飛鳥奈良時代の漆工

■飛鳥奈良時代

 我国古代の漆工品で現存するものほ、飛鳥に都のあった欽明天皇より平安遷都に至るまでの飛鳥奈良時代である。その最も隆盛を極めたのほ聖武天皇治世を中心とする天平時代である。所謂この天平時代の漆工ほ真に我国漆工の根源となったのである。我国の工芸美術の意匠図案および製作法は、欽明天皇の十三年(五五二)仏教の渡来を契機として一変した。それは中国朝鮮の文物を輸入するに及びその影響を受けて、工芸美術は漸次啓発され発達の緒につき、仏教の興隆と普及は益々工芸の発達を促した。更にまた中国朝鮮の工芸に関する帰化人多くその協力も少くなかった。殊に推古天皇の一五年(六〇七)小野妹子を隋に達し鮮明天皇の二年(六三〇) には遣唐便の制度と共に学僧の往来も多くなり、従って中国の文物の輸入も次第に盛んになった。而してまた聖武天皇時代にほ歴代の天皇践祀せらるる毎に、皇居を移転する習慣は革められ奈良に遵都し給いしょり一国の文化は奈良に集中して、美術工芸は非常なる進歩発展を逐ぐるに至った。この時ほまた唐ほ四隣を征服して世界の文化を長安の都に集め美術工芸は偉大なる進歩を完成した。この影響は自然と我国にも及び一段と進境を示したのである。当時遣唐使学僧等ほ唐の文物を修業し或はその作品を輸入して、我国の工芸美術の進歩と発展に寄与したる点は極めて重大であった。また他面においては仏教の隆昌に伴って国費による仏寺の建立は益々盛んとなり、従って仏像および仏具の製作も旺盛を極め漆工もまた異常なる進歩を促したのである。これ等の作品は今も正倉院と法隆寺および奈良の諸寺院に多数保存されてあり、これ等各種の製作方法につき解説すれば次ぎの通りである。

▶︎素 地

 素地は漆器の基盤にしてその形状や構造ほ用途に適合せしめ、或は素材の美を中心にして製作される場合もある。従ってその用途やなかんずく玉虫厨子(図一〇)ほ、密陀絵の有名なばかりでなく最古の漆工品にして、その髭漆法は実に最高にして後世の標準を示している。材質に応じて髭漆を適切ならしむることほ古今同一である。当代における素他の種頸ほ、木材、竹材、皮、菖等にして木材ほ槍、梗、朴、楓、桐、棒、桑、杉、樟等を使用したることほ『東大寺献物帳』により知ることができる。また鏡背の如き金属素地に漆技を応用したるもの、或は特殊なるもとしては爽紆乾漆即ち嘩像が盛行しこれはまた伎楽面器物等にも応用された。木材製には指物と挽物の二種あり正倉院の御物により明かに知ることができる。挽物は墟塩製の碁子合子に草、花、蝶、鳥の金銀絵を施したもの、殊に全国の国分寺に分納された百万塔は著名である。指物の技術も現代に比し遜色ないのみでなく標範となるものも少くない。二三の例を挙ぐれば、赤漆文相木厨子(図五)、櫓方几、赤漆杉村中構等その他数十点に及んでいる。

 竹材素地は、竹を細く裂き適宜の形状に編みその上に漆下地を施し髭飾したるもので藍胎である。正倉院の銀平脱漆胡瓶は藍胎漆器として有名であるがこれは唐製と思われる。1献物帳』にほ漆胡瓶、壱口 銀 平脱花鳥形、銀細線連二繋鳥頭蓋→受二三升半一とあり、簿陳寵は斐六局の容器で竹材を黒と赤の二色に染め素材の三色にて網代に編み、縁には布を張り内部と共に黒漆を塗りたるものである。

 皮は古来楯、輌、履、刀斡などの製作に広く使用され、例えば木製の刀鞘に貼着したるものもある。また鉾の柄を木芯に割竹を糊漆にて密着′し更に針金や糸を巻き塗接したものもある。当代に至り、漆器素地として大に行われたるも、平安時代以後は殆んど使用されぬようになった。

