村山槐多・真実の眼・ガランスの夢(近代洋画)

■見いだされた村山槐多の「真実の限」

  村松和明 

▶︎はじめに

 現在の愛知県岡崎市に生まれた夭折の詩人画家村山槐多。彼の作品は、《バラと少女》(1917年東京国立近代美術館)、《尿する裸僧(1915年長野県信濃美術館)などがよく知られているため、洋画家であり、油彩画家という印象が強いかもしれない。しかし実際には彼は油彩画を多く残してはいない。

村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月15日 – 1919年〈大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本の洋画家で、詩人、作家でもある。愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市中核)生まれ、京都市上京区育ち。従兄に山本鼎(画家)、はとこに黒柳朝(随筆家)(Wikipedia)

 これまで存在したことが確認できる油彩は、小品を中心として27点ほどであった。100号程度のカンヴァスを描いたということは記録にはあるが、今日ではその図版も残っていない。

 槐多の油彩画が少ないのは、22歳5か月で早世したことで、制作された数自体が限られたこともその理由のひとつだが、大正から時代を経るにしたがって、消失、行方不明になってしまった作品も少なくない。

 これまで30年以上村山槐多について調査研究をしてきて、贋作が多い中、いくつかの真作の発見に立ち会うことができた。それらに加えて、この没後百年という節目に多くの情報が集まり、新たに発見された作品などがかなりの数に上った。

 生前、槐多の絵はほとんど売れなかったことから、不特定多数の収集家のもとに分散することはなかった。秘蔵されてきた作品のほとんどが、何らかのかたちで槐多にゆかりのある家に伝わってきたものばかりである。最も多くの点数を所蔵していたのは、槐多が京都一中在学時の同級生の家であった。これらの作品には未公開のパステルで描いた京都近郊の風景画が多数含まれていることから、槐多が上京する際に親しくしていたこの友人の家にまとめて託していったものと思われる。どの所蔵家も、村山槐多の作品として大切にしていたようで、100年以上が経ったとは思われぬほど保存状態が良好のものが多い。油彩は13点が未公開の作品として見つかった。

 14歳最初期に描いた《雲湧く山》(上図)、上京後に印象派の影響を受けて描いた《森の道》(17歳)、40号の大作《ダリア》18歳また、《カンナと少女》と同時期に描かれていた油彩《カンナ》(18歳)。

 さらに1916年は作品数が少ないところに傑作と言える《植物園之景》(池野が加わり、晩年にして最盛期の《房州風景》(291)にまで至る

 このように生涯の節目となるところに位置する油彩が確認されたことによって、ようやく塊多の画業の全体像が浮かび上がってきたのである。

 

 合わせて、紙の作品約150点が見つかっている。(「作品リスト」参照)。デッサン、水彩、パステルといった様々な技法を使って描いた龍安寺、妙心寺、桂春院をはじめ京都近郊を描いた最初期の作品が出てきたのは特筆すべきことである。これまでほとんど見ることのできなかった京都時代の作品群は、描画技術の確かさに驚かされるものが多く、その線の強さと対象把握の確かさは、他でもない塊多の作品であった。

 本稿では、これら新出作品を含めて、村山税多の生涯における新たな画業の全体像と、その技法の独自性などを大正の時代性をとおして考えたい。

▶︎槐多に油彩一式を与えた山本鼎

 槐多は9歳の頃から、好んで絵を描いたと伝えられる。その頃に小学校で描かれたと思われる墨書「兄弟ナカヲヨクナサイ」が近年見つかっている。幼少の頃から、独創的というべきか、かなりの癖字で、大幅な添削の跡が見られる。五行目には大胆に墨をこぼしており、その評価は「乙」。この墨書にはもう一点、税多の詩稿「美しき酒」の原稿用紙の断片と共に軸装されている。その下には、旧蔵者の添え書き「遺品としてノートの一頁から凡そ筆になった何物でも彼を偲び知友間で割愛した」とある。この一本の軸からも槐多は多くの友人から好かれ、早世を惜しまれたことが窺われる。

 そうした「割愛」の例と見られるのが《蔵のある風景下図》(恥4・5)である。二枚に分かれているが、もともと右の部分は、左の絵とは違う所蔵家の元(税多の友人の家)にあったもので、右の断片だけでは、何を措いているのかわからないものだったが、今回百年以上の時を経て左部分との続きで一枚の作品と判明した。椀多の作品ということで、友人たちの家では、このような断片でさえも代々大切に保管されてきたことに驚かされる。

 また、デスマスク(仙川望も他界した直後に石井鶴三によって型取りされているが、大正時代にはまだほとんど例のないことだったようだ。山本鼎による手紙(恥淵)に明らかなように、早世した槐多の面影をとどめておきたいという皆の希望によるものであった。

