■誕生伝承と橘寺(574~)
▶︎橘寺のあたり
まずは、系図を見よう。聖徳太子の父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめひこ)であるが、系図にみるように、父母の父は欽明天皇であるが、用明天皇の母は堅塩媛(きたしひめ)、穴穂部間入皇女の母は小姉君(おあねのきみ)である。堅塩媛と小姉君は、蘇我稲目の娘であるから、太子は血筋の濃い系譜をたどることができる。
誕生伝承については、すでに序章にふれたように、父用明天皇と母穴穂部間人皇女とのあいだに生まれたが、その年を『日本書紀』は記していない。聖徳太子の伝とされる『上官聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』によれば、甲午(こうご)年に生まれたとあり、この年は敏達天皇三年(574)にあたる。これに加えて平安時代前期に編纂された『上宮聖徳太子伝補闕(ほけつ)記』に「太子生年十四。丁未(ていび)年七月」とあり丁未年は587年で14歳(誕生年を一歳とする)とすれば、右にみたように、やはり敏達三年を聖徳太子の生年とすることができよう。太子の生年を確実に示す史料はないが、敏逹三年(甲子)誕生とする可能性があるということになろう。諸氏の著作、事典類いずれも574年をもって生年とするが、確かな根拠があっていうものでもない。とりあえず太子誕生の年を右のように仮定するとして太子の生まれた場所はどこであろうか。これまで、関心がもたれてきたテーマである。
飛鳥の地を訪ねると、道をはさんで川原寺の南に橘寺のたたずまいが見える。橘寺を指す「彿法最初聖徳太子御誕生所」という石標が立つ。果してそうであるのかという自問もぬぐいきれないまま橘寺の門をくぐる。
天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」には聖徳太子が建立した七寺の一つとして「橘寺尼寺」の名がある。奈良時代には尼寺としてあったらしい。
平安時代中期に作られた『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』によれば、推古天皇14年(606)に、太子が勝蔓経(しょうまんきょう)を講説(こうせつ・講義し説くこと)したので、天皇が橘寺を創建してめぐみ与えたという。推古女帝が橘寺を建立したとすれば、先にあげた天平19年の法隆寺資財帳には、聖徳太子が橘寺を創建したというので、施主は異なる。しかし、建立された時代は、7世紀前半の推古朝とする伝承がある。
それでは、考古学の調査による知見はどうであろうか。橘寺の発掘調査は昭和28年(1953)以来、石田茂作、橿原考古学研究所によって実施されてきた。それによると、伽藍配置は、東西方向に中門、塔、金堂、講堂を一直線に並べたことが確かめられたが、東西方向に主軸をもつ伽藍は、めずらしい。寺域は東西390m、南北140mと推定されている。また大量の塼仏(せんぶつ・素焼きの粘土板に仏像を浮彫りにしたもの)出土し、飛鳥時代には飛鳥寺創建の軒丸瓦と同箔(どうはん・同じ型)のものと川原寺出土例と同じ軒丸瓦と軒平瓦があり、瓦の年代から、飛鳥時代前半創建説と後半創建説があるが、いずれにしても伽藍の整備は飛鳥時代後半になされたとみられている。
『日本書紀』天武天皇9年(680)四月条には、この寺の尼坊10房が焼けたとあるので、天平19年の資財帳のように尼寺であった時期は、天武朝にさかのぼると推定してよいであろう。
上記出展・(明日香村文化財調査研究紀要 -第6号-【PDF)