や「月輪」に喩えられるものとされており、鏡像成立の背景を密教の「月輪観」に求める内藤栄氏の説や、同じく天台密教の「港頂明鏡」に求める久保智康氏の説と符合することがわかる。さらに久保氏は、智顕の 『摩討止観』において、真理(法身)を表す「鏡」とそこに写った事々(応身)の 「像」を対照させ、両者が円融して隔てのないことを説く天台宗で流布した「鏡像円融」の口決が、鏡像成立に影響を与えた可能性もあわせて指摘しているが、これについても、比叡山における天台宗の故事・口伝を集成した『渓嵐拾葉集』巻第四「祖師求道上人山王港頂事」に、「天照太神ノ神髄ハ文鎮面二鏡像円融ノ義ヲ留ム」とあり、この口決に基づいて鏡面に神の姿を表すという事例を確かめることができる。このように、おもに天台の仏身論や天台密教の事相を駆使することによって、鏡を神の像として意味付けたものが「御正体」だったと理解されるだろう。しかし、以上に引いた史料はあくまで鎌倉時代後期以降に成立したものであり、平安時代中期に製作された初期鏡像についてそのまま「御正体」の観念が適用できるわけではない。
そこで、わが国で鏡像が初めて作られるようになる十世紀末の動向に目を向けると、東大寺僧裔然 (?〜一〇一六)が寛和二年(九八六)に渡航先の宋から帰国し、当地で道立した木造釈迦如来立像(京都・清涼寺)を請来しており、その胎内納入品として水月観音鏡像89をもたらしていることは見逃せない。この鏡像は簡素なつくりながら、竹林を背後にして岩座上に右膝を立てて坐る観音を瑞々しく線刻しており、胎内納入文書により、像および納入品は、薙配州二年(九八五)にムロ州(硯・漸江省台州)において地元の僧俗男女が結線のために施入したものであることが分かる。興味深いのは、中国国内における鏡像の大半が、清涼寺の水月観音鏡像とほぼ同時期の十世紀後半、出土地も新江省に集中していることである。
瀧朝子氏の報告によれば、製作年の知られる中国最古の鏡像は、漸江省杭州市の西湖南岸に立つ雷峰塔から出土した「天界人物群国境像」であり、呉越国王銭弘倣(九二九〜八八)が妻のために塔を建造した太平興国二年(九七七)までに製作されたものであるという。図中に北斗七星などの星宿、龍・鳳風、瑞鳥などがちりばめられた天空の様を表すことから、中国の神仙に関わる図像と考えられる。また、同じく銭弘似が建造に深く関与した漸江省台州の霊石寺からは五面の鏡像が出土しており、その内訳は釈迦如来を中心とする七尊の群像を表した一面と、雲に乗る四天王を一尊ずつ四面に表したものからなるといい、鏡像が刻まれた年も銘文から成平元年(九九八)だったことが判明する。この他に知られる中国出土の鏡像としては、やはり北宋時代の作と考えられる北斗星君の姿を表した「祭天国鏡像」(東京国立博物館蔵)、遼代末期の重興十八年(一〇四九)に竣工した釈迦如来仏舎利塔(慶州白塔‥内蒙古自治区赤峰市)から発見された「釈迦如来鏡像」(乾統五年=一一〇五)等が紹介されている。
瀧氏が報告した宋代以前にさかのぼる中国製の鏡像十面を概観すると、日本の鏡像成立と関わって次のような興味深い点を指摘できる。①十面のうち七面が斬江省から出土すること。特に裔然請来の水月観音鏡像を含む六面が漸江省台州出土であることは、中国天台宗の聖地・天台山の強い影響下のもとにこれらの鏡像が製作された可能性を示す。この「天台」から名を取った地は、日本との交流の窓口にもなつており、この地域から、清涼寺の水月観音鏡像のように直接日本にもたらされた鏡像も少なくなかったと考えられる。④新江省で製作された鏡像の多くに呉越国王銭弘倣が関わっている(清涼寺の水月観音鏡像も銭弘倣存命中に製作された)。③中国の神仙・天部という神々を表したものが多い。④釈迦如来を表したものが仏教の尊格としては釈迦如来が二件あり、さらにそのほとんどが仏舎利塔ないし釈迦如来像の納入品として製作された。