 これは獣皮を水に浸して柔軟となし型に張りつけて乾焼成形し、箱の周縁に麻紐を巻き堅牢となし、またもって形容を撃えたるものもある。後世の椀、盆、或は箱物の合口に錆下地を引箆にて施工する玉緩または紐の起源をなしている。その上に布を着せ漆下地を施して漆を上塗したるものであり漆皮箱として有名である。正倉院の宝庫に少なからず所蔵されてあり、金銀画漆皮箱(図一二三)は黒塗の上に金銀泥にて草花文を描き、内部ほ紙の内張りしてある。また金銀平脱皮箱は黒塗そぎ面の小箱にして表面にほ鳥と草花文を側面には花喰鳥を金銀の平脱を施してある。 孟を編み箱を作り素地となし赤漆を塗った赤接着箱は正倉院に現存する。

▶︎ 髭 漆   

 当時代における髭漆法ほ当時の文献に敬するもまた実物につき検討するも、その下地法は土漆と称し紳士と生漆を混合したる現今行われている最高の方法と全く同一である。また布着せも当時は壇と称し今日と変ることほない。埋はこれを施したるものと施さざるものとあり。或は埋も下地も施さず素地に直接漆を塗ったものもある。或は素地材を染色して透漆を塗りたる現今の春慶塗もある。特殊なる髭漆法としてほ爽紆乾しっ漆法があり著しく発達して、多くの仏像と伎楽面が製作され後世の模倣を許さざる優秀なる作品も少くない。伎菜面は東大寺大仏の開眼式に使用のために作られたと言われている。なお此等の髭療法および爽貯乾漆法ほ我国との関係は明かでないが、既に楚と洪時代に行われたことはその出土品により証明できる。

 推古天皇退愛と伝えられる玉虫厨子(国一〇)および正倉院の漆胡瓶(図二)並に漆皮箱ほ布着せをなしその上に漆下地を施したるものである。金銀平文の琴ほ漆剥離の個所を検討すれば下地を施さず直接漆を数回塗り重ねてあり、赤漆文相木厨子(囲五)は素地を蘇芳にて赤く着色したる上に透漆を塗り現今の紅春慶塗である。上塗法には塗立と蝋色塗の二種あって一般には塗立法を用い、末金鋒、平文、平脱、螺鈿の上塗には当然蝋色塗法が使用された。当時彩色はいかなる程度まで発達せしか遺品に乏しく不明であるが、飛鳥時代の玉虫厨子の彩絵は台の絵は彩漆であり厨子の絵は密陀絵であると黒川博士は『工芸志料』に記載してあるので、玉虫厨子は密陀絵最古の作品として有名である。然るに昭和年間に至り厨子の絵も密陀絵でなく彩漆絵であると提唱されるに至った。その理由として筆致は彩漆絵と同様でありまた楽浪出土品に彩漆絵の漠代に行われたことを挙げている。この問題は昭和二十八年大阪大学木村康一教授等の紫外線照射により次ぎのような結論を得て決定した。

 朱漆以外は密陀絵であることが確認されたのである。従来玉虫厨子(図一〇)は朝鮮製と日本製の両説があった。然るに近年に至り次ぎの事実が発見されて日本製なることが明かとなった。厨子の大部分は楠製であるが、須弥座の部分にほ日本特産の檜が使用されてあることが判明して有力な証拠となった。また古墳時代の遺品や正倉院の刀子や矢の装飾に玉虫の羽を使用してある。次に橘夫人念持仏厨子彩絵は槍材に胡粉下地してその上に膠絵を描き更に表面に油を塗ったことも判った。黒漆は墨漆ともいい漆に掃墨即ち油煙を混合したるものである。正倉院の伎楽面および奈良三月堂の仏像を始めとしその他多くの仏像も爽紆乾漆製がある。

 次ぎに天平時代における一般髭漆法は、当時の文献によりこれを推知することができる。その要点を抄録すれば左の通りである。

 丈六観世音菩薩道立の材料参拾壱種中より

弼凸庸 布紙一百匹     調 布   一百端胡ご掃しミ木と綿      く紛え墨三城き九段一首張一百十七一把一斗一分細 布    六端本古紙    九百二十五張漆伊濠砥しゆ しや朱 沙し おう雌 黄…斜八斗三晃一分一分    天平宝字四年六月二十五日(下略)