 最初期の油彩見つかる 現存する最初期の油彩は長らく1913年、17歳頃の静物画《花》とされてきた。それを2年さかのぼる1911年2月と年記のある《雲湧く山》が1918年に発見された。槐多の油彩とのかかわりは、この作品を清いた半年前の1910年七月、塊多が十四歳の頃従兄(いとこ)の山本鼎が京都の山本家に数日滞在し、槐多の画才の才能を見抜いて油彩の画材一式をしょ与えて画家になることを勧めたことに始まる。当時のことを槐多の友人、山本二郎が以下のように書いている。

 斯うした少年時代の彼にとって非常に懐かしく思われてゐたのは 彼の従弟(いとこ)の山本鼎氏であった。氏は其渡仏(フランス渡航前)前京都に村山一家を訪ね其家に数日滞在して近郊のスケッチ等に日を送くられたことがあった。少年槐多は如何に悦ろこびを持って此の従兄に接したことか。彼は鼎氏から送られた油書一の道具を持って数日の内に其の畫の具を費ひはたした程の熱心を以て畫を描いた。其畫は又鼎氏に可憐な感じを起させたものらしい。

 まあやり給へと云われた言葉を如何にも頼りにして彼は益々絵描きになる為めに勉強した。しかし此のことは彼の父を悦ばせなかった。彼の父は槐多を農大へでも入れて農業家として立たせるつもりであったらしい。父と彼との間に第一の問題が此の時分から始まった。彼は此の事に就て巴里の従兄へしばしば応援を求めてやった。山本鼎氏からは彼を激励した親切な手紙が其の都度寄こされた。彼は其れを如何に心強いことにしたかわからなかった。

 これまで当時の油彩画が全く確認されてこなかったため、油彩を描いていたことを疑問視されることもあったが、その反証となる貴重な作品《雲湧く山》は、ざっくりと切り抜いた厚紙のボードに描かれた油彩画だが、その闊達な筆遣いと構図と色使いは、油彩を始めて半年の少年の作品とは思われない。山本鼎が、「小生などは、とてもかないさうもない位なものになるかもしれない」と綴ったが、その激賞もうなずける。

 山本鼎は、1882(明治15)年の生まれだから、槐多よりも14歳年上の従兄であった。「創作版画」の先駆者として、また「自由画運動」や「農民美術運動」を推進したことでも知られている。鼎の母「たけ」は、円特市花山円町一丁として生まれ、次女に「たず」、三女に「たま」と、二人の妹がおり、三女のたまが椀多の母親であった。つまり鼎と槐多は、岡崎にあった母の実家山本家を軸とした従兄弟(いとこ)の関係にあった。

▶︎岡崎市花山岡町で生まれた鼎と塊多

 この山本家の次女「たず」が、税多が岡崎で生まれるにあたって大きくかかわっていた。税多の生誕地が、長らく横浜生まれとされてきたのは、父・谷助が椀多誕生時に横浜で学校教員をしていたことから『村山税多遺作展覧会』(1919年)の年譜にそのように記載されたことが端緒である。

 近年の調査によって、1896(明治29)年9月15日付けで槐多出生として戸籍謄本が、母・たまの生まれ故郷である岡崎市に出されており、母・たまが槐多の出産にあたって、姉・たずの嫁ぎ先の嶺田家が所有していた岡崎の貸家を借りて槐多を生んだことが明らかになった。嶺田家は、代々九七を襲名する裕福な名門石材商、七代九七の子久五郎は石屋を継がず役人になった。この久五郎が、山本家の娘、たずと結婚。その縁あって久五郎の父九七は、村山家に貸家をおおよそ一年ほど貸し、出産準備を整えた。たまは嶺田家の援助を得ながら、岡崎の役場で村山家の戸籍(図2、3)を作り、同時に婚姻届を提出、その二週間後の9月15日、槐多を出産した。父の谷助はその一カ月後の10月15日に、横浜の教職を依願退職し、妻と嬰児槐多が待つ本籍地岡崎へと向かった。

 このような経緯について、嶺田家の直系九代目にあたる嶺田久三氏は以下のように語られた

「村山槐多が生まれたのは、八代目嶺田俊雄、九代目の私の家でした。七代目久七の家から南西へ数戸離れた場所にありましたが『槐多が生まれたのはこの家』と母の花子と祖母のかいから直接聞いていました。嶺田家では「かいが税に貸した」と長らく伝えられてきたことで疑いの余地はありません。嶺田丘造は塊多が横浜で生まれたと相伝のままに語っていますが、彼は分家の生まれで少し離れた家に住んでいましたし、税多出生当時はまだ九歳、当家で生まれた。

