古代大阪の変遷
■古代大阪の変遷
大阪の歴史は、水を起源とする。
古代大阪は、海岸線が平野部まで深く入り込み、上町台地が半島のように突き出し、その東に河内湾と呼ばれる内海が広がっていた。古墳時代になると、河内湾は淡水化し、潟となって、やがて河内湖へと姿を変える。淀川や大和川の度重なる氾濫により土砂が堆積し形成された大阪平野は、水害を受けやすい地形であった。日本書記には、大規模な治水・利水事業をはじめ、南北東西の道路を伸ばす土木工事が行われた記事が多く見られ、人々が暮らしやすい土地を求め、地形を改良していたことがうかがえる。
この時代、大阪は上町台地の東方の港を拠点として、瀬戸内海各地や九州、さらには大陸から持ち込まれた文化や技術が日本各地へ広がっていった。中国大陸や朝鮮半島との関係が深まり、大陸からの渡来地、さらには遣隋使・遣唐使など使節往来の拠点として発展した古代日本の玄関口が難波津(なにわづ)である。
孝徳天皇が大化の改新の幕開けとともに飛鳥からここに都を移し、難波宮(なにわのみや)を置いたのが645年。日本随一の国際港を擁していた難波の地で都市建設が進んでいく。
平安時代には、天満橋から北浜の南岸に渡邊津(わたなべのつ)と呼ばれる港があり、当時盛んになった熊野詣の出発点としてにぎわいを見せた。
約7000~6000年前
海水面が現在の水位より1~2m高く上昇し、河内平野を覆った水面が、東は生駒山麓、南は八尾、北は高槻付近まで広がっていました。
偏西風の影響のもとに沿岸州が発達し、現在の松屋町筋付近には砂浜が続いていました。
約1800~1600年前
天満長柄の砂州が北へ延びきって、河内平野(河内潟)への海水の流入をさえぎり、河内潟は淡水湖となりました。
5世紀以降
仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。
ヤマト王権は、治水対策の目的も併せて、河内平野の開発を企てた。そこで、草香江に流入する淀川分流の流路安定を目的として、堤防を築造することとした。
堤防は、当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれており、当時、この地方を「茨田」といったので、「茨田堤」と呼ばれるようになった。茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。
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