造石山院所用度帳

 漆   一石二斗一升八合、堂柱十四根 1 飛鳥奈良時代

塗料 根別八升七合七斗二升八合 壇料 柱別三升五合四斗九升 土漆料 柱別三升五合一斗五升 高座羞 二覆壇料 九升一蓋三重埴科 重別三升六升一蓋二重壇料重別三升二升二合 筆模四隻琴上下壇料 別五合五勺 皆布百十六丈 堂柱四棍埴科 税別八丈四尺二十五丈 高座蓋二覆壇料 覆別十二丈五尺 裏於選科 細布一丈五尺二寸 室模四豊壌料 隻別三尺八寸

▶︎ 末 金 鏤

 末金津は蒔絵の軽傷をなすもので、これは一種の研出蒔絵であり、外観恰も漆に末金を鎮めたる如く見えるので斯く名称されたのであろう。末金鐘の名称は『東大寺献物帳』に、「金銀銅荘唐大刀(図七)一口 刃長二尺六寸四分 鋒両刃 鮫皮把作二山形一葛形裁文 和上末金鋒作白皮懸 紫皮帯執 黒紫羅帯 緋地高麗錦袋浅緑綾裏」とあるのが文書に見えた最初でありまた実物の正倉院北倉階上に現存する最古の標本である。然るにこの末金鐘の製作法に閲し、唐製説と本邦作の二説がある。黒川博士は唐大刀とあるは唐製である。また蒔絵の名称は末金鐘より転靴したものでないと『工芸志料』に説明された。これに反し六角教授ほその著『東洋漆工史』に、黒川博士ほ唐大刀とあるを偏重された結果唐製説を唱えたのである。唐大刀は刀身の説明に過ぎない。鞘ほ装飾の説明であることほ、他の大刀の脚註と比較すれば明かである。もしも唐製ならば高麗錦の袋に入れるのほ解し難いと言うのである。

 参考に他の唐大刀を正倉院宝庫の陳列品より抄録すれば「金銀鈍荘唐大刀二ロ ガ艮二尺一寸六分 鮫皮把 漆鞘密陀絵草花形 臼皮懸以レ鉄真一覿尾一金銀鋒二其上」酢蛸」

 「無装刀二十三口一刃長三尺三寸七分幣」無装刀とは把、鞘の装なく刀身赤裸々のもので直刀で反りほない。酢蛸

 従来末金鐘の製作法に閲し二説あって、黄金を鐘で擦り粉末となしたる金粉を、一は漆と練り混ぜて文様を描き、その上に漆を塗り研ぎ出したものである。その証拠にほ筆勢に強弱がありまた金粉に濃淡がある。更にまた金銀泥絵の盛行した天平時代においては、先ず漆と金粉を練り混ぜ金銀泥絵の如く描くのが当然であると、六角教授は提唱された、二ほ前説に反し末金鐘に使用した粗い金粉ほ漆と混合して描くことは至難である。故に先ず漆で文様を描き金粉を蒔きつけて、その上に漆を塗り研ぎ出したものである。また明治時代に普通蒔絵法によりこれを模造したる実例もある。両者の意見は確証がないので決定的ではない。しかし後世の蒔絵の濫縁であることには何人も異論がない。著者もかつて正倉院の宝庫で実物を硝子越しに拝観した。手に取って熟視しないためか筆勢も高低も認められなかった。戎ほ研ぎ出しのために高低を失ったのか明かでない。金粉の濃淡ほ蒔きかたによっても生じるから重要な証拠とはならない。次に漆に混合し得る金粉の粗さにはおのずから限度がある。著者の実験によれば味甚粉でほ既に描画ほ困難であり、それ以上の粗さでは使用は無理である。それは描画に適度に稀釈した漆に粗い金粉ほ、比重の差が大きいので混じらない、従って細い線は描けない。但し無理に描けば描けないことほない。

 末金鍾を本邦作とする六角教授の主張は根拠なしとは言えない。正倉院宝庫の多数刀子の斡にほ、密陀絵、平脱、平庵、螺釦または玉虫羽の応用など多種多様である。これ等の点より見ても末金鋒の応用は当然である。従って黒川博士の唐大刀とあるをもって唐製であると決定ほできないと思う。殊に近年楚および漢時代の髭飾品が多数発掘出土しても、末金鎮の類似品ほ未だ一占…もない。また中国の漆工専門書である『髭飾録』にも末金錆の文字なく、他の文献にも末金鐘の名称ほ見当らないから、末金鐘は本邦作であると見るのが至当であると思う。

