大浦信行の《遠近を抱えて》
▶︎はじめに
《遠近を抱えて》は、大浦信行が1982年から85年にかけて制作した連作の版画作品で、昭和天皇や古今東西の美術作品、周囲の事物や風景の写真を組み合わせたリトグラフ(一部シルクスクリーン)である。この作品が注目を浴びるようになったのは、86年に富山県立近代美術館の『富山の美術 ’86』展で展示された後に起こった一連の事件によるところが大きい*1。天皇の写真の使い方をめぐって県議会議員や右翼から批判を受けた美術館が、作品を非公開処分にし、さらに売却した上で図録を焼却するなど、不当な対応を取り続けたのである*2。94年に大浦氏や県民、美術関係者らが作品の買い戻しと図録の再発行を求める国家賠償請求を行ったが、2000年に最高裁で上告が棄却されて原告の敗訴に終わった。一連の事件や裁判、抗議運動は、表現の自由、美術館の社会的役割、天皇制の問題に至る広範な議論を美術や文化に携わる者の間に呼び起こしたことで広く知られている*3。
この間《遠近を抱えて》をめぐって書かれた論考は膨大な数に上る。ほかならぬ『あいだ』も一連の出来事のなかで生まれた雑誌の一つであり、折にふれてこの富山県立近代美術館問題を取り上げてきたことは今さら言うまでもないだろう。それらの文章を読み直してみて気づくのは、作品それ自体の分析よりも、事件や裁判に対する批判と分析のほうに重点を置いた論考が多いことである。行政が不当な対応をとり続けた状況を考えれば、その問題を指摘して抗議運動を行うのが最優先の課題であったことは理解できる。しかし、ある美術批評家が述べたように、「ひとりの作家の表現であったという事実が置きざりにされてしまった」、「これまで作品としてはほとんど論じられてこなかった」こともまた事実であろう*4。結局のところ、《遠近を抱えて》とはいかなる作品だったのだろうか。作品のどこがあそこまで保守派を苛立たせたのだろうか。そして、15年にもわたって続いた支援活動を可能にしたのは何だったのか。そのことを考えるために、本稿は《遠近を抱えて》のなかで特に重要だと思われる二つの点を中心に分析を試みたい。一つは何と言ってもやはり、昭和天皇の写真を用いていることの意味である。天皇の図像を使っていること自体は一目瞭然であるが、では、どのように、そして、なぜ、使っているのかに関して、十分納得のいく答えは用意されてこなかったように思われる。そしてもう一つは、大浦自身が、この作品は自画像であって、天皇を批判しようとしたわけではないと述べていることの意味である。作家本人の図像を一切含まないこの作品を自画像とみなすためには何らかの手続きが必要であろうし、天皇批判でないとしたらでは一体何なのかという疑問が湧く。本稿では《遠近を抱えて》を丹念に読み解くことによってこうした問題に対する私なりの読解を提示してみたいと思う。ただしそれは、コンテクストに対する分析とは別に、作品自体の分析が必要であるということでは必ずしもない。美術作品といえども、他の存在と同様、特定のコンテクストのなかに置かれた存在である。だが、コンテクストから一方的に影響を受けるだけでなく、新しいコンテクストを作り出していく美術作品もまた一定数存在する。《遠近を抱えて》はまさにその一つに他ならない。本稿は、大浦作品を分析すると同時に、その分析を通して、作品が生み出した新しい言説の配置についても考察したいと思う。《遠近を抱えて》が、80年代前半に制作されながらも、いかに90年代的な問題を先取りしていたかを明らかにしていきたい。
▶︎ 1.戦前の洋装の天皇
これまで誰も指摘してこなかったことであるが、大浦が作品中で用いた天皇の図像は、一冊の本から取られている。それは、毎日新聞社が80年に出版した『昭和 天皇史』である*5。昭和の歴史を回顧する「1億人の昭和史」シリーズの別冊として刊行されたこの本は、生誕から80年の時点までの昭和天皇の活動を、写真をふんだんに用いて紹介した本である。