▶︎村山家の戸籍について(神奈川新聞)

村山槐多は、作家北原白秋の妹を妻とした洋画家山本鼎(かなえ)のいとこ。女性像や風景、自画像で知られ、日本美術院賞受賞歴がある。詩、小説にも才能を発揮したが、流行性感冒により22歳5カ月の若さで亡くなった。

 出生地は、父が教員を務めていた横浜を定説としたが、2011年、中日新聞が「新証拠」をもとに、母の姉の嫁ぎ先である愛知県岡崎出身とする記事を掲載した。佐々木さんによれば、美術関係者らの間ではこれを疑問視する声もあり、以後、慎重に両説併記とする場合が多かったという。

 村山太郎氏提供とを知らなかったのでしょう。横浜生まれをいくら検証しても、槐多の出生に関するものが何ひとつ出てこないのは当たり前のことです。槐多は岡崎の私の家で生まれ、その三十四年後に私自身も同じ家で生まれたのですから。真実はしっかりと後に伝えてゆくべきです」(2019年4月1日再聴取)

 同じく岡崎市花崗町で生まれた山本鼎は、小学校尋常科を卒業すると東京芝の木版画工房に弟子入りしたが、その後、画家をめざして東京美術学校西洋画科に入学、その後ヨーロッパヘ留学した。まじめで優等生であった鼎は、自分には無い、槐多の自由で奔放な「芸術家的天性」に憧れさえも持っていた

 それを示す、鼎がフランスから両親に宛てた書簡(大正2年12月2日)が残されている。

 小生は槐多の芸術家的の天性を愛惜して居ます、先日も絵はがきをくれたが、其ざっとした彩画を小杉と満谷が見て感心して居ました。もし発達すれば、小生などは、とてもかないさうもない位なものになるかも知れないと思はれる。1912年から16年までヨーロッパに留学することになった鼎は、槐多の面倒を友人の画家小杉未醒に頼んだ、そして自身も留学の渡航費の借金返済に苦しみながらも槐多の学費の面倒までみた槐多が画家になることに反対する父親を説得するなど、椀多が画家になるための惜しまぬ援助を続けたが、それは鼎が槐多の才能に対して絶対の信頼をもっていたからである。

 鼎は留学で学んだ西洋の美術文化を日本に伝えることに努めた。特に帰国途中のモスクワで、児童創造美術展と農村工芸品展示所を見た彼は、自由な美術教育と、生活に密着した農村工芸を日本に導入することを決意した。それが「自由画運動」「農民美術運動」を生むことになり、日本における美術表現の枠を大きく拡げる重要な役割を担うことになった。

 鼎は帰国後に「自由画運動」にはとりわけ心血を注いで取り組んだが、それは渡欧する直前に、槐多の自由な表現に出合い、「臨画」という模写しか認めない当時の日本の美術教育が、自由な芸術表現の芽を摘んでいることを実感したことがその根本にあったものと思われる

▶︎画材までも創作した才能

 そのような自由さと素朴さを持ち合わせた槐多の初期作品、《山村風景》は、1910年、山本鼎が槐多を、絵の道へすすむことを進め、近郊のスケッチに同行したと言われる同年の年記のある作品である。山村の人々の長閑な暮らしぶりが伝わってくる生き生きとした描写は、当時の美術教育における「臨画」では、描きえない臨場感のある作品である。鼎がこのような才能を伸ばしたいと念願して「自由画運動」に取り組んだのもわかる。

 これら新たに見つかった初期の作品群では、クレヨンとパステルを混交して描いているように見える。またはクレヨンとパステルの長所を併せ持つ画材「クレパス」で描いたのではないかとも思わせるところがあるが、「クレパス」は、本作が描かれてから、15年後、つまり槐多没後の1925年に、山本鼎がサクラ商会に提言して作り出された画材である。アメリカ製クレヨン「クレイヨーラ」(1903年発売)も日本では入手できなかった時代に、槐多はどのようにしてこのような絵を描いたのであろうか。

 画材の研究者に、これら槐多の新発見の作品調査を依頼したところ、一見して「クレパス」で描いた作品に見えると言われた。しかしより詳細に科学的に分析したところ、炭酸カルシウムが検出され、その成分から「クレパス」ではなくパステルであったことが判明、それを当時の定着液であるシェラック樹脂を上塗りしたり、パステルに直に染み込ませたりすることで厚塗りを可能にした可能性が高いことが分かった。(サクラアートミュージアムの調査結果による)

シェラック(英語:shellac)は、ラックカイガラムシLaccifer lacca)、およびその近縁の数種のカイガラムシの分泌する虫体被覆物を精製して得られる樹脂状の物質である。セラックともいい、漢語では「紫膠」という。