以上の点を踏まえたとき、中国の鏡像が日本の鏡像に与えた影響について具体的に指摘することは可能だろうか。従来、この点については、中ムロ八乗院など畳茶羅をかたどったものが多い日本の鏡像に、中国の鏡像からの影響は認められないとする見解が多かった。しかし鏡像成立についての議論の中で、特殊事例としてあえて取り上げられることの少なかった蔵王権現の鏡像の成立を考えるとき、実は中国の鏡像が与えた影響は少なくなかったように思われるのである。特に天徳元年(九五七)に延暦寺僧日延が呉越国から帰国して呉越王(銭弘倣)が造建した八万四千塔の一基をもたらしている一方、その翌年には日本僧弘順によって顕徳五年(九五人)によって「金剛蔵王菩薩」の霊験が中国国内に伝えられていることは注目すべきであろう(『義楚六帖』巻二十一)。というのも、中国の江南仏教文化を象徴する存在といえる呉越王の八万四千塔が日本国内にもたらされた場所は、現在知られる出土例で見る限り、蔵王権現信仰の聖地である金峯山や、熊野の那智経塚、京都・金胎寺など、修験道の拠点となつた地が多い。こうした伝来状況は初期の鏡像についても同様で、金峯山や那智山・三徳山(三仏寺)・二荒山(日光)・醍醐寺など、鏡像の多くは修験の聖地に伝わったのであり、都の大寺に伝わることはほとんど無かった。水月観音をもたらした裔然も、修験道の拠点だった愛宕山に五台山を模した伽藍建立を計画するなど、もともと東大寺東南院に所属した醍醐系修験に深く関わった人物だったと考えられるのである。
さて、すでに前章で取り上げたように、長保三年(一〇〇一) の銘をもつ東京・西新井大師総持寺の蔵王権現鏡像は、修験道が生み出した日本独自の神格である「蔵王権現」を、鏡像という日本にもたらされて間もない形式によって、しかも「内匠寮」が製作するという国家が関わる形で造像された、記念碑的大作である。その後、中世から近世に至るまで製作された蔵王権現の鏡像ないし願心仏の作例はおびただしい数に登るが、その最大にして最高傑作である総持寺像が、突如として十一世紀の初頭に現れることの意味は決して小さくないだろう。さらに、それまで「金剛蔵王」あるいは「金剛蔵王菩薩」という仏教の尊格として呼ばれていたものが、「蔵王権現」という垂逃神としての呼称されるようになる初出は、藤原道長によって寛弘四年(一〇〇七)金峯山に埋納された銅製経筒の銘文に「南無教主釈迦蔵王権現」とあるのが初見であり、ここに新たな神の出現を見ることになるのである。十一世紀成立の 『扶桑略記』に引用される『道憲上人冥土記』にも「我是牟尼化身、蔵王菩薩也」とあるように、蔵王権現は釈迦の垂迩神(化身)と考えられていたことがわかり、特定の神格が特定の本地仏を明示する最も早い例の一つにも数えられるのである。このように「蔵王権現」号の成立と「蔵王権現鏡像」の出現がほぼ同時期であることは決して偶然ではなく、そこには道長の埋経の供養をつとめた覚運(九五三〜一〇〇七)ら天台僧の深い関与があったに違いない。
ここで、恐ろしいまでの盆怒相で表される「蔵王権現」が、釈迦如来を本地とする権現として突如この時代に登場し、それが鏡像として表された理由について考えてみたい。中国へ渡った日本僧たちがまず目指したのは、日中交易の窓口だったムロ州からごく近い天台山だったと考えられ、そこで天台教学に触れるものも少なくなかった。道長が金峯山の経塚に埋経を行ったちょうど前の年、長保五年(一〇〇三)に人宋した天台僧・寂照(?〜一〇三四)は、師の源信から託された天台宗に関する二十七箇条の質問状を、中国天台宗の碩学・四明知礼(九六〇〜一〇二八)を延慶寺に訪ねている。その知礼が景徳三年(一〇〇六)に編纂した『四明十義書』には、仏の三身(法身・報身・応身)に関して次のように、本地垂迩説にもつながる次のような大変興味深い仏身論が示されている。「随所利物。起一切事。皆如幻如化水月鏡像。和光無染。即是称応身義也。」(『大蔵経』第四十六巻八五一b)