写真や映像を通して天皇の来し方を振り返るという企画は、86年の在位60年記念や89年の崩御の際に数多く登場したが、大浦が《遠近を抱えて》を制作し始めた82年の時点ではそれほど多かったわけではない。とりわけ写真集の類は数えるほどしかなかったように思われる*6。したがって、天皇のイメージとしておそらく一般的に知られていたのは、まずもって、国内各地の訪問や一般参賀の際に見かける背広姿であり、また、その過去の姿、すなわち戦前から戦中にかけて陸海軍を統帥する大元帥としての軍服姿だった*7。
こうした状況を考えれば、大浦がこの本を手にしたときに新鮮な感動を覚えたことは想像に難くない。「戦前・戦中の軍服姿」と「戦後の洋服姿」という一般的なイメージに当てはまらない天皇の写真がそこには多数含まれていたからである。なかでも大浦が注目したのは「戦前の洋服姿」の天皇であったように思われる。というのも、連作のうち半数の作品で、大浦は戦前の洋服姿の写真を使っているのである。例えば作品IVを見てみよう(図1)。この作品では洋装の天皇の写真が、海北友松の《花卉図》、頭部の横断図や梅の木等の写真と組み合わされている。この写真は、24年、当時摂政だった裕仁が久邇宮良子と結婚した後に撮影されたものである。元の写真がはっきり示しているように(図2)、裕仁はモーニングを着て、左手は手袋を持ちながらステッキをついており、非常に西洋的な姿をしている。また、写っているのが裕仁と良子の二人だけであることも重要である。大正天皇が病気だった事情もあるだろうが、新郎新婦二人だけの写真というのは、家族と一緒に写るのが一般的だった当時の日本の結婚式の写真の典型とは大きく異なっている*8。前年に女官制度を改革して側室制度を廃止した裕仁は、一夫一婦制を近代家族の理想と考えており*9、写真はその理想を象徴するものだったと言えよう。この写真から伝わってくるのは、当時の皇室文化が、服装においてだけでなく一組の夫婦という点においてもまた西洋化のさなかにあったということである。
西洋化の影響がはっきり現れている作品は他にもある。作品Iは、23年頃に日本で撮影された裕仁の写真を中央に据えている(図3)。裕仁がオープン・カーに乗ってシルクハットを持ち上げている写真である(図4)。この作品もまた、戦前の皇室がいかに西洋的であったかを物語っている。だが西洋的なのは洋式の礼装と近代的な自動車だけではない。パノフスキーがイコノロジーを説明する際に用いた有名なたとえにあるように、帽子を持ち上げるという行為は、西洋世界に特有の礼儀正しい挨拶なのである*10。つまり裕仁は、単に西洋の品々に囲まれているのではなく、その文化を習慣として身につけている。ここで皇太子は、背中に刺青をした二人の女性と一緒に並べられている。ボッティチェリ《ヴィーナスの誕生》の〈時の女神〉ホーラが衣を掛けようとするのは、この両者に対してである。なぜなら裕仁も女性もともに脱衣の身振りを示しているからだ。だが、脱衣という点で共通しているがゆえに却って、天皇の洋装の近代性が、女性の伝統的な刺青との対比で際立って見えるようになっているのである。
なるほど、大浦は戦前の洋装の天皇に関心をもったのかもしれない。だとしたら次の作品はどうなるのだろうか。図5は『富山の美術 ’86』には出品されなかった作品であるが、明らかに、戦前・戦中に典型的な軍服姿の天皇のイメージが使われている。この写真は、満州事変が始まる前年の30年、岡山県で行われた陸軍特別大演習の観兵式のときのものである。まず目を引くのは、大元帥である天皇が白馬に跨っている姿である。この写真は、白馬のもつ神聖なイメージを利用して、天皇が自らの統帥権に神話的な力を付与しようとしているものとも考えられるが、大浦が興味をもったのはそれとは正反対のことだったように思われる。というのも大浦は、同じく『富山の美術 ’86』に出品されなかった別の作品(図6)で、幼少時の裕仁が白馬の木馬に跨って遊んでいる写真を使っているからである。調度類に舶来品を揃えた川村伯爵邸で育てられた裕仁は、フランス製の女子の白いワンピースを着せられて、同じくフランス製の木馬で遊んでいたというくらい西洋文化に浸っていた。大浦は、この木馬で遊ぶ幼い裕仁の写真を、本物の白馬に跨った大元帥の写真にぶつけることによって、神聖にして英雄的な威厳をもつとされた戦前の天皇のイメージを、西洋文化に囲まれて育った幼少期の世界へと送り返そうとしたように思われる。