槐多の作品に見られるクレパスのような画材は、実際はパステルで、槐多が家具などの仕上げに使われていたシュラック樹脂を加え「自家製クレパス」にしていたことも、サクラクレパス中央研究所などの調査で判明したという(クレヨンとパステルの長所を合わせたクレパスは、山本鼎の提言で槐多の死後の1925年に開発された)。

日本では大正時代に作られ始めた当初のクレヨンですが、顔料を固形ワックスだけで練り固めたものだったので、硬いこと、塗った紙に定着すること、艶があること、手にベとつかないなどの長所が歓迎されました。しかし、その反面では硬くて滑りやすいという性質上、描画のときには線描が中心となるので表現に限界がありました。

しだいにパステルのように画用紙の上で混色したり、のばしたりすることができるなど、高度で幅広い描画効果が得られる性質をもったクレヨンが求められるようになっていきました。しかし、パステルは顔料を結合材で固めただけの描画材料なので、紙などの基底材となる表面の凹凸に顔料が擦り付けられている状態で、しっかり定着していない顔料がはがれ落ちないよう、仕上げにフィキサチーフという定着液を霧状にして吹き付けるという後処理が必要です。

そこでパステルのように自由に混色ができてのびのび描け、クレヨンのように後処理の手間がなく、しかも油絵具のようにべっとり塗れて画面が盛り上がるような描画材料の開発が進められました。さまざまな試行錯誤が繰り返されて完成した「クレパス」は、クレヨンのクレとパステルのパスをとって命名され、その商品名は商標登録されました。このときのキャッチフレーズが「クレヨンとパステルそれぞれの描画上の長所を兼ね備えた新しい描画材料」でした。(サクラクレパスの歴史より)

 シュラック(セラック)樹脂とは当時の家具などにニスとして塗られたもので、これは比較的容易に入手できたようだ。後に紹介する初期の油彩《飛行機》(上図左) は、1912年に集成材のような板に描かれているのだが、描き終わった後に油彩の上から保護膜になるニスのようなものが塗布されていた。これを修復家に分析してもらったところ、シュラック樹脂系のものと分かった。定着液として使われたシエラック樹脂も、槐多の身近なところにあり、絵画の画材の代用のようにして使われていたことから、自家製「クレパス」も比較的すぐに開発されて描いていたと思われる。

 鼎から、油彩道具一式を入手したが、友人の言のように、すぐに使い果たしてしまい、油彩を描きたくても、油絵具が容易には手に入らなかったことは想像できる。そこで彼はパステルを使って油絵のように重層的に描く画材を考え出したのかも知れない

 山本鼎がクレヨンの改良についてアドバイスして「クレパス」を開発したとき、村山槐多が創出したこの描画材料をふまえていたことも考えられ、槐多最初期の作品調査を進めてゆくことによって、日本の画材史が見直される可能性がある

 今回の発見は、眼を見張るような才能の片鱗を見せる作品が多数あり「栴檀は双葉より芳し」ということを感じさせる。これまでは、感興の趣くままに描いていたと思われがちな槐多だったが、実は赦密な下図を準備していた14歳頃から《妙心寺の回廊下図》(上図右)に見られるように画面全体に方眼線を引いて、構図の設計図のようにパースを綿密に計算しながら下図を完成させている。余白に鉛筆で書き込まれた多数の数式によって、作画技術の習得のために、並々ならぬ相当な努力をしてきたことが見て取れる。完成作と思われる彩色画《妙心寺の回廊》の倍以上の大きさの薄手の紙に描かれているが、《春院ノ庭》(下図左とその下図でも下図の方からかなり大きく、しつかりと対象を捉えようとするしっかりと対象を捉えようとする姿勢が伝わってくる。槐多の素描への並々ならぬこだわりは、この頃からあったことが分かる。

 京都に住んでいた頃には、身近にあった神社仏閣や庭園を熱心に描いていた。なかでも龍安寺の石庭には幾度となく通ったようだ。新緑の季節から雪景色まであり、作品に書き込まれた年記も1911年五月から1912年12月のものまである。《龍安寺石庭》(上図右)の横1mを超える作品では、一枚では描き足らず、次々と継ぎ足されたようで、紙によってタッチの違いが出ている。その長さからも、彼の描くことへの執念のようなものを感じさせる。

通常の描画法によってではなく、ありとあらゆる性質とロジックのばらばらの素材(新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体など)を組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成する芸術的な創作技法である。作品としての統一性は漸進的な並置を通して形成される。コラージュは絵画と彫刻の境界を消滅させることを可能にした。