 備考

 『髭飾録』は明の天啓乙丑、(我が寛永二年)、美大成著、楊清 仲註、支那の古代よりの家法を詳記した名著である、その坤集に、 族金銀 片層線各可レ用晰皆宜二磨顕楷光」註に若二濃淡為レ聾者」非レ  層則不レ能レ作也 識文描金 有下用二層金∴者上、有下用二泥金∴者上 註に伝二金屑一貴焉、倭製殊妙 鎗 金一名埠金、失地黒凄共可レ飾細鈎繊妓、運刀要二流暢一両忌二 結節一註に英文陥以二金薄或泥金一晰見二宋元之諸器一桝鎗金銀之制、  蓋原二於此一臭 右の三項は末金鋒の技巧に近く可なり詳細に説明したるにも拘らず、末金鐘の文字ほ記す所がない。

■ 金銀泥絵

 金銀泥絵は、また金銀絵とも称されて、天平時代には漆器、木工l指等にも盛んに行われた。当時は画工司があり宮廷の絵事に従事したので、絵画としても大に発達し、従って金銀泥絵および密陀絵の意匠図按ほ特色があり、技巧も絵画と同じように達筆に描かれて優れたものほ少くない。金銀泥絵は膠液に微細なる金鋭粉を練り混ぜて描き、その代表的なものとして、黒栖蘇芳染金銀山水絵箱がある(長三六センチ、幅三〇センチ、高一二・六センチ)。蓋の表面に蓬莱山の如き突凡たる奇岩上に樹木を生じ空間には飛雲と飛鳥を雄勃なる筆致で描いてある。金銀泥絵漆皮箱(図一二三)は金銀泥をもって蓋の表面に藻文を措き重厚の感がある。もと法隆寺所蔵を同寺より明治初年に献納されたものである。次に漆皮八角金銀絵鏡箱がある。これは皮箱に漆下地して黒漆を塗り、表面に雌雄の双鳥と草華文を配し底面にも華文を金銀泥にて描いてある。その他黄楊(つげ) 木金銀絵絹、碧地金銀絵箱、犀角銀泥如意等多数ある。また宝亀十一年この西大寺資材帳に金銀粉画をもって経辛樫に禽獣山水を描くとある。

  金泥漆書は、金粉と漆を混合したる練り粉で文字を害したものであるその一例ほ、元正天皇崩御の後天皇御所持の般若心経を大仏に寄准石際に経に付したる象牙の旗で、正倉院中倉階下の金字牙牌である。表面にほ「平城宮御宇中太上天皇恒持心経」裏面には「天平宝字五年歳次発巳三月二十九日」と害してある。またこれと同じような牙牌を汚香に付したものもある。表面には「仁王会献虞舎郡仏浅香一材」と害し、裏面は全く右と同一である。この金泥凍害は、漆害でなく普通金泥にて書きその上に油を塗ったという説もある。その証拠として泥喜に油の及はぬ所があり輪郭のように見える点があるというのである。

■ 密陀絵

 密陀絵は、密陀僧(一酸化鉛)を乾燥剤として乾性油に混合しもって速乾性となし、これに顔料を混和して文様を措いた油絵である。故に密陀憎または密陀絵と称されたのである。後世密陀漆またほ陰光漆とも称した。正倉院の宝庫には密陀僧絵箱、密陀僧彩絵箱、密陀絵盆(図九)等が多数ある。また『献物帳』の「奉慮舎郡仏種々薬帳」に、「雲母粉九両、密陀僧八斤十両並壷」とある。密陀僧の黄色のものを金密陀、灰白色のものを銀密陀と称する。元来密陀僧と漆工とは質的には関係ないが、漆にて発色し得られない各色彩を密陀僧で自由に発色し得る。それ                                           ▲ウノI一ノし上ノ\で彩漆に代用するに至ったのである。『髭飾録』の「楓飾」の条下に、即桐油調色也、各色鮮明、復髭飾中之一奇也、然不レ宜レ黒、註比二色漆一則殊鮮研然黒唯宜二漆色一而自唯非レ油則無レ応莫 また「描油一名描錦」の註に如二天藍雪白桃紅一則漆所レ不二相応一也、古人画飾多用レ油、今見二古祭器一中有二純色油文者一とあり中国においてほ古くより架飾に使用されたことが知られる。

