佐藤玄々(近代彫刻)

近代彫刻の天才・佐藤玄々(朝山)

■修行時代(清蔵)

 1888(明治21)年、佐藤は現在の相馬市、旧相馬中村藩の城下町に生まれた。城から宇多川を挟んだ通称向町は、藩政時代からの職人町であった。佐藤の祖父・常冶は山形の木彫職人であり、1881年の大火で焼失した光善寺の再建のため中村に呼ばれ、そのまま移住したという。佐藤の本名は清蔵で、父・清五郎と母・ツネの間に生まれた五男三女のうち三男である。

 佐藤は父や叔父に木彫を学び町内の仏像や寺社の堂宇(四方に張り出した屋根・軒をもつ建物)修繕を手伝った。また、同じ向町に住んでいた伏見東洲こついて絵の手ほどきも受けた。

 東洲は幕末に江戸木挽町で活動した画家で、戊辰戦争後には郷里へ戻っていた。佐藤は筆法や写生的な物の見方をこの東洲から学んだ。佐藤の少年時代に描いた仏画が残されており、すでに立体感や質感に対する感受性の高さがうかがえる。

 途中、薬局に奉公に出されるが、彫刻への思いは強く、17歳で芸術家を志して上京する。日本美術協会展で山崎朝雲の作品を見て感銘を受け、その後8年間徒弟として朝雲のもとに身を寄せる入門後に彫られた≪兎》《鶏》(作品No.7)は、模刻でありながらも緊張感にあふれる造形となっている。

 残された初期の作品は限られるものの、佐藤が仏師・宮彫師の伝統を引く家で育ち、その後朝雲から学んだことで、次第に頭角を現していく様子が見て取れる。

■大正期留学まで(朝山)

 1913(大正2)年、25歳で山崎朝雲の門を出て独立、師から「朝」の一字をもらって「朝山」と号した。修行時代の釈迦を題材にした≪永遠の道(問答)≫(作品・下図左)が美術協会展で三等賞を受けたことで、佐藤の力量は広く知られるところになった。

 1914(大正5)年に日本美術院が再興されると、第1回展から佐藤も同人として参加する。美術院に併設された研究所に住み込み、石井鶴三や中原悌二郎らと研鑽に励んだ。洋画部の友人をモデルにした≪原田恭平像》(作品・上図右)は、塑造による写生力の高さを示している。また奈良で仏像を研究したことが、≪沙倶牟多羅姫と施遮牟陀王》(作品・下図)のような大作に結実した。

 奈良にはしばしば訪れるようになり、唐招提寺に滞在して仏像の模刻をし、奈良一刀彫の森川杜園にも影響を受けて≪鹿》(作品・上図右)などを制作した。また山形に旅したり、十和田湖畔に引きこもって制作した模索の時期でもあった。1919(大正8)年31歳には西洞みちのと正式に結婚、大森にアトリエ兼住居を作って転居した。この時期妻をモデルにしたと思われる《木花咲耶姫》や《春》(作品)などの清楚な女性像も多い。

 1922(大正11)年34歳となった佐藤は、美術院の奨学金によってヨーロッパに留学する。1年半パリに滞在して、ブールデルの美術研究所グランド・ショミュールで学ぶとともに、ルーヴル美術館に通い、エジプトやエトルリア彫刻を研究する。ジャコメッティとも交遊があったことが分かっており、パリで先端の思潮に触れたことで佐藤の視野が大きく開かれることになる。

■昭和初期(朝山)

 1924(大正13)年36歳・7月、およそ1年半の留学を終えて帰国する。しばらく関西で制作したのち、馬込のアトリエに戻り、本格的に研究を開始する。パリで親しくなった保田龍門と共同でモデルを使い、≪或る構図の一部の二》などを制作した。この時期の出品作品は現存しないが、写真で見る限り、西洋美術研究が盛り込まれた人体像であったことが分かる。

 翌年から取り組んだのが動物彫刻である。当時、馬込の自宅周辺には牧場が広がっており、そこで鶏や兎、牛などの動物を観察するようになる。≪牛》(作品)《牝猫(作品・上図左・右)など、エジプト彫刻に影響を受けた作品や、抽象彫刻を思わせる≪冬眠》(作品・下図左)などが次々と生まれた。《冬眠》のX線写真が示すように、原型にはしばしば継ぎ接ぎの痕がみられる。木をあたかも塑像のように削り、矧ぎ付けながら制作していたことは、彫ることへの並々ならぬ執着を感じさせる。

 作品の題材としては、≪鳩》(作品・上図右)や≪筍》(作品・下図左)《白菜》(作品・下図右)などから中国宋元画の花鳥図や蔬菜図が思い起こされる。佐藤は彫刻だけでなく、絵画の研究にも熱心であった。また動物彫刻では、パリで同時代に活躍したフランソワ・ポンポン作品との類似性も認められる。