また、いた作品を切り抜いてコラージュしたかのようなものもある。《龍安寺石》(下図左)では、執拗に描いた力強い岩肌と、背景の土塀の質感が見事に描かれたものが一枚の紙の中に切り貼りされ大胆な構成となり、より迫力ある作品となっている。また、コンテを力強く重ねて黒々とした描線で表現された《龍安寺石庭》(下図右)、横120㎝あり、その存在感には圧倒される。

色彩において大胆な読みがなされているのが《龍安寺石庭》(60)。淡いブルーグレーの岩にイエローの背景を合わせるという当時ではきわめて斬新な色調で描かれており、この頃からすでに常識にはとらわれない表現を試みていたことが分かる。

 塊多はこのような純度の高い色彩の表現を試みていたことが分かってきたのだが、それは山や川、湖、海など、自然の美しい風景を数多く描いた初期作品にも見られる。例えば《山と森》(下図右)では透き通るようなブルーの山をいくつも描いている。槐の眼には純粋にそのように映ったのだろう。どれも光の捉え方が巧妙で、荒いタッチから繊細な細部まで深みのある表情をみせている。その色彩感覚は上京後まもなくに描かれた水彩《山なみ風景(日光ニテ)》(下図左)などの透き通った色彩へと引きつがれてゆく。

 初期のパステル画のいくつかは、一枚のムロ紙に貼り付けられているものがある。それは誰が貼ったのかは今後の調査が必要だが、ただ《山の風景》の三点は(した図3点)は、左上の山の絵にひかれている鉛筆の線は台紙の上まではみ出しており、その線に従って山の一部をトリミングして描けば右の二点と同じ構図となる。これが制作中の試行錯誤の痕跡とすれば、やはり槐多自身が台紙に貼ったということになるのだろう。

▶︎最初のカンヴァス画の発見

 前出のシュラック樹脂が塗られた油彩《飛行機》(下図左)は裏面に「1912年Kai」との記名がある。1914年の上京途中の長野での日記で「午後散歩、円山の上でそぞろに飛行様に乗りたくなれり。い〜気持ちだらうな」と言っているように、彼は飛行機に憧れをもっていたようだ。スケッチにはいくつも描いていたが油彩は初めてである。1912年当時、海外で開発されたばかりの双胴機は、槐多の頭上をかすめたわけではなく、京都の図書館で見た海外雑誌などからのメージだろう。双胴機を黒い影として捉え、夕暮れの光をガランスで縁どりしている。上昇してゆく飛行機の力強さが印象的に描かれている。

《花》(上図右)は、2019年2月、没後百年を迎えたのと同時に槐多の中学校の教師の家から発見された。油彩を描き始めて1年あまり、確認できうる最初の本格的なカンヴァス画である。真の木枠には「槐多1912年」と墨書されており、右下には《人》、左下には《茅茸》、が貼られていた。表の花のモティーフとの関連はないと思われるが、同時に見つかった同じ構図の《茅茸デッサン》(下図上)には、「1913年11月5日」との年記があることから、16歳の頃に描いた同時期の作品がまとめ保管してあったと思われる

 《花》は、素朴派を思わせる描写の一方で、すでに対象把握の鋭さがあり、画面いっぱいに咲き誇る花々には生気が漂っている。これらの作品と共に保管されていた驚くべきデッサンがあった。1914年頃と年記のある《女のデッサン》(恥173)である。税多は1915年日本美術院習作展覧会第一回展に《六本手のある女の踊り》という50号の油彩を出品している。題名からして謎めいているのだが写真さえも残っていない不明作品。小杉未醒がその油彩を見て「彼の佳作の一であったが、私は丁度彼自身が、断崖千尺の上で、六本手ある(話4)る女になつて、狂喜し勇躍して居たやうに思はれます」と語っているが、新たに見つかったこの勇躍する《踊る女》のデッサンは、《六本手のある女の踊り》の構想の根本にあったのではないかと思わせる。これほどまでに躍動感にあふれた槐多の人物デッサンは他に類例がない。

 槐多は中学校で展覧会と称して自作を並べ、先生をはじめ友人らはその上手さに驚いたというが、中学生とは思われぬその描画の力量と勢いに圧倒されたのもうなずける

▶︎フランス美術の影響

 1913年当時、槐多はパリの鼎のもとまで、デッサンや水彩画、葉書やポスターなどを頻繁に送り指導を仰いでいたことがわかっている。槐多が鼎に宛てた以下のような葉書(1913年4月5日)は、その様子を伝えている。

ご無沙汰いたしました。鼎さんは御丈夫ですか。僕は今度中学の五年生になりました。此頃木版をすこし作りました。その中で「春』『秋』と云ふ二枚を別便で出しましたから御笑ひください。習作ですからその積で。普通の墨ですったんでダメになりました。京都は今夜ざくらで都をどりが始まつて居ます。僕は西洋に行きたくて耐りません。もう4、5年の内にはきっと羅馬(ローマ)辺へ移住してもう日本なぞへは帰らん覚悟で大いにこれらから努力するつもりです。さよなら。