 「工芸志料』には、正倉院にある皮箱の絵ほいずれも五彩をもって華文を描き、その上に漆を施したるにて見るべしとあるも、実際問題として五彩の上に漆を塗るときほ、顔料は凍と化学作用して変色し色彩を没却する、故に油を漆と誤認したものと思われる。但し油を塗った上にほ漆を塗ることは可能である。密陀絵の上に油を塗った一例として、正倉院に密陀絵彩絵箱がある。これは、黒漆塗の箱に密陀絵にて華文を描きその上に油を上塗してある。また南倉階下に、密陀画辛構がある。これは黒漆の上に、白色密陀僧をもって筆勢奔放に竜の如き有角獣を描き、また南倉階上には、密陀絵丸盆(径三九センチ)一七枚あり、その内部を白色密陀油を塗りその上に、黄土色の密陀油をもって虎、鹿、鴛駕、花粉鳥、天人、山水等各々絵変りを流暢に描き、裏面ほ絶を着せ黒漆塗して、赤味を靖びた黄土の密陀絵にて宝草華文様を描いてある。『正倉院の葉』には内部の文様を金泥にて描くとあり、また仏教美術第八冊には黄土色の密陀油で描くとある。これ等の意匠図案ほ自由自在にしていずれも特色を発揮している。

 次に法隆寺所蔵の玉虫厨子(図一〇)ほ古来密陀絵の代表作品としてまた最古の漆工品として著名である。しかるにこの厨子を朝鮮よりの将来品とする説と、これに反する本邦作とする二説があっていずれとも決しなかった。たまたま修理の際にその素材に朝鮮にほ存在せず、日本特産の槍材を使用したることが発見されて日本製なることが明確となった。

 大正年間朝鮮楽浪郡址より、漢代の漆器が多数発掘されその中に、朱、疑、黄などの彩漆絵が施されてあり、これが玉虫厨子の彩絵と文様が同一系統に属している点と、描画の筆致が酷似している占盲検討したる結果、六角教授ほ密陀絵でなく漆絵であると提唱して漆工界の拝意を喚起した。その後次第に漆絵説が有力となって、『法隆寺美術読本』にほ近来の学者ほ密陀絵でなく、漆絵あるといっていると記してある。しかるに昭和二十八年十一月、大阪大学木村康一教授等四人の調査班により、玉虫厨子および橘夫人念持仏厨子の密陀絵を、紫外線照射により科学的に鑑査された。すなわち紫外線に対し、油ほ黄色の螢光を発し、膠ほ青白い螢光を発するが、漆の蛍光を発しない性質を利用して鑑別したる結果、朱色の分は漆であるが、他ほ密陀絵であるという報告が出された。

 次に橘夫人念持仏厨子は、従来密陀絵として有名であったが、紫外線照射により、密陀絵でないことが明かにされた。この厨子は槍素地の上に胡粉を塗り、その上に直接膠絵を描き、更に油を上塗したることが明確になった。

■ 漆 絵

 漆絵は、漆器の装飾法として最初に行われ次第に発達して、蒔絵その他多くの加飾法が発明されるに至った。大正年代に漢代の漆器(前八五年)が、楽浪郡跳より発掘され中国漆器の製作法が明かとなり、殊に漆絵は称賛の的となった。また一九五四年一月発行の『人民中国』によれは、一九二三年安徽省寿県の李三古墓を発掘して、楚の文物八〇〇占盲発見した。特に精巧なのは漆器であり漆盤に赤と黒の二色で、中央打二群の鳳凰文と菱文の帯文様が描いてある。これ等ほ漢代の漆器製作法の先駆をなしている。

 さて我国涼絵の創始年代は明かでないが、縄文晩期既に漆絵の行われたことは、青森県是川の泥炭層巾より出土の漆器に稚拙であるが漆絵のものがある。されど工芸的性格を持つ作品は玉虫厨子を囁矢とする。玉虫厨子(図一〇)の漆絵は、洪や楚の漆絵に比して遜色なく寧ろ勝れたものである。玉虫厨子は前節で記述したる如く日本製にして工芸品として俊秀なるのみでなく建築の参考品としても重要である。殊に玉虫の羽を使用したることにより有名でありまたその名がある。当時玉虫羽を刀鞘、矢等の装飾にまで使用してある。厨子は上部の宮殿と下部の台座とより成り、上部ほ当時の仏殿を摸して眞根にほ金銅の鴫尾を上げてある。素地材ほ樟と槍材を用い、下地を施さず直接漆を十数回塗り重ねて下地兼下塗となし、次に黒漆にて上塗したるものである。その上の彩絵は前節に述べた通り、科学的鑑査の結果漆絵と密陀絵ほ明瞭になった。この漆絵に関して『工芸志料』には、台に描けるは漆絵であるが、厨子の彩絵ほ密陀絵であると記載してある。また『国宝帳』解説には密陀絵であると説明している。元来厨子の塗装は髭漆なれば恐らく装飾画も、漆絵を基調としたであろうが、朱漆以外は発色の自由なる密陀絵を撰んだものと想像される。