「応身」とは、仏が衆生を教化するために、人びとの能力に応じて変化し、この世に現した身のことで、『法華経』 「如来寿量品」の教説をもとに導き出された「垂迩」の概念は「応身」とほぼ同義と言っていい。ここで注目されるのは、知礼が「応身」の意義を、「幻の如く、『水月』『鏡像』に化すが如く」と説明していることである。先に本地垂逆説は天台教学の仏身論の上に成り立っていることを指摘したが、それを踏まえれば、「垂迩」の姿は、ここに言うように「水月」あるいは「鏡像」として現れるべきものであると考えるのはごく自然であろう。そしてその姿は、「和光無染」すなわち法身(本地)の仏が「光を和らげて」現れるべきものとされるのである。日本で本地垂迩説を説明するときに用いる「和光同塵」とも無縁ではない考え方だろう。
こうした教義を前提に、中国では十世紀半ば以降、恐らく呉越国王銭弘倣の周辺において、実際に鏡面に像を刻むということが行われるようになったと考えられる。ここで中国において製作された鏡像がほとんどの場合、仏舎利とともに塔や釈迦像の中に納入されていたこと、さらには高麗時代の鏡像の背面に仏塔を表すものが多いことを思い起こしてみよう。釈迦の遺骨である仏舎利は、永遠不滅のブツダ=法身(本地)を象徴する存在として礼拝されたものであり、これに対する応身(垂迩)として釈迦像や天部・神仙などの神々が表されていると考えられるだろう。釈迦像が垂迩というと違和感を覚えるかもしれないが、天台の仏身論で言えば、現実に八十年の生涯を生きた釈迦は応身(垂迩)なのであり、法身はあくまで仏舎利で表されるべきものだった。鏡像に表された四天王や北斗星君などの神々も当然のことながら応身=垂迩神として表されているのであり、その本地は塔内あるいは像内に一緒に納められている仏舎利だったのだろ、つ。
このように見てくると、濃厚な天台文化が凝縮された鏡像や呉越主人万四千塔(仏舎利)が埋納された修験道の聖地に、「蔵王権現」という新たな神が生み出され、その本地仏を釈迦(仏舎利=法身の釈迦)とする事で、仏法の象徴たる仏舎利と、それを護持する護法善神としての垂迩神という関係が確立するであろう。ここに日本の本地垂逆説の骨格が完成したといえるのではないだろうか。後世には 『法華経』 「如来寿量品」に見える釈迦の自我偶「常在霊鷺山 及余話住所」の一節にもとづいた「昔於霊鷺山 説妙法蓮華経 今在金峯山 示現蔵王身」(『神道集』巻第三ノ九)という蔵王権現の託宣が流布することになる。霊鷺山で説法し続ける永遠不滅の法身の存在である釈迦が、権現として仮に現世に現れ、その際に姿を「御正体」(鏡像・懸仏)に顕す、というモチーフは、本地垂逆説のゆりかごとなつた修験の聖地から、全国各地の神社に伝播していった。これ以降、各神社が競い合うように個性豊かな垂速美術の数々を生み出していくことになるが、その具体的な諸相については多岐に亘るため各個解説に譲りたい。紙数も尽きつつあるので、最後に、本地垂逆説にもとづいて生み出され、展開していく三つの神仏習合美術のの方向性だけ示して、本稿を閉じたい。
▶︎ ①御正体と宮量奈羅