 このように二人は手紙のやりとりして、作品も送り合うなどもしていた。この一文で興味深いのは、槐多は京都時代にすでに「羅馬辺へ移住して」と言っているところである。彼は、この翌年の1914年に上京すると、間もなくフランスの画家、セザンヌやルノアールの影響を強く受けた水彩画を多作したが、その後、1915年になって油彩を描くようになると「イタリアの芸術にどうしても最大の歓喜を覚える」、「フランスを成可く避けたい」と述べている。椀多の芸術表現の根底には、イタリア美術への一貫した志向があったことを読み取ることができる。

 鼎の手記には、以下のようなものがある。

彼れは、巴里へ、デッサンだのポスターなどを送って来た、そし て、「鼎さんが、ルノアールなぞに心酔して居る間に、僕は鉄に鉄を打ち込むような厳しい素描を作り上げるのです。僕は、レオナールドの塁に進むのです。鼎さんなどはやがて僕等に征服される処に僅かに生存の意味があることになるでしやう」なんかと言ってきた。

 ここでも槐多は、ルノアールなどではなく、ダ・ヴィンチの方向に向かいたいということを鼎に表明していた。ところが、椀多が上京して間もない1914年8月になると、彼が友人の長谷部武二郎に宛てた手紙(8月19日付)には以下のように書かれている。

僕はセザンにかぶれた、セザンの画の様に万物が見えていけない[…]僕は今秋できっと『画家』になる。これはきっとだ [‥‥]オレは何かな、まづいまのところ(ママ) Runoir Japonになりたい心算だ 美女の群、女の肉、紅と紫と青の風景、戦争、それらのデカダンが心の領域を占めて居る

 当時、槐多がこのような印象派の画風に急速に傾いたのは、滞欧して当時の先鋭であったフランスの美術を学んでいた山本鼎からの影響が大きかったものと思われる

 その頃に描かれた10号の油彩が見つかった。《森の道》(上図)である。印象派に影響を受けていた1914年当時は水彩ばかりを描いていたと思われていたが、油彩が見つかったことは意義深い

 西洋絵画の実作品が国内ではほとんど見られないこの時代に、槐多は図書館に通い、海外の雑誌、ART ET DECORAION(1897年創刊、120年以上の歴史と世界中に読者を持つ、フランスを代表するインテリア雑誌です)DIE KUNSTなどを原文で読み、最新の美術動向を把握していたことは分かっていた

アート&デコレーションは、創立115周年を迎えます。 生活の芸術の115年。 1897年の創立以来、アート&デコレーションは私たちの社会の変化の特権的な証人のままです。 115年の間に、雑誌もライフスタイルと趣味が変化し、常に読者に折lect的で革新的な選択肢を提供してきました。 今日、世界で最初の装飾雑誌はその歴史を記憶しています。 驚きに満ちた壮大な物語…

 とはいえ、印象派の理論をここまで正確に理解し、自身の表現として描き出してしまう力量には驚かされる。それもこの作品に見られるのは、モネやルノアールといった印象派の代表的な画家の筆敦ではなく、むしろ、ピサロの繊細さのようであり、さらには印象派を遡ったところにある画家、コローにまで遡及するような、光に真摯に向きあって描写された木漏れ日の繊細さなどが際立っている

 大正初期における水彩画の隆盛 槐多が画家を目指して上京したのが1914(大正3)年、18歳のときであった。10月に二科展第1回展が開催されて、椀多は四点の水彩画《植物園の木》・《庭園の少女》・《田端の崖》《川沿ひの道》を出品し初入選を果たした。

 この時の入選作について、版画家の織田一磨は「強い経線と強い紅色とで仕上げた水彩画として思い切った絵である。技巧も単純であるが一種の効果を得ている。殊に『庭園の少女』最もよい作品と思う」と評価している。

 槐多の水彩画が二科展で即座に入選できたのには、作品の魅力以外に当時の美術界の状況も反映している。二科会は、正統的技巧ばかりを重視する官設による文展に対抗するために生まれた団体で、新人を優遇する傾向があったこと。また当時は、水彩画ブームともいうべき隆盛が下火になりつつあり、大下藤次郎らの水彩画研究所の画家たちによる緻密描写が時代遅れと映る時期でもあった。ゆえに、単純で大胆な税多の水彩画が新風を吹き込むように感じられたのだろう。