《遠近を抱えて》には「戦前の洋装の天皇」ではないにせよ、やはり同様に西洋文化と深い関係をもつ天皇の図像が数多く登場する。『昭和 天皇史』の表紙の写真を反転させた作品VI(図7)の年老いた天皇の写真は、75年の初の訪米の際に立寄ったカリフォルニアのディズニーランドで撮影されたものである。目元と口元には笑みがこぼれているが、これは、天皇がディズニー・パレードを見て微笑んでいるのである。この作品については次節で論じることにしたいが、一点だけ指摘しておきたいのは、背景にはニューヨークのブルックリンにあるプロスペクト・パークが使われているということである。そして、これも次節で詳しく述べることにしたいが、作品III(図8)は皇太子時代の裕仁がイギリスを訪問したときの写真を使っている。《遠近を抱えて》は、外国にいる天皇の写真、もしくは天皇を外国に置き直した写真を選択的に用いて、異文化体験を主題の一つにしているのである。
この異文化体験という主題は、それ以外の図像の選択にも表れている。尾形光琳の《松島図屏風》は、日本国外にある日本美術の重要作品としてよく知られているものだ。フリーア美術館にある俵屋宗達の《松島図屏風》に倣ったこの屏風は、現在はボストン美術館が所蔵している作品である。またヤマ・ダルマラージャ(閻魔法王)とヴァジラサットヴァ・ヤブユム(金剛薩た父母仏)を描いたタンカ(チベット仏画)を用いた作品があるが、このタンカは大浦がイースト・ヴィレッジで購入した複製である。カウンター・カルチャーがまだ感じられた80年代前半のヴィレッジにおいて、タンカは、60年代文化の継承者による東洋思想への関心の表れであった。つまりこの図像の選択には、異文化に対する想像力の投影という主題が関係しているのである。それは長谷川等伯の《瀟湘八景図屏風》を選んだことにも表れている。瀟湘八景とは、中国湖南省の瀟水と湘江が合流する地域の八つの勝景である。日本では、画題として盛んに描かれただけでなく、近江八景や金沢八景に見られるように、この八景にならった景勝地が各地に作られてきた。瀟湘八景図の背景にあるのは、圧倒的に豊かな中国文化に対する日本の側からの憧憬であり、タンカと同様、異文化に対する想像力の強さを示しているのである。
今まで見てきたように、《遠近を抱えて》で主に用いられたのは、戦前の洋装の天皇の図像であった。それらは、単に洋服を着ているという程度のものでなく、西洋文化の内面化を物語る図像であった。また、天皇が外国を訪れたときの写真や、外国の風景を背景にした写真も使っていた大浦作品は、天皇の異文化体験を主題の一つにしていたことは明らかである。皇室の文化は、三島由紀夫の「文化防衛論」に代表されるように、日本の伝統の中で捉えられがちだったが*11、《遠近を抱えて》における天皇の図像選択とは、そのような皇室の文化のなかに西洋的なものを見出そうとする試みだったと言えるだろう。もちろん、同様の趣旨の指摘は、戦後の昭和天皇や今上天皇の明仁に関して数多くなされてきたし*12、歴史を知る者にとってはごく当たり前のことかもしれない。だが、時代の状況を考慮する必要がある。大浦作品が作られた80年代半ばは、新表現主義が世界の現代美術市場を席巻し、日本でも「ニュー・ペインティング現象」がメディアを賑わせた時代だった。そのポスト・モダンの喧騒のなかで、大浦は、戦前の天皇の文化的非同質性を、視覚言語を用いて独自に考察していた。大浦の歴史的な問いかけは、同世代の美術家たちの作品と比べて類を見ないものであり、その卓見はもっと評価されてしかるべきであろう。