 なお漆工上の見地より玉虫厨子の特徴を挙ぐれば、一、飛鳥白鳳の時代に斯くも精巧なる髭漆法の行われたこと。二、黒漆の上に朱、緑、黄などの彩漆をもって、忍冬文を主とした飛鳥特有なる各種の唐草文様が自由に描かれてあること。三、外部の装飾画題を経典より取材して、黒漆塗面の宮殿部には菩薩と二天王像を描き、須弥座の四方には正面に舎利供養図を、後面には須弥山を、右面にほ施身聞偶因を、左面には捨身飼虎図を、これは同一画面に時間的経過を三段に漆絵と密陀絵を混用して描き、第一段には虎に自身を与える決心をして衣裳を樹にかけるところ。第二段は断崖より身を投じた落下の様子を措き、第三段ほ地上に横たわり虎に喰われるところを描いた名画である。またいたる所に特色ある唐草透彫の金銅飾金具を、玉虫の羽を敷いた上に装飾して、金具の金色とょ虫の濃緑色と強烈なる色調の妙を発揮している。大正十四年解体修繕のとき始めて明かになったことは、玉虫の羽の下にほ素地に朱を塗り次ぎに漆を塗り、その上に玉虫の羽を敷いてあることや、素材の大部分は樟であるが槍材を使用したことも、素材は腐蝕していたが、漆の皮膜は完全で日光に当てると透明である。また布着せや下地を施してなく素地に、直接数十回生漆を塗って恰も乾漆の如く堅牢である。田に宮殿内壁には金銅押出しの千仏像が粘着されてある。

▶︎平脱と平文

 平脱と平文は、別に平脱文とも称した。これ等の名称は作品によって異なるのか、或は同一作品を単に名称を異にしたのか、文献にほ異説があって定説はない。黒川博士の漆器種頬の弁には、『東大寺献物帳』にーしつこへい漆胡瓶(図二)一口銀平脱とあるほ、即ち平脱文である。また平脱文の脱を省略して平文というとある。小野善太郎著『正倉院の葉』にほ、文様が漆の面より手に触れる気味に棺浮き上り即ち脱出せるを平脱と云う、半文とは華文が漆の面と平衡せるを云うとあり、『東洋漆工史』には、金銀の薄菓(金具)を塗面に貼付して文様以外の部分を切り取るか、或は文様を切り抜いて塗面に貼るか、いずれにしてもその上に漆を塗り研ぎ出したものである。または文様の上の漆を取り除くか、或は文様を避けて漆を塗るか研究の余地があるというのである。さて実際問題としては、文様の上の漆を取り除くことも、文様を避けて塗ることも、粗大なる文様は別として、平文琴の如き織細なる文様に適用は不可能である。故に繊細なる文様ほ、貼ってから切り抜くか、或ほ切抜いて貼るにしても、全面に漆を塗り常法の如く研ぎ出して平面となす。もしも文様の高きを望む場合には胴擦りの工程を比較的長く続けると、金銀と漆の硬度ほ異なるから漆は容易に低くなり文様ほ高くなる。元来平脱は唐朝において盛行し『清異録』にほ「高祖御甲有二王平脱こ、また『粛宗紀ゝにほ「至徳二載十二月戊午禁二珠玉細平脱ことあれば、平脱の技法ほ恐らく唐朝より奈良朝に帰化人により伝えられしものと思われる。正倉院の御物中には唐よりの将来品もある。例えば銀平脱漆胡瓶・平文琴ほその頸である。この他に本邦製と思われるものも数点ある。