 このように1914年、上京したばかりの彼は、セザンヌ風の水彩画舌鼓してを描いていた。前出の二科展に出品した四点のうち一点が横山大観に買い上げられて勢いづいた槐多は、当時小杉未醒が本家で「大きな壁画を描いて居る」ところを見た影響もあり、壁画規模の大作制作の計画をする。それが縦1.8m、横2.4mにもなる壮大な水彩画の大作《日曜の遊び》(1925年岡崎市美術館)であった。

 槐多は、300号にも迫るこの「大作」を翌1915年に完成させるべく挑戦したが、自身の基礎力の不足を認識して制作を放棄。絵画制作における最初の屈辱を味わった。この挫折が大きな転換点となって、この「大作」を最後にセザンヌ的な透明感ある水彩画は描いていない。(拙著『引き裂かれた絵の真相村山塊多の謎』講談社、二〇一三年参照)

 大作を放棄したと思われる一九一五(大正四)年十月、第二回院展の洋画の部で水彩画の《カンナと少女》院賞を得たが、院展が開催中(東京展10月11日〜31日、京都展11月19日〜12月5日にも関わらず、槐多は長野県大屋の山本鼎の実家に10月中旬から11月初旬にかけて居候をした。そのときの日記には「あらゆる退化を示したる過去を振り切って自分はなつかしい信州へ来た。自分の新生は始まるのだ、過去をすっかり棄てた[…]」と記し、デッサンを50枚描くと宣言し実行した。その期間に書かれた『信州日記』(10月14日から10月30日)には、描けば描くほど力の不足を反省し、繰り返し描く対象に向かっていく、謙虚な姿勢が書かれている。

 滞在2日目の10月15日、『信州日記』には次の記述がある。

 俺は或る確信がついた。セザンヌの透明は俺のものでは決してない。俺の物は「俺自身」の芸術だ、俺はもう迷はぬ、うんとうんと描く

 セザンヌの水彩に見られるような、重ね塗りによる透明感や、その影響は《日曜の遊び》「大作」にも共通して見られる。翌16日の日記には、それが直接的な反省となって以下のように書かれた。

今はゴッホかセザンヌの真似をして居るから不可ないのだ。もっと野蛮にもっと勇猛にならなくてはならない、執拗で孤独な芸術がむしろ俺の道だ

 これ以降彼は水彩画自体を放棄し、自身が「アニマリズム」と呼ぶ様式に突き進む。大作の失敗を糧にするかのように《尿する裸僧》《裸婦》(口絵四)など優れた油彩作品が生まれ、多が求めた「野蛮で勇猛、執拗で孤独な芸術」といった凄みを増した独自の画風が確立する。

▶︎1915年の転換点

 このようにして、1915年は槐多にとつて大きな転換点となり、表現のための絵具は水彩から油彩へと変わってゆく。これを機に彼はデッサンカを飛躍的に向上させ、対象の把握を鋭く、造形を厳しくしている。その変化は絵画のみならず、文芸などすべての表現に及んでいる。

 再興日本美術院第二回展に出品し、美術院賞を受賞した水彩画《カンナと少女》は、盛夏、真赤なカンナの花が咲き乱れる小杉邸の庭で描かれた。モデルは西隣に住む彫刻家吉田白嶺の5歳の娘雅子。構図や、赤、青、黄の三色を基調にした点では前年の《庭園の少女》を踏襲しっつ、筆触に鋭さと規則性をもたせて洗練された造形美を示している。それと同時期に描かれていた油彩画が発見された。《カンナ》(上図右)は、水彩では表現できなかった立体的な構築性と対象の存在感を、ガランスをふんだんに使って鮮烈に措きだしている。アニマリズムの要素を造形的に高めた表現となっており、今後の槐多の研究に寄与する重要作品といえる。手近にあった右上の欠損した板に描いたようで、画材にも窮した貧困生活がうかがえる。作品の真には「田端155   1915.7.−村山槐多」とコンテで自著されている。この作品が、槐多が水彩から油彩へと中心軸を移行してゆく転換点であったのではないか。

 また1915年は様々な試みがなされていた。《無題》(上図左)は、抽象的な表現で、1910年代当時の日本では極めて前衛的な作品である。左下には「槐多」、右下には「1915年」と鉛筆きがある。彼は当時最先端であったイタリアの未来派のことも知っており、また、「恐ろしい立体の感じを現はして見せよう」などと1915年当時書いていたことから、花などを発想源にして荒々しく筆を走らせてその動きの美しさを求めたり、抽象化を試みたりしたのかもしれない。また短歌に「うつくしき薄紫のシネラリヤ/未だ散らざるは涙をさそふ」と歌っていることから、この絵の花びらのような形態に似たシラネリアの花が発想源なのかもしれない。顔料も赤金、青金、金、銀、アルミニウムなどの金属系のものを使っており、光の反射によってきらきらと色味が変化するあたりも表現の意図があったものと思われる。《湖水と槐》(上図右)は、槐多が好んで描いた木越の水辺の風景を描いたデッサンである。力強い枝ぶりで、こんもりと有機的につながる葉や花は槐(えんじゅ)の樹。そもそも槐は、中国では高官の家の前に植えられた高貴な樹で、鬼門を除けて悪を払うという縁起の良い樹とされる。そのような目出度いことが多いようにと森鴎外が槐多と名付けたというのは得心がいく