▶︎ 2.自画像としての天皇像
では次に、大浦が《遠近を抱えて》は自画像だと述べている点について検討してみたい。大浦は93年に開かれたシンポジウムの席で次のような趣旨のことを述べている。
自画像を作ろうと思ったのが《遠近を抱えて》のきっかけである。ただし、自分の顔を描けばそのまま自画像になるわけではない。自分自身があるのは、見えない領域すなわち魂の領域であり、それはイマジネーションの領域に他ならない。実体の見えない天皇や、自己の一部を形成しているヌードや解剖図を画面にちりばめることによって、イマジネーションとしての自己を浮かび上がらせようとしたのである*13。
一見するとこの主張は、70年代後半から80年代前半にかけてよく論じられた自己(自我)の解体というテーマと似ているように思われる。その代表と言える三浦雅士や岸田秀らの議論を、ある評者は「自己というのは空っぽであって、そこにどんな幻想でも入りうる」ということだとまとめている*14。だが、大浦の考えていたのは、はたしてそういうことだったのだろうか。以下では、《遠近を抱えて》で用いられたそれぞれの図像がどのように大浦自身と関係しているのかを検討していきたい。
まず、作品III(図8)を見てみよう。前節で触れたように、ここで使われている写真は、21年のヨーロッパ旅行でイギリスを訪問したときのもので、ロンドン市長主催の午餐会で撮られた記念写真である。皇族が国外に出た最初の出来事とされるこのヨーロッパ旅行は、外交的な目的よりも、将来の天皇に対する教育の一環として行われたが、外交と全く関係しないわけにはいかなかった。裕仁が訪問したのは、第一次世界大戦後に発言力を増したアメリカが、20年続いた日英同盟を廃して、イギリス、フランス、日本、アメリカの四カ国条約を締結しようと画策していた時期だった。つまり、裕仁は、外交的に全く未経験であったにもかかわらず、日本の代表と見なされざるを得ない状況に置かれていたのである*15。
元の写真(図9)に明らかなように、皇太子は、中央の座を占めるロンドン市長の堂々たる姿に圧倒されているように見える*16。目は伏し目がちで、記念撮影にもかかわらず手でナプキンをいじっており、主賓の振る舞いとしては普通でない。この旅行に随行した記者が後年回想するには、眼前に大勢の参加者が座しているにもかかわらず、皇太子は午餐会の間ほとんどしゃべらず、ワインもタバコも口にしなかったという。それと対照的だったのが、向かって右側に立つエドワード8世、後のウィンザー公だった。当時、皇太子だったエドワード8世は、裕仁よりもずっと見栄えの良い軍服を身にまとい、ワインもタバコも嗜みながら隣の席の者と大声で談笑するなど、ひと際輝きを放っていた*17。大浦はなぜ、この、いささか頼りない姿の天皇の写真を選んだのだろうか。
それについて考えるために、まず、この午餐会の写真が女性のヌード写真と並置されていることに注目したい。このヌード写真は、「モンパルナスのキキ」と呼ばれた著名なモデル(本名アリス・プラン)を撮影したマン・レイの作品で、マン・レイのなかでは珍しく全身を正面から撮影したものである。大浦は、女性の身体を断片化することで、マン・レイに特徴的なフェティシズムを増幅させている。マン・レイは大浦が当時関心を抱いていた美術家であり、その経歴は、大浦自身の経歴と重なるところがある。マン・レイはアメリカ人として美術の中心だったパリに渡り、30代前半でモンパルナスのキキの写真を撮ったが、大浦もまた美術の中心ニューヨークへと渡り、同じく30代前半でやはり女性のヌード写真を撮っている(その写真はこの連作でも用いられている)。大浦がマン・レイに関心を抱いたのは、フェティシズムの問題を写真という複製メディアを通して考察したからだけでなく、出身国を飛び出して異国の支配的文化のなかで制作したということもあったのではないかと思われる。