 漆胡瓶(図一一) 壱 ロ  

「鍍平脱花鳥形 銀細鎌連二繋鳥蓋一受二三升半

 素地は藍胎にして形状も優美である。これと類形のものに法隆寺旧蔵今ほ御物である金銅竜首水瓶に羽巽ある天馬を現わしたもの、これ等は独得の形状を有して西域の影響を受けていることが首肯される。藍胎に布を着せ漆下地を施し黒塗となし、鍍金具にて鹿、烏、草花等を全面に平脱の技法を精細に施して優雅である。

金銀平脱漆皮箱

 素地は薄届きそぎ面漆皮の被せ蓋で黒塗となし、表面中央円内に金で両翼を張る鳳形を現わし、その周期にほ銀で雌雄の烏六匹を宝草華にて囲み、側面の四方には向合い花枝をくわえる尾長鳥を、金銀にて平脱となしまた稜線にほ金線を使用して、調和良き優美なる作品である(北倉階下)。

 漆背金銀平脱八角鏡(図一二)

 背全面に、鶴、雁、花、蔓草、雲などを巧に文様化し、金、銀にて悉く平脱の技法を応用して現わしたるものである。その綬をくわえたる鶴ほ花枚をくわえた尾長烏と共に、平安時代に盛行した松喰鶴の起源をなしている。

 銀平脱合子 納碁子     四 合

 素地は円形の挽物製で径二四・五、高四二一糎の扁き小容器である。銀平脱で飛鳥雲形を施工したるものである。

 『献物帳』記載の百済王義慈より藤原鎌足内大臣に贈りたる尉子中に「銀平脱合子四 各納二碁子こと符合する。これは唐製か百済製か将来品であることほ疑いないと思考される。

 金銀荘横刀  一口  刃長一尺一寸六分 況香把 漆鞘 金銀平脱着文獣形(中倉階上)平文琴  l 張 

 素材は桐を使用し、紫漆工程ほ素地に直接漆を塗り、布着せ下地付けを施してないことが大正十四年修繕の際に明かにされた。全面を黒漆塗となし、面板上部の方形輪郭内には、三人の君子が琴、阪成などを奏し清遊の図を中心とし、人物の後ろには樹木と竹を配し、更に上方左右には雲上の人物を、前方には孔雀と渡文を、その空間には小禽、飛雲と草花を配し、これ等の文様を金銀の滞葉(金具)にて、精緻鮮麗に表現し驚くべき技巧を示している。裏面上部にほ縦線をもって行間を画し、左の四字句三十二字を四行に楷書し

 琴之在レ音 迫二源邪心一雄レ有二正性一共感亦探 存レ雅却レ鄭 浮移是禁 瀬暢和正 楽而不レ捏

 服内竜他の銘に「清琴作今□□日月幽人間今□□」の十四字中十字が認められ、その下に「乙亥元年季春造」とある。困に『正倉院の葉』に『献物帳』記載の銀平文琴、漆琴二張は今伝ほらず、弘仁五年(八一四)十月十六日出成せられたれば、現在の金銀平文琴は同八年五月二十七日さきの出蔵品に替へて還納せられたるものの一ならむと、果して製作還納されたものならば、我国の平文技術は実に驚嘆すべきものであった。

 囚に後世に至り平文節の名は文献に散見するも実物は殆んど見当らない、即ち寿永年問(一一八二−八五)後鳥羽天皇大昔会を行われし時に、諸国の名工を京節に召し集め調度品を作らしめ、その中に平文節清原貞光、清原貞安等の名があり、また花園天皇の正和四年(一三一五)朝廷の近江国日吉神社造営記には、平文師は光阿以下八名、漆工は清光以下十名、蒔絵師は仏成以下七名が列記されてある。

▶︎螺 細 

 螺細は、螺貝を適宜の厚さに磨平して華文を作り、これを漆器、木器或は鏡背などに朕装したるものである。奈良時代には盛んに行われ多数の逸品が正倉院の宝庫に現存する。『献物帳』によれば、平螺錮背円鏡四面、同八角鏡三面、瑞頂螺細八角箱、螺釦玉帯箱(図一三)、螺錮紫檀