ゑんじゆ 【】えんじゅ 中国原産の、まめ科の落葉高木。高さ約10メートル。夏、黄白色の蝶(ちょう)形の花がふさ状に咲く。秋、さやにはいった実を結ぶ。材は建築・器具用に、花・実は煎(せん)じて薬用にする。

 本作では神話を暗喩するような湖水の前に、自分の名前の一文字である税の樹に特別な思いを込めて描いたのであろう。木炭に自コンテを塗り込める手法は、《のらくら者》(下図左)と同じだが、よく見ると水面に青パステルが差し色となっている。

 荒々しい筆致の中に繊細さを持つ槐多にしか描きえぬ深みのあるデッサンである。本作は所有者の方が亡くなった廃棄寸前の部屋をご子息に探していただいたところ、額が壊れガラスが割れた状態で発見された。塊多の作品には、そのような危機に瀕した状況で発見されることがたびたびある。《三味線を引ける女・三人の人物》(上図右)も、蔵を取り壊す折、処分する雑多な古本の箱の中に入った軸を、たまたま引き取り業者が槐多を知っていたことで確保されたが、代がわりしていた所蔵者は塊多を知らなかったため、そのまま廃棄されていてもおかしくはなかった。

▶︎油絵具が少なかった理由

 1915年に主軸を油彩へと変換し、制作意欲をもって次々に作品を葺いていく托多であったが、油彩善が少ない理由として画材が思うように買えぬほど貧しかったということがあげられる。大正七年四月、いよいよ貧窮した彼は鼎のもとに金策を依頼する以下のような手紙を出している。

 いよいよ貧窮した彼は鼎のもとに金策を依頼する以下のような手紙を出している。

(…)僕は金がないので辛うじて生きてるばかりで何もする事が出来ません。あの絵は鼎さんに是非お願いひします、なるべく早く、所で僕はこの月末金が五円ばかり入要なのですがそのうちいくらか鼎さんに足していただけませんかしら(二、三円)僕の絵が金になったらおかえしすることにしますから、でないと僕は少々参ります、現在の生活すら維持できなくなります

 大正初期の油絵具の価格は、現在とは比較にならないほど高価なものであった。とりわけ税多が好んで使用していたガランスは高額であったようで、以下のような詩を書いている。

 ガランス

 このガランスは一本が二囲ちかくした、だがこれをぎゆっとしぼり出す事は  何たる快楽だらう、二圓はどぶの中へでもとんでしまへ このガランスが千圓しても高くはないぞ これをぎゆっとしぼり出す事は 女郎買よりも快楽だぞ  二圓で酒が一本ついて一晩まはしがなかったより  たしかにガランスは徳だ ガランスの快楽は善ひ

 当時チューブ一本で二円程したというのだから、貧しかった槐多にとつて油彩絵具は容易に人手できるようなものではなかった。当時の二円は、1900(明治33)年当時の槐多の父、村山谷助の京都一中の教員の月給が35円であったことから、現在の2万円程度であったと考えられる。ゆえに、カンヴァスを買って、油絵具を数色調達するといぅことは「金がないので辛うじて生きてるばかりで何もする事が出来ません」と言っていた槐多にとつては容易なことではなかった。油彩を描くことができたのは、アルバイトなどの収入があった時か、あるいは友人の絵具を拝借したこともあったが、彼が最も喜んだのは、山本鼎や小杉末醒からたびたびもらい受けた画材だったのだろう。1918(大正7)年2月10日の日記に、小杉未醒から80号のカンヴァスを貰ったという記述がある。そこに、現在ではデッサンのみが残された《風船をつく女》(292.293)を油彩で描く決意が記されていた。

「風船をつく女」を素晴らしい物に仕上げよう、もとでは簡単だ。ワク7,80銭  モデル費2日分1円 画具と筆3円  5円で上げよう。 

 「もとでは簡単だ」などと書いているが、実際には、友人達は長く続かなかったという焼き絵のアルバイトに精を出しても、それはどの手取りにはならなかったようだ。1917(大正6)年12月24日の日記に「夜工場へ行って金を8円貰った」という記述があることから、一度に手渡されるアルバイトの給金のはとんどをつかうことで、大型の油彩が一点描ける程度という状況であったことがわかる。