そのマン・レイのヌード写真は午餐会の写真とどう関係するのだろうか。ここで手がかりにしたいのは、美術史家ノーマン・ブライソンによるジャック・ルイ・ダヴィッドの《ホラティウス兄弟の誓い》(図10)の分析である。この絵画は、ローマを代表するホラティウス兄弟が、アルバ・ロンガ代表のクリアティウス兄弟と戦う前に、父の前で誓いを立てる場面を描いたものである。向かって左側のホラティウス兄弟は雄々しく描かれるのに対し、クリアティウス兄弟の一人との婚約者がいる右側の姉妹は力なく悲しんでいるように見える。一見すると、この兄弟と姉妹の対比は、旧来のジェンダー役割を踏襲しているように思われるが、構図の中心に物語の中心(誓いの象徴としての、剣を束ねる父の手)が置かれることによって、姉妹だけでなく兄弟もまた、誓いという象徴秩序によって支配されて翻弄されているというのがブライソンの分析だった*18。ホラティウス兄弟と姉妹がともに誓いの秩序にとらわれた存在であったように、皇太子裕仁もモンパルナスのキキも、ともにまなざしの秩序にとらわれた視線の対象であったと言うことはできないだろうか。裕仁は午餐会で大勢の参加者の眼差しを一身に浴びたと感じ、モンパルナスのキキもまた、エコール・ド・パリの画家たちの視線に晒された人気モデルだった。もちろん、前者に対する好奇のまなざしはおそらく人種的だったの対して、後者に対するまなざしは性的な問題を含んでおり、質的に異なるものであるが、ともに有徴の記号として(人種的であれ性的であれ)劣位に置かれた存在であるという点で共通している。そうした二つの図像を並置することによって、大浦は、まなざされる者の居心地の悪さを強調しようとしたのである。
天皇に対するそうした描写は、他の図像からも感じとることができる。《遠近を抱えて》で用いられた天皇の図像は、頭部を切断されたり、口を覆われたり、あるいは別の図柄で顔を消されたりしているものが多く、主体として立ち上がるのを阻まれているように見える。例えば、作品VIにある天皇の図像は、ディズニーランドを訪れたときの写真であったことは前節でふれた。ディズニー・パレードを見て微笑んでいた天皇は、頭部を半分に切断され、ひと気のない公園に放置されてしまう。背景となったプロスペクト・パークは、大浦が住んでいたアパートの近くにある公園である。大浦は、自分がよく見知っている公園に天皇を置いてみることで、視線の主体になり得ない天皇の居心地の悪さを自分の問題として引き受けようとしたのである。
大浦が作品IIIで、頼りなさそうな裕仁の写真を用いたことの意味もそこにあるように思われる。そこに写っているのは、日本において誰よりも西洋文化を模倣することに成功した天皇、だが実際の西洋社会においてはまなざしの対象として居心地の悪さを感じてしまう天皇の姿であった。日本を離れニューヨークに住んでいた大浦が、天皇の図像を用いて自画像を描こうとしたのは、おそらくそこに自分と共通するものを見出したからではないだろうか。49年生まれの大浦が育った戦後日本は、経済成長が進展し、西洋の文化が広く生活に浸透しつつある時代だった。過去の美術作品の引用を豊富に含み、リトグラフとしての高い完成度を誇る《遠近を抱えて》が示しているのは、大浦がいかに西洋の文化的規範のなかで成功を収めているかということである。だがそれと同時に、それぞれの図像から伝わってくるのは、高度に西洋化しているがゆえにかえって感じざるを得ないような居心地の悪さなのである。それは、おそらく大浦がニューヨークで体験したことであろうし、もしかしたら、当時の大浦と似た状況に置かれている筆者自身が反応してしまうところなのかもしれない。いずれにせよ、大浦にとって自己とは空っぽでもなければ、そこにどんな幻想でも入りうるようなものでもない。それぞれの図像は単なる過去の美術作品からの引用ではなく、その選択と配置には大浦自身の思考と体験が深く刻み込まれている。それらの図像から浮かび上がってくるのは、大浦自身がいかに西洋化のもたらす問題に取り組んでいたかということなのである。《遠近を抱えて》が自画像であるというのは、その意味で理解しなくてはならない。