「御正体」という天台教学によって意義づけられた本地垂逆説を象徴する礼拝仏は、その後、全国各地の神社の社殿の中に丁重に安置されていくようになる。そこに表されるのは、垂迩神としての神の姿を表す場合もあるが、多くの場合は、祭神の本地仏が表された。本来姿を見ることのできない法身たる本地仏を礼拝するために造形化するには、知礼の 『四明十義書』で言うように、本地仏が光を和した姿、すなわち応身として鏡像に表さなければならなかったのである。わが国において垂迩神の姿は、「御正体」に刻まれるよりもむしろ、平安末期から製作されるようになる宮鼻茶羅という形で、鎌倉時代以降に急速に流布していったと考えられる。
神の姿を直接造形化することにまだまだ悼りが多かった中世において、神々の住まう場所としての社殿は、神の存在を最も視覚的に象徴する礼拝対象だったと考えらえる。本地仏を表した御正体を神社の社殿内に安置し、あるいは社殿を中心とする景観を描いた「社頭図」と呼ばれる絵画と御正体を組み合わせて礼拝することで、本地仏と垂迩神を対置させて礼拝することが行われたのではないだろうか。社頭が垂迩神そのものを象徴していたことは、鎌倉時代後期に描かれた「融通念仏縁起」偶において、融通念仏の勧進に随って名帳にその名を連ねる諸天冥衆を描く場面で、天部の神々とともに「垂迩和光の応身」と詞書に記された日本各地の神々が全て社頭図の形で描かれていることは、当時において社頭=垂迩神という観念が確固としてあったことをよく示している。御蓋山と春日野を中心とする風景の中央に「春日大明神」の名号を描く「春日名号星茶羅」(奈良国立博物館蔵)【挿図10】において、春日社の社殿が全く描かれていないことも、その証左といえるだろう。
挿図10 春日名号蔓案羅 奈良国立博物館
すなわち、春日鼻茶羅において春日社の社殿と大明神号はいずれも垂遽神を象徴する存在なのであり、両者が並立することは決してなかったのである。そして社頭=垂逃神という考え方は、最終的に鎌倉後期に「社頭浄土観」を生むことになつた。
▶︎ ②仏舎利と神々
法身=本地としての仏舎利が、応身=垂迩神と結びつけられるのは、中国の天ムロ教学の中ですでに育まれていたものと考えられる。これを背景として、蔵王権現の本地が釈迦とされ、また各社の祭神のうち最も中心となる一宮や大宮にも釈迦如来を本地仏とするものが多くなる。本地垂逆説を理論づけた天台宗の守護神・日吉社の大宮が釈迦本地説を取ることはもちろんのこと、八幡=阿弥陀のイメージが強い石清水八幡宮でも、釈迦本地説を取る場合があった(『八幡愚童訓』)。春日社の場合も、もともと摂関家からの信仰が篤かった一宮=不空箱索観音説が有力であったが、一方で 『春日社記録』久安二年(一一四六)十一月四日条には、多宝塔に納めた仏舎利十二粒を春日二呂の社殿内に安置したことが見えており、本地説が定着する以前からまず、春日社の中心となる祭神である一宮武棄槌A叩に仏舎利が奉納されたのだろう。これを受ける形で、解脱房貞慶(一一五五〜一二一三)ら寺家方を中心によって一宮=釈迦説が主張されていったと考えられる。 こうして生まれた仏舎利と神々の本地垂連関係は、春日舎利厨子などの舎利荘厳を生み、また弁才天や咤棋尼て人夫といった仏舎利を護持する神々をめぐる造形の母胎となったのである。
▶︎ ③中世神道説
『東大寺要録』第一巻165に見られるように、平安時代陽神であることのアナロジーによるものだろう。この伊勢をめぐる本地垂逆説に立脚して、密教僧による多様な神道理論や、三種の神器を密教法具で表す特殊な造形なども生み出されていったのである。
(奈良国立博物館学芸課 研究員)
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