 阮咸、同琵琶および同五絃琵琶が記載されてある。

 元来螺鈍ほ、本邦創意説と、中国より伝来説とあり、黒川博士は『方句泊宅篇』の「螺鈍器本出二倭国一物象百態頗極こ工巧ことあるを引用して、宋の方句は哲宗の時の人にて、我堀川天皇の御時に当れり、方句の記する処此の如くして以て螺錮は本邦に起て伝へて支那に弘まれるものなることを知りぬ、困て思へば今東大寺正倉院に伝はる螺錮の器物はいともいとも貴きものなり、螺銅製作は世に本末を誤まれる人ありて支那の製作を誠に伝へたりと思へる輩も多ければ其証を引て弁明す、云々。

 『正倉院の栞』には、右の如き説あれども本邦固有の特技とは断定し難かるべし。始め中国を経て伝来し中頃彼国に絶え、独り本邦が異数の発達を遂げ却って輸入せる彼国を指導するに至れるものならむ。

 『東洋漆工史』は、『泊毛筋』に対し、さりながら螺鈍の技工も矢張り中国から伝わりたるものなる事丈は、近来楽浪の出土品に依って証明せられたので止むを得ない、併しそれ等の出土品は凡て腐蝕甚だしく、ただ漸く螺釦技工が用いられし事実を証朋し得るに足る丈で、技術の巧拙を批判することは出来ないと。

 『髭飾録』には螺鈍一名陥蝉即螺墳也、百般文図、点抹拘条、総以こ精細密緻如レ画一為レ妙、また同書の筆誠に、通鑑陳紀、上性倹素、私宴用二瓦器畔盤「注蝉盤者紫器、以レ蝉為レ飾、今謂こ之螺錮叫 なお螺鍋の名称を文献より抄録例示すれば左の如きものがある。

 螺釦 「陳′㍍旧考二十〕 髭漆器用二畔蛤琴鋒朕象二人物花草一謂二之    螺錮一 螺釦 〔杓苑日渉訂 釦音田或作二縛謂一婦人首飾日二花釦白二金銅 以金銀一族二器物】日二釦金一以二螺蛤一日二錮螺−

螺鈿〔類聚名物考欄頒〕らでん、すりがい、螺鈍とほ今俗に云ふ   青貝にて、古きものほかいすりたる鞍など云へるも貝細工は、木にほり入れて地、さびして上をすりみがき研出せば摺只と云ふなり。 かながい

釦螺 〔かながい・吉富字考節用集瑠〕 釦螺諾鮎錮恩鞠鮨 

釦螺 〔方句泊宅編〕 螺鈍器本出二倭国一物象百能義極二工巧一郎欲二 紅光一以二胸脂一染二共裏画一欲二翠光一以二黛緑」

 さて正倉院宝庫の螺釦は、当代の作品のみに有する大なる特色があっ後世の螺錮と趣を異にしている。それほ螺錮の装飾に確信(電甲)、こはく魂泊、水晶、珊瑚を併用して、その裏面に着色し或は色彩をその下に伏せ、而してこれ等の材料を透して特殊の色調を顔出したる点である。 らでんぎよくたいだ二 螺釦玉帯箱 素地は木製挽物にして黒塗に、便化したる華文を螺叙しその花心にほ水晶を革人して、底面の色彩を透視せしめたるものである(図一三)。

 瑁環瑠螺錮八角鏡箱 八角甲盛印籠蓋にして稜角ほ鍍にて面をとり合口は絢(な)える銀線にて覆輪となし、全面を環環にて覆いその上に、螺釦をもって中央に小円点にて円とこれを中心として八方に区劃し、素朴なる鳥と華文を朕装し花心を琉瑚にて覆い、その下に伏せたる色彩を透視せしめたるものである。

 平螺釦背円鏡 鏡の背面を漆塗となし、左右対称に獅子、双鳥、犀を配しこれと便化したる花文を全面に螺叙し、花心ほ涛環にて覆い下の色彩と反映せしめ、文様の空間にはトルコ石の粉末を散布し平目の如く研出して豊麗の感が深いものである。

 螺鈿背八角鏡 円鏡の外形を僅かに浅く八角形に区切り、文様工程共に円鏡に酷似して、花心は競泊をもって覆い伏せたる色彩を透視せしむることも同様である。

 螺鈿紫檀晩成減感 紫檀素地に八弁の花形を中心に上下より向い合える尾長鳥のくわえた理路は円形をなして包み、花心花弁は壌碍にて覆い下に伏せたる色彩を透視せしめたる手法は鏡背と同一である、この外に螺釦紫檀五舷琵琶等がある。