▶︎ おわりに
《遠近を抱えて》が試みたのは、二極化した昭和天皇のイメージ、すなわち「戦前・戦中の軍服姿」と「戦後の洋服姿」を打破することであった。「戦前の洋服姿」の天皇の図像を用いて、大浦は、天皇がいかに西洋文化のなかで育ったかを明らかにしつつ、同時に、西洋社会を訪れた天皇の居心地の悪さを強調したのである。言い換えれば、《遠近を抱えて》が問題にしたのは、支配的文化である西洋文化を模倣すること、そしてそれが部分的なものにとどまることの意味である。それは、ホミ・K・バーバの言う「植民地的擬態」の議論と比較することが可能だと思われる。バーバによれば植民地的擬態とは、「ほとんど同一だが完全には同一でない差異の主体が、矯正済みで[植民地的言説の権威によって]承認され得る〈他者〉になろうとする欲望」である。そして、そのアンビヴァレンスが生み出す過剰さやズレは、攪乱的な効果をもつために植民地的言説に対する脅威となるとバーバは述べている*19。もちろん、天皇の場合は、天皇自体が近隣アジア諸国の人々に対する脅威であったという問題がきわめて大きいため、こうした比較にかなり無理があることは十分承知している。しかし、大浦が、この、支配的文化に対する模倣の問題を、自分自身の問題として発している点を考慮する必要がある。つまり、大浦にとって天皇とは、批判の対象でないのと同時に賛美の対象でもなく、つまりそれ自体に力点が置かれていたわけではない。むしろ大浦の関心は、その図像を通して明らかにされる自分の内なる「植民地的擬態」に向けられていたと考えることができるのではないだろうか。
ポストモダンが席巻した80年代半ばの日本において、《遠近を抱えて》が正当に評価される場所は限られていた。過去の美術作品の引用からなるポストモダンな作品という解釈はあり得ても、日本の近現代史に対するポストコロニアルな問いかけだと理解されるには、大浦作品の登場はいささか早すぎた。支配的文化の模倣に関する議論が本格的になったのは、バーバらのポストコロニアル研究が注目され始めた90年代半ば以降だったのである。だが、パフォーマティヴなレヴェルでは、富山県立近代美術館問題を契機に、大浦作品とその支援運動は、美術や文化に携わる者の社会的な関心を再び高め、彼らの間に、連帯することの重要性を広く知らしめるという役割を果たした。その裁判運動は、60年代の千円札裁判に見られたような、特権的な前衛意識に基づく芸術の擁護ではなく、天皇を神聖視しようとする日本のナショナリズムの復活に対する抵抗の運動であったと言うべきであろう。こうした復活の動きに対抗する言説が日本で本格化したのは、90年代に入ってからであった。新しい歴史教科書や日の丸・君が代法制化に反対する市民や研究者の抗議運動、加藤典洋の『敗戦後論』に対する高橋哲哉らの批判、カルチュラル・スタディーズの導入による日本の近現代史への批判的研究といった対抗言説が注目を集め始めたのは、全て90年代のことである。他方、86年に事件化して以来、大浦は右翼や保守派の攻撃や懐柔を一貫して拒み続け、その支援運動は集会や出版物あるいは裁判を通してナショナリズムの復活に警鐘を鳴らしてきたことを考えれば、《遠近を抱えて》とその支援運動は90年代に盛んになる対抗言説の先駆けであったと言える。つまり、《遠近を抱えて》は、その内容においてだけでなく、それがなした行為においても、日本的なものの批判という90年代的な文脈を準備したのである。そしてその問いかけは、大浦が監督した映画《日本心中》、すでに完成したと聞く続編へと形を変えて今なお続いているのである。
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