 昭和10年代(1935〜)45歳に入ると、佐藤の制作は政治色を強め日本神話に取材した大作を積極的に手がけるようになる。これはブールデルの得意とした公共彫刻からの影響もあろう。《八咫烏・ヤタガラス》は、鳥に化身して神武天皇を導いたという神をあらわしたもので、改組第1回帝展に出品された。ルネサンス彫刻、あるいは仏像の天部を思わせる武人像は評判となり、雑誌や新開で広くその図様が使われた(下図左)。(参照・和気清麻呂像・下図右)

 同時代の作品の影響を受けつつ、東西のイメージを自在に翻案し、新たな木彫を提案していった充実の時代であった。

■昭和戦中戦後(清蔵)

 現在でも気象庁近くの皇居内に立つ《和気清麻呂像》(上図右)は、佐藤の大作のひとつとして良く知られている。紀元2600年(1940(昭和15)年50歳)の記念に勤王の忠臣像として作られたもので、奈良時代の彫刻のような気宇の大きい作風を示している。本像の造像をめぐっては、朝倉文夫、北村西望と3人での競作と捉えられ、大きく報道がなされた。

 その際、師の山崎朝雲が佐藤を推さなかったとして関係が悪化した。佐藤は1939(昭和14年49歳)5月頃から「朝山」号の使用をやめ本名の「清蔵」を名乗るようになる。

 当時弟子を多く抱えていた佐藤であるが、開戦後は次々に出征して大作の制作に支障を来すようになった。小像の制作を続ける中、1945(昭和20・57歳)年5月には、馬込の住居が空襲を受けて焼失する。アトリエに置いてあった≪八咫烏>≪釈迦に幻れたる魔王の女(三魔)》などの大作が失われたのは不運であった。

 佐藤は故郷に戻り相馬部の山津見神社に身を寄せる。狼信仰で知られるこの神社には、佐藤が少年時代に師事した伏見東洲こよる250枚もの狼の天井絵があった。当時、佐藤は都内の鳥越神社の狛犬を構想中であったため、山津見神社を疎開先と定めたのは偶然ではないだろう。最初の《神狗・下図》はこの神社で生み出された。

 まもなく終戦を迎え、山を下りて相馬中村の農家に世話になる。この疎開中、佐藤は地域の職人や文化人と少なからぬ交流をもった。相馬駒焼の田代清治右衛門甲胃師の橘薫画家の藤田槐山らは佐藤の制作を助け、陶彫≪陶仏頭≫(作品・上図右)墨画≪不動明王》(作品・下図)などの作品が生まれた。

 主におだやかな仏像、仏画を制作し、郷里の戦没者を慰霊することで戦後の一時期を過ごした。1947(昭和22)年8月、大阪高島屋の招きに応じ、関西に移住する。雑事の多い東京を離れ、静かな環境で制作したいとの希望がかねてあったようである。芦屋の高島屋社長飯田直次郎邸に世話になり、のちに後援者の西宮の芝川叉四郎邸(上図右)に移る。

■≪天女(まごころ)像≫の時代(玄々)

 佐藤は1948(昭和25)年の1月から、自ら考案した「玄々」と号をあらためた。於田亨によれば『老刊の一節、「玄之又玄、衆妙之門」(神秘の根源からすべてが生まれる)からとったという(『天女開眼)。1949年8月には、京都・妙心寺の塔頭大心院に転居、ここが終の棲家となった。

 戦後は院展を離れ、三越で行われた横山大観・川合玉堂らとのグループ展・無名会展、文部省主催で全国を巡回する日本現代美術展などに参加した。≪神狗》(作品)《麝香猫・ジャコウネコ》(作品・下図左)《大黒天》(作品・下図右)などの作品をくり返し制作している。濃密な彩色や裁金装飾による手の込んだ表面がこの時代の特徴である。

 1951(昭和6)年三越の岩瀬英一郎社長から、日本橋本店に設置する創立50周年記念の記念像を依頼される。まもなく《天女(まごころ)像》(作品)の構想ができ、大心院に仮設のアトリエを立ち上げると、弟子たちとともに制作を開始した。

 像は最終的に10メートルを超え、国内の木彫家、工芸家を集結させた大がかりな工房制作となった。木彫による雲や草花の浮彫を組み合わせ、合成樹脂による極彩色を施し、また裁金や電気鋳造なども用いるなど様々な試みがなされた。

 2年間の予定期間を大きく超えて、完成したのは9年後の1960(昭和35年)であった。佐藤が亡くなったのはその3年後である。

 装飾の塊のような造形は、公共彫刻として捉えきれないものがあり、発表当時の人々をとまどわせた。しかし近年、その存在感の強さが注目されて再評価の気運が高まっている。≪天女(まごころ)像》は様々な表現や技術を自在に引用した、佐藤の芸術の集大成である。ざわめきがあふれ、華やかな色彩に包まれた百貨店の空間を具現化した、神仏に代わる理想像として理解されよう。